第五章 母への感謝
大須賀堂の石黒は坂本町の急坂の道路脇に止めた派手なスポーツカー、コルベットの助手席で下校してくる中学生の集団を眺めていた。「――鬼島さん、あの娘です」きゃっきゃと笑い転げながら坂を下ってくる女子生徒の群れの中に、物静かな泰子を見つけた。
「ほぉ、なるほどね」鬼島は頷いて石黒と目を合わせる。
「撮れ」鬼島が石黒を急かす。
「はい、はい、撮ります」石黒は構えていた二眼レフカメラで必死に泰子を追った。
「明日、組長、マミーに来るよな」鬼島が念を押す。
「はい、そう聞いてます」
「現像して持ってこい」鬼島はそう言い残し石黒を下ろし車を急発進させた。
翌日、キャバレー・マミーの事務所には石黒、鬼島、それに組長の東郷が集まっている。
「石黒さんよう、この娘、金に困ってるって聞いた。本当だな」写真を見ながら東郷が念を押す。
「はい、家庭の状況も調べましたから間違いないです」
「オッケー、いい話持ってきたじゃんか、あんた見直したよ、それじゃもう少し動いてもらうから」と、東郷が石黒を見ながらにやりと笑った。
「はい、はい、なんなりと言ってください」石黒は恐縮している。
「あんたよ、下心あってあの娘に金貸すよって言ったんだろうが、このスケベオヤジ、ハハハッ。でも今回オレに話持ってきたのは正解だ。ここは技を使っちゃおう。関東ヨセフ病院の事務方に声かけてよ、この娘の母親の治療費、倍にするんだ。あんたの同級生、病院の事務長だろ、簡単じゃん」と東郷が指示を出す。
「東郷さん、あのう、私もがんばりますんで、この間の件、なんとか穏便にしていただけませんか」石黒は組長の東郷に、ある事件の借りがある。
「あぁ、あれな……よし分かった。水に流してやる」と東郷は上目使いに石黒を見る。
「すいません、すいません、ありがとうございます。あの娘の件、しっかりやります」石黒は片手を立てて東郷を拝んだ。
今日も泰子は母の世話で学校から直接病院にやってきた。
「比護さん、入院して一週間なんで治療費の請求が出てます、ここに起きますよ」と看護婦は封筒を置いて出て行った。
「はい……」母はまだ目覚めていない。泰子は自分で封筒を開いた。
手術費用二万五千円、入院費一週間分一万円、薬品代一万一千円、合計四万六千円とある。――えっ、足りない。指輪を売った四万円に自分の貯金五千円を足しても足りない。これじゃ払えない。泰子は慌てた。どうしよう……。
「泰子、何見てるの」母が目を覚ました。
「おかあさん、どうしよう、請求書出たの。お金足りない。病院の入院費払えないよ」泰子は狼狽して母を見る。
「いくら足りないの?」
「昨日までの分で、千円足りない。もう入院続けられない」泰子は泣きそうになっている。
「そう……」和子はため息をつきながら天井を見つめた。
「指輪が、」そこまで言って和子は言葉を止めた。いまさら言ってもしかたのない事だ。
「私の貯金はあと三万円しかないの。それで全部よ。それ、ハンコ渡すから明日、汐入郵便局で全額おろしてきて。それで全部お支払いして、もう治療やめて退院しましょう」和子はそう言って目をつぶる。
「そんなこと。……おかあさん、まだ歩けないじゃん、治療やめたら死んじゃうよ」と泰子は泣き出した。
「泰子、もう覚悟はできてるの、私の病状だったら、もしお金あってもせいぜい数か月余分に生き延びるだけ、だからね、自然にまかせて寿命まで生きて、みんなに迷惑かけないこと。それとあなたが就職できるまで間のお金が残っていればそれでいいの。あっ、それとお葬式の費用は少しだけ残しといて」
なんで、なんでお母さんは自分が死ぬことをこんなにしっかり言えるんだろう。自分だったらきっとワーワー泣いて、どうにかなっちゃう。お母さんって凄い。泰子はあらためて母の強さを感じる。
翌日、泰子は言われた通り貯金を全額おろしてきた。
「あれっ、お母さんは?」病室に母のベッドがない。
「すみません、比護ですけど、母は治療中ですか?」泰子は看護婦に尋ねる。
「あぁ、比護さん、今日はあまり具合良くなくて、意識が混濁してるみたいなんです。だから別室で追加治療してます。もうすぐ戻ってきますよ」と看護婦が説明してくれた。
「悪くなったんですか?」泰子は心配で尋ねる。
「比護さんはけっこう大きな手術だったから、体の調子も変化するんです。良かったり悪かったりを繰り返すの。すごく悪いっていうんじゃないので、心配しなくて大丈夫ですよ」
と看護婦は泰子をなだめる。
『良かった』と安心する訳にはゆかない。いま自分は現金を持っているが、母の言う通り退院してしまったら、容体が悪化したときどうなるんだろう、その時、もし苦しんでいたらとても見ていられないにちがいない。退院するとはそういうことだ。お金、お金さえあって病院に居続けられればお母さんは最後まで苦しまずにいられるんだ。泰子はずっと下を向いて思い続けるが、打つ手はない。
「泰子ちゃん」ドアが開いて多田さんが入ってきた。
「あっ、母から聞きました、お父さんが亡くなった後、凄くお世話になったって、私、全然知りませんでした」泰子は深くお辞儀をする。
「あぁ、そのこと、あれはせめてもの恩返しなんだ。むしろ私があなたのお父さんに助けてもらったんだよ。そのことを聞いたんだったら、経緯を言いましょう」と多田さんは背筋をピンと伸ばして話始めた。
「私の親父は印刷屋をやってたんです。海軍の印刷もけっこう引き受けてました。ある日、その日は会社が休みで、比護さんと飲みに行こうって決まってて、落ちあってからちょっと自分の用事を済ませに一緒に印刷工場に行ったんです。そうしたら従業員の島田が工場から飛び出てきた。あれっ、なんだあいつって思ったんだけど、無言で行っちゃったんで、おかしいなと思いながら工場に入ったら、十ページぐらいの人名と記号が書かれた印刷物が落ちてたんです。『これ、何だろう』と思って比護さんに見せたら『これ、暗号じゃないか?』っていうんです。うちの仕事にそんなものはないので、島田がこっそり印刷したに違いないんだけど、『何に使うのか、明日島田に確認しよう』ってことにしたんです」
「何だったんですか?」泰子が不思議そうに尋ねる。
「翌日、島田は会社に出てこない。代わりに特高警察の刑事が二人来て、『多田、おまえを重要参考人として連行する』って警察に逮捕されちゃった。それで分かったのはあの印刷物、アメリカのスパイが持つ暗号表だったの。自分は関係ないって主張するんだけど全然聞いてくれない。このままだと拷問されるんじゃと思って真っ青になってたら、比護さんが飛んできてくれて、事実を説明してくれた。そういうことがあったの。だから比護さんは恩人なんです」と多田さんは力を込めて言う。
そんなことがあったとは、やはり横須賀って普通の町じゃないんだ。泰子はあらためてそう思う。
「あのね、そういうことだから泰子ちゃん、今日来たのは、恩返しの続きっていうこともあるけど一種の助け合いでね、私、沖縄寮の皆に声かけて募金をしてもらったの、みんな貧乏だけど、ちょっとずつ募金してくれた。この箱に入ってる。だれがいくら入れたか、合計いくら集まったか分からないけど、入院費に充ててください」と多田さんは緑の紙箱を渡してくれた。
「えー、そんな……ほんとうにそんなこと……」泰子は感激した。
和子の容態を聞いて「心配だね、でもがんばるしかない」と泰子を励まし、多田さんは帰った。
多田さんが帰って、泰子は箱を開けてみた。硬貨、十円札、百円札、合計すると三千円になった。紙幣を揃えて束にしていると治療を終えた母のベッドが帰ってきた。母の顔に生気があるので回復したようだ。
「お母さん、さっき多田さんが来てね、沖縄寮でうちのために募金をしてくれて、こんなに、三千円も集まったんだよ」と泰子が嬉しそうに言う。
「えっ、ほんとうに……あぁ」和子は言葉に詰まった。
「ありがとうございます」そう言って和子は両手を合わせる。
「寮の人ってほんとに心のやさしい人ばかりね。なけなしのお金を……こんなお付き合いが出来るんだから貧乏も悪くないよね」と和子は目頭を押さえる。
母の容態に安堵した泰子は寮に帰る。しかし歩きながら考えるのはお金のことばかりだ。
寮の部屋に帰ってノートを広げ、入院費を計算する。入院費の計算とはすなわち母の寿命を見積もるということに他ならない。
「あぁ」いま自分は、『母がいつ死ぬか』を想定しなければならないんだ。
「あぁ」そんなことを、そんなこと計算するなんて、……できないよ。泰子は鉛筆を放り投げた。「お母さん……」しばらく机に突っ伏し、泣く。
「あぁ」やらなきゃ、母の最後の面倒は自分が見なきゃいけないんだ。感謝の気持ちがあるならこれはやらなきゃ。泰子は思い直す。涙は止まった。
仮に母の寿命をいまから一か月としよう。四週間の入院費と薬代は約四万八千円、途中の追加治療を一万円と想定すると、病院で約五万八千円になる。葬儀……それだけは考えたくないが、グッとこらえて一万円と見る。お香典はあてにしない。それで六万八千円。今、十一月だから、自分が就職できたとして、お給料をもらえるのは四月末。それまでの六か月は自費で賄わなければならない。自分の生活費と沖縄寮のお家賃が三万円。合計九万八千円。ここまでの残金は三万四千円。差し引き六万四千円が足りない。
これが見積だ。いままで泰子はお金のことは深刻に考えたことがなかった。いかに暢気に暮らしていたか、子供だったと思い知らされる。
六万四千円、とてつもなく大きな金額だ。やはり母を退院させて寮の部屋で看病するしかないのか。母が毎日苦しむ顔をみて自分が正気でいられるはずがない。一瞬で死ねるなら、いっそのこと親子心中した方が楽、泰子はだんだんとそれを考えはじめた。
六万四千円……六万四千円……学校でも自宅でも、それが頭から離れない。
「十万円!」突然泰子は叫んだ。
「大須賀堂!」思い出した。確かに大須賀堂の店長は言っていた。『十万円なら貸してもいいよ』って。泰子はもう走り出していた。汐入駅を越え、ドブ板に向かって走る。
「ハアッ、ハアッ、すいません、店長さん、いらっしゃいませんか?」泰子は大須賀堂に飛び込むと息を荒げながら呼んだ。
「あぁ、前に来た娘だね、店長、いるよ」店員は店の奥に行って店長に伝えた。
まもなくタバコをくわえた店長の石黒が顔を出した。「あぁ、この前の。お母さんどうかな?」と泰子に声をかける。
「お金、貸して欲しいんです」泰子は単刀直入に言った。
「あぁ、確か前にそんなこと言った。覚えてるよ……」石黒は天井を見上げてタバコをふかす。
「急いで借りたいんです」泰子が繰り返す。
「あのね、こういう仕事してると景気のいい時と悪いときがあるんだよ、毎月変わるんだ」
石黒は難しい顔をする。
「だめなんですかぁ」泰子が石黒の雰囲気にがっくりと肩を落とす。
「残念ながら私のところは景気が悪い。だけど捨てる神あれば拾う神ありって聞いたことあるだろ。私の知り合いなら条件次第で、たぶん貸してくれる」石黒がにやりとほほ笑む。
「どなたですか?」泰子は前のめりになって尋ねる。
「東郷さんつって、会社をいくつも持ってるお金持ちだ。横須賀市長だってあの人には頭が上がらないくらいえらい人なんだ。ちょうど新しい事業を始めるんでこれから女子店員を募集するとこだ。話してやろうか」石黒がちょっと首をかしげて泰子を見る。
「すごい、うれしい、ぜひ面接させてください」泰子は飛び上がらんばかりに喜んだ。運がいい、生まれて初めて幸運に巡り合った。そう思うと身震いがする。
「あの、いつ、どこへ面接に行けばいいんですか?」泰子は石黒を急かした。
「あなた幸運だね、だってこれ昨日来たばかりの話だよ。まだだれにも言ってないんだから」と石黒がもったいぶる。
「じゃあね、あなた今日もういちどここに来れる? なんとその東郷さんが夜七時ぐらいに、ここに来るんだ。あなたほんとに運のいい娘だ」と石黒は泰子の肩を「ポンッ」と叩く。
「着替えて七時ピッタリに来ます」泰子は最高の笑顔で店を出る。
「最高!」泰子は歩きながらこぶしを握り締めて小さく叫んだ。
泰子はめったに着ないワンピースを着こんだ。これも隣の美恵子ちゃんのお下がりである。泰子が一番気に入っている服だ。髪をとかし、自分としてはこの上ないほどのおしゃれをしたつもりだ。午後六時半、大須賀堂に向かう。
「こんばんわ」泰子は明るく店に入った。
「来たね、おお、昼間よりだいぶマシな格好だね。東郷さん奥に来てるよ」石黒が泰子を連れて奥の部屋に入る。
「失礼します」泰子は深くお辞儀をして顔を上げる。
「エッ」泰子は声にならない声をあげた。正面に座る、かっぷくのいい男が東郷さんだろう。泰子の正直な印象としては明らかに『ヤクザ』だ。色黒で堀の深い顔にはお決まりの切りキズがある。
「ハハハッ、びっくりした? 私が東郷です」意外なことに話す言葉は人がよさそうに聞こえる。
「私、見た目が悪いでしょう、だから悪人に見えるの。映画に出てくる悪代官ってこんな感じだよねハハハッ」確かに話し方はやさしい。見た目だけで判断する自分に泰子はちょっと失望した。
「すみません、私、一瞬、怖い人だと思っちゃいました」泰子は改めて頭を下げた。
「おお、あなた正直でいいね、気に入った」東郷は満面の笑みを浮かべる。
「石黒さんからだいたいの話は聞いたよ。あなたいますごく辛い状態だね。お母さんがそんなことだと、そりゃぁ辛いわな。どうかな、私、自分が人がいいとは思わないけど人情はある。そしてお金もある。で、提案だけど私と約束をしよう。私はあなたを信用するよ。あなたは絶対約束をやぶらない。わたしもやぶらない。それで良ければお金を貸します。お金は働いて返してもらう。それでどう?」泰子は驚いた。すごく筋の通った話だ。見た目で決めちゃいけない。この人は悪人ではない。泰子は確信を持った。