第四章
ジュンシー君の死体を目撃し、僕とワトソン君は腰を抜かして座り込んだ。シア君はその場で泣き喚いた。女将さんは口元を抑えて後ずさった。しばらくの間僕たちは、そのまま動く事が出来なかった。
「みんな…? ねぇ、どうしたの? 何があった?」
まだそれを知らない雛野君は、水切り場からこちらを覗き込んで呑気にそう言った。
「…ジュンシー君が、死んでる。」
僕は一言、小さくそう言った。
「え…、嘘でしょ?」
雛野君はまだ信じていない様子で、とことことこちらへ歩いてきた。そしてサウナルームの状況を確認すると、彼女はすぐに悲鳴を上げて後ずさった。
「と、とりあえず、警察呼ばな、やんな?」
女将さんは動揺した様子で言葉を詰まらせながら、着物の帯からスマートフォンを取り出して数回画面をタップし、それを耳元へ当てた。
そして女将さんはすぐに電話越しに状況の説明を始めた。一通り説明すると、女将さんは急に声を荒らげてこう言った。
「ええ!? 嵐の影響で、こっちに来れるのは明日の朝やって!?」
女将さんとその言葉を聞いて、僕達は顔を見合わせた。
「えぇ、えぇ…。分かりました。ほな、明日の朝、よろしゅうおたのもうします。」
女将さんは会話を終えると、スマートフォンを再び帯の中にしまった。
「なるほど、ここは名探偵の出番というわけだね。」
僕が真剣な面持ちでそう言うと、雛野君は眉間に皺を寄せて口を開く。
「あんたねぇ…、人が亡くなってるっていうのに、まだその探偵ごっこ続けるわけ? 明日の朝になれば警察が来るんだから、あたし達は大人しくしていればいいのよ。」
「探偵ごっこなどでは無い。死体の状況をよく見たまえ。これはどこからどう見ても他殺だ。この旅館は雨戸が締め切られていて、僕達六人しか存在しない。つまり、彼を殺した犯人は今、この五人の中にいるということなのだよ。」
僕がそう言うと、雛野君は怯えたように眉尻を下げ、ごくんと息をのんだ。
「もしこれが連続殺人だったなら、僕達は明日の朝を迎えることが出来ずに全滅してしまうかもしれない。犯人をつきとめ、その人物を朝まで拘束しておくべきだとは思わないかね?」
僕は真剣な表情で四人を見渡しながらそう言った。
「…一理あるかも。」
先程まで否定的だった雛野君は、納得した様子でそう呟いた。
「…突き止めて。ジュンシー殺した人、突き止めて! 絶対、許さないネ!」
シア君は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、僕の方を見てそう叫んだ。
「…でもまぁ、今のところ一番疑わしいのは平松先輩じゃないですか?」
ワトソン君は、怪訝そうな顔でこちらを見ながらそう言った。三人の視線はワトソン君の方へと集まった。
「殺害現場は男湯のサウナの中。私たち五人の中で、男性は平松先輩ただ一人だけ。一番自然にここへ来る事が出来るのは平松先輩です。それに、先輩は第一発見者でもあります。ジュンシーさんを探しに行ったこのタイミングで殺すことだって可能だったはずです。」
ワトソン君がそう言い終わると、続いて三人の視線はこちらへと集まった。
「ワトソンちゃんの言う通りじゃん! ここに入れたのは名探偵くんだけ! 犯人は名探偵だ、間違いない!」
「名探偵…! なんで、ジュンシーを!」
「せ、せや! 拘束しましょ!」
三人は口々にそう言うと、僕を取り囲むようにして僕の両腕を掴んだ。
「ま、待ちたまえ! それだけで僕を犯人だと断定することは出来ないのだよ!」
僕はもぞもぞと腕を動かして抵抗しながら、早口に叫んだ。
「それに! 僕が犯人ではないという事は『ノックスの十戒』が予言している!」
僕がそう叫ぶと、僕を拘束しようとしていた三人の動きは止まり、呆けた顔でこちらを見た。
「「ノックスの十戒?」」
三人は口を揃えてそう呟いた。どうやら彼女たちはノックスの十戒を知らないらしい。
説明しがいがあるな、と思いながら、僕は人差し指を天に向け、意気揚々と語り始める。
「ノックスの十戒とは、推理小説を書く際に守るべきとされる十個の戒めなのだよ。その第七戒には『探偵自信が犯人であってはならない』とある。つまり、名探偵である僕は事件の犯人などではない!」
僕がそう言い切ると、三人はぽかんとした顔をしていた。どうやら僕の完璧な説明に言葉もでないようだ。
「…それが今回の事件になんの関連があるっていうの? これは推理小説なんかじゃない。現実に起きた事件でしょ! 現実の事件は推理小説ほど親切なんかじゃない。そんな戒め、何の役にも立たないじゃない。探偵ごっこに現を抜かすのは勝手だけど、現実と小説を混合しないでよね。」
雛野君は僕の目の前に人差し指を突き付け、怒った様子で叫ぶ。その勢いに気圧され、僕は彼女から少しだけ後ずさった。
「全く、雛野さんの言う通りですね。それに、ノックスの十戒は必ずしも守られるとは限りません。十戒を提唱したノックス本人でさえ、十戒を破った作品を発表しています。ミステリーオタクの先輩が知らないはずがないでしょう。もしこれが小説の中のお話しだったとしても、この状況で探偵役を全く疑わないのは愚か者です。」
ワトソン君は冷静に、ゆっくりと目を瞑ったままそう話した。
「しかし、『これだけでは先輩を犯人だと断定できない』というのは全くもってその通りです。私は『今一番疑わしい人物は先輩である』と言っただけなのに、先輩を犯人だと決めつけてしまうなんて、先輩に罪を擦り付けてさっさと議論を終わらせてしまいたい犯人なのではないかと邪推してしまいます。」
ワトソン君は目を開き、雛野君の方を鋭い目つきで見つめた。彼女の言いたいことが伝わったのだろう。雛野君は僕から少し距離を取って押し黙った。
「男性は僕とジュンシー君の二人だけ、つまり入浴中のアリバイを証明する方法は僕にはない。だがしかし、僕以外の誰かが犯人であるという証拠さえ掴むことが出来れば、僕が犯人でないことは証明されるだろう。」
「そうですね。私達は真実を知る必要がある。そのためにまずは、館内の捜査から始めましょう。」
ワトソン君がそう言うと、三人は黙ったままこくりと頷いた。
「捜査はワトソンちゃんと名探偵君がするってことでいいのかな? それじゃああたし、ちょっとあっちの脱衣場の方で待ってるね。」
そう言って脱衣場の方へ向かおうとする雛野さんのTシャツの裾を、ワトソン君が掴んで引き止めた。
「待ってください。捜査中は基本、一緒に居てください。単独行動をしている間に証拠を揉み消されてしまっては困りますから。」
「それはもちろん、分かるんだけど…。」
雛野さんはばつが悪そうに言葉を濁しつつ、首元を爪でばりばりと掻いた。
よく見ると、彼女の首元は少し様子がおかしい。ここに来た時より赤くなっている気がする。
「あたし、『温熱蕁麻疹』って持病を持っててさ…。暑い場所にいると、蕁麻疹が出てきちゃうんだ。」
彼女はそう言って、Tシャツの袖を捲り、赤くなった腕をばりばりと掻く。
「なるほど。だから最初、浴場に来ずに水切り場で様子を見ていたのだね。」
「うん、そう。大浴場は特に、湯気が充満しててキツイから。」
「それほど酷いと、サウナに入ることも出来ないのかね?」
「当たり前じゃん。サウナなんて、数秒居るだけで全身真っ赤になっちゃうよ。一回蕁麻疹が出ると二時間は苦しみ続けることになるし、あんまり暑い場所に長居してると息が苦しくなってきて本当に危ないんだから。」
「ふむ…、それが真実なのだとすると、君がサウナに入ってジュンシー君を殺すのは難しい気がするね。」
彼女の首や腕は赤く、斑点状の突起も見えている。浴場に来てから彼女の体に異常が起きていることは事実だろう。
「そういう事なら、脱衣場で待っていて貰おう。空調の当たる所でゆっくりと涼みたまえ。しかし、扉は開けたまま、僕達の目の届く所に居て貰おう。問題ないかね?」
「脱衣場ならクーラーが効いてるから大丈夫。じゃあちょっと、あっちで休ませてもらうね。」
雛野君はこちらに手を振ると、脱衣場の方へと歩いていった。僕の指示通り、水切り場と脱衣所の扉を開いたままにして、扉の真正面にあるベンチへと腰かけた。脱衣場の方を見れば、雛野君の姿はしっかりと確認することが出来る。
「さて、それじゃあまずは、サウナ内の様子から確認しようか。」
僕の言葉に、ワトソン君はこくりと頷いた。そしてワトソン君はサウナルームの扉に手をかけ、ゆっくりと扉を押し開けた。
蒸れた鉄の臭いが鼻を刺す。ショッキングなジュンシー君の遺体が視界に映る。いくら推理小説が好きとは言え、実際に死体を目の当たりにすると心がざわついてしまう。
サウナ内にはジュンシー君の血が飛散している。この様子だと、確実に犯人は返り血を浴びることになるだろう。
ジュンシー君はサウナ内の椅子からずるりと滑り落ちたような体勢で、椅子の足元に背中を預けている。彼の胸の真ん中には、刃物で刺されたような深い傷跡がある。そしてサウナ入り口のすぐ近く、遺体からは少し離れた位置にプレミアムラウンジのキーが落ちていた。
そして彼のすぐ横には、彼の血がついた二枚の手拭いタオルが落ちている。おかしい。確か彼が風呂へ移動する時、持っていたタオルは一枚だったはずだ。犯人が回収し忘れたのだろうか?
そして、入り口左側の角に設置されているサウナストーン。遺体から少し距離があるそこには、不自然に血が付着している。
しかし、そんなことは些細なことだと思ってしまうくらい、この事件現場にはとある『重大な手がかり』が残されていた。
ジュンシー君の右手の人差し指は血に塗れており、その指が指す地面には『烤鱿鱼』という血文字が描かれている。
「これは、ダイイングメッセージだね。」
僕がそう呟くと、女将さんとシア君もサウナの中を覗き込み、そのメッセージを確認した。
「なんやこれ、見た事ない漢字どすなぁ。」
「これは中国語だね。どれ、中国語の講義を取っている僕が翻訳しよう。……えっと、これ、なんだったかな。最近習った気がするのだけれど…。」
「『イカ焼き』ですね。お腹でも空いていたんでしょうか?」
僕が必死に記憶を巡らせていると、横からワトソン君がそう答えた。
「君も中国語が読めるのかね? 君は中国語の講義は選択していなかったはずだが。」
「講義は取っていません。ただ昔、独学で勉強していた事があるだけです。」
「ほう。中華アイドルの追っかけでもしていたのかね?」
「まぁ、そんな所です。」
僕は冗談で言ったつもりだったが、ワトソン君はクールな表情のままそれを肯定した。彼女にアイドル好きな時代があっただなんて、なんだか意外だ。
「犯人は、名前に『イカ焼き』入る人物、トカ?」
シア君はそう呟き可愛らしく首を傾げた。『イカ焼き』なんて名前が入る人はそうそういないだろうが、関連したワードが入っている可能性は大いにある。
僕が平松 耀。ワトソン君が首田 千里。そして楊 仔空に雛野 綾芽。この中にそれらしき名前は無い。そしてまだ、僕達は女将さんの名前を知らない。
「女将さん。貴女の名前を教えて貰えるかね?」
「ええ。うちは寺山 京香いいます。」
「寺山 京香…。イカ焼きとは関連がなさそうだね。」
「必ずしも名前に関連するとは限りませんよね。その人の好物とか、特徴とか。」
「シア君を除き、僕達はジュンシー君とは初対面だったはずだ。あまりディープな個人の内容を彼が知っているとは思えない。もし知っていたとしても、僕達同士が認識していないような内容を残そうとは思わないのではないだろうか。」
「そうですね。意図に気づけないようでは、ダイイングメッセージの意味がありません。しかし、直接犯人の名前を書いてしまえば、犯人に隠蔽されてしまいます。犯人には意図を気づかれず、犯人以外の誰かには気づいて貰えるような内容を記すはず。今回の場合、日本人の犯人には気づかれず、中国人であるシアさんにだけ伝えるつもりで書き残した、と考えられるかもしれません。」
「ほな、シアはんは犯人と違うっちゅう事どすか?」
「断定は出来ませんけどね。死の瀬戸際に細かいことを考える余裕がなく、母国語を選んでしまっただけという可能性だってありますから。」
ワトソン君がそう言うと、女将さんは「難しいなぁ」と呟いた。
「にしても…。この文字、確かに最近習った気がするのだ。『イカ焼き』はもちろんそうだった気がするのだが、もう一つ意味があったような…。」
僕はそう呟き、必死に記憶を巡らせる。教授の小話として、面白い意味のある単語として紹介されていた気がするのだ。そこまでは思い出せるのに、どんな意味だったかが全く思い出せない。
「もう一つの意味ですか…? さすがに私も分かりません。シアさん、何か知っていますか?」
「烤鱿鱼、うーんと、日本語でなんて言うのか、分からないネ…。」
「うーん、困ったね…。」
「普通にネットで検索してみましょうか。」
ワトソン君はポケットから自身のスマートフォンを取り出した。そして画面がパッと明るくなると、ワトソン君は眉間に皺を寄せ、そのままこちらへ画面を見せた。
スマートフォンの画面はロックされたまま、中央には時刻だけが表示されている。そして右上には『圏外』の文字。
僕はポケットから自分のスマートフォンを取り出した。僕のスマートフォンも同じく『圏外』になっている。
「圏外ですね。先程警察に電話されていましたが、女将さんやシアさんのスマートフォンは繋がりますか?」
「エット…、ワタシも圏外ネ」
「ほんまや。さっきはいけたのに圏外になってますなぁ。嵐の影響でっしゃろか?」
「なんてタイミングの悪い事だ。…まぁいい。それなら一旦ダイイングメッセージのことは置いておこう。他にも捜査すべき点はたくさんある。」
僕はそう言って、スマートフォンをポケットの中へとしまった。そして再びサウナルームの中へと視線を移す。
室内は大体見た。あとはもう少し死体の様子を見たい。僕は勇気を出して遺体に触れ、足を持ち上げた。床に触れていた彼の足には鬱血の跡が見られた。
「何、このアザ…? ジュンシー、こんなのなかったハズネ。」
「死斑だ。死後、血液が体の低い位置に沈殿する事で見られる反応さ。少なくとも今、死後三十分は経過しているだろう。」
僕が足を持ち上げて死斑を確認していると、ワトソン君が隣にしゃがみ込み、死体の足を掴んだ。
「ふむ…、この熱気の中ですし、体の硬直に関しては当てになりませんね。これ以上正確な死亡推定時刻を判定するのは難しいでしょう。」
彼女はそう言うと、足を掴んでいた手を離した。それだけで満足したのか、彼女は立ち上がって一歩後ろへと下がっていった。
僕は引き続き、死体の様子を注意深く観察する。すると、彼の左腕にキラリと光が反射して光ったのを見つけた。
腕時計だ。僕は死体の左腕を持ち上げ、腕時計を確認する。腕時計の表面にはヒビが入っていて、時刻は十九時ぴったりを刺したまま動いていなかった。
「来たまえ、ワトソン君。死亡推定時刻を特定したのだよ。」
僕が自信満々にそう言うと、ワトソン君は驚いた様子でその腕時計を確認した。
「十九時で止まっていますね。チェックインの段階では、彼の腕時計は動いていました。確かにこれは、事件の起きた時間を指している可能性が高いですね。」
ワトソン君はそう言って、少しだけ嬉しそうに頬の筋肉を緩めた。
「そうと決まれば、十九時頃に一体どこで何をしていたのか、全員の行動を整理しようじゃないか。」