30年後 冥土にて
乾物はいい出汁を生む。厳選した素材を丁寧に扱い、ずっと保存できる。だがインスタントなど手軽なものにとって代わられ、今や伝統遺産の域だ。時は令和になった。雑誌は今や乾物のような存在だ。取材対象に丁寧に向き合い話し、喜怒哀楽をしっかりと切り取る。その正真正銘の玉のような記事たちは読んだ者たちの心に沁み入り、その感動は決して消えてなくなりはしない。
「で、どうなんだよBよ。こないだ膝が痛いからこりゃなんだろってネットで調べてみたら、違うサイトなのにおんなじこと書いてあるんだよ」
「あれは記事を量産するために他のサイトの内容を使って見た目を変えて出してたりするんだよ。まあインチキだわな。そんなことはどうでもいいけど、T興の親父っさん、もうこっちの世界にきてるんだから、いつまでもあっちの世界にちょっかい出さないの!」
「いやあ、ついついさ。しかしあのインターネットって便利だねぇ。よくあったじゃん飯食いながら会話してて、あのドラマの悪女役誰だっけ?って時にみんなが忘れちまって名前が出て来なくてウンウン唸ってたようなことを一発解決できるんだよ!」
「ア行から一文字づつ読み上げて思い出したりしてたもんなぁ」
「生きてたらじゃんじゃん調べまくりたいよ、あいつとあいつはデキてんのか?とか神保町で一番売れてる中華は?とかね」
「そんなことが気になるのかよ!」
「じゃあ、Bについての全て、とかね」
「なんだそれ。しかしさ検索窓に名前と店名入れるだけで自分が何書かれてるかわかるんだから、便利だけどむちゃくちゃ怖ええよ」
「しかもさ、あんまりBのことばっかり調べてると、いつの間にか他のこと調べても神保町のこととかバーのこととか、はたまたHなこととか、Bにまつわることばっかり出てくるようになってさ、本当は今まで聞いたこともないこと知りたいのにさ」
「なんでHなんだよ!まあ、どうでもいいけどさ。そういうのフィルターバブルって言ってさ、好きなことどんどん調べるにつれて、”そういう関係の情報がほしいんだ”ってコンピュータが勝手に判断して、それ系の記事をどんどん提供してきて、ある限定された情報フィルターの中に閉じ込められる現象なんだってさ」
「すると何だい、俺が見てるネットニュースとカミさんが隣で自分のスマホで観てるニュースの表示が違うこともあるってことかい?」
「そうだよ。たとえば地球の裏で起こってる内戦のことが表示されなかったら、ずっとそんなこと知らないまま暮らすことになる」
「嘘だろ!違う世界にいるようなもんじゃんか!」
「まあ俺たちはもう体を持ってるわけじゃなく身軽だからさ、どこへだって行けるし何だってできるから、そういうのにも関係ないけどな」
「こっちに来てみて初めて分かったけどさ、俺たちのいるこの場所はどうやら地球じゃないんだよな。ここはどこなんだ、宇宙か?その外か?こうして親父っさんと話そうと思えば簡単だし、生きてる時に見たことのない場所へもすぐ行けるから、さっきニューオーリンズ行ってブルース聞いてきた。あとでオアフにスラッキーギター聞きに行こうと思う。体があったらそうはいかんもんな」
「そういうの量子トランスポーテーションっていうらしいぞ。こっちで起きたことが同時に遠くでも起きる、って現象。それもさっきネットで知ったんだけどさ」
「何だよ好奇心旺盛だねぇ」
「もちろんよ、もう死ぬこともないから好き放題よ。あとは家族や仲間がこっちに来るのを待つだけだね。”人生は冥土までの暇つぶし”って言うからな、まあ今は存分にあっちを楽しんでほしいもんだけどねぇ」
「ところでS井は今頃何してるかねぇ」
「ほら、あそこでなんか書いてるよ」
「ホントだ。ありゃ水墨画だな。なんでまた随分アナログなことしてるな」
「ちょっとからかってみっか」
そう言ってBが画仙紙に一滴の墨を垂らした。その墨は即座に紙にボワッと滲み広がった。
「ん?」
S井は自分で載せた墨でないと知りつつも、その墨の広がりを見つめた。
「ちょっと甘やかしちゃったかな…」
その滲みは偶然にも紙の右側に急峻な岩山のように広がったのだ。”偶然”というのはあくまでS井の感じたところだが…。S井は即座にその岩肌に松を描き加え左に滝とその奥に遠く霞んだ山並みを描き仕上げた。Bはすっかりその偶然を信じ込んでいるS井を笑いながらT興親父に、
「銘『榛名峻峰』。どお俺の画筆?」
「Bもなかなかやるねぇ」
「な、俺たちは思ったことは何でもできるんだよ」
「じつは俺もさ、店を続けてくれてるカミさんが餃子を焼き終えて蓋取るちょっと前に一瞬こっそりと火加減を強くしてんだよぉ。あれするとしないとじゃあ香ばしさが段違いなんだわ。俺が厨房に入ってる時、皮も自分で作ってどこにも負けない餃子目指してたんだけど、どうしても満足いかなくてさ、材料や焼き方を何度も何度も手変え品変えやってるうちに掴んだんだよ、やっぱり焼き餃子は香ばしさが大事なんだとね。ずっと強火だと中身がいい感じになる前に皮が狐色になっちゃからさ、じっと待って最後に焼き付けるわけ。あの小麦がきつね色になるのはパンでも何でも香り付けに欠かせないんだわ。まあそれはそうと、ちょっとH本んとこにも行ってみっか」
まさしくロケの真っ最中。雑木林の中で最近次の連続ドラマの主役を決めた若い女優の撮影をしていた。
「ほらいたいた。いい女だねぇ。じゃあちょっくら…」
H本がフィルム交換をし撮影再開しようと顔を上げたその時、それまで薄ぼんやりしていた林に照明を入れたかのように一筋の光が入り、うつむき加減の女優の向かって右上からつややかな髪、白いブラウス、そしてさっき摘んだ小さな野花を持て余すように動く華奢な手元を一直線に浮かび上がらせる。H本はその瞬間を逃すまいと夢中でシャッターを切っていく。
「どうよ、銘『はじらい』」
「あいかわらず親父くせーな。だが、いい!」
「あいつらもそろそろわかってきてるんだろうな、その仕事は自分一人で出来上がったものじゃないんだってことが」
「ああ、俺だって分かる前に死んじまったけど、こっちにきてすぐに分からされたよ、あん時のいい思いも、あん時の九死に一生を得たときもみんな、そうなるべくしてのことだって」
「よく店に来ただろ、いかにも”このページは私の感性が生み出した作品。誰にも真似のできない世界なの”みたいな顔してる編集者」
「そういうやつは大体記事ってのは読み手あっての事ってのを端っから考えたこともないような感じで、”自分の作品よ、どうぞお好きにお読みになって”みたいな態度取りやがる」
「いるいる。お客さんが望んでることをプロの技で提供することが本当の仕事ってもんだよな。するってーと相手の喉のことまで考えて料理辛く調整するってのは、お客様第一ってことか?」
「あたぼうよぉ」
「俺らみたいな手仕事ってのも、インターネット使ったような遠隔仕事ってのも、自分だけじゃない別の力が加わって叶うものなんだよな」
「願えば叶う!っていうか、いつでも俺らが叶えてあげるよぉ!」
「ちゃんといい子にしてればね」
「まあそういうことだな」
「今から思えば、生きてるときはまあくだらねえことでいろいろ悩んだりしてたもんな」
「ああ、人と比べたり、人の言うことにいちいち右往左往したりしてな。たまたま体や心を備えて地球に生まれてきたんだろうけど、所詮俺たちみてえなプラズマっていうかそれよりもっとちっちゃな粒子の集まりだからな、人間は。長くて100年形があって、その後はずっとこんな感じでゆらゆらと…」
「まあ100年なんて一瞬みたいなもんだからな、みんな仲良く楽しくやって欲しいもんだね。誰かが好き勝手にやり始めると、そいつの周りに負担がかかって、そこから避難するようにそれぞれが自分のやり方で防衛するようになって壁を作って、避難しきれない奴はかわいそうにどんどん不幸になって絶望のどん底になっていく…」
「まさに水に一滴の墨を垂らしたみたいにな。全体がどんより濁っていく」
「ただな、人間には昔っから知恵があってな、小説でも漫画でもインタビューでも歌の歌詞でも映画でもドラマでも、みんな絶望のときにそういったもので気晴らしするだろ、あれらがなかったら相当息苦しい世の中になってたと思うぞ。ただルールや目標だけ作って勝手に生きなさいなんて、味気ないもんな。最近はテクノロジーとかデータサイエンスとかが未来の希望っていうけどさ、人を助けるのは最後は想像力なんだよ。そこから生まれたものは心の薬になるんだよ。俺達みたいに体っていう物質を持たなくても考えて働きかけることはできるんだ。その気がありゃどうにでもなる」
「じゃあもういっちょからかってみっか」
靖国通りから白山通りの街路樹が翌朝すべてハナミズキに代わり、季節でもないのに満開でそれは見事なものだった。ただし全ての木の根本にはこう記してあった。
『寄贈;T興&Sジュ』と。