第一章
「よし、着いたぞワトソン君。起きたまえ。」
駐車場に車を停め、僕は助手席で寝ているワトソン君の肩を揺らした。彼女は寝ぼけ眼で口元に手を当てて、ふわぁっと大きく口を開けて欠伸をした。
彼女は、僕と同じ大学のサークル『ミステリー研究会』の後輩だ。半年前、僕一人きりだったこのサークルに入ってきてくれた一年生。
タッセルボブカットの黒髪を耳にかけ、そこからはたくさんの数のピアスが覗いている。黒のTシャツに黒いレザーのミニスカートを身に着けており、首にはチェーンが垂れ下がったチョーカー、両腕にはシルバーのとげとげが一周にあしらわれたリストバンド、そして舌の真ん中にはシルバーのピアスと、ロックな服装をしている。いかつい見た目の女性だが、僕より頭一つ分ほど身長が低く、細身で小柄だ。
ミステリー研究会のメンバーは僕とワトソン君の二人だけ。今日はサークルの合宿という体で、活動費を使って二人で古びた旅館へと泊まりに来ている。今回の合宿は、人里離れた山奥にある何か事件でも起きそうな雰囲気ばっちりの旅館があるからと、ワトソン君が半ば強引に予約を取って推し進めたものだ。
「もう着いたんですか? 意外と一瞬でしたね。」
「そりゃ君は寝ていたんだから一瞬だろうね。」
「いや、寝てませんよ。ずっとうっすら起きていました。平松先輩に運転を任せっきりにして寝たりするわけないじゃないですか。」
彼女は両手を左右に広げ、やれやれと首を左右に振りながらそう言った。
「じゃあ、どれくらいの時間ドライブしていたかわかるかね?」
「当たり前です。三十分くらいでしょう?」
「残念、正解は三時間だ。」
「ええっ、そんな。平松先輩、一体どんなトリックを使ったんですか!」
彼女は驚いた様子で自身のスマートフォンを開き、時間を確認した。現在時刻は十六時十分。車を走らせてちょうど三時間だ。
「チェックインの時刻を少し過ぎてしまった。早く旅館に向かうとしよう、ワトソン君。」
僕がそう言って車の扉のロックを解除すると、彼女は何やら不満気な顔でこちらを見てきた。
「ていうか、なんで私が『ワトソン』なんですか。私には首田 千里という可愛らしい名前があるというのに。」
「何、明白さ。僕は名探偵。名探偵の横には有能な助手が必要不可欠なのだよ。ユーアンダスタン?」
僕はそう言って片手で自身の髪をかき上げた。そんな僕を見た彼女は、不愉快そうに眉を潜めた。
「うざ。ていうか、私も助手じゃなくて探偵がいいんですけど。」
「じゃあ、公平にじゃんけんでもするかね? 勝った方が探偵、負けたほうが助手だ。」
「…まぁいいや。やっぱり今日だけは私が助手になってあげますよ。」
「僕の方が探偵に向いていると負けを認めるわけだね? 賢明な判断だ。」
「あぁ、はいはい。じゃあそういうことでいいですよ、名探偵センパイ。」
彼女は流れるようにそう言うと、車のドアを半分開いて、傘を差してから外に降りた。僕も運転席側の扉を開き、同じようにして車の外へ出る。
ワトソン君は反対側から僕の方へと歩いてくると、眉間に皺の寄った仏頂面で僕の方を見た。
「今さらなんですけど、先輩のその服装なんとかなりませんか? 正直隣を歩くのが恥ずかしいです。」
「む、そんなにおかしな恰好かね? 自分的にはばっちり決まっていると思っているのだが。」
「ばっちり決めすぎているのが問題なんですよ。ベージュ色ターターン柄の鹿撃ち帽とインバネスコートって、どっからどう見てもミステリーオタク丸出しですから。そのくせ私のことを『ワトソン』だなんてあだ名で呼んで。恥ずかしいったらありゃしないですよ。」
「何、恥ずかしがることはない。僕たちはミステリー研究会の合宿としてここへ来ているのだ。それらしく振舞うことの何が問題だと言うのかね? もっと自信を持ちたまえ。」
僕はそう言って、いまだ不満そうな表情を浮かべたままの彼女の肩をぽんと叩いた。
服装に関して言えば、彼女のロックな服装だって人のことを言えた義理ではないと思うのだが、それは口に出さずにぐっと心に留めておいた。
僕はそのまま旅館の入口の方へと歩き始める。少ししてワトソン君も僕の隣へと来て並んで歩き始めた。
「それにしても確かに、なかなかそれらしい雰囲気がある旅館ではないか。」
「でしょう? 次の部誌の舞台の参考になること間違いなしです。」
「せっかくの旅行なのに生憎の雨だと思っていたが、これがまた逆に雰囲気があって良い。」
「ですね。」
この旅館は、人里離れた山中にある温泉宿だ。二階建ての小さな和風の建物の周りには屋根が埋もれるほどに木々が生い茂っている。
僕たちは温泉宿の入口へと歩き、宿の扉を開いた。
「無茶言わんといてください! 今さら言われたって、用意出来ひんもんは出来まへん。」
扉を開くと、いきなりそんな言葉が聞こえてきた。ロビーには大声を上げて困った様子の女将らしき女性と、客らしき二人の若い男女がいた。何やら揉めている様子だ。
「どうかされたのかね?」
僕が三人に近づいてそう声をかけると、女将さんは困った顔でこちらを振り向いた。
「こちらのお客はんが、素泊まりで予約しとったのに急に夕飯を用意しろ言うもんで。こないな山奥にある旅館なもんですさかい、急に言われたって食材の調達ができんとなんべんも言うとるんどすけど…。」
女将さんが僕に向かってそう言うと、客の女が連れの男に向かって話し始めた。
「什么? 他们说了什么?」
中国語だ。どうやら二人の男女は中国人らしい。女将と客は日本語でやり取りをしていたようだ。何か通じていない言葉があってコミュニケーションにロスが起きてしまったのだろうか。そう察した僕は、得意げな顔でこう言った。
「ああ、なるほど。僕に任せたまえ。僕は中国語の講義を取っている、僕が彼らに中国語で交渉をしよう。」
「おお、なんと。頼んます。」
女将はそう言って輝かしい目をこちらへ向け、ぺこりと頭を下げた。僕が中国人の二人の方へと体を向き直すと、客の男のほうがすっと手をあげてこちらに手のひらを見せた。
「悪いね。日本語がわからなかったわけじゃないんだ。ちょっとくらい融通が利かせられないかと頼み込んでいただけさ。無理なのはもうわかった、諦めるよ。」
男は流暢な日本語でそう言った。
「最后发生了什么?」
「看来终究是不可能的。我们去便利店买晚饭吧。」
女が男へと話しかけると、男は中国語で女に答えた。どうやら日本語が分からないのは女の方だけで、男の方は日本語と中国語のどちらも話せるようだ。
「分かってくれたらええんどす。次はぜひ、夕飯を予約して泊まりにおいでやす。」
女将はそう言って客の男へとほほ笑みかけた。どうやら無事に解決したようだ。僕のスマートな気遣いのおかげだな。難解な事件だけではなく小さないざこざでさえも華麗に解決してみせなくては、名探偵の名折れというものだ。
そんな事を思っていると、客の女の方がなにやら僕とワトソン君の方を見て目を輝かせている様子だった。
客の女は、ストレートの黒髪を腰元まで長く伸ばしている。ここまで長く伸ばしているにも関わらず、照明の光を反射して艶めくぷるんとした髪からはダメージを全く感じず、丁寧に手入れされている様子が伺える。女子アナ風の白い清楚なワンピースを身に纏い、ぷっくりとした涙袋につんと通った鼻筋、瞼中央に煌めく大粒のグリッターと、煌びやかな化粧をしている。年齢は大体僕たちと同じくらいだろうか。とてもキラキラした華やかな女性だ。
「お客サン!」
客の女はそう叫ぶと、僕とワトソン君を交互に指さした。僕とワトソン君が顔を見合わせると、客の女は言葉をつづけた。
「ここに泊まる、お客サン?」
「ええ、そうです。」
どうやら、僕たちがこの旅館の宿泊客かどうかを聞きたかったらしい。言葉の意図をくみ取ったワトソン君が即座にそう答えると、客の女は満面の笑みでワトソン君の手を握った。
「ワタシも! ワタシ、楊 仔空! こっちは恋人の李 俊熙! よろしくネ!」
「はぁ…、よろしくお願いします。」
ハイテンションでニコニコしながら掴んだ手を上下に大きく振るシア君に、ワトソン君は半ば引き気味な様子でそう答えた。
ワトソン君の様子を察したのか、ジュンシー君はワトソン君に向かって事情を説明し始めた。
「どうやら今日、この旅館に泊まる客は俺たちと君たちの二組だけらしいんだ。他の客は嵐が来ることを理由に全員当日キャンセルされてしまったらしい。」
「へぇ、それはそれは。女将さんにとっては災難でしたね。」
「そうなんどす。お客はんだけじゃなく、従業員も嵐で電車止まって来られへんくなってしもうて…。今日ここにおるんはうちだけなんどす。」
「なんと! それでちゃんと運営できるのかね?」
「舐めんといてください。二組くらい、うち一人でも回せます。そやけど、もっと多かったらきっと無理どした。そやさかい、ぎょうさんキャンセル出たのはむしろラッキーやったかもしれまへんなあ。」
女将さんはそう言って気丈に笑った。
女将さんは薄いピンクの着物に紺色の帯を身に着けている中年の女性で、髪の毛の全てを後ろでまとめてお団子に結わえている。きりっとした眉毛から、どこか気の強さを感じる人だ。
「お客サン二組だけ、だから仲良くしたいのネ! 二人、名前は?」
シア君がそう言って僕たちに名前を尋ねた。純真な笑顔でそういわれると、無下にあしらうのは悪いなという気持ちにされてしまう。
「僕は平松 耀。名探偵だ。こっちは助手のワトソン君。」
「ちょっと先輩! やめてくださいよ、恥ずかしい。」
僕の言葉に、ワトソン君は少し怒った様子で僕の肩を叩いた。自己紹介をしただけだというのに、何をそんなに怒ることがあるというのだろう。僕には彼女の気持ちはよく分からない。
「メイタンテイ?」
シア君は言葉の意味がわかっていない様子で、そう言って首を傾げた。
「意思是伟大侦探。」
そんなシア君に、ジュンシー君は中国語で説明をした。
ジュンシー君も、僕たちと同じくらいの歳の青年だ。茶色をベースに金色のメッシュが入った髪をランダムに跳ねさせたヘアスタイルに、キリっとした目鼻立ち。すらりと高い身長と、まるでアイドルのように目を奪われる見た目の美青年だ。
「大侦探! ヒラマツ、すごい人!」
『名探偵』の言葉の意味を知ったシア君は、そう言って嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねた。『名探偵』という単語は日本語特融の造語だ。英語にも中国語にも『名探偵』を指す単語はない。
シア君は日本語が全く分からないのではなく、ポイントごとに分からない単語があるだけのようだ。女将との会話がわからなかったのは、おそらく女将のきつい京都弁のせいだろう。
僕たちがそうした自己紹介をしていると、突然ばたんと大きな音がして入り口の扉が開かれた。
「ごめんください! 予約してないんですけど、今日って部屋空いてますか?」
そう言いながら現れたのは、泥だらけの白のTシャツにジーンズというシンプルなスタイルで、大きなリュックを背負った、茶髪のポニーテールの女性だった。年齢は僕たちよりは少し上、二十五くらいだろうか?
「運がええどすね。丁度キャンセルがあって、ぎょうさん空いてますよ。」
「やったぁ! 今晩だけ泊めてくれませんか? 近くでソロキャンプしてたんですけど、あまりの嵐で。これ以上続けたらさすがに死ぬなぁと思って。」
彼女はソロキャンパーらしい。そう思うと、彼女の重そうなリュックに合点がいく。彼女の服が泥だらけなのも、大雨の中でキャンプ道具を一通り片してきたからなのだろう。
「ええどすよ。ほな、こちらでお名前と住所の記入をおたのもうします。」
女将さんはそう言って、ロビーのカウンターの方へと歩き始めた。飛び入りでやってきたその女性は、重たそうなリュックをぐっと上に跳ねさせて背負い直すと、小走りに女将さんの後を追いかけた。焦りすぎたのか、何もない場所で前へとつんのめってしまった彼女は、盛大に転んでしまった。
「お姉サン、大丈夫?」
シア君が心配そうにそう声をかけると、女性は「大丈夫! 心配してくれてありがとう!」と元気に笑った。
「あの、女将さん。着物の裾に泥が…。」
ワトソン君が女将さんの足元を指さしながらそう言った。どうやら女性が転んだ際に、女将さんの着物に触れてしまったらしい。淡い色の着物には目立つ泥汚れがついてしまった。
その泥汚れを確認した女性は、顔を青白くして女将さんのほうへと擦り寄った。
「あぁっ! ごめんなさいっ! べ、弁償します!」
「気にせんといておくれやす。シンプルすぎる着物や思っとったんどす。ええ柄になりましたわ。」
女将さんはそう言って笑った。とても寛大な心の持ち主のようだ。女性はほっとしたような表情で女将さんに感謝を言った。
「これで宿泊客は俺たちだけじゃなく、三組になりましたね。」
「ワタシ、楊 仔空! こっちは恋人の李 俊熙! こっちがメイタンテイのヒラマツ、その助手のワトソン!」
シア君は飛び入りの女性に対して、全員の紹介をした。飛び入りの女性は面白いものを見るような目で僕の方を見た。
「えーっ、名探偵が宿泊してるの? こんな山奥の旅館に名探偵がいるなんて、何か殺人事件でも起きちゃったりして!」
「縁起でもないこと言わんとっておくれやす。」
「冗談ですよぉ、ごめんなさい!」
女性はそう言っておどけた様子でけらけらと笑った。
「あ、あたしの自己紹介がまだでしたね。あたしは雛野 綾芽。一泊の間だけだけど、よろしくね!」
雛野と名乗った女性は、そう言ってにかっと笑った。その後すぐ、女将さんは一枚の紙が挟まれたバインダーをカウンターから持ってきて雛野君に差し出した。雛野君はロビーのソファに座り、バインダーについていたボールペンを使って髪に記述を始めた。
「シア。もう十六時四十分だ。嵐もひどくなってきてるし、早いうちに買い出しを済ませよう。」
ジュンシー君は左手に付けているシルバーの腕時計を確認しながらそう言った。
「もうそんな時間!? じゃあミナサン、また後でネ!」
シア君はそう言って頭の上で大きく手を振り、ジュンシー君と二人で旅館の外へと出ていった。
「なんやかんやと騒がしてもうてすんまへんね。お二人のチェックインをしましょか。ささ、こちらに座っておくれやす。」
女将さんはそう言って、雛野君が座るソファのすぐ隣を手のひらで指した。僕たちがそこに座ろうとすると、女将は何かを思い出したかのように「あーっ」と大きな声を出した。その声に驚き、僕たち三人はびくっと肩を揺らした。
「あかんあかん、忘れるところどした。お三方、こちらでアルコール消毒をおたのもうします。ほら、今感染症流行ってるやろ? その対策どす。ご協力をおたのもうします。」
そう言って女将さんはノズルのついたボトルを持ってきた。最近はどこのお店でも入店前にアルコール消毒を頼まれることが増えた。ここでもしっかり実践されているんだなと感心しつつノズルへと手を伸ばすと、僕はある違和感に気が付いた。そのボトルには堂々と『オキシドール』の文字が記載されていたのだ。
「女将さん、これはアルコールじゃなくてオキシドールじゃないのかね?」
「アルコールもオキシドールも同じようなものやろ。感染症拡大の影響で、今はどこでも消毒用アルコールが手に入らんのどす。そやさかい、とりあえずオキシドールで代用しとるんどす。」
同じようなものではないと思うが…と思いつつ、変に口答えするのもよくないかと思い、僕は諦めてそのままオキシドールを手のひらへと塗り込んだ。
僕たちが消毒を終えたのを確認すると、女将さんは一枚の紙を広げ、僕たちの前に提示した。
「これが旅館の地図どす。お二人は夕食の予約をされてるさかい、二十時になったらこちらの宴会場へ来とおくれやす。お二人の部屋はこちら、藤の間どす。この鍵を使てください。ほんでこの桜の間はジュンシーはんとシアはんの部屋、菊の間は雛野はんの部屋どす。」
「他の客の客室の情報まで言ってしまっていいのかね?」
「なに、みなさんもう十分打ち解けられてますやん。部屋の場所くらいええやろ。全ての客室には鍵がついてます。悪いこと企んだかて入れやしまへんで。」
女将はそう言ってへらっと笑った。
「ほな、ごゆっくり。」
女将はそう言ってぺこりと一礼をすると、今度は雛野さんの方の応対をし始めた。僕たちのチェックインはこれで完了ということだろう。
「さて、それじゃあ部屋に向かいましょうか。」
ワトソン君はそう言って立ち上がり、客室へと続く廊下の方へ向かって歩き始めた。僕も彼女の隣に並んで歩く。
「にしても、こんなに雰囲気たっぷりの旅館なのに中国人の客がいるとは、『ノックスの十戒』の第五戒には反しているね。」
『ノックスの十戒』とは、ロナルド・ノックスが発表した、推理小説を書く際の十個のルールの事である。
一、犯人は、物語の当初に登場していなければならない。
二、探偵方法に、超能力を用いてはならない。
三、犯行現場に、秘密の抜け穴・通路が二つ以上あってはならない。
四、未発見の毒薬、難解な科学的説明を要する機械を犯行に用いてはならない。
五、主要人物として中国人を登場させてはならない。
六、探偵は、偶然や第六感によって事件を解決してはならない。
七、探偵自身が犯人であってはならない。
八、探偵は、読者に提示していない手がかりによって解決してはならない。
九、助手は、自分の判断を全て読者に知らせねばならない。また、その知能は、一般読者よりもごくわずかに低くなければならない。
十、双子・一人二役は、予め読者に知らされなければならない。
今回僕が話題にあげたのは、このノックスの十戒の第五戒、『中国人を登場させてはならない』という部分についてだ。もしこの旅館で事件なんかが起きたとしたら、その事件は推理小説としてのタブーを犯していることになる。
「それ、ちょっと思いました。」
僕の言葉に、彼女はほんの少しだけ楽しそうに口角を吊り上げてから、すぐにしゃんとした表情に戻してこう言った。
「でもダメですよ、本人の前でそんな事言っちゃあ。多様性の令和の時代に、第五戒は合いません。」
「もちろんさ。僕がそんなデリカシーのないことを言うと思うかね?」
「言いそうだからこうやって先に忠告してあげたんですよ。」
彼女は呆れたような表情でそう言った。全く、いくら僕でも人を傷つけるかもしれないような発言はしないというのに。失礼な奴だ。
彼女は思ったことは何でも口に出す、少しだけ生意気な後輩だ。しかしそんなところがまた、彼女の魅力ともいえるだろう。
そんな話をしていると、あっという間に僕たちは自分たちの客室の前へとたどり着いた。僕は手に持っていた鍵を使い、その扉を開いた。
客室はベーシックな和室だ。畳の主室には小さな丸いテーブルと二つの座椅子。床の間には綺麗に整えられた花瓶が置かれている。そして旅館らしく、広縁にはテーブルと二脚の椅子が並べられている。歴史を感じる旅館ではあるが、客室内は案外綺麗だ。
「いいですね。すごく落ち着く素敵な空間です。」
彼女は荷物の入った大きなカバンを床に放ると、ごろんと畳の上に寝転がった。僕は彼女の鞄を持ち上げ、自分の鞄と一緒に部屋の隅へと置き直した。
「あ、そうだ。せっかくですし、夜はお酒でも飲みながら、最近良かったミステリー小説について徹夜で語り合いませんか?」
彼女はまたほんの少しだけ口角を上げ、純真な瞳でこちらを見つめてそう言った。
「それは素敵な提案だ。それなら、嵐が本格化する前に、近くのコンビニに酒やつまみでも買いに行こうか。」
「いいですね。先輩買ってきて~。」
「何故僕一人で行かなくてはいかんのだ。一緒に行けばいいだろう。」
「えーっ、可愛い後輩のお願いだっていうのに、聞いてくれないんですか?」
彼女はクールな表情のままそう言った。自分で可愛い後輩だと言うくらいなら、それらしい表情の一つでも見せればいいのに。
「それで、何を買ってきて欲しいんだね?」
「行ってきてくれるんですか? やった~。」
「可愛い後輩のために一肌脱ぐとしようじゃないか。」
「さっすが先輩、頼れる~。じゃあ、いつものセットでお願いします。」
僕は自分のカバンから財布と車のキーだけを抜き取ってポケットにしまった。
「ビールとどんぐりだね。分かった、行ってこよう。」
「さすが先輩、分かってますね。ありがとうございます。安全運転で行ってきてくださいね。」
「ああ、もちろんだよ。」
こちらに手を振る彼女を尻目に、僕は靴を履いて客室を出た。
廊下を歩いてロビーへ出ると、そこには既に雛野君と女将さんはいなかった。僕はそのまま旅館を出た。
外は土砂降りの雨で、先程よりも遥かに風が強くなっていた。
車に乗り、近くのコンビニまで約二十分程車を走らせた。ビールとどんぐり、そして適当にいくつかのつまみを買い、もう一度旅館へと戻る。帰り道は先程よりも雨風が強く、前を見るのが困難に感じるほどだった。
旅館に帰ると、旅館の様子が先程と少し違っていた。旅館の入口以外の全ての窓に黒い雨戸が降りている。この強風の嵐の中なら正しい判断だろう。
この強風では傘をさせない。僕は車から降りると、傘をささずに旅館まで一気に駆け込んだ。
ロビーに入ると、そこには女将さんがいた。
「おかえりやす。これで全員帰ってきはったな。ほな、この入口の扉の雨戸も閉めてまうな。」
女将さんはそう言うと、入口の扉の天井からガラガラと大きな音を立て、雨戸を下ろした。
「そうそう、客室の雨戸も下ろしときましたよ。景色はなんも見えへんくなってまいますけど、この嵐さかい、ご愛嬌っちゅうことで。ふぅ、これでやっと一息つけますわぁ。」
女将さんはロビーに並べられたソファに座ると、ぐでっと思いっきり背もたれに体重を預けた。
旅館から外に通ずる窓や扉には、全て重たい雨戸が降ろされた。つまるところ、この館内はクローズド・サークル、僕たち六人しか居ないことが確約されたということだ。
なんとミステリー小説らしい状況だ。これもまたワトソン君との話題の種になるとわくわくしながら、僕は自分の客室へと戻っていった。