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第三章 お母さんが入院

「えー、『さいた屋』ってあの百貨店の?」泰子は驚いた『さいた屋』は横須賀で唯一最大の百貨店だ。そこの店員であるだけで一種のステータスがある。

「そう、実家にお金送ってるから、さいた屋の給料だけじゃ足りねえんだって」

「そうかぁ、みんなそれなりにいろいろ事情があるのね」と泰子は頷いた。

「でさ、やっぱり興味あるからオレ、大工が休みの日に『さいた屋』に見に行ったんだ」

「その人いた?」

「おう、三階の食器売り場。ちらっと見たら向こうも分かったみてえ――でも声は掛けなかったよ」

「そうだよね、秘密だもんね」そう言ってしまって泰子は自分も大人の世界に近づいていることを感じ始めている。

「松っちゃん安浦って怖い事ないの? 脅かされたとか、暴力とかさぁ」

「お客にそんなことしねえよ、お金使ってくれるんだから。でも先輩が言ってたけどヤクザの力が強いとそういう売春の店って繁盛してて女の子も美人が多いんだってさ」

「ヤクザって横須賀だと何組っていうの?」

「誰でも知ってるのは『須賀組』だよね、関東ではけっこう有名。組長の豪邸が安浦にあるじゃん、時々国道に黒い外車がズラッと並んだりしてるの見たよ」

「警察公認なんだ」

「いやぁそうじゃないと思うけどさ、横須賀って海軍あったし、自衛隊もあるじゃん、だから昔からそういう遊ぶとこいっぱいあるし、ドブ板通りなんか洋パンだらけじゃんか」

「ドブ板通りかぁ、きれいなドレス着た女の人、よく外人と一緒に歩ってる。でもさぁ、あの人たち横須賀の人じゃないよね」

「そうだよ、東北とか新潟とか、ちょっと話せばすぐわかるさ、訛り強いからな。集団就職で田舎から出てきて、工員とか店員とかチマチマやってるより外人とくっついた方が楽って思うさ、女はね。オンリーになったら遊んで暮らせるじゃん」

『オンリー』とは文字通り外人(米兵)の女になること。しかし結婚まで行き着く娘はそれほど多くはない。大半が捨てられる。

 沖縄寮から汐入駅に向かって少し歩き、汐入駅を超すと立派なコンクリート作りの建物、『EMクラブ』が見える。EMクラブとは旧日本海軍が下士官集会所として建てたものだ。戦後は米軍がレジャー施設として使っている。映画館やダンスホールなどがある。日本人は原則として入れないのだが自衛隊員と米兵の連れの女は例外だ。EMクラブから『ベース』と呼ばれる米軍基地の入り口までのエリアはそういった米兵目当ての派手な服装の女性がたむろしている。

『ドブ板』とは『EMクラブ』から『ベース』までの国道と平行な狭い通りに米兵向けのバーやキャバレーが立ち並んだ僅か二百メートルほどのエリアを指す。正式には『ドブ板通り』である。そして国道の向こう側には旧日本海軍造船所の大型施設である『ガントリークレーン』という巨大な檻のような鉄骨がそびえたち周囲を威圧している。

 米軍の空母が入港したとき『ドブ板』にはネイビーの制服を着た最高に陽気な米兵があふれる。通りにはプレスリーの『監獄ロック』や『GIブルース』がガンガン鳴り響き、『ここ日本か?』と疑う異様な雰囲気になるのである。

 特に朝鮮戦争が停戦となり、どうやら命の不安から解き放たれたと実感し始めたこの時期、米兵は横須賀に入港するや一斉にドブ板に出て思いの限り遊び尽くす。

 当時のドル貨幣換算レートは一ドル三百六十円。ところがドブ板では暗黙の了解でそれが二百五十円であった。差額だけで一ドルあたり百十円も儲かる。それだけでも儲かるのだが手ぐすね引いて待っているホステス連中にかかると金銭感覚の鈍い米兵は手玉に取られ、わずか一週間ほどで月給のほとんど全部を巻き上げられてしまうのである。


「やつらスッテンテンになっても軍艦に帰りゃ飯に困らねえし寝るとこもあるからな、思いっきりふんだくってやんな」そうホステスに激を飛ばすのは須賀組の東郷組長だ。須賀組はドブ板に息のかかった店を三軒持っている。今日はドブ板最大の店、マミーの二階での組員との打ち合わせにやってきた。すでに幹部どころが揃っている。

「で、日の出ホテル、落ちやした?」と若頭の鬼島が東郷に尋ねる。

「おう、先週決めさせた」東郷がタバコをもみ消しながらニヤリと笑う。

「やつ、ぶつぶつ言ってやがったけど判をついたんですね」鬼島は確認をとる。

「なに、少々安いが分取ろうってんじゃねえ、ちゃんと現金で買ってやるつってんだ、文句あるわけねえじゃんか」と東郷がソファにふんぞり返る。

「分かりました、じゃあすぐ蓮池工務店で進めます」

「オッケー、早くやってくれ」

 東郷は感のいい男だ。ドブ板は今がピークだがいずれ落ちる。そう予想して次のアイデアをスタートさせた。

「アニキ、組でホテルなんかやるんですかぁ? 全然まっとう過ぎて面白くねえと思うんですけど」組員の麻生が不思議そうに鬼島に尋ねる。

「日の出ホテルってあの山の上の白いやつでしょ、あんな山の上まで客がわざわざ行かねえと思うんだけど」と麻生が言うのももっともだ、そこは汐入駅の近くから石段を登り、三十メートルほどの高台にある。ただの連れ込み宿だったが経営は思わしくなかったらしい。

「麻生、オレも最初そう思ったけどよ、話聞いたら組長はスゲーよ、やっぱ頭いい。これからはヤクザも合法的な仕事をするんだよ。オレたちはだまって言う通りやればいいってことよ」という鬼島の言葉に麻生は首をすくめる。

「じゃあよ」東郷は諸々の案件の指示を終わらせ車に乗り込む。車は最近手に入れた『シボレー・ベルエア』、派手なアメ車だ。助手席にはマミーのナンバーワンホステス、京子が乗っている。

「お疲れ様です」組員とマミーの全員が表に並んで組長を送り出した。


「比護さん」泰子は担任の山田先生から呼び出された。進路相談である。

「あなた……県立の大津高校だったら大丈夫よ、受けてみない?」と山田先生が資料に目を通しながら言った。

「どぉ?」上目遣いで泰子を見る。このころの県立大津高校は女子高であった。『県立大津』というと地域ではかなりハイレベルな高校として知られている。

「行きたいんですけど……行きたいんですけど。経済的にすごく厳しくて……」泰子にとって県立大津はあこがれの高校である。しかしここ数か月、母の和子が病気がちで生活は特に苦しい。

「県立だからそんなにお金がかかるわけじゃないし、もったいない」と先生は残念そうに言った。

「推薦も可能かもしれないわ、職員会議で検討してみましょうか?」と更に推してくれる。

 泰子は悔しかった。大津高校は大津運動公園の近くにある。中学校総合体育大会のとき、同級生と高校の金網越しに垂涎の眼差しで楽しそうにテニスのプレイをする女子高生を見た。――自分もあの高校に入りたい。しかし無理だ。

「就職します。どこか紹介してください」泰子は唇を噛みしめ、思いを振り切っていった。

「そうなの……」山田先生は、仕方ない――と資料を閉じた。

「今日は高校の案内だけ。就職の資料は別の日に用意します。今日はこれまで」というと先生は別の生徒に声をかけた。

 泰子はうつろな目で廊下を歩く。教室に帰ると机に突っ伏した。声は出さないが涙は止められない。中学校の古い少し傾いた机から涙がスーッと流れ床に落ちた。

 泰子の机の周りにはだれも座らない。クラスメートは事情を知っているから。

「比護泰子、いますか、沖縄寮の多田さんから電話が入ってます。職員室に行ってください」と用務員が泰子を呼びに来た。

「えっ、多田さん」泰子はガバッと体を起こした。手で涙をぬぐいながら走って職員室に向かう。いやな予感がする。

 職員室の引き戸を強く開け、小さく叫ぶ「電話どこですか?」

「あぁ、こっちこっち」職員が電話を渡してくれた。

「比護です、なんでしょう?」泰子がおそるおそる尋ねる。

「泰子ちゃん、多田ですけど、お母さんがね、入院しちゃった」

「えっ、どんな具合ですか、どこの病院?」泰子は立て続けに尋ねる。

「関東ヨセフ病院、病室は行かないと分からないです。容体はね、おなかが痛くて動けなくなった。辛そうだけど意識はしっかりしてる」

「わかりました、私、すぐ行きます」電話を置くと職員に行き先を告げ、走り出した。ヨセフ病院までは約二キロ、泰子なら二十分はかからない。

 坂本坂を駆け下り、汐入商店街を全力で通過、汐入小学校の急坂を越えれば病院だ。

「ハア、ハア」ヨセフ病院の受付に着いた。

「あの、比護和子が先ほど入院したはずなんですが、わかりますでしょうか?」と受付に申し出る。

「はいはい、比護さんですか、たしかに一時間前ぐらい前に入ってます。……えーと三〇三号室です」部屋番号を聞くと同時に泰子は走り出した。三階のナース室で部屋を確認する。

「三〇三号、ここだわ」病室のドアの横に確かに『比護和子』とある。

「おかあさん」母のベッドを見つけた泰子は小さく声をかける。

 目をつむっていた母がうっすらと目を開けた。

「あぁ、泰子、来てくれたのね。ありがとう」母は少し無理な笑顔を作った。

「おかあさん、おなか痛いの? だいじょうぶ?」泰子は母が比較的平静な様子に安堵した。もし苦しんでいたらと思って、心臓がバクバクしていたのだ。

「すこし痛いけど、注射してもらったからいまは大丈夫」

「あぁ」母の言葉で力が抜けて泰子はドツと椅子に腰かけた。二十分近く走りっぱなしだったので急に疲れが出た。

 まもなく看護婦と共に医師がやってきた。「ご家族の方ですね、じゃあちょっと説明がありますので別室に移りましょう」泰子は看護婦の案内で病室を出る。

「こちらです」看護婦は二人を案内するとすぐに出ていった。

「私、外科の石川です。娘さんですね」

「はい」

「付き添って来てくれた人、えーっと多田さんですね、彼から聞きましたけど、お二人だけの母子家庭だそうで」

「はい」

「そうですか、じゃあ説明します。症状から見て、腸閉塞です。この後、緊急開腹手術をしないと非常に危険です、宜しいですね。他に身寄りがいらっしゃらないということですので、ご本人に了解はもらっています。あとは私どもに任せてください」と医師は厳しい表情で泰子に確認を取る。

「は、はい、お願いします」泰子は肩にガクッと重い物を感じた。さっきの安ど感は吹っ飛んだ。……お母さん、すごい厳しい病状なんだ……どうなるんだろう。どうしていいか分からない。泰子は椅子にぐったりとして頭を両手で抱えた。

「泰子ちゃん」部屋のドアがバタンと開いて多田さんが入ってきた。

「あっ、すいません、大変お世話になっています」泰子は急いで立ち上がりペコリと頭を下げた。

「もうすぐ手術だってね、たいへんだ。ほんと申し訳ないけど私、仕事があってすぐ帰らなきゃならないんだ。でね、お母さんのこと寮の皆には伝えたから。何人か病院に来たいって言うけど、来ても何もできないじゃん、だから私が断っちゃった。そういうことだから」と多田さんが申し訳なさそうに言う。

「いいえ、多田さんには本当にお世話になっています。ありがとうございます」泰子はまた深く頭を下げた。多田さんは沖縄寮の管理人である。寮の住人ではないが厚意で管理人を引き受けてくれているのだ。ほんとうに有難い。泰子は改めて多田さんに感謝した。


「六時に手術室に入ります。あなたは一応終わるまで待合室で待機していてください。今日の手術で直接命に係わることはありませんからその点は心配要りません、では」と看護婦は言うとベットを押して手術室に向かった。泰子は後をついて行く。

「おかあさん、私、外で待ってるから」と声をかける。母は無言で手を少し上げ、バイバイのしぐさをした。

 手術は二時間弱かかるらしい。泰子は待合室のソファに腰かけ思いを巡らす。

 ――お母さん、やっぱり病気だったのね、『だいじょうぶ、だいじょうぶ』って言うんだもん、そんなに悪いとは思わなかった。なんでもっと早くちゃんと見てもらわなかったんだろう――やっぱりお金。お金があればこんなことにならなかった。――お金があれば……そこまで考えて泰子はふっと顔を上げた。

「手術のお金……」泰子は小さくつぶやく。

 今日の手術、いくらかかるんだろう。お金、あるのかな? お母さん、お金どうしよう。

 泰子は現実に帰る。泰子の貯金は約五千円。新聞配達で貯めたお金だ。――たった五千円。ここの手術代、払えなかったらどうなるの。泰子は不安でいたたまれなくなった。悶々としながら時計を見つめる。

「ガラガラ」手術室の大きな引き戸が開いた。ベッドが出てくる。

「ご家族の方、手術は成功です。一時間ぐらいで目が覚めます」そういいながら看護婦がベッドを押してゆく。泰子も無言で後に続く。

 病室に着いた。麻酔が効いているから、母は安らかな顔をしている。あぁ良かった――手術は成功したんだ。泰子はほっと胸をなでおろす。

「比護さん、先生からお話があります」看護婦が泰子を呼びに来た。二人で別室に向かう。

「あっ、石川です」先生は書類を整理しているところだった。

「どうぞそちらに座ってください」泰子はすでに緊張でカチカチになっていた。この部屋でどんな説明をされるのか。よほど楽観的に考えても数週間で退院できるとは思えない。先生の説明が怖い。


「今日はおなかを切りまして、腸も切って調べました。やはり大きな腫瘍がありました。それで腸が詰まったようになったんです」

「腫瘍って悪い腫瘍なんでしょうか?」泰子は先走って尋ねた。

「そうです、悪いです。あれは癌ですね」先生は『覚悟してください』と感じさせる言い方だった。泰子は黙り込んだ。

「腫瘍を切り取って、腸を『吻合(ふんごう)』しました。吻合って縫い合わせることです。それで意外と早く腸は使えるようになります」

「先生それで治っちゃうんですか?」泰子は期待を込めて尋ねる。

「いや、残念だけど治りません。おなかの中を見るともうあちこちに癌が散ってますからね」

 先生ははっきりと言い切った。その瞬間泰子は意識としての自分が大きな音と共に椅子から転げ落ちるのを感じた。椅子に座っている体は抜け殻で泰子の意識は床でのたうち回っている。

「先生……先生、あの、あの……お母さんどのくらい持つんですか?」おそらく泰子の生涯でこれ以上の勇気を出すことはあるまい。母の寿命を尋ねるなんて……。

「あそこまで進んでると持って二か月、考えられる治療を全部やっても半年は保証できません」と先生はあっさりと言った。患者と家族の心情を考慮してあやふやな見通しを言う段階ではないということだ。

「そうですか……」それだけ言うと泰子は黙り込んだ。もう、きょうは一言も話す気にならない。

「麻酔が切れてくると痛みが出るので、そばにいてやってください」と先生は言い、病室に戻るよう促した。泰子は病室に戻り母を見つめる。

「ウーン、アーッ」ウトウトとしていた泰子は母の小さなうめき声で目が覚めた。

「お母さん、痛いの?」と母に声をかける。和子は頷く。

「看護婦さん」泰子は病室を飛び出すと看護婦を呼んだ。

「あの、痛いみたいなんですが痛み止めをお願いします」

「そうですね、先生を呼びましょう」看護婦はすぐ医師を連れてきてくれた。

「痛み止めをちょっと多めに打っときました。今晩を越えれば痛みは和らいできますよ」医師は注射を終えるとそう言った。その言葉通りしばらくすると母のうめきは落ち着いた。

 安堵した泰子は再び考え込む。……きょうは人生最悪の日、いままで辛い事もあったけどこんなひどい日は初めて。でも、これよりひどい日がやってくるのは確実だ。今日、母の寿命を宣告された。この後の事を考えると身がすくむ。怖い……泰子は混乱してなにもまともに考えられなくなった。……疲れて、ソファでいつの間にか眠りについた。

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