第一章 沖縄寮(りょう)
横須賀の悪童の女性版です。
「松っちゃん、これ飲んでみ、」
そう言って大前達夫は紙袋からビールビンより少し小さいビンに入った飲み物を取り出した。
「なにこれ? ビールじゃねえよな、醤油みたいな色じゃん」
松ちゃんと呼ばれたのは近くに住む松本隆である。達夫が差し出した珍しい形のビンを手に取って見つめる。
「ヘヘッ、それ『コカ・コーラ』って言うの」達夫がにやりとして言った。
「なんだそれ? 」松ちゃんは不思議そうにビンを振ってみた。
「アッ、だめだ振っちゃぁ」達夫が困った顔をする。
「なに、そうか、炭酸入りかよ? 振っちゃぁダメか……まぁいいや、どっかに栓抜きねえの」と言いながら松ちゃんは周囲を見回す。
「ねえなぁ、……じゃ、技で抜いちゃおぅ」と松ちゃんはビンの口金を台所の流しの淵に引っ掛け「トンッ」と拳で上から叩いた。ちょっと乱暴な松ちゃん流の栓の抜き方だ。
「バシュッ」勢い良く茶色い液体が飛び散った。松ちゃんは手に付いたしずくをペロッとなめる。
「ん、甘いじゃん、うまいぞこれ!」そう叫んでいきなりラッパ飲みしはじめる。
「ん、ん、ん、プハーッ」現代のビールのコマーシャルみたいに、笑顔でビンを顔の正面に持ち、白い『COCA-COLA』の文字を見つめた。
「達夫、これ、どこで売ってる? 値段高いべ」
「まだこの辺じゃ売ってねえ」達夫は手で『ダメダメ』のしぐさを見せる。
「この味、ラムネなんか問題じゃねえ、スゲーうめえ、おまえどっから持って来たんだよ」
と言うと松ちゃんは残りを一気に飲み干した。
「ねえさんがよ、米兵からもらったんだ。十本あるからおまえに二本あげるって」
この年、昭和三十二年、日本で初めて『コカコーラ』が売り出された。だが、ここ横須賀市内ではまだ一般的には売られていない。そういうものは米軍に関係した者から流れてくる。達夫の姉は米兵相手のバーでホステスをしていた。彼女はときおり米兵にもらった珍しいものを持ち帰るので皆の羨望の的だ。
終戦から十二年たち、日本国内で米兵を見ることは少なくなった。だが、ここ横須賀は依然として米兵が町に溢れている。極東最大の米軍基地は大きく横須賀に根を張っていた。
中学校からの下校途中であった。「松っちゃん、昨日オレ見ちゃった、スゲーの、もう笑っちゃって、ハッハッハッ、もう、思い出すとまた笑っちゃう」達夫が笑い転げている。
「なんだよ、なに見たんだよ、言えよ」と達夫が勝手に盛り上がっているのが気になって松ちゃんが促す。
「あのな、昨日の帰り」、「ハッ、ハッ、ハッ、フーッ」達夫が思い出し笑いをこらえきれない。
「早く言えったら」松ちゃんがイラついて再度促す。
「あのな、坂本町の急坂を木の桶満載のリヤカーがブレーキかけながら下ってたのよ、オレ、その後ろを歩ってた。リヤカーの前には米兵が三人。そしたら遅れて走ってきた米兵がオレを追い越してリヤカーに並んだ。そいつ何思ったか歩きながら桶の蓋の紐を摘まんで開けやがった。プーンと匂って中が満タンのウンコだってことが分かって、そいつ『ワオッ』って叫んで大慌てで蓋を桶に戻そうって、それ持ったままリヤカーと一緒に坂道を下ってくんだ」
松ちゃんはその状況を思い浮かべるとすごく間抜けな絵が浮かぶ。達夫が続ける。
「リヤカーが小石に乗り上げて『ポン』と跳ねたの。そしたら『バシャッ』ってウンコが桶から飛び散って黄色いのがヤツのまっ白いネイビーの制服にべっとり。こんどはもっと大声で『ウワーオッ』って叫んで蓋をブン投げちゃった。それがさ、リヤカーを引いてるおじさんの足に当たっちゃって、おじさんガクッときて、リヤカーが右に急旋回、壁に激突。そんで――ハッハッハッ」達夫がまた笑いだした。
「桶のウンコが大量に飛び散って前を歩ってた米兵に降りかかっちゃってみんな真っ黄色。あたりもドロドロのウンコだらけで、もう臭えし汚ねえし」
「カッ、カッ、カ、おまえそれ、ハッハッハ、そんで、そんで米兵どんな顔してた」松ちゃんも状況が目に浮かんで笑いを受け継いだ。
この時代、横須賀の便所に水洗便器などない。地中の曹に溜めるだけだ。外にマンホールの蓋があって、処分はすべて人力による汲み取りであった。定期的に市の職員が大きなひしゃくと桶を持って民家の便所を回る。それをリヤカーというゴムタイヤの付いた人力車に積んで集合所に運ぶのだ。特に坂本町の急坂は難所であった。桶が満載で数百キロもあるリヤカーから後方に尾のように突き出た太い木の棒に古タイヤを括り付け、地面にこすりつけブレーキにする。ちょうど中学校の下校時刻に『し尿』の桶を満載したリヤカーの集団が列をなして坂を下る。それがこの時代のこの町の日常であった。
少し離れて下校途中の泰子が松ちゃんを見つけて駆け寄った。
「松ちゃん、悪いけどさぁ、また灯油、寮まで上げてくれないかなぁ」
泰子は下校途中に年上の松ちゃんに頼んで灯油を運んでもらいたい。彼女の住まいは山の上。
横須賀は山というより比較的低い尾根が連なった地形が多い。特に汐入、逸見町では、ほとんどの家が尾根に貼りついたように建てられている。
汐入町には平地がほとんどない。日本海軍の軍港だったため、軍に関わる人は多く、住宅事情はひっ迫していた。仕方なく崖の際でも山の頂上でも、普通は家など建てられないような悪条件な所でもむりやり家を建て住み着いた。
そんなことだから汐入町の道は狭く急な階段だらけで自転車も役に立たない。泰子は崖の石段を三十メートルほども上った山の頂上にある沖縄寮と呼ばれる二階建ての集合住宅、そこに住んでいた。泰子が一階、松ちゃんは真上の二階の部屋だ。松ちゃんは中学二年生、比護泰子は今年中学に上がった。ともに隣町の坂本中学校に通う。
泰子は父親を知らない。松本は母がいない。片親同志だからというわけではないが二人は仲がいい。
「一斗缶の灯油? 田中商店だろ? いいよ、先に帰ってなよ、オレ寄って受け取っていくから」
松ちゃんは前にも泰子に頼まれて灯油を運んでやったことがある。田中商店は灯油を販売しているが、自転車の使えない山の上には配達してくれないのだ。
「すぐ隣のお寺には喜んで配達するのによぉ、寮には運んでくれねえんだよな。オレたち貧乏だから」と松ちゃんはグチを言う。
沖縄寮とは日本海軍の工場で働く徴用工のうち、沖縄出身者の寄宿舎であった。戦後沖縄は米軍の統治となったため、多くの人が故郷に帰れなくなってしまい、仕方なくそこに住み着いた。
寮は木造二階建てで小学校の教室を仕切って部屋にしただけのような粗末な構造だ。高台のそこからは横須賀港と米軍基地が一望に見渡せる。
「泰子、持ってきたぞーっ」松ちゃんが部屋の外から声をかけた。
「サンキュー」泰子はすぐ戸を開ける。
「よいっしょ、よいっしょ」泰子は持ち込んだ灯油をストーブの前まで運んで流し込んだ。
「松ちゃん、そこのお皿取ってくれる」
「これ?」
「そう、ポンプから垂れたの受けるから」泰子は皿を受け取るとポンプの管からしたたり落ちる灯油を大事そうに受ける。
「そんなのこぼれてもほんのチョットじゃん」松ちゃんは泰子が几帳面すぎると思う。
「灯油一滴で一分間燃えるってお母さんが言ってた、だから大事なの。一缶で二週間持たせなきゃ」泰子は松ちゃんを見つめながらそう言った。
「そうか、オレんちも貧乏だけど泰子のとこよりましだよな。オレも節約しないと。そんで少し泰子のとこに回してやるよ」松ちゃんは少し泰子に感化されたようだ。
「だめっ、おかあさんが『もらっちゃだめ』って言ってる。『ぎりぎりでもやれるんだったら人から物やお金をもらっちゃだめ』って」泰子はきっぱりと断った。
「でもね、お下がりはいいのよ、私の制服、お隣の美恵子ちゃんのお下がり。ちょうど美恵子ちゃんが中学を卒業したからもらえたの」
沖縄寮ではそういった助け合いはごく普通のことである。寮の住人全員がひとつの家族のようだ。普段から部屋にカギなど掛けない。子供たちは他人の部屋に勝手に上がり込んで遊んでいる。
寮の便所は一ヵ所、共同便所だ。当然、便所掃除は交代で行う。それは中学生以上の子供たちの仕事だ。泰子は掃除の苦手な松ちゃんの代わりに便所掃除当番を引き受ける。寮に風呂はなく、必要に応じて洗面器とタオルを持って山を下り銭湯にゆく。
「そうか、でも何でそこまで貧乏なんだ? おまえんとこのお母さん仕事してないの? お母さん戦前代用教員だったって聞いた、そんなら一応先生じゃん。仕事あるはずだべ」
「だめ、沖縄が米軍統治になっちゃったから、そういうのグチャグチャになっちゃったんだって。いま決まった仕事ないよ。母子家庭の生活保護と朝、市役所に行くと掃除とかの仕事があるんだって。……ない日もあるのよ、それで生活ぎりぎり」
「そうか、オレんちは親父が大工の仕事あるから少し余裕ある」
「いいなぁ、大工さんだったらお給料いいんでしょ」
「いやぁ、大工って言っても本職じゃねえよ。徴用工の仕事で建築関係やったんで少し覚えたんだって。ほんとの大工じゃなくて『手元』って言う、ただのお手伝い。だから給料安いし、いつクビになるか分かんねえって」
「へぇ、そうなんだ。それでさぁ、聞きたかったんだけど松っちゃんアルバイトで新聞配達始めたでしょ」
「おう、先月からな」松ちゃんはうれしそうに頷く。
「お金、いくらもらえるの? 私、できるかなぁ」
「最初一か月五百円ぐらい、ちゃんとできたら千円かな、いっぱい配ってるやつは千五百円ぐらいもらってるって」
「千五百円! そんなに!」泰子は目を輝かせる。
「でもね、泰子には無理、新聞って結構重たいし、汐入の山の配達って階段だらけですげえ大変だぞ。そもそも女の子には絶対無理」
「そうかぁ」泰子はがっくりと肩を落とした。
「でも少しだけ配達じゃぁだめかな?」
「そんなにやりたいの? そんならいちおう聞いてみるけどオレだって、たまたま辞めた子が出たから代わりになれたんだ。やりたい子はいっぱいいるからたぶん無理だぞ」
「お願い、聞いてみて」泰子はあきらめない。
「私さ、バレエとダンスやってるし、こう見えても女の子ではクラスで一番足が速いのよ」
確かに松ちゃんは寮の集会室で泰子がダンスを一生懸命やっているのを見たことがある。
「おまえんとこ、何もないけど蓄音機だけはいいのがあるよな。音楽好きなんだ。ダンスはお母さんから教わったの?」
「そう、歌も」泰子は嬉しそうにダンスの振りを見せる。
「ガラガラッ」突然引き戸が開いた。
「あれっ、隆くん来てるの?」泰子の母、和子が帰ってきた。
「灯油、また運んでもらっちゃった」泰子が松ちゃんに目をやる。
「あらーっ、そう、ありがとう、助かった。重かったでしょう」
「全然、あのくらい平気だよ」
「さすが男の子ね。帰ったら泰子と二人で運びあげようと思ってたの。田中商店さんに言えば紐貸してくれるから二人ならなんとか持てるじゃん。今日灯油ないと寒くて死んじゃうよね、ハハハッ」
「おばさん、さっき泰子と話してたんだけどさぁ、仕事、全然ないんだって?」
「全然ってことはないわ、現に今日は市役所公園の便所掃除じゃん、朝、ちゃんと時間に行けばなんか仕事もらえるの」
「おばさん先生だったって聞いたけど何の先生だったの?」
「沖縄では音楽のね。こっちではダメ」
「ダメってなんで? 先生の証明書がないとか?」
「そういうこと。終戦で全部消えちゃったの」
「消えちゃった?」
「そう、私、運が悪いのよ」
「そういうのって消えるもんなの?」
「うん、全部ね」
「うちのおやじは一応大工仕事やってるけど、そもそも消えるような資格なんかないよ。『手元』の給料なんて安いのに毎日酒ばっか飲んでる。おばさん、終戦で何があったの?」
「あんまり人には言わないんだけどね、沖縄でうちの人は機械工、私は女学校を出ただけだけど一応代用教員だったの。お金に困るようなことはなかった。夫は技術が優れてて横須賀に呼ばれたのよ。呼ばれたって言うより軍の命令だったけどね。そんとき泰子はまだ赤んぼうだった。それで三人で横須賀に来て、とりあえず住む家が決まるまでって話で一時的にこの沖縄寮に入ったのよ」
「へぇ、おじさん何作ってたの?」
「それがねぇ、私にもあまり詳しくは話さなかったのよ。軍の秘密だって」
「危険な仕事?」
「うん、そう」
和子は思い出しながら、ぽつりぽつりと話す。
「終戦の少し前、事故があったの。それであの人が……」和子はしばらく言葉が途切れた。
「事故死だったんだ」松ちゃんは初めて聞いた。
「タンクからガスみたいなものが漏れて夫はそれを吸っちゃったの」
「毒ガスかぁ」
「たぶんそういうもの。夫は吾妻島で死んだのよ」和子は少し涙を浮かべている。
「吾妻島ってあの自衛隊の横須賀基地の向こう側にある島だよね、あれ、日本海軍の弾薬庫だったって聞いたけど」
「そうよ、夫はあの島で仕事してたの」と和子は頷きながら答える。
「海軍の危険な物があそこに全部あったのよ」
「オレ、少年雑誌で読んだ。毒ガスってドイツ軍がよく使ったらしいけど陸軍でしょ、海軍じゃねえよ」と松ちゃんは言う。このころの少年雑誌には戦争の武器や戦場の特集があったのだ。
「それをね、海軍で使おうとしてたみたい。海の上って山とか木とか障害物がないでしょ、だから風向きさえ確かなら毒ガス弾一発で戦艦二、三隻の水兵を全員殺せるって聞いた。それをまさか自分が吸っちゃうなんて。……軍隊って恐ろしいわ」と和子は語る。
「海軍の責任者が夫が亡くなった後の私と泰子の面倒は責任もって見てくれるって言ってたのよ。だけど終戦ですべてが変わっちゃった」和子は下向いて唇を噛んだ。
「約束を守ってくれなかったんだ」
「いや、最初はちゃんとやってくれていたの、だけどあの一言でみんな震えあがったの。あとで、デマだったことが分かったけど、みんな本気にしちゃったのよ」
「あのぉ、どんな事ですか?」松ちゃんが声をひそめて聞いた。
「『秘密兵器の開発と実験に関わった者は処罰される』って事。それで皆が大慌てで証拠物や資料を破棄したの。そのときに私たちの情報も全部一緒に破棄されちゃった。その上、海軍の責任者も関係者も全員逃げ出しちゃうし……結局私たち本土に取り残されたの」と、和子は思いを振り切るように首を振った。
「でも沖縄と一切連絡が取れなかったわけじゃないでしょ、親戚とかに手紙出すとかさぁ」
松ちゃんは終戦直後の状況が理解できていない。
「親戚ね……夫の兄の家族が名護市にいたけどあのころの混乱って今じゃぁ想像できないものよ。そのお兄さんは戦死しちゃって奥さんは小学生の男の子かかえて生活が大変だったはずよ。マコちゃんって呼ばれてたあの子は頭のいい子でね、歌が上手だったなあ。いまどうしてるか……」
和子はしばし沖縄を思い出して黙り込んだ。