「愛について語るとき、私たちの語ること」
『熊本県産いちごティー』?
へー、いまこんなのあるんですね。ううん、見たことなかったです。気付かなかっただけかな?
え? いいんですか? じゃあ、ひと口だけ…………あー、これ想った以上にいちごですね、うん、けっこう好きかも。
ねー、ほんと大手はやっぱスゴイですよね。
この買って来たもらったパイのシリーズとかもいろんなタイプどんどんどんどん出してて――。
そーなんですよ。だから、うちも新商品とかもうちょっと考えたほうがいいのかも知れないんですけど、おんなふたりじゃどうしても手が足りないじゃないですか?
そうそう。基本常連さんばっかのお店ですし、新商品ってのもなかなか出しにくかったりしますし、わたしもいつまでお手伝い出来るか…………って、ごめんなさい。また本題からはずれちゃいますね。
で、えーっと? ドコまで話してましたっけ?
ああ、そうそう。「同じ2本の大根」ってとこまででしたね。――じゃあ、その続きから。
*
えーっと?
ということで、わたしたちは、ちがう2本の大根を「同じ2本の大根だ」と想うことが出来ます。
でも、それと同時に、その『同じ』ってヤツに違和感を覚えちゃったりもしますよね?
「でも、こっちの大根とあっちの大根ってちがう2本の大根じゃないの?」
って。
そうそうそう。
だから叔母さん――っていうか絵描きって人種はみんなそーゆー人種なんじゃないかってわたしなんかは想うんですけど――そーゆー『ちがう』ってヤツをキチンと形に出来るようになって、それでやっと『善い絵描き』って言えるようになるんじゃないか? って、そんなふうに想うんですよね。
そうそう。だから分かりますよね? なんでわたしが叔母さんの絵を好きなのかって。――ぜーんぜん売れないのに。
うん。
だって、そうじゃありません?
なんだかんだ言って『絵を描く』ってのは結局、そーゆー『ちがい』を見付ける? 認める? ためにやることなんですから。
……って、ゴメンなさい。いまちょっとわたしエラそうでした? エラそうでしたよね?
大丈夫? 大丈夫ですかね?
あー、いや、だって、美大浪人生がなに言ってんだって話で。
だってー、きょうも叔母さんに「やっぱちょっと曲がってない?」ってデッサン直されたばっかりで…………まあ、いいんですけどね、頑張るから。
で! (おお! ふたたび復活した! えらいぞ、わたし!!)
でもでも、でもですよ。
昔の歌にもあったじゃないですか、
「ナンバーワンにならなくても~♪」って、
「そもそも特別なオンリーワ~ン♪」って。
でもでもこれも考えてみるとおかしな話で。
だって、それって、そっちの方がふつうのことじゃないですか?
*
さて。
ここまで聞いて私は――この文章を書いている作者であるところの私は――この超有名アイドルグループの歌詞を引用するにあたって、当たり前のように『昔の歌』と言い切ったこの少女にもの凄いジェネレーションギャップを感じるとともに、そんな彼女のツッヤツヤなお肌と、こんな自分のカッサカサなお肌とを比べ、軽い嫉妬と憧れをも感じていたわけなのだが…………まあそれは超個人的なアレのアレなのでさておくとして――、
問題は、彼女の言うとおり、ふつうは「そっちの方がふつう」という点にある。
多様性がどうだとか、ダイバーシティがドーダコーダとか言う以前の問題として、我々はみなひとりひとりがちがう人間であり、それが世界の常態なのである。
が、にも関わらず。
稀代のソングライターがこのような曲を作り、その楽曲を28年もの活動期間の大半を「国民的グループ」として疾走し続けたかのアイドルグループが歌い上げ、そうしてビックリするぐらいの大ヒットを記録してしまうくらいに、この国と云うかこの世界の皆さんは、この『同じ』の追求と云うものに辟易してしまっていたワケで、その傾向はいまも続いていたりする。
そう。
ヒトがヒトとして生きて行こうとしたとき、この『同じ』が強くなり過ぎると、ヒトはどうしてもそこに違和感や息苦しさを感じてしまう。
「だって、こっちのアタシとそっちのアナタってちがうふたりの人間じゃないの?」
と。
そう。だからこそ彼女は、その違和感について自身の感じていることを語ろうとしているのだし、だからこそ彼女と私のこの対話は、このまま芸術や文学――と言うか“愛”についての話になって行くわけである。
と、いうことで。
ふたたび舞台を彼女との対話にもどしたいと想うのだが、ちょっとひと言その前に。
あのさー、
なんて言うかさー、
いま調べたらさー、
問題のこの曲ってさー、
2003年3月のリリースなのね?
そうそうそうそう。
なんだかんだでもう20年? ぐらい経っちゃってるだって! オンリーワンから!
そりゃーこっちも年取るって話でさー、
肌もカッサカサになりゃあ目もショボショボしだすって話でーー、あーあ、わかいってのはいいよわよねえーー、
ケッ。
*
「なるほど。それってつまりは『意識』と『感覚』のちがいってことね?」
「……はい?」
「あ、この言いかただと分かり難いわね……ザクッと言うと、『同じ』は頭のなかで考えたことで、『ちがう』は身体が感じてくれること」
「あー」
「『意識』の上、頭のなかだけでなら、どの人もこの人も『同じ』にすることは出来る。だけれどそれは『感覚』が、あなたの身体が許さない。あの人とこの人は『違う』」
「おー」
「人がひとの身体を捨てられない限り、この『感覚』と云うやつはなくならない。だから善い絵描きであるあなたや叔母さんは――」
「あ、あの、カシヤマさん?」
「うん?」
「ひょっとして、それって“愛”についてもそうじゃないですか?」
「あー」
「ほら、さっきわたし、例の本について「ちょっと腑に落ちない部分もあった」って言ったじゃないですか?」
「あー、はいはい」
「腑に落ちなかったのって、まさにそこでして」
「なるほどね」
「だって、あの本を書いたひとは『an apple』をヨシとしようとしている感じなのに、本の中のひとたちは『the apple』を愛していて、それをうつくしいって感じてるですもん」
「美少年も含めてね」
「そうそう。だってほら、誰かを愛するのって、「私の愛するこのひとは他の誰とも『ちがう』」って宣言するようなもんなんじゃないですか?」
「うん。たしかに。たとえばフッた相手に、「なんでオレじゃなくてソイツなんだ?」って訊かれたとしても、こっちが返せるのって「だって、アナタはこの人じゃないでしょ?」って言葉ぐらいだもんね」
「おお、なんかリアリティがある」
「だてに年は取っておりませんから」
「そうそう。だから、あの本を書いたひとの言いっぷりって、その『the apple』のなかに『an apple』を認めたからだ――みたいな感じなんですけど、わたしには、それが、もう、どーーーーーーーーーーーーーーーーーしても、はだに合わなくって!!」
「はは。やっぱエマちゃんは美里さんの姪御さんね」
「――へ?」
「だって芸術……だけじゃなくって文学もだけど、そういうのって、その『ちがう』を見付けて、その『ちがう』を認める、許すために存在してるんだもん。みんながみんな『an apple』しか描かなく、書けなくなったら、それは芸術の敗北になっちゃわない?」
「…………これ、そんなおっきな話なんですか?」
「そりゃまあ、“愛”について語ちゃってるから――だから、そう、そうね。その、人が人として生きていくためのムズカシサとかメンドクササとか、結局“神さまのようには愛せない”ってことの言い訳って言うか確認みたいなもののために、私たちはよく分からないお話を延々延々ダラダラダラダラ書き続けてるワケだし、エマちゃんや美里さんは一本の線、一個の点のちがいにこだわりながら絵を描き続けているワケでしょ?」
「あー」
「美里さんの代わりがいないのと同じように、エマちゃんの代わりもいない」
「――カシヤマさんの代わりもいない?」
「まあ私はマルチバースシステムを導入してるからほぼ無限に替えが効くんだけど――」
「――は?」
「あ、いや、ごめん。聞き流して」
「――はあ」
「ま、いずれにせよ、“Ars longa, vita brevis.”――描き続けなくちゃね、お互い」
「――はあ」
「ま、エマちゃんならほっといても描き続けるでしょうけど」
「――ですかね?」
「だと想うわよ?」
「だといいんですけど……あ、そだ」
「なに?」
「はなしぜんぜん違うんですけど」
「うん?」
「いまの変な英語」
「英語?」
「まえ叔母さんにも言われたことあるんですけど、それなんて言ってるんですか?」
(了)
《作者注》
(その1)
この文章はエッセイとして書き始めたものなのだが、書いている途中で急に恥ずかしくなって来たため、拙作『エマとシグナレス』ならびに『千駄ヶ谷の中心で愛を叫ぶ』の登場人物のひとり木花咲希 (このはな えま)にご登壇いただき、作者の代わりに語ってもらう形を取った。もし彼女に興味を持たれたかたがいれば、上記二作品も是非お読みいただければ幸いである。
『エマとシグナレス』 https://ncode.syosetu.com/n8522ha/
『千駄ヶ谷の中心で愛を叫ぶ』 https://ncode.syosetu.com/n8003hm/
(その2)
作中でも述べているとおり、今回のお話はプラトン対話篇の傑作『饗宴』と『パイドロス』、それに養老孟司先生のユーチューブ動画に大きく依っている。もしこれらに興味を持たれたかたがいれば、一度それぞれご覧頂ければ、これもまた筆者としては幸いである。
(その3)
これも作中で言及していることだが、“樫山泰士”のキャラはマルチバースシステムを採用している。そのため、作品によっては、ときどき年齢や性別や性格なんかが変わっていたりもするのだが、そこはそれ、「へー、なんだかSFっぽいね」と適当にながしていただければと想う。――今度はハウルみたいなイケメンキャラで登場してやろうか知らん?
(その4)
この作品のタイトルはレイモンド・カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること (What We Talk About When We Talk About Love)』から取ってはいるが、すでにお読み頂いたとおり、あちらの小説とは実はなにも関係がない。――多分ね。