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2軒目 バーにて

神保町は知られる通り日本一の本の街で、一般書店のほかジャンルに特化した書店や古書店がたくさん軒を連ねる。日本にはこの昭和60年代前半の時点で出版社は大小含め6000社あると言われているので、この本の街にもどんどん新刊、追加発注本が全国から送られてきてそれを捌くための小さな取次店も相当数路地にまで店を広げている。御茶ノ水の医学系や総合大学だけでなく都内や近県からも学生が専門書を求めてやってくるし、VHSビデオ派ではない紙派のエロ師たちも写真集、さらにディープな裏本を求めてやってくる。知があり痴もある街、そこには古いものから新しいものまで次々と積み重なりまさに“知層“をなす。この知層から新しい鉱脈を見つけ原石を掘り出し、取材活動を通して磨き上げ記事という玉に仕上げるのが編集者であり、その玉たちが大事に納められた箱が雑誌なのである。毎号輝きの違う玉たちの配列をレコードアルバムのような絶妙の流れになるよう厳選し箱詰めする。読者はページをめくるごとに居ながらにしてあちこちを旅し、これまでの生い立ちになかったものに出会う。決してテレビや映画のように動き出しはしないが、一枚の写真に釘付けになり心は大きく動き出す。いつまでもそこにそれはある、好きなだけ眺めていることができる。自身のペースで。


神保町交差点にほど近いビルの2階、おなじみのバー・Sジュに二人は移動した。今23時だが3つのボックス席は埋まり8席あるカウンターの端がちょうど入替わりで2席空いたところだった。この席は真ん前が調理用のコンロになってるのでマスターのBが常に張り付いておりお互いが話しかけやすいのだ。

「おっ、珍しい組み合わせだねえ。ちょうどさっきまでO山さんとこのコレが同期の女のコとそこに座ってたんだよ」

と言いながら両腕を腰の脇で丸く広げる。そのしぐさで若手と言うのは腹が出た体のデカいやつと悟り、

「あY田ね。どうせあいつは毎日来てるんでしょ。あんな体型だけど毎日会社で女性誌を検品してるうちにファッションや化粧品に詳しくなってさ、結構女と話が合うようになったんだよねぇ」

「週刊誌の記者やってた頃のジャーナル気質か、流行の背景とか動かしている人のほうを気にするから結構ウンチク垂れて、最初は連れの女はへーへー尊敬しながら聞いてるけどそのうち飽きてくるんだよな。そこもあいつの作戦で、“そんなことより…”とか言って連れの女についての話題に話を振るんだよ。ここまであなたのことを知ってるんだけど、どうにも知らないことがあって…、ってやるとファッションの話題で警戒心は解けてるところに、そこまで私に向いてくれてる人がいたんだ、うれしい、何でも話しちゃうってなるらしんだよ。よくわからんけど、そのやり方で結構いろんなコ取っ替え引っ替え来るんだよねぇ」

「まじかあ。ところで酒まだ頼んでなかったよね、俺ターキーのロック」

「俺も同じので水割り」

「おいよ」

もうひとりカウンターの右端でお酒つくりと会計をやってる女子従業員のKさんが即座に棚からグラスを出し作り始めている。

「はいロックはどっちだっけ?」

小さな体を伸ばしながらそれぞれにグラスを置くと

「Y田はあれはあれで結構努力しててさ、たまに私の前に座ると”Kさん自分のことで聞かれるといやなことってどんなこと?”とか”何を褒められると嬉しい?”とかリサーチすんのよ。二人きりになると相当マメなんじゃない?」

「ああ、あいつ変なところがマメでさ、お得意さんの女子社員に結構モテるのよ」

「そういえばO山さんこそ!」

「いよいよその件ね…、じゃあ実名を避けて話そう」

「ずいぶん慎重じゃないすか?」

「当たり前だよ、公の人だよあの人は」

「で、何してたんすかその日?」

片手で待て、の仕草をしつつカバンの中を探しはじめた。

「あったあった。ほら」

それは1枚のカラー写真だった。でも最近の物ではなく、どちらかというと私の子供の頃のカラー写真出立ての頃のもののような発色だ。写ってるのは何処かの楽屋っぽいがあまり綺麗な部屋ではない。そこにメイク中なのか頭を引っ詰めてガウンを着た女性と、何かもっさりとした青年、よく見るとそうとわかるがO山さんの学生の頃のツーショット写真だ。O山さんはピースをしている。

「あの女優だよ。その頃20歳。ガウン来てるけど仕事の時はそれを脱いでさ…。彼女渋谷の道頓堀劇場のストリッパーやってたんだよ。俺は大学3年だったんだけど、バイト先の先輩に連れられて行ったらすっかりハマってさ、そこのトップスターだったのが彼女。何度も通ううちに顔を覚えてもらって、楽屋にも入れてくれるようになって…。もちろん手は出せないけどね」

「そんな燃えるような時期があったんですね」

「馬鹿!当たり前だろ俺だってギンギンの坊主だったさ。その彼女も本当は女優目指してて、この小屋以外に劇団に入ってたんだけど、ある時映画でストリッパー役として抜擢されてね、それがフランスのあのT監督に絶賛されて、それからは俺の手も届かない存在になっちまって」

「ちょっと待ってくださいよ、そもそも手を出せなかったって言ってたじゃないですか!」

「お前も細かいねぇ。それでさ、あの日の前日だから土曜だよな。ゴールデン街で飲んでたらなんと来たわけよ、彼女が。誰かと飲んでたんだろうね、結構その時点で酔っててさ、俺はもちろんすぐ気が付いたんだけど、あの写真の頃から20年以上経ってるからあっちは気がつかないわけよ」

「確かにすっかり髪も減り、白くなり…」

「お前もうるさいねぇ。まあいいとして、ちょっと経ってから声かけてみたんだよ。“俺のこと覚えてますか?”って」

O山さんは天井を向きながら水割りを一口飲んで

「もちろん。店に入ったときから気がついてたわ、って」

「それって感動的じゃないですか」

「続きがあるんだよ。もちろん感動したさ。しかもなぁ、”あんなに毎日最前列に来てくれて私のこと穴が空くくらい観てくれて…、あなたのために踊ってたのよ”って」

「…」

「もちろん酔った勢いのおべっかと思ったよ。でもさ”踊り子はお客さんを観ないの。役中の恋人のことだけを目の前にイメージし続けるものなの。でもあの頃はあなたを見てた”って」

「うっそぉ!世界の女優さんがO山青年を!!」

「続きを聞け!でさ、彼女はあの楽屋での写真の後一週間後に映画の現場の福岡に行っちゃったんだけどさ、手紙を書き続けたっていうんだよ。撮影中毎日だってさ。ストリップ小屋に来る俺に渡してって書いて小屋に送り続けたらしいんだけど、彼女のいない道頓堀劇場は何の魅力もなくてなあ…」

「一回も行かなかったんですか?」

「もちろん」

沈黙が流れた。二人のグラスが開いてるのに気が付き、同じのを頼んだ。kさんがすぐに差し出してきた。

「ずいぶん真剣に話してるね。揉め事?」

「いや、超美しい話」

目の前のBは私たちの隣の客と来週の伊豆白浜ツアーの計画に夢中だ。サーフィンと夜のアバンチュールの日々を想定しているらしいが、おそらく台風とヤケ酒の日々になるだろう。

「T監督に見いだされてフランスに住み始めてからは、怒涛のような日々だったらしくて、聞いたらびっくりするようなビッグスターとパリで毎晩飲んだくれてたんだってさ。朝目覚めたらジヴェルニーの庭みたいな邸宅で執事に起こされたりとかさ」

「治部煮?」

「金沢の郷土料理じゃねえか!印象派のモネの睡蓮とか見たことねえのか!」

「あ、あの色彩のグラデーションの…」

「まあ、一応許しとく。その彼女が聞くのよ”私変わった?”って。”俺にとってのあなたは永遠に変わらないです”って答えたよ、となりで20年ぶりに見てもさ裸じゃないこと以外変わらないのよ真剣に。でもさ、彼女が言うのよ”役者って役によって変われるうちが花なよのよね、あなたも知ってるような若い女優さんってころころ髪型変えるでしょ?私くらいの歳になると怖くて変えられないのよ。完全に世界観が出来上がってますねとかインタビューアーに言われるけど、それって女優にとってはけなし言葉なの”ってさ」

「確かに勢いのある女優さんや俳優さんはころころ変わりますもんね。俺らのイメチェンは仕事の失敗の責任を取らされるときかな」

「俺も頭丸めたな」

「あ、あの戒告のときですね」

「そろそろうるせーな! 続きを聞け!あのいろんな賞をもらった彼女がさ、完全に自信を失ったっていうのよ。この先女優を続ける気力がないと。まあ、誰だって行き詰まることはあるわな。だからこう言ってあげたんだ、”表現って見るものあってのことじゃないですか?”って。”私にとってはあなたは新たな時代の女性を表現できる最先を行ってる方なんですよ?”って」

「…」

「そしたらさ、俺の方に椅子を寄せてさ、俺の肩に頭を載せてさ、後は夜が明けるまでそのまま。マスターも粋でさ、彼女が動き出すまでずっと、多分ペティナイフでも研いでたんだろうな、ずっと下向いてた。3時間ぐらいかな」

「…」

「彼女もマスターに迷惑かけちゃいけないって、6時に店を出て。タクシーで彼女のマンション前でおろしたときに見られたんだな。ベルコモンズの前でいいっていうから、そこで別れた」

「彼女今頃どうしてるんでしょうね?」

「分かれるときにちょうど読み終えた本を渡したんだよ。”あなたの支えになれば”って」

「何だったんですか?」

「『エチカ』だよ」


O山さんはもう飲み疲れたと言って先に帰っていった。ひとりになった私にピザの生地を捏ねながらBが悪そーな目で聞いてくる。

「その女優って誰だよ?」

「聞いてたのかよ!てっきり伊豆の空振りツアー計画にのめり込んでるかと思ってたら…」

「あんなの洒落に決まってんじゃん。しかし、O山のおっちゃんもなかなかやるねぇ。で、その女優って誰なんだよ!」

「俺たちも週刊Pとかで中学の頃お世話になったほらあの」

胸の前でふたつの大きい山を作った後、耳の下で水平に動かしおかっぱ頭というのを解らせようとしたがBはすぐにはわからないようで、もうひとつ当たり役が婦人警官役だったから敬礼の仕種をしたら気が付いた。

「まじかぁ。確かにグラビア切り抜いて下敷きに入れてたわ」

「え、ヌードを?」

「そりゃそうよ、教師が脇を通らない間は眺めてた。工業高校には女子いないからさ」

「なるほど。たしかに肩にしなだれかかられたら堪んねえよな」

そんなところに、ニヤニヤしながらH本が店に入ってきた。

「あれ帰ったんじゃないの?あれから何してたのよ」

「その女優と何があったのか聞くまで帰れないでしょう!どうせこうやって居残ると思ったから編集部に戻って仕事してたわ。であの女優とどうなった?」

しょうがないからもう一杯酒とピザを一枚注文し、初めから説明してあげた。

「わかるねぇ…、変われないっての。俺もファインダー越しに感じるんだよ、女優の迷いって言うのかな、レンズに向けた視線が弱いの。レフ板を瞳にバチッと当ててもアイキャッチしないの。膜がかかってるっていうのかな、外からの悪評や慰めを遮断してるような感じ。そりゃ、旬を終えるってのは耐えられないだろうし、そう思いたくないだろ。ただ一度のめり込んだ女優のこと、ファンは一生忘れないんだよな。そのことを忘れてるんだわ彼女達」

「いやあ、すっかりお世話になったから今でも忘れませんよ。むしろ当時の若い頃より、今のほが魅力的だったりする。そんなに自信ないなら言ってあげたいよ“今の方が素敵です”って」

Bはすっかりノリノリだ。

「H本ちゃんはさやっぱ“いいねぇいいねえ”とかって言いながら撮るわけ?」

「いやもっと優しい感じでさ、“はい笑顔くださぁい”とか甘い感じで撮ってるよ」

「まじかよ、キャラクターと違うんじゃね?」

「馬鹿、マネージャーさんもいるんだし軽ノリできねえだろ!でもさ、常にファインダー越しにこっちの気持ちを視線で送ってるんだよ。もっと泣けって、辛いんだろ、せめてこのレンズに向かって吐き出せってね」

「あっちからH本ちゃんの視線は見えないじゃん」

「でもちゃんと伝わるんだよ。このレンズは私だけを見ているって思うんだろうな。表情で返してくれるよ。大体演技の上手いっていわれる女優さんはそうだね」

「確かに見開きでアップの一枚写真なんてのに出会うと圧倒されるもんな」

「写真はさ、相手の一瞬を切り取るものなんだよ。だからこっちからも心を揺さぶってさ、時には怒らせたり泣いたりさせてさ。たくさん撮っておけばそん中に何かあるだろ、ってんじゃないんだよ。これを毎号S井とかの編集者がその場をセッティングしてくれて、俺は撮影中その女優さんと一対一の無言の対話が出来るんだからほんと有難い仕事です」

「何いきなりしおらしくなってるんすか。“私だけを見ている“ってY田のやり口じゃん」

「何だそれ?」

「いえ、やっぱそれが大事なんすね」

「ほれピザ焼けたぞ」

これまで何枚食べてきただろう、丑三つ時のここんちのピザは腹に層になり蓄積されていく。店を出るとすでに空がしらんでいた。

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