第五章
僕達は浴場を出て、雛野君のいる脱衣場へと移動した。雛野君に一通りの捜査内容を伝え、すぐに行動の整理へと話を戻す。
「それではまず、シア君から話していただこう。君は十九時頃、どこで何をしていたのかね?」
「エート、ワタシ、ワトソンと一緒お風呂入ってたネ。十八時三十分くらい、ワタシ一人で湯船から上がって、そのままずっと、髪セットしたり、メイクしたりしてたネ。十九時四十分にはワトソンと一緒に脱衣場を出たネ。」
彼女は視線を上にあげ、思い出すような素振りを見せながらそう言った。
確かに彼女は、風呂に入ったにも関わらず、入る前と同じ煌びやかな見た目をしている。
「ちなみに私は、十九時二十分頃に湯船から上がり、脱衣場へ移動しました。その時にはもちろん、脱衣場でメイクをするシアさんを目撃しています。」
「なるほど。なら十八時半から十九時二十分までの約五十分間、シア君は一人だったということだね。こっそり入口から男湯へ侵入し、ジュンシー君を殺害して戻ることだって可能だったというわけだ。」
「ワタシ、そんなことしない! だって、ワタシ、ジュンシーの事大好きネ!」
「恋人という関係だからこそ、動機なんていくらでも考えられるだろう。痴情のもつれは、時として人を殺したいほどの大きな憎しみへと変わるからね。」
僕がそう言うと、こちらを見るシア君の目が涙で潤む。
「ワタシ、そんなこと…、しないネ…。」
シア君は消え入りそうな声でそう言いながら、瞳から大粒の涙をぽろぽろと零した。
ワトソン君、雛野君はシア君の両側から彼女へ近づき、彼女の背中を優しく撫でる。
「あーあ、先輩、女の子泣かせたー。先生に言ってやろー。」
ワトソン君はシア君の背中を撫でながら、冗談っぽい口調でそう言った。
「そういえばシアはんは、プレミアムラウンジのキーを持ってはりましたやんな? あれがあれば、入口を通らずとも、水切り場からプレミアムラウンジを通って男湯へ行くことが可能どす。」
そんなシア君に追い討ちをかけるかのように、女将さんはそう言った。
「なるほど。プレミアムラウンジの中を見せて貰う事は可能かね?」
「ええどすよ。ほな、行きましょか」
女将さんは帯からプレミアムラウンジのキーを取り出すと、水切り場の方へと向かった。僕たち四人は女将さんの後ろを歩いてついて行く。
女将さんはプレミアムラウンジの入り口へ立つと、キーを扉に差し込んだ。すると、キーの差し込み口の上にあるランプが赤から青へと変わる。キーを引き抜くと、ラウンジへと続く扉は自動で開かれた。
扉を潜ると、そのすぐ正面に同じような扉があった。位置的に、あれが女湯へと続く扉だろう。そして右手側には通路が続き、左右に分かれていくつか個室が並んでいる。薄暗い中に青い照明がついている。なるほど、確かにいい雰囲気の空間だ。
女将さんはそのまま真っ直ぐ歩き、正面の扉の前に立つ。そして先程と同じようにキーを差し、扉を開く。その先には水切り場が広がっている。予想通り、女湯へと繋がっているようだ。
「なるほど。ここを通れば男湯と女湯を行き来できるというわけだ。」
「そうどすなぁ。この鍵はうちとシアはん、そしてジュンシーはんだけが持っとるもんどす。」
「でもワタシ、メイクとヘアセットしてたネ。そんな事してる時間なかったヨ!」
シア君は涙で赤くなった瞳にぐっと力を込めて必死にそう言った。
「シア君の猶予時間は五十分もあった。犯行から証拠の隠滅まで含めて二十分かかったとして、三十分も余る。それだけあれば、急いで髪を乾かしてメイクをする事くらい可能なのではないのかね?」
僕がなんの気なくそう言うと、シア君だけではなく四人全員の厳しい視線がこちらへ向いた。
「名探偵くん、君、彼女いたことないでしょ。」
雛野君は、冷ややかな視線をこちらに向けながらそう言った。
「急に何を言う。セクハラはやめたまえ。」
「だって、女の子の事全然分かってないんだもん! シアちゃんの髪は腰まである。普通に乾かすだけでも二十分はかかっちゃうよ。それにこの艶にぱや毛のなさ! 普通に髪を乾かすだけじゃこうはならないよ。ヘアアイロンでしっかり癖を伸ばしてる。短くても十分はかかる。そしてメイク。しっかり丁寧に作りこんでるし、あたしならこれだけで一時間はかかっちゃうよ。つまり、合計五十分で済んでるのがむしろ早すぎるってこと!」
雛野さんは早口で捲し立てるようにそう言った。
「髪を乾かすのとヘアアイロンというのは別物なのかね?」
「別物ですよ。こっちへ来てください。」
ワトソン君はそう言って、脱衣所の方へと歩いて行く。連れられて脱衣所へ入ると、そこは随分と男湯の脱衣所とは雰囲気が違った。
そもそも脱衣所の面積自体が女湯の方が広い。ロッカーの数はさほど変わらないが、パウダーブースの数が多い。そしてパウダーブースには、ドライヤー、化粧水と乳液のボトルの他に、クレンジングオイルに美容液、綿棒にコットン、そして何やら見慣れぬ細長い形状の機械が置かれていた。
ワトソン君はその細長い機械を手に取ると、カチッと機械のボタンを押してこちらへ差し出した。
「これがヘアアイロンです。こちら側は熱いので触らないでくださいね。」
僕は差し出されるままにそれを受け取った。トングのような形状に開き、指先に力を込めるとパカパカと開閉する。
「それで、これはどう使うのだね?」
僕がそう尋ねると、ワトソン君は僕からヘアアイロンを奪った。右手でアイロンを持ち、左手で自身の髪の毛を一束取る。その髪の束の根元へとアイロンを当てて、アイロンを閉じて髪の束を挟む。そのまま毛先までゆっくりすーっとアイロンを通す。
すると、彼女の髪の側面に飛び出ていたぱや毛が消え、髪がすとんと真っ直ぐに伸びた。そのせいか、他の部分と比べて艶めいているのがわかる。なるほど、シア君の髪の艶はこうやって作り出されていたのか。
「ほう、なるほど。確かにアイロンを通す前と通した後では、違いが一目瞭然だ。しかし、シア君の髪は先端が内側を向いている。毛先まで完全なストレートにはなっていない。」
「それは毛先だけこうやって巻いているんですよ。」
ワトソン君はそう言うと、別の髪束を掴み、アイロンを通す。そして毛先を通す際、手首をくるりと回転させた。アイロンが通りきると、彼女の髪はシア君同様、毛先だけが内側に巻かれている状態になった。
「ほう、伸ばすだけじゃなく巻くことも出来るのか。面白いね。」
僕はワトソン君の持つアイロンを手に取った。パウダーブースの鏡を見ながら、ワトソン君の真似をして内巻きになるようにアイロンを通してみた。しかし、アイロンを通し終わると、何故か僕の髪は何周も周り、くるくるになってしまった。そんな僕の髪を見たワトソン君と雛野君は、思いっきり吹き出して笑った。
「ええ髪型になりましたなぁ。バッハみたいどす。」
女将さんはそう言ってにっこり微笑んだ。
「全く、難解な機械だな。第四戒に反している。」
「これを難解な機械だと思っているのは先輩だけですよ。」
「まぁいい。シア君は髪を乾かし、アイロンで髪を伸ばした。腰ほど長い髪を持つ彼女はそれに時間を要するというのはよく分かった。なら、メイクの方はどうかね? 入浴前に実はメイクを落としていなかったとか。」
「それは有り得ません。入浴前、私とシアさんは一緒にこの脱衣所にいました。シアさんはマスカラのリムーバーを忘れてしまったと言っていたので、私の物を貸しました。その時、シアさんは確実にメイクを落としていました。それと、私は雑談がてら、シアさんのメイクポーチの中身を見させてもらいました。ポットタイプのクリームファンデーションに、毛穴を埋めるタイプのプライマー。彼女の持っている化粧品は、どれも手間と時間のかかるものばかりです。時短で化粧をする必要があるなら、あのアイテムは選ばないでしょう。」
ワトソン君は淡々とそう言った。正直、途中に出てきた単語は何のことを言っているのか分からなかったが、彼女の言うことだ。きっとその通りなのだろう。
「にしても、随分とメイクに詳しいのだな。普段あまり化粧をしているようには見えないのだが。」
「そうですね、私自身は軽くしかしません。でも、妹がこういうのに詳しかったんです。」
「へぇ、妹がいたのか。初耳だ。」
「えぇ。顔も性格も、全く似ていませんけどね。…話しが逸れてしまいましたね。とりあえず、シアさんが身だしなみを整えるために必要な時間についての検証はこんな所でしょうか。」
ワトソン君は僕の持っていたヘアアイロンを奪い、ボタンを押下して電源を切った。
「そうだね。そうしたら次は女将さんの話しを聞こう。女将さんは十九時頃、一体何をしていたのかね?」
「そうどすなぁ。その時間うちは男湯の温度管理をした後、キッチンで夕食の準備をしとおりました。」
女将さんがそう言うと、雛野君、シア君、ワトソンくんの三人は驚いた様子で女将さんの方を見た。
「男湯に…!? サウナの中にも入ったの?」
「…ええ。そん時まだ、ジュンシーはんは生きとおりました。」
女将さんは少しだけ気まずそうな顔でそう言った。この時間にサウナに入った事を言えば、自分へ疑いが向くことは分かりきっている。そりゃ言いにくいだろう。
しかし、僕は女将さんがサウナへ入るところを目撃している。嘘をつくようなら逃さないつもりだったが、女将さんは正直に白状してくれた。
「女将さんがサウナから出る所は僕も目撃している。入る所は見逃してしまったがね。女将さんがサウナから出た時、女将さんの着物は泥汚れがついている以外に何か付着している様子はなかった。滞在時間は正確には覚えていないが、五分といないだろう。犯行自体は可能だろうが、女将さんが犯人だと仮定するなら、問題はどうやって返り血を防いだかというところになる。」
「返り血…。平松先輩なら返り血が身体に付着してもシャワーで洗い流せば済む話しですが、着物を着た女将さんが返り血を防ぐためには、着物を着替えるか何かで体を覆う必要がありますね。」
ワトソン君はそう言って、しばし黙って考えた。僕もサウナルームの様子を思い出しながら思慮を巡らせる。
「…だめです、何も思いつきませんね。」
「そうだね。そうしたら、一旦他の人の行動整理へと移ろう。次はワトソン君、君は十九時頃、一体何をしていたのかね?」
僕は考えるのをやめ、ワトソン君に向かってそう言った。上を向いて何かを考えていた様子のワトソン君も、こちらへと向き直って口を開いた。
「シアさんが行動を話した際に少し話題に上がりましたが、私はシアさんと一緒に湯船に浸かっていました。十九時四十分頃にシアさんがお風呂を上がってからも、続けて浸かっていましたね。そして十九時二十分頃には上がって、脱衣所でシアさんと合流しました。」
「つまり、ワトソン君にもシア君と同じだけの時間があったというわけだ。」
「そうですね。しかし、私が男湯に行くためには、脱衣所で身支度をしているシアさんの横を通る必要があります。私にラウンジのキーはありませんからね。」
「確かに。シア君、君は身支度を整える間どこに居たのかね?」
僕がそう尋ねると、シア君はパウダーブースの一角へと移動し、そこにあった椅子に座った。そこはパウダーブースとロッカーを繋ぐ通路のすぐ隣。脱衣所を抜けて外へ出るためには、必ずこの通路を通ることになるだろう。
「ここに座ってたヨ。ワトソンが通ったら、絶対気づく。ワトソンは絶対ここを通ってないネ。」
シア君は真っ直ぐな瞳でこちらを見つめ、そう証言した。
「さて、これで私の疑惑は晴れたでしょうか。」
「待っとおくれやす。女湯の浴場から男湯の浴場へ渡る手段として、露天風呂からなら簡単に渡れます。露天風呂の仕切りは、主に木々と岩どす。露天風呂へ出ることさえ出来たら、簡単に男湯へ渡れる思います。」
「ですが、今日は嵐のために雨戸を締め切り、露天風呂へは出られないようになっていたはずです。」
「そやけど一応、可能性のある情報は一通り出しておいた方がええやろ? 何か雨戸をすり抜けられるトリックがあるやも知れへんし。」
「『雨戸をすり抜ける』ね。そういう超能力があれば可能かもしれないね。」
「何言ってるんですか、先輩。超能力を使うのは、第二戒に反してますよ。」
「ツッコミ本当にそれで合ってる? 現実的に考えて有り得ないでしょ。」
僕とワトソン君のやり取りに、雛野君は冷静にそうツッコミを入れた。
「後は…、天井の部分が繋がってるさかい、この壁を乗り越えることさえ出来たら渡れるなぁ。」
「なるほど。確かに、男湯と女湯の天井は繋がり、梁が渡っていた。梁まで登ることが出来れば、梁を渡って一気にサウナの近くまで降りる事も可能だろう。」
僕はそう言って、浴場の方へと視線を移す。そしてそのまま、雛野君を除く四人で浴場の方へと移動をした。雛野君は水切り場で立ち、こちらを見ている。
僕は浴場を見渡す。浴場の中は男湯と変わらない。洗い場に湯船、サウナと水風呂が、男湯と左右対称に配置されている。
「梁に登るためには、壁か柱をよじ登るしかないようだね。」
「流石に無理ですよ。私にそんな優れた身体能力はありません。」
「どうかな。案外誰でも登れたりして。」
「そう思うなら、やってみたらどうですか?」
ワトソン君はそう言って、顎で柱をくいっと指した。まさか後輩に顎で命令をされるとは。
僕は浴場の柱を掴み、よじ登ろうとする。しかし、柱は絶妙に太く、つるつる滑って全く上に進めない。数十センチ上がった状態を維持することすら難しい。
「さすがに厳しいか…。」
「でしょうね。壁は、手で持てる場所も無いので余計に無理です。」
彼女の言葉に、僕はうんうんと頷いた。
「そういえば、シア君とワトソン君は手ぶらで中に入ったのかね? 何か雨戸をこじ開けられそうな工具や、壁を登れそうなロープを持ってしなかったかね?」
「そんなの持ってたら、真っ先に言ってますよ。私が浴場へ持っていったのは、タオルと魔法瓶だけです。」
「ワタシも、タオルと水の入ったペットボトル、後はシャンプーのサシェだけネ。」
「ふむ…。特におかしなものは持ち込んでいないようだね。」
僕がそう呟くと、シア君は何かをはっと思い出したように手を叩いた。
「そういえばワトソン、温泉に浸かる時もずっと、リストバンドをしていたネ。」
シア君の言葉に、僕はワトソン君の腕を見た。ワトソン君の腕には、トゲトゲの飾りがついたロックなリストバンドがついている。
「ほう? それはおかしい。何故浴場にリストバンドをしていく必要があったのだね?」
「…言いたくありません。」
僕が問い詰めると、彼女はそう言って僕から視線を逸らし、両手を後ろで組んだ。
「そのリストバンドを見せて貰おうか。」
「嫌です。」
「何かやましい事でもあるのかね?」
「違います。それでも嫌なものは嫌なんです。」
大人しく見せてくれる気はないようだ。僕はやや強引にワトソン君の腕を掴む。
「やっ! やめてください!」
抵抗して暴れる彼女を抑え、半ば強引にリストバンドを奪い取った。
すると、リストバンドの下、彼女の手首には、大量の細い線の傷跡があった。
それを見た三人は、全員何かを察したような顔で口を噤んだ。
「……だから、嫌だって言ったんです。」
彼女は、大人しくもう一方のリストバンドも外して僕に渡すと、僕に目を合わせないままこちらに背中を向けてしまった。
リストバンドは、特に何の変哲もないリストバンドだ。ロックな装飾はされているものの、ただそれだけ。…そういえばワトソン君は、学校でもいつも必ずリストバンドをしていた。あれは、リストカットの傷跡を隠すためだったのか。
「…リストバンドに、特に異常はなさそうだな。……その、ワトソン君、無理やり奪うような真似をして、悪かったのだよ。」
僕はそう言って、彼女の方へリストバンドを差し出した。彼女は黙ってリストバンドを受け取ると、傷だらけの両手首を隠すように、そのリストバンドを付け直した。
「…いえ。捜査には必要な事ですから。私こそ、私情で捜査を拒んでしまって申し訳ありませんでした。」
彼女は暗い声色でそう呟いた。気まずい雰囲気が流れ、誰も何も喋れなくなってしまう。
「…ほ、ほな、ワトソンはんにも犯行は不可能だった、ちゅうことでええどすか?」
そんな沈黙を切り裂くように、女将さんが気を使って話し始めた。
「そうだね。他に秘密の抜け道でも無ければ、の話しにはなるがね。」
「見えない可能性を考えても仕方ありません。次、雛野さんの行動整理と行きましょうか。」
僕たちは浴場から水切り場へと戻り、雛野さんの元へと集合した。
「それでは改めて、雛野君が十九時頃にどこで何をしていたか、聞かせて頂けるかね。」
「十九時ね。あたしは普通に自分の客室にいたよ。」
雛野君は、自信満々な態度でそう言った。
「なるほど。つまりアリバイは何も無いという事だね。」
「名探偵はんに疑いが向きがちどすけど、雛野はんも普通に怪しいどすなぁ。泥棒っちゅう犯罪を既に犯しちょるさかい。」
「なによもう。過ぎた事をいつまでもグチグチと! それはそれ、これはこれでしょ。ジュンシーくんを殺したってあたしになんのメリットもないじゃん。」
「なんやあんた、 うちの知らへん間に十年くらい時流れとります?」
「何それ、どういう意味?」
「いやぁ、自分が加害者やのに過ぎたことて。うちならそんなこと、恥ずかしゅうてよう言わんわぁ思て。」
女将さんはそう言って着物の袖を口元に当て、上品ににっこりと笑った。雛野君は嫌そうにぴくっと右の眉を動かした。
「そもそも、あたしに犯行は不可能でしょ。あたしがサウナに入ってジュンシー君を殺したなら、その段階で蕁麻疹が出ちゃうはずなんだから。」
そう言って彼女は、僕たちに見せつけるように首元をかいた。彼女の首元には未だ、赤い蕁麻疹が残ったままだ。
「確かに。犯行現場がサウナである以上、雛野君が犯人であるというのは無理があるかね。うーん。」
「となるとやっぱり、犯行が可能だったのは先輩ただ一人ということになりますね。」
ワトソン君がそう言うと、皆の視線が僕に集まった。
「何、まだ捜査は終わっていない。この事件には、ダイイングメッセージの他にも重要な謎が残されている。それは『凶器の行方』だ。現場には凶器が残っていなかった。つまり、犯人はまだ凶器を隠し持っている可能性が高いという事なのだよ。物置からダストボックスの中まで、館内全てをくまなく捜索するとしようじゃないか。」
「えぇ~、疲れたよ。それってあたし達も付き添わないとダメ?」
「もちろんだ。疑われたくないのであれば、僕たちと一緒に来ることだ。」
雛野君はぶつくさと文句を言いながらも、結局僕たちに付き添って館内を歩き回った。
キッチンや宴会場にロビー、雛野君や僕達の客室はもちろん、二階もくまなく全てを捜索したが、特にめぼしいものは何も出てこなかった。
そして最後にやってきたのは、ジュンシー君とシア君の部屋だ。
その時、僕はふと疑問が思い浮かんで、口を開いた。
「そういえば雛野君は、どうやって他人の客室に忍び込んだのだ?」
「この部屋は普通に鍵が開いてたの。それでつい、魔が差しまして…。部屋を出ようとしたら、この部屋の入口に鍵が落ちてるのに気がついたの。」
雛野君はそう言って、ポケットから1本の長い鍵を取り出した。
「どこの鍵だろうと思って、名探偵くん達の部屋に使ってみたら、鍵が開いたの。だからそのまま、名探偵くん達の部屋も物色しちゃった。」
雛野君は、てへっと軽く舌を出し、おどけた様子でそう言った。
「それ、マスターキーどす。普段はロビーに掛けておいとるんどすけど。あんた、さてはロビーから盗んだんとちゃうか?」
「えぇっ!? それは知らないよ! 本当に、あたしは落ちてた鍵を拾っただけだって! これがマスターキーって事も知らなかったし、普通に名探偵くん達の部屋の鍵だと思ってたから!」
雛野くんは心底焦った様子で両手を左右に振り、大きな声でそう言った。
「女将さんが客室の雨戸を閉めて回った後に落としちゃったんじゃないの?」
「そんなんあらしまへん。うちは絶対ロビーに鍵を戻しました。」
女将さんは腕を組み、自信ありげにそう言った。
「…まぁ、いい。雛野君の主張は理解した。とりあえず室内の調査といこうじゃないか。」
僕はそう言って、客室の扉へと手をかけた。内装は僕達の部屋と変わらない。雛野君のせいで、室内は少し荒れている。
僕はまず、机の上に置かれたピルケースに目がいった。
「この薬は?」
「それ、ジュンシーの持病の薬ヨ。」
「ほう、なんの病気だね?」
「んと、そこまでは知らないノ。ジュンシーはその薬を飲んでから、温泉に向かったのネ。」
僕はピルケースを持ち上げて観察した。カプセル型の薬だ。そういった専門知識は持ち合わせていない。さすがにこれだけで何の薬か判別するのは難しい。そう思った僕は、そのままピルケースを机の上に戻した。
続いて僕は、シア君のカバンの中身を改めた。するとなにやら、気になる封筒を見つけた。封筒には『調查報告』と書かれている。
「あっ、ソレ…、」
僕がそれを開こうとすると、シア君はそう言って僕を止めようとした。
「なんだね? 何か不都合なことでも?」
「……いや、やっぱ、いいヨ。」
彼女はどこかばつの悪そうな顔で、目線を逸らしながらそう言った。
僕が封筒を開くと、中には中国語で書かれた一枚の手紙と、複数枚の写真が入っていた。
その写真には、ジュンシー君と一人の女性が仲睦まじい様子で腕を組みながら街を歩く様子が写っている。写真に写っている女性はシア君ではない。
そして手紙には『調查顯示,他與多名女性有關係。』と書かれている。
「なるほど。ジュンシー君は浮気をしていたのだね。」
僕がそう言うと、雛野君と女将さんは驚いたように目を見開いた。
「この探偵への浮気調査はシア君が依頼したのかね?」
「…そうヨ。ジュンシー、よく服にラメを付けてたカラ。」
シア君は目を瞑り、ゆっくりと息を吐き出すようにそう言った。
「でも、いいノ。ジュンシー、ワタシと結婚するって言ってくれたカラ。結婚したら、二度と浮気なんてしないって、誓ってくれたネ。だから、ワタシにとってその調査書は、もう決着がついた、過去の話しなノ。…結婚、するはずだったノ。」
シア君は穏やかな笑顔でそう言いながら、目に涙を潤ませた。結婚する約束までしていた人が亡くなったのだ。捜査で気が紛れている間は気づかなくても、ふと思い出して涙が溢れてしまうのは仕方の無い事だろう。
シア君の横にいた雛野君は、シア君の背中を優しくぽんぽんと叩いた。
「浮気の件も、お父さんの件も型がついて、本当に、後は結婚するだけだったのに、なんで…。なんでなのネ…。」
感情が止まらなくなってしまったのか、シア君はそう言って大声を上げて泣き始めた。
「お父さんの件?」
「ソウ…、ジュンシーのお父さん、病気ダッタ。治るまで、心配だから結婚どころじゃナイって。だから私、お父さんの手術費を少しだけ、援助したノ。それでやっと、お父さん手術受けられたノ。」
「ほう…? ちなみにいくら援助したのだね?」
「五万円ヨ。大した額じゃないネ。」
シア君はごしごしと目をこすって涙を拭き、そう答えた。
僕の中で、嫌な推論が広がる。でもきっと、これは言う必要はない。例え僕の推論が真実だったとしても、知らなくていい真実だってあるはずだ。
僕は調査報告書を封筒へしまい、それをシア君の鞄へと戻した。
ふと、部屋に設置されているゴミ箱の中が目に付いた。ゴミ箱の中には、謎の白い粉が散乱している。
「あいてっ」
突然シア君がそう叫んだ。僕はゴミ箱からシア君へと視線を移す。彼女は足の裏を抑えながら、もう片方の足でけんけんと小さく飛び跳ねていた。
「スマホの充電器、踏んじゃったネ…。いてて…。」
雛野君が荒らしたせいで、部屋はものが散乱している。僕も何かを踏んでしまわないよう気をつけなくては。
…待てよ。そういえば、こんな事が少し前にもあったような。
ふと、その時の出来事が頭の中で鮮明に蘇る。
その瞬間、僕の中で全ての推論が繋がった。
「…皆の衆、捜査に付き合ってくれてありがとう。これでようやく分かったぞ。ジュンシー君を殺した犯人が誰なのか。」
僕がそう言うと、四人は驚いた表情でこちらを見た。
「そ、それで!? 犯人は誰なの!?」
「まぁ焦りなさるな。この後ロビーで僕の推理を聞いていただくとしよう。でもその前に、少しだけ推理ショーの準備をしたい。先にロビーで待っていただけるかね。」
僕がそう言うと、すぐに雛野君が口を開く。
「ちょっと喉乾いちゃった。自分の部屋に飲み物だけ取りに行ってきていい?」
「ああ、構わないのだよ。」
「私も、部屋に飲み物を取りに行きたいです。」
「ああ、すまない。準備は僕の部屋で行いたい。ワトソン君が部屋に来るのはその後でも構わないかね?」
「まぁ、いいですよ。我慢出来ない程ではありませんから。」
僕の推理が正しければ、推理ショーを開く前に『あること』をしておく必要がある。僕はその『あること』をしてから皆が待つロビーへと向かった。