第二章
僕が客室へと戻ると、ワトソン君は座椅子に座って本を開いていた。彼女は僕が帰ってきたのを確認すると、開いていたページに栞を挟んで本を閉じた。
「ああ、先輩。おかえりなさい。かなり風が強くなってきたみたいですが、大丈夫でしたか?」
「なに、この僕にかかればこんな嵐くらい大した事じゃないさ。」
「びしょ濡れじゃないですか。大丈夫じゃ無さそうですね。」
彼女はそう言いながら僕へ近付き、手に持っていたビニール袋を奪った。中に入っていた缶ビールを取り出すと、客室に備えられている冷蔵庫の中へそれをしまった。
「夕食の時間まであと二時間ほどあります。濡れたままでは風邪をひいてしまいますし、先に温泉に行きましょう。」
彼女はそう言って客室の壁掛け時計を指さした。時刻は十九時ぴったりだ。
「そうだね。それがいい。」
温泉へ向かうことを決めた僕たちは、それぞれ部屋に備えられていた湯籠を手に取り、中にタオルと浴衣を詰めた。
「水分補給はしっかりした方がいいですよ。何か飲み物を持っていくことをおすすめします。」
「危ない、忘れるところだった。助言感謝するよ。」
ワトソン君に指摘され、僕は慌てて自分のバッグからペットボトルを取り出し、それを湯籠の中へ入れた。
ワトソン君も、何やら小さな魔法瓶を取り出し、湯籠の中へ詰めている。それは彼女の腕と同じくらい細い魔法瓶だった。
「それは魔法瓶かね? そんなに細いと全然中身が入らないんじゃないのかね?」
「分かってませんね、先輩。今、女子の間では小さな鞄を持つ事がブームなんですよ。小さい鞄にはこれくらいの魔法瓶しか入れることができません。小さな鞄を持つために、女子は少ない飲料で頑張ってやり繰りしているんですよ。」
「なるほど。あの小さいバッグに何が入るんだろうと思っていたが、そういう工夫を凝らしていたのか。にしても、君が女子の流行を気にしていただなんて、なんだか意外だね。」
「失礼ですね。…まぁ、今日は旅行なので大きな鞄に詰めてきてますから、小さい意味はあんまりないですけどね。中身が全然入らないので、同じ魔法瓶を三つも持って来ることになってしまいました。かなり荷物が嵩張ってます。」
「本末転倒じゃないかね?」
彼女の言葉通り、彼女の大きな鞄には三つの魔法瓶が入っていた。一つが赤色、二つは青色。彼女は青い魔法瓶を一つ湯籠に詰め、続けて赤い魔法瓶のフタをくるくると回して開け、そこから口をつけて一口飲み物を飲んだ。
「そうそう。これの凄い所は細いだけじゃなくて、とても機能的なんですよ。とても保冷効果が高くて、この前この中にアイスを入れて持ち運んだ時には、十二時間が経過した後でもアイスの周りに霜が付いていたくらいなんです。」
「へぇ、それはすごい。」
「それのせいか、魔法瓶の壁はめちゃくちゃ分厚くて全然中身が入らないんですけどね。小さい鞄に詰めることを目的とした魔法瓶なのに、これ一本に入る飲料だけじゃ全然足りなくて、結局どこかでペットボトルを買ってしまうんですよ。」
「本末転倒じゃないかね?」
「でも、本当に保冷効果は凄いんです。今もこれ、キンキンに冷えてますから。先輩も少し飲んでみます?」
そう言って彼女は、蓋が開いたままの魔法瓶をずいっとこちらに差し出した。魔法瓶の中に半量入った液体がたぷっと揺れた。
「…いや、遠慮しておこう。君の貴重な飲料を奪う訳にはいかないのでね。」
レディの魔法瓶に口を付けるなど、スマートな探偵紳士の行動には似合わないな。そう思った僕は、魔法瓶の前に手のひらを突き出して彼女の申し出を断った。彼女は「そうですか」と一言言うと、そのまま魔法瓶の蓋を閉めて机の上へと置いた。
手荷物の準備を整えた僕達は、客室を出て温泉へと向かった。
「先輩、どれくらいの時間入る予定ですか?」
「そうだね、ざっと一時間くらいかな。」
「なるほど。私はもう少しだけゆっくり入ろうと思います。出たら部屋で待っていてください。」
「了解した。また客室で落ち合おう。」
そんな会話を交わし、僕達は温泉の入口の前で互いに手を振り合って別れた。
僕は『男湯』の文字が書かれた青色の暖簾を手で掻き分けてくぐる。脱衣場へ入ると、そこにはジュンシー君がいた。彼は探し物でもしているのか、上裸の姿で床にしゃがみこんでロッカーの下やベンチの下を懸命に覗き込んでいた。
「やあ、ジュンシー君。何か探し物かね?」
僕がそう声を掛けると、ジュンシー君は救世主でも見るような目でこちらを見た。
「お、名探偵、いい所に。実はプレミアムラウンジのキーを無くしてしまって困ってたんだ。探すのを手伝ってくれないか?」
「プレミアムラウンジ?」
「そう。宿泊とは別の料金を支払って入ることができるラウンジだよ。女将から貰った地図の男湯と女湯の間にスペースがあっただろ? そこの事だよ。」
「ああ、なんかあった気がするね。プレミアムラウンジって結局なんなんだね?」
「要はシアタールームだ。風呂上がりに浴衣で好きな映画を見られるスペース。夜中にシアと二人で行こうと思って予約しておいたんだ。」
「へぇ、それは素敵だ。」
「そこの水切り場にある鍵のかかった扉から入れるんだけど、そこに入るための鍵を落として無くしてしまってね。確かにこの椅子に置いたはずなんだけど…。」
ジュンシー君はそう言って再び椅子の下を覗き込んだ。
「名探偵の僕に任せたまえ。失せ物探しは探偵の基本中の基本だからね。」
僕は彼と同じように床にしゃがみこみ、床に目線を這わせるようにして周囲を見渡した。見える範囲には特にそれらしき物体は見当たらない。ロッカーの中、トイレ、洗面台の辺りも念入りに探したがなかなか見つからない。
「うーん、ないなぁ…。本当にここの椅子までは持ってきていたのかね?」
「絶対持ってきたはずなんだけどな…。」
ジュンシー君は自信なさげにそう言って、ポリポリと頭をかいた。そして彼が再び椅子の下を覗き込んだ時、彼のズボンの尻ポケットに何か光るものが見えた。僕はそれに手を伸ばす。
「お探しのものはこれで合っているかね?」
僕がキーを差し出しながらそう声をかけると、ジュンシー君はこちらを見て安堵したように顔を綻ばせた。
「これ、これだ! ありがとう、さすが名探偵だ!」
ジュンシー君は鍵を受け取ると、そう言ってにかっと笑った。人に感謝をされるのはとてもいい気分だ。
僕は上機嫌のまま、彼の背向かいのロッカーを開いて荷物を入れた。浴室へ入る準備をしようと自身の服に手をかけた所で、ジュンシー君が話しかけてきた。
「ラウンジを知らなかったってことは、君たちはプレミアムラウンジを予約しなかったのか?」
「ああ、そうだね。予約はワトソン君が一人でやってくれたから、僕はラウンジの存在も知らなかったよ。」
「古い旅館にしてはなかなかいい雰囲気の照明の空間だよ。今からでも女将さんに言えばキーを貰えるんじゃないかな? きっと君の恋人も喜ぶと思うよ。」
「悪くない提案だ。しかし、僕たちの今夜の過ごし方はもう決めてしまっている。またの機会に検討するとしよう。それと、僕とワトソン君は恋人ではないよ。」
僕がそう言うと、ジュンシー君は驚いた様子でばっとこちらを振り向いた。
「恋人じゃないのに泊まりで温泉旅行? ああ、なるほど。今夜狙ってるってわけか。」
「そんなんじゃない。僕とワトソン君は同じ大学のサークルメンバー、ただの先輩と後輩だ。」
「ただの先輩後輩ねぇ。でも全く下心がないって訳でもないんだろ?」
「下心などない。下衆な詮索はやめていただけないかね?」
僕の事を何も知らないくせに勝手な事を、と少しだけ苛つく心を抑えながらも、僕は少しだけ語気を強めてそう言った。
「へぇ、なんでそんなに自信を持っていい切れるんだ?」
しかしジュンシー君はそれに動じることなく、にやりといやらしい笑みを崩さないままにそう言った。
「何、大した事などない。名探偵たるもの、常に紳士でなくてはならないのだよ。真実に対しても、人に対してもね。你明白?」
僕は彼に顔を近づけ、ドヤ顔でそう言ってみせた。すると彼は、ぷっと吹き出して笑った。
「くっ、はははっ! あんた面白いね。ロビーで話した時も面白いと思ってたが、思ってたより数十倍も変人だ。最高だよ。」
彼はそう言って大きな声で笑いながら、僕の肩をばんばんと叩いた。
「あんた、なんでそんなに名探偵に憧れてるんだ?」
「そうだな。それこそ恋のようなものかもしれない。初めてミステリーという物に出会った時、それは一瞬で僕の心を攫っていった。知れば知るほど僕を夢中にさせるんだ。こんなに魅力的なもの、他に出会ったことがない。皆に変人だと言われようが構わない。僕は、好きなものを好きだと胸を張って言える自分を愛しているからね。」
僕は胸を張り、拳を作って胸の辺りをぽんぽんと叩きながら堂々とそう言った。するとジュンシー君は、少しだけ寂しそうな表情をした。
「凄いな。俺には真似できない。君は『光の人種』だな。眩しいよ。」
彼はどこか遠い目をしてそう言った。
「何を言う。アイドルみたいなナリをして、あんなに可愛らしい恋人がいる。僕からすれば、君の方こそ『光の人種』だ。」
「ははっ、そう見えるか? まだまだだな、名探偵。」
笑顔でそういう彼の瞳には、どこか計り知れない闇が隠されているような気がした。
「何か悩み事かね? 僕で良ければラバー・ダックになろう。」
「…いや、やめておくよ。例え今日限りの関係の相手だとしても、弱味を晒すことには抵抗があるんだ。『沈黙は金、雄弁は銀』ってね。」
ジュンシー君はそう言ってこちらに背を向けると、自身のベルトに手をかけ、浴室へ入る準備を再開し始めた。
「随分と難しい言葉を知っているね。それに、日本語の発音も流暢だ。こっちに来て長いのかね?」
「三年くらいかな。そんなに長くはいないよ。日本語だって、ここに来た当初はそんなに話せなかった。」
「ほう? なのに何故こんなに上達したのかね?」
「昔、日本人の恋人がいたからかな。ほら、よく言うだろ? 最も早く外国語をマスターする方法は、その国で恋人を作ることだ、って。…ま、もう昔の話だけどね。」
そう言いながら全ての衣服を脱ぎ終わったジュンシー君は、タオルを持って浴場の方へと去って行ってしまった。
随分と長話をしてしまったな。ふと、脱衣所の時計を見る。時刻は十八時二十分。知らぬ間に二十分も過ごしてしまった。一時間ほどで出ると言ってしまったのに、これでは少し時間をオーバーしてしまいそうだ。僕も慌てて残りの服を脱ぎ、タオルを持って浴場へと向かった。
脱衣所の扉を開くと、まず水切り場がある。水切り場にはウォーターサーバーと、ロビーに合ったものと同じオキシドールが置かれている。正面には浴場へと続くすりガラスの扉、そして右手には、プレミアムラウンジに続く鍵のかかった扉があった。
僕はそのまま正面の扉を開き、浴場に入る。浴場内に充満している湯気がむわっと僕の体を覆った。浴場に入ってすぐの正面にはたくさんのシャワーブース。そしてその奥には源泉かけ流しの湯船。さらにその奥には黒い雨戸が下りているが、本来であればその奥には露天風呂があるのだろう。左手側にはサウナ、その横にあるのはおそらく水風呂だろう。
癖で施設内をくまなく観察していると、サウナの入口の扉が開く。ジュンシー君だ。彼はシャワーブースも湯船も無視して、まっすぐサウナへと入っていった。ちなみに、僕は暑さに耐えられないのでサウナは苦手だ。今日入るつもりはない。
僕は適当なシャワーブースのシャワーを流し、椅子の上を軽く水で流してからそこへ腰かけた。目を瞑り、頭のてっぺんからシャワーを浴びて髪の毛全体を濡らす。すると、入口の方から扉の開く音が聞こえた。
「ごめんやす。温泉の温度確認だけさせとおくれやす。」
女将さんの声だ。目を瞑っていても、その声と特徴的な京都弁で分かった。ぺちぺちと浴場内を歩く音が背後を通過していく。その足音が止まると、湯船に検温器を入れるちゃぽんという水音が聞こえてきた。そんな音を聞きながら、僕はシャワーブースに備え付けられているシャンプーを手に出し、髪の毛に乗せてわしゃわしゃを泡立てた。
一通り洗い終えたらシャワーで流し、次はコンディショナーを髪先へとなじませる。それも洗い流し終えた後は、シャワーを顔に当てて洗い、手のひらでぐっと顔の水気を払い取った。ようやく目を開くと、ちょうど女将さんがサウナから出てきたところだった。…それにしても、この距離で見てもやっぱり目立つなぁ。浴衣の泥染み。女将さんは気にしないでと言っていたが、やっぱり少しだけ心配になってしまう。
一通り検温が終わったのか、女将さんはサウナから出るとそのまま浴場の出入り口へと向かい、この浴場を去っていった。
僕は続けて、シャワーブースに備えられていたボディソープを手に取って体を洗う。一通り洗い終え、身体をシャワーで洗い流していたその時だった。
ガタンッ! カララララ……
背後からものすごい大きな音が響いてきた。僕は驚いて、音のしたほうを振り向いた。椅子を立ち、何か起きていないかと確認する。目で見てわかる変化はない。おそらくこの音は、女湯の方から聞こえてきたのだろう。大方桶を落としてしまったとか、そんな音だろう。僕は深く考えることはせず、そのまま湯船へと向かうことにした。
足を上げ、つま先からゆっくりと湯船に体をつけていく。少しづつ体を沈めていくと、ざぱーっと湯船から大量のお湯があふれ出した。肩までつかると全身の力が抜け、今日一日の疲れが全て温泉に溶け出ていくかのようだった。
僕はそのまま水の浮力に身を任せ、天井を見つめてほっと一つ息をついた。
浴場の天井は男湯と女湯を繋いで三角錐の形の屋根になっており、男湯と女湯の天井はつながっているようだ。どうりで先ほどの音がこちらまで大きく響いてきたわけだ。天井には梁がかかっており、その間にシーリングファンが回っている。施設内は全て木製で、ところどころに木の柱が建てられているが、それさえも温かみを感じるような作りになっている。
施設内をぼーっと見つめながら湯につかっていると、身体の芯まで温まってきた。そろそろ丁度いい頃合いだ。僕は立ち上って湯船から出て、適当なシャワーブースで体全体を流した後、水切り場へと移動した。持ってきたタオルで体全体の水気をふき取り、脱衣所へと戻る。そのまま何事もなく髪を乾かし、館内着の浴衣へと着替え、僕は客室へ戻ることにした。