表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/27

第四章 いままであなたに話してなかった大事な事

「ガチャガチャ」看護婦が何かを動かす音で目が覚めた。少し明るい。もう朝だ。「あっ」小さく叫ぶと母に目が行った。重い現実が蘇る。――生きてる。母はまだ生きてる。それを確認すると少し安心する泰子であったが、これは毎日続くのだ。そしていつか終わる。

「泰子」母が小さく呼んだ。

「なに? どう? 痛くない?」反射的に泰子は尋ねる。

「すこしね。でもだいぶ楽よ、昨日より」母は我慢している感があるが、表情は少し明るい。

「よかった、よかったぁ」泰子は遠慮なく母と目を合わせられるのがうれしかった。

「おはようございます」石川先生が診察にやってきた。看護婦が体温や心拍を測る。

「血圧を測りますよ」看護婦が血圧を測っている間に先生は顔色や表情を確認しているようだ。

「状態は悪くないですね。もっと元気になりますよ」先生はにっこりと笑った。

 違う、先生の態度が昨日と真反対だ。泰子は気付いた。先生は患者を勇気づける演技をしているのだ。それが医師の仕事なのだと理解すると泰子はつい厳しい顔になってしまう。

 先生が帰ってしばらくすると母は大きく目を開いた。「泰子、近くに来て」と泰子を呼び寄せる。

「泰子、今日、進路相談だったでしょ。どうだったの?」泰子は驚いた。こんな状態でも母が自分の進路を気にかけてくれていたことを。

「あぁ、そのこと、就職希望ってお願いした。高校は経済的に無理だから」

「そう、……あなたなら公立高校行けたわね。ごめんね、ごめんね、こんなことになっちゃって」母の目から大筋の涙がこぼれた。

「おかあさん、わたしいいの、これ、運命だから、私たち一生懸命やっても、ちっともお金貯まらないし、悪い事ばかり起こる、でもね、私、見つけたの、一番いい事。それはね、『私はお母さんの子供だってこと』それだけで私、幸せ」

「泰子ちゃん」母はそれだけを言うと布団を引いて顔にかけた。布団を持つ手は少し震えている。

 しばらく無言の時間があった。母は布団をはだけるとキリッとした眼差しで話し始めた。

「泰子、この感じだと一時的に体の状態はいい方に向かうと思うの。しばらくそれが保てたとして、その間はまともに物事を考えられるし、いろいろ話しもできる。私、自分の体だからわかる。それを過ぎたらたぶん何か月も持たないでしょ。入院を続けるお金もないわ。だからいまのうちにいろんなことをしておかないと。泰子、いいわね」

 泰子はまた驚いた。やさしい、やさしい母が全く別人に感じる。こんなお母さんがあるなんて。

「いままであなたに話してなかった大事な事、いくつかあるの。よく聞いて。まずお父さんのこと。いままであんまり詳しく話したことないよね。あなたが生まれたとき、お父さんは四十歳だった。私は三十五歳。結婚したのはその五年前だったからあなたは割と遅い子供なの。お父さんは機械工だってことにしてたけど本当は大学教授よ。映画俳優みたいないい男だった。でも学問一本で、女性に興味なかったみたい。私がたまたま音楽の講師みたいな仕事で大学に行った時知り合ったの。なぜか二人とも初対面で『この人だ』って思えたの。それですぐ結婚」と和子は夢を見ているような話しぶりだ。

「ねえ、お母さん、じゃぁお父さんの学問はなに?」泰子はそれが知りたい。

「物理、化学。横須賀でやってた仕事は主に化学ね。それが不幸の基。結局事故に繋がっちゃった」和子の顔が厳しくなってきた。

「お父さんの情報が消されて、私と泰子の存在すら中に浮いたようになってしまって本当に困ったわ。そんなとき、いまの管理人の多田さんが動いてくれてお父さんが海軍で働いていたことだけはなんとか証明してくれたの。だから多田さんには恩があるの」

 初めて聞く経緯に泰子は驚いた。今回の入院についても多田さんにお世話になった。この話を聞いてよかった。あらためて泰子は多田さんに感謝の気持ちを強くした。

「そうだったんだ、多田さんにはどんなに感謝しても足りないくらいね」泰子はそう言っ母を見つめた。

「うん、そうね……」

『恩人』という割には歯切れの悪い母の相槌にちょっと違和感があるが複雑な事情があったのだろう、泰子は次の話に集中する。

「もうひとつ、これは現実的な話。押し入れに茶色い大きな皮のカバンがあるでしょ」

「うん、知ってる、あれ、何なの?」

「あれはね、お父さんの形見。中には大事な物が入ってるわ。あれを開けて」

「カギが付いてたと思うけど合いカギはあるの?」

「あぁ、あれは番号のカギだから番号を知ってれば開けられるの。いい、簡単よ、番号は六桁、あなたの生年月日だから。昭和四十四年四月五日、440405で開くわ」

「分かった、それで何が入ってるの?」

「カバンの中に蓋のついた仕切りがあってそれを開けるとダイヤモンドの指輪が入ってるわ」

「えっ、ダイヤモンド! ほんとに!」泰子は驚いた。

「そう、最後の財産よ、かなり大きいダイヤモンドだから値打ちはあるはず。あれはお父さんのプレゼント。あれを売ってここの治療費を払って」

 お父さんの形見を売るなんて、泰子はとてもそんな気になれない。でも確実にお金になるのはそれぐらいしかない。

「それからね、立派な金属の箱が入ってる。その中にお父さんの研究成果が入ってるの。薬品も一緒に入ってるけど見ても何が何だか分からないわ。もしかしたら危険なものかもしれない。だからあなたが不要と思ったら書類と一緒に捨てちゃってちょうだい。でもその辺に捨てると危険だから必ず臨海公園の海に捨ててね。海にまけば薬は溶けちゃうから」

 それは自分たちには無用な物だろう、でも一応目を通しておこうと泰子は思う。

「四つ目は、お父さんのラブレター。恥ずかしいからこれは読まないで燃やしちゃって」

 なんの、それは泰子が最高に興味があるものだ、読まずに済む物か。

「わかった燃やしちゃう」泰子は明確に嘘をついたが、それは女の子にとっては許される嘘だ。

「それと写真……お父さんとの……あっ、ちょっとあれは見ないほうが……」和子がちょっと慌てた。

「それで全部よ、他に売ってお金になるものなんかない。悪いけどあしたからやってちょうだい。まずは入院費払わなきゃ」和子の言葉に泰子は頷いた。


 泰子は寮に帰ると言われた通りカバンを開けた。一番底の部分に仕切りがあり、布にくるまれた物があった。そぉっとそれを取り出す。

「きれい」泰子は思わず声をあげた。何カラットか分からないが確かに石の部分は大きい。金属部分も立派に見える。

「これ、どこにもってけば売れるんだろう……」泰子はしばし考えた。あっ、あそこ。泰子が浮かんだのはドブ板にある大須賀堂という貴金属店だった。たしかそこには指輪などが並んでいた。ドブ板の出口に近い所にある店だ。指輪を大事にバッグに入れ、さっそくドブ板に向かう。

「えーと……」

 その近辺は米兵向けの土産物屋とランジェリーショップが並んでいるエリアだ。黒いブラジャーやパンティ、すけすけのいやらしい衣類がこれ見よがしに陳列されている。泰子はいつも目をそらしていた。大須賀堂はその並びにある。

 泰子は意を決して大須賀堂に入った。

「あのう、ここで指輪なんか買ってくれますか?」泰子が店に入ると店員がチラッとこちらをにらんだ。

「あのね、おもちゃの指輪なんか持ってきてもダメだからね、ここは大人が来る店だから」

と店員は素っ気ない。

「これ、おもちゃじゃありません」泰子はバッグから指輪を取り出した。

「ん、どれ」店員は半信半疑な顔で指輪を手に取る。

「おおおっ、これ、……ちょっと待って、石黒さーん」店員はあたふたと店の奥に行って店長らしき人を呼ぶ。

「なんだよ、今忙しいんだ」奥から禿げた男が出てきた。

「ほおー、本物じゃん」男は指輪を手に取ると、ルーペを取り出して指輪の細部を調べる。

「これ、ほんとにあなたの物?」と石黒はけげんそうに泰子に尋ねる。

「そうです、お母さんのものです」泰子が応じる。

「それでさあ、どういう理由でこれを売りたいわけ、聞かせて」と石黒が尋ねる。

「説明します。お母さんが急病で関東ヨセフ病院に入院しちゃって、入院費用が払えないんでこれを売ってきなさいって言われました」と泰子は正直に説明した。

「なるほど、そういうことね。分かりました、買ってあげてもいいよ」

「ほんとですか、ありがとうございます。それでいくらになるんですか」泰子は小躍りして喜んだ。

「……四万円だね。残念ながらちょっと傷があるんだ。それが無かったら五万円以上の値打ちがあるよこれは」石黒は残念だけど、という顔をする。

「そうですか、じゃあそれでお願いします」売れたというだけで泰子は満足だ。

「じゃあね、ここに住所と名前書いて。年齢は十八歳としとけばいいから」

「あの、私、十五歳なんですけど」と泰子は正直に言う。

「あのね、本当は成人じゃないとうちは買い取りはできないの。あなたそれじゃ困るでしょ、だれも調べないから十八歳としときなさいって言ってるの。分かった?」

「はい」泰子は書類に記入する。

「比護さんね。ハンコウは三文判押しとくから。住所は……へえ、沖縄寮に住んでるんだ。十五歳じゃ来年卒業じゃん」と石黒は泰子をジロジロ見ながら書類をまとめた。

「はい、じゃあ四万円。……そうだ、あのね、うち、困ってる人にお金貸すから。もしそんな時は声かけてね。お金あげるわけじゃないよ。貸すんだから利息とるし、ただ借りるんじゃなくて、もし仕事をする条件なら十万円ぐらいなら貸してもいいよ。とにかく困ったらうちに来なさい」

「ありがとうございます。助かりました」泰子はペコリとおじぎをした。

「はい、ごくろうさま」

 店長の声を聞きながら泰子は店を出た。これで入院費が払える。


「お母さん指輪売れたよ。親切なお店で、すぐ買ってくれたの。四万円だった」泰子は嬉しそうに言う。

 和子は「うっ」と言葉に詰まった。あの指輪は少なく見ても五万円以上にはなる。もっと詳しく言っておけばよかった。後悔したが後の祭りだ。

「そう、ありがとう。一か月の入院費ぐらいなら足りそうね」和子はそう言うのが精一杯であった。

 とりあえず入院費はなんとかなった。次は泰子の就職だ。

「明日、山田先生が就職先の資料を見せてくれるの、それ、持ってきます」進学を諦めた悔しさはもう消えた。泰子は少し前向きになってきた。


 翌日、山田先生は五件の就職先候補を示してくれた。「中卒だと事務系は全然ないの、店員さんと工員さんだね。……ここ、どう? 川上商店」若松町の文房具屋である。

「知ってます。大きい店でしょう」

「そうそう、やっぱり大きいとこの方が安定してて、将来はお給料もよくなるはずよ」

「『さいた屋』とか募集してないんですか?」

「あぁ、百貨店だと高卒からしか取らないのよ」

「次は上町の大沢呉服店、ここは古いお店で伝統があるし、服の勉強をすれば将来有望よ、追浜町に支店もあるし」と言って先生は三枚目の資料をめくる。

「あと三軒はまあまあ大きな会社だけど、工員さんだからね。あんまりきれいな仕事じゃないよ」と先生は勧めたがらない。

「お給料良ければ、私、頑張ります」と泰子はきれいな仕事にこだわらない。

「比護さん、悪い事は言わない。工場はやめときなさい。体に悪いとこもあるから」

 このころは公害などという認識はなかった。給料のいい会社は粉塵や煙など健康を害する可能性が高かったのだ。

「わかりました、じゃあ最初の二軒、面接に行きます」泰子は先生の忠告を受け入れた。当面お給料は安くても、暮らせないわけじゃない。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ