第七章 母が最期に自分を呼んでくれた
一週間が過ぎた。今日もいつものように学校から病院に直行する。
「こんにちわ、お世話になってます」ナースステーションに挨拶をして病室に向かう。
「あっ、比護さん」ナース長が泰子を呼び止めた。
「はい」泰子が立ち止まる。
「お母さん、昨晩すごく具合悪かったの。それでね、あなたに連絡入れようとしたんだけど、持ち直したみたい。きょうは大丈夫そうよ」
「お母さん」泰子は病室に走りこむ。
「泰子ちゃん」和子は気付いてこちらを向いて少し微笑んだ。アッ、違う、母の雰囲気がいつもと違う。微笑んでいるが、泰子はなにか重たいものを感じる。
「お母さん、昨日具合悪かったって聞いたけど、いま、どうなの? 苦しくない?」泰子は立て続けに尋ねた。
「あのね、肩とおなかが痛い」
「えっ、すごく痛いの、薬、効いてないの」泰子は慌てる。我慢強い母が自分から痛いと言ったのは初めてだ。
「お母さん、じっとしてると痛いのが際立つんじゃない? ラジオの音楽でも聴く?」と泰子がラジオのイヤホンを渡そうとする。
「泰子……それどころじゃないよぅ」母が絞り出すように言う。「えっ」泰子は愕然とした。そんなに痛いとは。
「ちょっと待ってて」泰子は病室を飛び出した。
ナース室に入ると「先生いませんか?」と早口で尋ねる。
「石川先生、お願いしまーす」ナースが先生を連れてきた。
「あぁ比護さん、ちょっと別室に行きましょう」と先生が先に立って別室に向かう。いやだ、行きたくない――悪い話に決まってる。泰子は立ち止まった。
先生は部屋の前でじっと待っている。雰囲気がいつもと違う――あなたが来るまでいつまででも待ちます――という感じだ。泰子は考える。先生だって悪い話がしたいわけじゃない。自分がその話を避けたところで事態は好転しない。そう思った時、泰子は『先生との約束』を思い出した。走ってその部屋に向かう。
二人は向かい合って座った。泰子が切り出す。
「先生、言い方は悪いんですが、約束と違います。母が癌だと知らされたとき、治療は無理だとしても、痛い、苦しいことだけは絶対避けてくださいって、私、何度もお願いしたじゃないですか。今、母は苦しんでます。これじゃ約束と違うじゃないですか」と泰子は机を叩いて泣き出した。
「比護さん、お気持ちはわかります。でも医療に限界があるのも理解してください。つまりね、痛み止めの薬はもう、限界まで使ってるんです。それでも痛みが残る場合もある。
もし、それを越えて投与したら患者が、患者さんが死んでしまうこともありうる。医者が患者さんを殺すことになっちゃうんです。私も苦しい……わかってもらえませんか」と先生が頭を下げる。
「アーッ、そんなのイヤッ……」泰子は机に突っ伏して泣いた。泣いて泣いて……ふっと顔を上げた。
「先生、お母さんあと、あとどのくらい持つんですか?」母の最期が近い。自分が泣いても何も変わらない。泰子は覚悟を決めた。
「お話します。今日お母さんの目を見たでしょう。白目が黄色くなっていませんでしたか?」先生は努めて冷静に話す。
そう、確かにそうだった。疲れるとそうなるのかと思っていた。
「あれは黄疸が出ているんです。肝臓の機能が限界になった印です。通常ですとこの先、一週間、持って二週間というところです。残念ですが」
一週間……来る時が来た。泰子はしばらくの間、何も考えられなかった。先生が先に口を開く。「痛み止め、ギリギリを打ちますから、お母さんが話をできるうちに何でも話しておいたほうがいいですよ」と先生は言い、泰子の目を見つめる。
「わかりました。取り乱してすみません」泰子は頭を下げた。
「お母さん、痛み止め、強いのにしてもらったけど、どう?」和子は少し『ぼおっと』している感じだが、痛そうではない。
「うん、だいぶいいよ」和子が微笑み返す。
「よかった。このあとも同じように続けてもらうからね」と言った泰子であったが、次に言う言葉が出てこない。――もう、危ないから――なんて口が裂けても言えない。
「泰子ちゃん……」和子が切り出した。
「もう入院してから一か月過ぎたわね。今週、すごく具合悪いわ。先生は言わないけどね、自分のことは分かる。泰子ちゃん……もうすぐお別れよ」
泰子は血の気が引いた。それだけは聞きたくない言葉だった。
しかし母が言ってくれたという事、それは泰子に対する限りない愛情に他ならない。
『お母さんありがとう』泰子は心の中で、何度もそうつぶやいた。
「お母さん、そうかもしれないわ。だけど今、けっこう元気そうじゃん。いろいろ話しようか」泰子は努めて明るく振舞う。
「泰子ちゃん、いくつか言っておきたいことがあるわ、よく聞いて」
「はい」
「一番の心配はね、あなたのお仕事のこと」
来た、と思った。母の心遣いのおかげでずっと話しやすくなったのだが、それについては本当の事は言えない。心の準備も出来ていない。泰子は慌てた。
「あっ、ああ、就職の事だよね。……それなら決まった。川上商店とか、呉服屋さんとか紹介されたんだけど、ちょっと遅れて新築の観光ホテルの従業員募集が入ったの。そこなら最初は掃除係だけど将来はフロントをやらしてくれるみたい。だからそこにした」と必死で取り繕う。
「そう、大きなホテルなの?」
「うん、観音崎の方にいま建築中だって。社長さんは横須賀市長と知り合いみたいよ」と出まかせを並べる。
泰子はこんなに嘘を並べた事はない。それも病身の母に対してなんて。
申し訳ないという気持ちと『ここは嘘を通さなきゃ』という気持ちが交錯する。
「よかった……しっかりやってね」と母は納得したようだ。
「次は、結婚の話。あなたの花嫁姿を見たかったなぁ……でもそれも運命、あの世から見てるから」
「うっ」と泰子は口ごもった。続いて大粒の涙がはらはらと頬を伝う。
「松っちゃんのこと好きでしょ」
……泰子は言葉なく頷く。
「小さいころから見てるけど、まじめでいい子よ。松っちゃんが順調に成長して一人前になったら結婚しなさい。私は賛成だから」と泰子を見てほほ笑む。
「そしてね、人生は何があるか分からない、私の場合みたいにね。だからいつも一生懸命に生きるのよ。そうすればそれがいい人生なの。何もなく長い人生って退屈なだけ。いいわね」和子は天井を見ながらゆっくり話す。
「三番目、あんまり親切な人には気を付けるのよ。もう、今だから言うけど例えば多田さん……あの人に助けてもらったのは事実だけど、その後何度も私を口説こうとしたの。いま、沖縄寮の世話人をやってくれてるけど、本当は私が目当てよ。お金を貸してもいいって言われたけど断ったの。ほかにもいろいろと……」
泰子は驚いた。そう思えば確かに親切過ぎる。
「そんなところかな……疲れた……」和子は目をつむり、眠った。
「お母さん……」もう少し話したかった泰子だが、母の安らかな寝顔を見て言葉を止めた。
二日後、真夜中だった。「比護さん、泰子ちゃん」部屋の裏口を叩く音で目が覚めた。
「はーい」泰子は目を覚まし、戸を開ける。寮長の金井さんだった。
「泰子ちゃん、いまヨセフ病院から電話が入って、お母さんが危篤だからすぐ来てくださいって」と金井さんが厳しい顔で伝えた。
「ええっ……」というと泰子は身支度を整え、手近なものをバッグに入れると部屋を飛び出した。
病院までは約一キロ、全力で走る。「お母さん、お母さん、お母さん」それだけを言い続けながら走る。
近道の急坂を一気に上ると病院の入り口だ。三階のナース室に直行する。
「ハア、ハア、ハア、お母さんどこですか?」当直の看護婦が二人いた。
「比護さんね、緊急治療室よ、行きましょう」看護婦が地下まで案内する。
母は酸素マスクを着けていた。
「あの、意識あるんでしょうか?」泰子が看護婦におそるおそる尋ねる。
「あぁ、話せますよ」看護婦が頷いた。
泰子はベッドに近づく。母の呼吸は荒い。耳のそばで小声で話しかける。
「お母さん……大丈夫? 苦しいの?」
「あぁ、泰子、苦しいよ」――ええっ――一番聞きたくなかった事。泰子は血の気が引いた。同時に自分も胸が張り裂ける。――苦しいって――ここまで来てまだ苦しまなきゃいけないの。何で楽にしてやれないんだろう。死ぬってそういうことなの。そういうことなの……。
「お願いします、お願いします、神様、お母さんを楽にしてあげてください」と祈る。もう、何にでも頼りたい。母が楽になるなら。
「ハア、ハア」母の呼吸が小さく、ゆっくりになってきた。泰子はとっさに母の手を握る。
「お母さん、分かる?」泰子は母の手を強く握った。弱弱しいが確かに母は握り返してきた。
「お母さん、ありがとう、ありがとう」泰子は言い続ける。
「泰子ちゃん……」やっと聞き取れる声だった。母が最期に自分を呼んでくれた。
母の手が緩んだ。合掌。
葬儀は沖縄寮の寮葬という簡易的なものであった。遺骨は寮の裏にある共同墓地に埋葬された。
一月末、もう中学校は自由登校になっている。泰子は東郷さんに挨拶をするため、ドブ板通りのキャバレー・マミーの事務室に向かった。
「あれ、開いてない」泰子は周囲を見回す。「――そうか、この辺のお店、午後じゃないと開かないんだ」泰子はドブ板通りが夜の街であることをすっかり忘れていたのだ。
午後三時、頃合いと思って行ってみた。マミーのドアは開いていて奥に人の気配がする。「こんにちわ」
「はい、どなた?」奥からボリウムたっぷりのパーマ頭で三十歳ぐらい、肩回りが大きく開いたロングドレスのちょっときつい顔の女が出てきた。
「あのう、比護泰子と申します。きょう東郷さんは来られますでしょうか?」泰子はちょっと会釈をしながら尋ねる。
「比護さん? ああ分かった。こんど入る娘ね、聞いてる。私、ここのママ、金城町子よ、マッチって呼んで」とマッチさんは腕を組んで話す。
「外人はマッチってうまく発音できないで『マティ』みたいに言うからね、覚えといて」
「でさぁ、マスターは今日、来ないよ。あんたが来たらざっと説明しといてって言われてる。あんた今日一日いるの?」とマッチさんは泰子の周りをぐるぐる回りながら話す。
「あんたさぁ、踊れるって聞いてるけど、何か見せてよ。そうだなぁ、シング、シング、シングのパートをさぁ、歌いながら踊れる?」
「はい、一応」
泰子は曲を口ずさみながら軽く踊って見せた。
「ふうん、なるほどね」とマッチさんは納得して手をたたいた。
「やるじゃん、あんたそれ、どこで習ったの?」とマッチさんが尋ねる。
「母からです」
「へえ、お母さんダンスやってたんだ」マッチさんは納得したようだ。
「ちょっと、マスター呼んでみるよ、あんたが来たって言えば来るかもよ」と電話を取ってダイヤルする。
「あぁ、マスター呼んで、例の娘が来たって言って……」とマッチさんは受話器を持ちながら泰子を手招きする。
「マスター? 比護泰子、来たよ」マッチさんはしばらくやりとりした。
「ちょっと電話出て」泰子は受話器を渡される。
「こんにちわ、比護泰子です。お世話になります」泰子は受話器を持ったままペコペコとお辞儀をする。
「はい、お待ちします。夜になっても大丈夫です」
このまま東郷さんを待つことになった。
七時に東郷はやってきた。「やっと用事が終わった。比護・泰子だったよな、あんた夕食、食った?」
「いや、まだ……」
「そんじゃ一緒に食おう、タコスでも食うか、」店を出て東郷は先になってどんどん進む。
――またタコスかぁ、と思いながら泰子は後に続く。
「ハードタコ二つ、タコサラダもな」と注文して東郷はタバコを吸い始める。
「あんた、いや、泰子、お前タバコ吸う?」
「いえ」
「そうだろなう……うん、吸わねえ方がいいな。そんで酒は飲める?」
「飲んでも大丈夫ですけど沢山飲んだことはありません」
「そうか、それで行こう」
それで行くって? ――泰子は東郷の言っている意味が分からない。
「あぁ、出来た」タコスが届いた。
「食べよう」
「はい」待たされて腹がすいていた泰子は、たちまちタコスとサラダを平らげた。
「フーッ」食べ終わると東郷は、やや反り返ってタバコをうまそうにふかす。
「ごちそうさまです」泰子はフォークを置いてきちんと頭を下げた。
「うーん、その感じ、いいね」と東郷が頷く。
泰子は依然としてこの食堂での東郷の言動が理解できないでいる。
「あの、このあとどうしたらいいんでしょう?」と東郷に尋ねる。
「そりゃぁ今後の仕事の説明さ」と行って東郷は席を立った。