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余章

【劉 麗孝という男】


 俺の名は(リュウ) 麗孝(リキョウ)。どこにでもいる普通の男だと言いたいところだが、物事はそう上手くはいかない。

 どうやら俺は、要領が悪いらしい。

 同じ年ごろの子供がごく当たり前にこなしていることが、俺にとっては難しかった。「なんでできないの」と聞かれても、俺にだってよく分からない。逆になんで皆は当たり前に出来るのか、どうすれば出来るのかを教えてほしかった。

 同級生は、俺にはそれができないことを分かっている。優しい友人が代わりにやってあげると言ってくれて、俺はその言葉に甘え続けた。そうしているとどんどん周りと差が開き、やがて何もできないままに俺は大人になってしまった。

 なんの取り柄もなく、一人じゃ何もできなかった俺は、高級中学校(高校)を卒業後、進学することもなく、特に何か手に職を付けることも出来ず、行く宛てもなくぶらぶらと街をさまよっていた。

 いつものように街を練り歩いていたある日の夜の事だった。俺はとある男に声をかけられた。

「そこのイケてるお兄さん。ホストとか興味ない? 君ならきっと、これくらいは固いよ。」

 その男はそう言って俺の隣を歩きながら、指を三本立てて見せた。

 しかしその時俺は、既に生きる自信を失っていた。自分にはどうせ何もできないと、自分で諦めてしまっていたんだ。

「俺には無理ですよ。俺は社会不適合者だから。」

 俺はそう言ってキャッチの男から視線を逸らし、少しだけ歩くペースを速めた。

「大丈夫、うちはそういう奴らばっかりだ。そんな事は重要じゃない。君のその、天から与えられたルックスは才能だ。生かさないなんて勿体ない。」

 しかしキャッチは、走って俺の目の前へと走り込んで通せんぼをしながらそう言った。進行方向を塞がれた俺は、思わず立ち止まってしまう。

「大体さぁ、社会不適合者だなんて言うけど、勝手だと思わない? 勝手に社会をつくり上げられて、必要な才能を決められてさ。君には君の才能があるのに、一般社会ではその能力を生かす機会が与えられない。一生自分の才能に気づけず、君にとって過ごしにくい場所で無理して生きないといけないなんて、そんなのあんまりだ。俺と一緒においでよ。君が一番輝くところへ連れて行ってあげる。」

 キャッチの男はそう言って、俺の方へと手のひらを差し出した。

 俺はずっと自分のことを出来損ないだと思っていたし、周りの評価もそうだった。そんな俺に、こんな言葉をかけてくれた人は人生で初めてだった。

 俺は迷わずその男の手を取った。

 それから俺は、浩宇(ハオユー)という源氏名を使い、ホストクラブで働き始めた。

 けれどやっぱり、俺は何かとどんくさかった。お酒の作り方は何度も忘れてしまうし、慌ててグラスを倒してしまうことだってあった。しかし、いつもは呆れられてしまうようなその行動も、この仕事では「かわいい」と言われ、年上の女性客からの人気を着々と得ていった。それは、俺にとって人生で初めての成功体験だった。

 それでも俺は、どこか自分に自信がなかった。失敗なくお酒を作り、自ら客を喜ばせられるような行動を取っている同僚と自分を比べ、本当にこのままでいいのだろうかと不満を募らせていた。そんな胸中を同僚へと吐露すると、同僚は「そんなことで悩んでるのか」と笑った。完璧に仕事をこなしているように見えていた同僚たちも、実は色々な失敗をしてきていることを聞いた。同僚たちはみな、俺と同じように社会に馴染めない経験をしてここに来ていた。その詳細こそ違えど、似たような境遇の人たちが集まっているこの環境は、とても居心地が良かった。

 同僚とはいい関係を築き、客は自分の行動を喜び、一緒に居たいと言ってくれる。俺にとってこの職場は、お金を稼ぐための仕事としてだけではなく、俺の生きる意味になっていた。俺にとってホストは、まさに天職だった。

 そんなある日だった。俺は店のオーナーに呼び出された。

「今日A卓に来てる、お前が担当している女の子。通い始めてしばらく経つし、羽振りもいい。そろそろこいつを勧めてもうまくいく時期だと思うんだ。」

 そう言ってオーナーは、小さな小袋に入った、ピンク色でハートマークが描かれた小さな錠剤らしきものをこちらに手渡した。

「これは…?」

摇头丸(MDMA)、合成覚せい剤だ。うちでは一粒四百五十元で取り扱っている。」

 その言葉に、俺は耳を疑った。『取り扱っている』だって? 麻薬の販売は犯罪のはずだ。

「これを客に売れと…?」

「ばれなきゃどうってことはない。女が言う事を聞かなくなったなら殴って黙らせればいい。何、殴って言うことを聞かせたあとはイロかけて誤魔化せばいいんだよ。最悪事が外に漏れたとして、うちには頼もしい後ろ盾もある。大丈夫、お前ならうまくやれる。」

 俺は、オーナーを尊敬していた。今の自分がいるのはオーナーのおかげだ。今目の前にいるオーナーは俺が尊敬するオーナーと同一人物なのかと疑ってしまうほどに、彼は鋭い目つきでこちらを見ていた。

「うちはまだまだ成長過程だ。こういう事もうまく利用して客を繋いでいかなきゃならない。その分お前へのバックもある。悪い話しじゃないさ。」

 オーナーはそう言うと、小袋を俺に押し付けてバックヤードから去っていった。

 それと入れ替わりで、一人の同僚がバックヤードへとやってきた。

「ふぅ~休憩休憩~」

 同僚はのんきにそう言うと、大きな三人掛けソファの真ん中へと腰かけた。

「あの…。さっき、オーナーからこれを客に売れって言われて…、言う事を聞かなかったら殴って黙らせろとも…、」

 俺は勇気を出して、休憩中の同僚へと話しかけた。同僚はこちらを見て、俺が手に持っているものを確認した。

「あー、確かにDV営業ってムズいよな。ハオユーのキャラに合ってないし。DV営業が無理なら泣き脅しとかどう? オーナーに言われたことをそのまま客に伝えて、『ノルマ達成できないと辞めさせられちゃうんだ…』って泣きついて売るんだ。」

「いや、そう言う事じゃなくて…。法外な薬を高値で売りつけるなんて、おかしいですよね…?」

 俺がそう尋ねると、同僚はぷっと噴き出して笑った。

「こんな夜の世界で、何綺麗事言ってるんだよ。ホストたるもの、女の腎臓の一つや二つ売り飛ばしてからが一人前。普通の倫理観なんて早く捨てなよ。」

 同僚はそう言うと、机の上の水を手に取って飲み干し、バックヤードから出て行ってしまった。今まで自分と似ていると思っていた同僚と、一気に距離が開いた気分だった。自分と同じ人種だなんて、俺が勝手に思っていただけ。本当は最初から赤の他人だった。同僚たちはみな、本当の夜の世界に染まっていたのだ。

 俺にはどうしてもその一線を越えることができなかった。

 それからしばらくして、俺はオーナーに店を辞めたいと相談をした。オーナーはあの時と同じ、身体を貫くような鋭い視線でこちらを見た。

「この街は狭い。君が夜の世界に染まり切れずに辞めたなんて噂はあっという間に広まる。そうなれば、もうどのクラブも君を雇ってなどくれないぞ。」

「…それでもいいです。俺にこの世界は向いていない。」

 俺がそう言うと、オーナーは見下すように小さく鼻で笑った。そして彼は、圧をかけるようにずいっとこちらに近づいて、俺を見下ろしながら低い声で話し始めた。

「この期に及んでホワイトカラーな仕事を選べるとでも? 断言してやる。顔しか取り柄のない能無しのお前には、お天道様の下で真っ当に生きていくことなんて出来やしない。お前は必ず、この世界に戻ってくる。必ずな。」

 オーナーはそう一言だけ吐き捨てると、俺の目の前から立ち去った。俺はそのまま店を去り、客の連絡先を全てブロックした。俺のホストとしての人生は案外あっさりと幕を閉じた。

 職を失った俺は、宛てなく街をぶらつく生活へと逆戻りだ。

 これからどうしようかと考えながら夜の公園で呆けていると、一人の女の子に声をかけられた。艶やかな長い黒髪が美しい、俺より少し年下の女の子だった。

「こんな時間にこんなところで、何してるの?」

 女の子は、俺の座るベンチに腰掛けながらそう尋ねた。たどたどしい中国語だった。彼女が外国の女の子であることはすぐに分かった。

「別に。放っておいてくれ。」

「そんな事言っちゃって。誰かに話し聞いて欲しいよ~寂しいよ~って顔してたくせに。」

 彼女は小馬鹿にしたような言い方でそう言った。俺は少しイラッとして、そのまま席を立とうとした。

「あっ、ごめんごめん! 待って!」

 彼女は、そのまま立ち去ろうとする俺のTシャツの裾を掴んで引き止める。

「ちょっとだけでいいの。私とお話ししてくれない?」

 彼女は裾を掴んだまま、こちらを見上げてそう言った。

「…なんでそこまで話したがる?」

「実は私、日本から留学で来てるんだ。ふふん、気づかなかったでしょ?」

 彼女は自信満々にそう言うと、腕を組んでどや顔でこちらを見つめてきた。

「いや、最初から気づいてた。イントネーションがちょっとおかしいから。」

「嘘っ!? うーん、まだまだ練習しなきゃだなぁ。」

 彼女は考える人のようなポーズで体を大きく横に揺らしながらそう言った。いちいちボディランゲージが大きい人だ。

「ま、それでね、明日までにあと一人、誰かとお話ししなきゃいけないの。人助けだと思って、お話しに付き合ってよ。」

 彼女はそう言って、にっこりと笑った。

 面倒の奴に目をつけられてしまったと思ったが、その日はなんとなく一人になりたくない気分だった。俺はそのまま黙って彼女の隣へと座り直した。

「付き合ってくれるんだ。優しいね、ありがとう! 私は首田(くびた) (みやび)。雅って呼んで。貴方の名前は?」

 名前を聞かれ、名乗ろうとして少しだけ言葉に詰まった。最近までずっと『ハオユー』という名に慣れすぎて、自分の本当の名前がすんなりと出てこなかったからだ。

「…リュウ・リキョウ。」

「リキョウ! いい名前だね。歳はいくつ?」

「二十一。」

「嘘! 同じくらいかと思ってた。五つも年上だ。…あ、いや、違った。今は私、十八歳なんだった。だから三歳差だね。」

「何それ。自分の年齢忘れてんの?」

「ううん、日本と中国だと年齢の数え方が違うの。だから今は十八歳だけど、日本に帰ったら十六歳だよ。日本だとね、生まれた瞬間は0歳からスタートして、誕生日が来る度に年齢が上がるんだよ。」

「へぇ。なら俺は、日本に行けば十代に戻れるんだ。なんかいいな、時間を巻き戻してやり直せるみたいで。」

 俺が何気なくそう言うと、雅は黙り込んだ。何か変な事を言ったかと思って彼女の方を向くと、彼女は心配そうな顔でこちらを見ていた。

「リキョウ、すごい辛そうな顔してる。何か、過去に戻ってやり直したい事でもあったの?」

「…別に。二年ばかし戻ったって何も変わらない。俺は、生まれた時から出来損ないだったから。」

 俺がそう言うと彼女は背もたれにぐっと寄りかかり、そのまま空を仰いだ。

「…その気持ち、わかるなぁ。」

 先程まで無駄に明るかった彼女が、少しだけ声のトーンを落とした。彼女の顔を見ると、笑顔でありながらもどこか遠くを見ているような気がした。

「十八で留学して知らない人とコミュニケーション取ってるようなアンタが? 変な同情はやめてくれ。」

「同情なんかじゃないよ。…私ね、双子の姉がいるんだ。すごく頭が良くて、面倒見が良くて、優秀な姉が。私は頭も良くないし、何かとどん臭くて。小さい頃はずっと、姉と自分を比べて落ち込んでた。」

「…そうなんだ。」

「うん。留学に来たのは、色んな言語を学んで色んな国の人と仲良くなりたかったから。…でも、自分のやりたい事だなんて結局後付け。私は、明るく笑顔で愛想良く振舞って、人とお話しすることくらいしか能がないからさ。自分の身の丈にあった目標を、夢だってことにしてるだけなの。」

 彼女はそう言って、どこか自信なさげにへらへらと笑った。

「身の丈にあったことをしっかりやれてるだけで偉いよ。…俺はそれすら逃げ出してしまったから。」

 俺は正面に視線を向けたままそう言った。彼女といると、なんだか口が軽くなってしまう。さっきまでは自分の素性など細かく話すつもりは無かったのに、自然と言葉が滑り落ちて来てしまった。

「…何があったの?」

「…俺さ、ついこの間までホストクラブで働いてたんだ。でも、もう辞めちゃった。耐えられない事があって。」

「ホストかぁ。確かに、接客業ってストレスすごそうだよね。」

「俺には顔くらいしか取り柄がないのに、それを生かす事すら出来なかった。」

 俺がそう言うと、雅はいーっと思い切り口を横に開き、口元を手のひらで抑えた。

「うわうわうわ、やっば! 『自分には顔しかない』とか言ってみたすぎる! 顔がいいとか人生イージーモードの最上級じゃん! 嫌味にしか聞こえないわ!」

 彼女は急にテンションを上げて激しく両手を震わせ、面白そうなものを見る目でこちらを見ながら、大きな声でそう言った。

「はぁ? なんだよ、あんたこそ『自分にはコミュ力しかない』って自慢みたいな事言ってきたくせに。」

「コミュ力なんてみんなある程度持ってるものじゃん! そんな特別な事じゃないし!」

「何言ってんの。それを言うなら顔だって。あんただって可愛い顔してるくせに。」

 俺が何気なくそう言うと、雅の激しい身動きがぴたりと止まった。夜の暗さでも分かるくらい、彼女の顔が赤く染まっていくのが分かった。

「あ、あはは、やっば。さすが元ホスト、そういう事さらっと言えちゃうんだね。そういうの慣れてないから、びっくりしちゃったじゃん!」

 彼女はすぐにいつもの調子へと戻すと、両手をパタパタと動かして顔を扇いだ。

「私のコミュ力とか、リキョウの顔とか。なんかみんなさ、自分の才能の凄さに無自覚だよね。『自分にはこれくらいしかない』って卑下して。他の人にとっては喉から手が出るほど欲しくても手に入らないものなのに、本人だけがその凄さに気づいてない。私のお姉ちゃんは、『自分には頭がいい事くらいしか取り柄がないから』って言うんだよ!? それさえあれば他に何もいらんでしょって感じじゃん!?」

「それは超イヤミだ」

「だよねっ!?」

 そのまま、俺は雅と話し続けた。彼女と話すのはなんだか心地よくて、何も飾らないそのままの自分自身を認められているような気分になった。

 気がついた時には、もう空が白み始めていた。そんな時間になっていた事に気づけないほどに、彼女との会話は退屈を感じなかったのだ。

「やば、気づいたらもうこんな時間だね。」

 俺があえて口に出していなかったことを、彼女は言った。彼女は空を見上げてからこちらを見ると、にっこりと笑った。

「ねぇ、またこの公園で、私とお話ししてくれる?」

 俺は寂しそうな顔をしていたのだろうか。少し恥ずかしく思いながらも、俺はその提案を承諾した。

 それから毎晩、俺はこの公園で雅との時間を過ごした。さすがに毎日夜更かしをするわけにはいかない。毎日一時間程度、彼女と他愛のない話しをして過ごした。

 あれからまだ、新たな仕事には巡り会えていない。貯金を切り崩しながら、ただ彼女と過ごすその時だけを楽しみに生きていた。

 雅はとても明るく、眩しい存在だった。一緒の時間を過ごす度、俺は確実に雅に惹かれていった。

 そんな生活が約一ヶ月程続いたある日の事だった。

 いつも通りの夜の公園で、彼女は神妙な顔でこう言った。

「私ね、来週の頭に日本に帰るんだ。」

 彼女は留学生だ。いつかこんな日が来る事は分かってた。けれど、いつしか彼女は俺の中でとても大きな存在になっていた。俺は何も言えないまま、彼女の前で黙り込んでしまった。

「…だからね、リキョウも一緒に、日本に来ない?」

 彼女の言葉に、俺は驚いて目を見開いた。そうしているのも束の間、彼女は俺の胸へと勢いよく飛び込んで来ると、腰に手を回してぎゅっと力強く抱きしめてきた。

「…私、リキョウの事が好きになっちゃった。ずっと一緒にいたい。」

 俺の胸に埋まる彼女の顔が、どんどんと熱を帯びていくのが分かった。

 俺は彼女の身体を引き剥がし、彼女の頭に手を回した。そのままゆっくりと顔を下ろし、火照る彼女へと口付けた。

 そして、雅が母国へと帰る日。俺は彼女と共に、日本へと旅立った。

 そのまま雅に連れられ、彼女の家へ行った。彼女の両親は、彼女が留学から帰ってきたや否や男を連れて帰ってきたと大慌てしていた。しかし、最終的に彼女の両親はとても暖かく俺の事を迎え入れてくれた。よく雅から話しを聞いていた彼女の双子の姉は全寮制の高校に通っているらしく、俺が顔を合わせることは無かった。

 そうして雅の家でお世話になり、約二年。日本での生活にも少し慣れてきた頃だった。

 とある東京の繁華街で、突然肩を叩かれた。後ろを振り返ると、そこにはかつて自分を雇ってくれていたあのオーナーがいた。

「よう。久しぶりだな、リキョウ。」

「オーナー…! 何故、ここに?」

「最近、うちのグループから日本に支店を出すことになったのさ。しばらくはこっちにいるつもりだよ。」

「そうですか、日本進出おめでとうございます。…それでは、俺はここで。」

 俺はそれだけ言って、その場を立ち去ろうとした。しかしオーナーは俺の腕を掴んで引き止めた。

「そんなことより、リキョウ。三百万円はいつ返してくれるんだ?」

 身に覚えのない言葉に、俺は驚いた。

「何のお金です…?」

「お前の客が残していった『掛け』だ。お前が店を辞めた後、掛けを返済せずにトんだ客がいたんだよ。」

 『掛け』とは、要するにツケだ。客の支払いを一時的に店が立て替え、月末までに客に返済して貰うというシステム。

 俺が辞めた後でも必ず店に返済してくれと念を押し、快く返事を返してくれたというのに、あの客は結局掛けを返済せずにトんだのか。くそ、客を信頼しすぎたな。辞める前にしっかり返済を見届けるべきだった。

「…それは客の借金でしょう。」

「客がトんだなら、客の借金は担当ホストの借金だ。その客に掛けを許可したのはお前自身だろ?」

 俺は返済から逃れようと見苦しくそう言うと、オーナーは怒った様子でそう返してきた。

「うちには強力な後ろ盾がある。お前も下手にトラブルは起こしたくないだろ?」

 オーナーは低い声で脅しのようにそう言った。

 あのホストクラブを運営していた会社が反社会的組織のフロント企業である事を知ったのは、俺がそこを辞める数週間前だ。

 夜の世界から逃げて来たというのに、こんな所でマフィアに目をつけられたくなどない。

「…分かりました。けど俺、三百万円なんてすぐには用意できません。少しだけ待ってくれませんか。」

「いいだろう、昔の(よし)みだ。ただ、逃げ切れるとは思わない方がいい。次会ってしまった時に生きて帰りたければね。」

 オーナーはそれだけ言うと、ひらひらとこちらに手を振って去って行った。

 にしても、三百万円なんて大金どうやって工面しようか。今は特にこれといった収入もない。稼ぐと言ってもそう簡単に稼げる額ではない。

 街から帰り、雅の家へと帰っても尚、そんな事に頭を悩ませていた。

 すると雅は、すぐに俺が何か思い悩んでいることに気が付いたようだった。

「すごい顔してる。何かあったの?」

 彼女は優しい声でそう言った。

 今俺は、彼女のことを信用しきっている。俺は今日の昼にオーナーと会ったこと、三百万円を用意しなくてはならないことを彼女に打ち明けた。

 さすがの彼女も、あまりの出来事に言葉を失っていた。

 しかし彼女は、すぐににっこりと笑って、俺を包み込むように抱きしめた。

「大丈夫。私がなんとかするから。私に任せて。」

 どこまでも彼女に頼りきりで自分を情けなく思いながらも、彼女ならなんとかしてくれるだろうという謎の自信があった。

 それから数日後。雅は、俺に三百万円が入った封筒を差し出した。雅の様子はどこかおかしかった。いつになく元気がなく、心ここに在らずだった。

 一体どうしたのかと聞くと、彼女は無理して笑顔を作り、「なんでもない」と言った。このお金をどこから工面したのかと聞いても答えてくれなかった。 最初はさすがにこんな大金を受け取ることはできないと拒否をしたが、「私の努力を無駄にしないで」と言われ、俺はそれを受け取ることにした。

 そしてその日のうちに、俺はオーナーへ連絡を取り、三百万円を彼の元へと持って行った。

 彼は部下に金額を確かめさせた後、「よくやった」とこちらに微笑みかけた。

 そして彼は、とんでもないことを言い出したのだ。

「そしたら、次は五百万だな。」

「はぁ…!? 掛けのあった客はもういなかったはずですが。」

「君を教育してやった教育費だ。辞めるなら返してもらうと最初の雇用契約書に記載していた。よく読まずにサインをしたのは君だ。」

 彼はむかつくほどのしたり顔でそう言うと、俺のサインの書かれた契約書をこちらへ見せつけてきた。

「何、五百万くらいすぐだろう。今お前がイロをかけている女の子…、雅ちゃんだっけ? この短期間でぽんと三百万円を出すなんて、随分と優秀じゃないか。二度目さえ超えてしまえば、あとは三度、四度と引き出せるようになるさ。そう思うと、大した額じゃないだろ?」

「…違います。雅は、そんなんじゃありません。」

 俺はオーナーを睨みつけながらそう言った。すると彼は、にやりと大きく口角を吊り上げて笑う。

「ああ、もしかして恋人か? ならもちろん、大切な恋人に手出しなどされたくないだろ?」

「…雅には、手を出さないでください。お願いします。」

 何を脅されているか理解した俺は、そう言ってオーナーに頭を上げた。

「時に…、お前は今、特に働きもせず、雅ちゃんのヒモとして生活しているらしいな。」

「だったら、なんですか。」

「稼ぎ口がなく甲斐性のないお前には、恋人を守ることなんてできない。金を用意しなきゃ雅ちゃんをどうするか分からない。そう言われたとして、お前は俺に泣いて懇願することしかできない能無しだ。お前が雅ちゃんから金を騙し取る事で、結果的に雅ちゃんを守ることができる。そうは思わないか?」

 彼はそう言って、馴れ馴れしく肩を組んできた。

「お前には顔くらいしか取り柄がない。しかしそれは唯一無二の才能だ。生かさなくては勿体ないよ。」

 彼は俺の耳元でそう囁いた。悪魔のような囁きだった。

 彼の言うことは正しい。今の俺は稼ぎ口がなく、雅の世話になっているだけのただのヒモだ。彼女に迷惑をかけてばかりで、今の自分じゃ満足に彼女を守る事ができない。

 これ以上雅と一緒にいると、彼女に迷惑がかかる。オーナーはやると言ったら本気でやる人だ。素行の悪い客にお灸を据えたことがあったのもよく覚えている。俺のせいで、彼女の顔が曇るのはもうこれ以上見たくなかった。

 俺は、雅の前からいなくなることを決意した。皆が寝静まったころ、俺は自分の荷物を纏めてこっそりと家を出た。

 そのまま俺は出来る限り遠くへと歩き、疲れてへとへとになったころ、近くの公園で休憩をすることにした。

 そうして公園のベンチで休んでいると、一人の女の子に声をかけられた。雅を思い出すようなその出会いに、一瞬肝が冷えた。しかし、目の前にいた女の子は、雅とは全然似ていない茶髪の女性だった。

 その女性は、初対面の俺に対していきなり「好き」だと言い始めた。俺の事なんて何も知らないくせに、一体どこが好きなのかと尋ねると、「一目惚れ」だと彼女は言った。続けて彼女は「望むことは何でもするから連絡先だけでも交換を」とそう言った。

 その時俺は、昔オーナーに言われた言葉を思い出した。

『顔しか取り柄のない能無しのお前には、お天道様の下で真っ当に生きていくことなんて出来やしない。お前は必ず、この世界に戻ってくる。必ずな。』

 きっと、彼の言っていることはずっと正しかった。確かに俺には顔しかない。他には何も持ち合わせてないというのに、俺は何を躊躇っていたのだろう。

 俺には金が必要だ。雅の元を離れ、彼女が俺にとって大切な人ではなくなったと思わせたとしても、彼が雅に何もしないとは限らない。早急に金を稼がなくてはいけない。

 これは、雅のため。大切な彼女のためならば、くだらない倫理観だなんて捨ててしまえる。

 俺は、目の前の女性の手を取り、彼女の手の甲にキスを落とした。結局俺は、この世界に戻ってきてしまったのだ。

 その後俺は、色々な女性と恋人関係を築き、色々な女性の家を転々として過ごした。関係が成熟した相手に『父の手術に大金が必要だ』と言って金をせびった。

 オーナーからの要求は止まらなかった。最初は五百、次は八百。俺は色んな人を騙し、縁を切りを繰り返していった。そのうち、オーナーからの要求よりも多めに騙し、自分の金にすることを覚えた。俺の身なりは随分と華やかになった。

 幾多の偽名を名乗り、出生の全てを偽り、嘘にまみれた。次第に、自分の本物の記憶がどれだったのか分からなくなっていった。俺は一体なんのために生きてるんだろう? いっそ誰か、こんな俺を殺してほしかった。

 ある日俺は、恋人のうちの一人であるシアと旅行に来た。シアには、他のターゲットと接触しているところを写真にとられてしまい、喧嘩をしたばかりだ。長く絞るためには、一度信頼関係を回復する必要があったからだ。

 旅館へやって来た時、ある女性と会った。ワトソンというあだ名で呼ばれる女性だった。顔も服装も全く似ていないというのに、彼女にどこか雅の面影を感じた。

 その旅館でサウナに入っていると、先ほどワトソンと呼ばれていた女の子が入ってきた。

 ここは男湯のはずなのに、なぜ彼女がこんなところに? 驚いて立ち上がろうとするが、何故か身体に力が入らない。

「リュウ・リキョウ」

 彼女は、俺でさえ忘れかけていた俺の本当の名を呼んだ。驚いた。俺は確かに彼女に、リ・ジュンシーの名を名乗ったはずだというのに。

「首田 雅という名前を覚えていますか?」

 彼女は突然、そんなことを言い始めた。忘れるわけが無い。愛しい人の名前だ。

「かつて貴方に三百万円を騙し取られ、その後自殺した女の名です」

 その時俺は、初めて雅が自殺したことを知った。

 雅は、いつでも元気で明るくふるまっている反面、実は脆い心を持っている女の子だった。その元気な振る舞いは、弱い心を隠すための鎧だと、俺は気付いていたはずなのに。何故この結末を予想できなかったのだろう。

 何故あの時、彼女に相談しなかったんだろう。出ていくとしても、ちゃんと理由を告げるべきだった。ああしていればこうしていればと、たくさんの後悔が俺の頭の中を埋め尽くした。

 彼女を守るつもりで彼女から離れたつもりだったのに、結局俺は、何一つ守れてなどいなかったのだ。

「私は雅の姉です。貴方に復讐に来ました。」

 そう言って、彼女は持っていた魔法瓶から鋭く尖る氷のアイスピックを取り出した。

 ああ、俺はここで死ぬのか。元々褒められたような人生じゃなかった。姑息な俺に相応しい結末だ。

 雅。今更許されるとは思っていない。でも、君と同じあの世へ行ったら、一言だけ、愛していると伝えることを許して欲しい。


【劉 麗孝という男 完】

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