黄昏時間
閑散としたシャッター街通り。その一角にひっそり佇む昔ながらの喫茶店に俺は入店した。ダークブラウンの椅子の背もたれに全身を預けていると、マスターの奥さんと思われる女性がメニューを持っていそいそとやってきた。注文を聞かれる前に俺は大盛サイズのペペロンチーノを注文した。
時間は有限だ。人の一生は長いようで短い。俺に残された時間はあと幾何だろうか。俺は床に置いていたダッフルバックからどでかいタイプライターを取り出し、年季の入っていそうな薄汚れたテーブルの上に置くと早速、報告書の作成に勤しむことにした。
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東村山市のアウルレッドストリート10の7番地。依頼人であるトリアース星人はオリオンアパートメントの101号室に住んでいた。トリアース星人には時間の概念が無い。なぜならば頭上に生えている2本の触角によって彼らは現在、過去、未来を同時に見渡せると同時に、こことは違うどこか別の時間軸へ移動することができるからだ。
世にも珍しいトリアース星人からの依頼内容は、隣の部屋から聞こえてくる騒音が原因で不眠症になってしまったため何とかしてほしいという依頼であった。引っ越しするなりすればいいものの、よっぽどその部屋が気に入ったということなのだろう。あるいはその部屋に留まらなければならない理由があるのか。依頼者の事情がどうあれ俺の知ったことではない。俺のやることはただ1つ。依頼を解決すること。
彼の住まいは角部屋に位置し、右隣の部屋は長らく空き部屋となっていため隣から物音が聞こえてくるなどということはあり得ない。それでもヤツは隣の部屋には誰かが住み着いている。甲高いサイレンのような音が聞こえてくると必死の形相で俺に訴えてきた。彼の表情は深刻そのものだった。大家に何度、連絡を入れても全く取り合ってくれず、警察に相談しても事件性無しとして事務的に処理されてしまったらしい。というわけで俺に仕事が回ってきたというわけだ。音はいつ頃聞こえましたか? という無駄な質問はしなかった。先ほど言ったようにトリアース星人と人間では時間の捉え方も物の見方も違うのだ。
彼らにとって時間とは常に一定方向に流れ、移ろうものではない。そもそも時間の概念が無いため、隣の部屋から聞こえてくる騒音は過去か未来のものかもしれないのだ。こんな簡単な可能性すら思い浮かばないなんて、もしかしてトリアース星人ってバカな奴が多い種属なのか。腑に落ちないものを感じながら俺は仕事を引き受けた。
トリアース星人はコンスタントに現代に留まることはないと言われている。彼らの時間移動の目的は不明だが、彼らはある日突然、この世界から消え失せ、どこか別の時間に移動する。自由気ままな時間の放浪者である彼らと俺とでは面白いほど生き方が対照的だ。俺は好きで時間に縛られた生活を送っている。
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大家にマスターキーを貸してもらい、102号室に足を踏み入れた。玄関口で早速、鄭禧碕禰砥笥を使用。ヒルベルト数値を計測を行った。
反応ナシ。得られた情報はといえば102号室には特におかしな点は見当たらないということだけだった。大家に手間賃を握らせたために収支は今のところマイナスだが、何もなかったということが分かっただけでも僥倖だろう。引き続き調査を行い、調査報告書に何も異常が無かった旨を書き込まば俺の懐に金が舞い込んでくる。簡単な仕事だ。
時間は有限だ。テキパキ効率的に足を動かし、余裕をもって事前に動くことが重要である。
足。足。足。足。
足を動かすのが仕事の基本なのだ。
さて、トリアース星人になんと報告しようかと頭を捻りながら101号室のドアをコンコン。
ガチャリ。すぐに内側から鍵が開く音。けれどもドアは一向に開かず。仕方が無いので入りますよと一言添えて部屋に入る。
部屋には誰もいなくなっていた。彼の肉体は未来か過去、別の時間軸に飛んだのだろう。
不都合な肉体を持った異星人だな。俺は深いため息をつきながら6畳1間の畳の上に尻を落とす。
鄭禧碕禰砥笥でヒルベルト数値を計測しながら彼が再びこの時間軸に戻ってくるのを待つことにした。程無くしてテーブルの上にある置時計の長身はぐるりと1周した。この置時計は自作品だろうか。内部の複雑な機構が剥き出しの不恰好さに俺は眉をしかめる。
ヒルベルト数値は依然として変化なし。流石に1時間やそこらでは戻っては来ないだろうとは覚悟していたので肩を落とすことは無かった。しかしこれが2時間、3時間と経過していくにつれ俺の首筋に珠のような汗が浮かびあがるのは自明の理だ。願わくば依頼者が早めに帰還することを祈る。
チクタクチクタクチクタクチクタク。
時計の針の音は睡眠導入器具のような猛烈な眠気を与え、俺はついつい微睡んでしまう。トリアース星人が戻ってくるまでの間は眠っても罰は当たらないのではないか。天使の面を被った悪魔に耳元に囁かれて、俺の意識は既に飛びつつあった。
チクタクチクタクチクタク。
その時、風になびく窓際のカーテンの隙間から一瞬、チクタクマンが見えた気がした。
ナイアルラトホテップの化身で時計仕掛けの神でもある彼は特定の人間の夢に現れ、人に機械を製作させる能力があると噂されている。目的は分からない。実在するのかも分からない。けれども誰もが彼の姿を知っている。
気づけばもうチクタクマンの姿はいなくなっていた。
すると鄭禧碕禰砥笥が汽笛のような唸り声を上げ始め、俺はハッと我に返り、ディスプレイに表示されているであろうヒルベルト数値を確認した。そして画面上にエラーの値がキックされていることを知ると俺は頭を枝垂れのように下げ、項垂れる。
そういえばあれから結構、時間が経過した気がするが、今は何時何分だろうか。俺は置き時計をチラッと横目で見て、そして目を剥いて驚愕した。時間が逆行している。
時計の針は1時間前に時間が巻き戻っており、今もなお現在進行形で1秒1秒と過去へ遡っているのだ。
ただの故障だと思いたかったが嫌な予感がする。こういう嫌な時に限って俺の直感は驚くべきほどの的中率を誇る。俺は床を這いずりまわるようにして窓へ近づきカーテンを乱暴に開けた。窓の外には人も車も後ろへ動いている異様な光景が広がっていた。
山の稜線に隠れつつあった太陽も、西の空に未だはっきりその姿を見せている。いったいどういうことだ。気が動転した俺は、ダッフルバックを担ぎ上げて転がり出るように101号室を後にし、大急ぎで路上に出た。
血相を変えて息を荒げている俺の姿がよっぽど奇異だったのか、道を行き交う人々が目を丸くして訝し気にこちらを見ている。俺の存在に気付くということは時間はコンスタントに流れている。大丈夫だ。今、俺は正気を保っている。
腕時計の針。人。車。雲の流れ。
みんな前に進んでいる。
そう、俺は寝ぼけていただけなのだ。
俺は至って平常だ。
ところで俺はここで何をしてたんだ。
◆◆◆◆
ペペロンチーノをぺろりと平らげ、食後の珈琲を堪能しながら俺は完成した報告書の推敲作業に移っていた。俺が経験した奇妙な体験談は根こそぎ省き、必要な情報だけが乗った無駄のない簡潔な文章に俺も少しは新人の頃より成長したなぁと感慨に耽る。
けれども今日の依頼も俺の頭もどこかおかしい。俺に仕事を依頼してきたオリオンアパートメント101号室に住む奴はいったいどんな面をしたヤツなんだろう。大家に電話で問い合わせたところ101号室も102号室も、もう長らくずっと空き部屋ですよと言っていたし、俺の記憶は靄が掛かったようにぼんやりと混濁している。
報告する依頼者も行方知れずというのに俺はどうして報告書を書いているんだ?そもそも俺はこの依頼を受けた覚えがない。そんなことは今まで1度足りとも無かったはずなのに。辻褄の合わない筋書きの舞台劇を見せられた時のようなどこか腑に落ちない感情に俺は悶々とする。
何かがおかしいことは分かっている。けれどもその何かが分からない。いったい全体、俺はどうしちまったんだ。
おっと。いけない。時間は有限だ。分からないことを詳らかにしていくのは俺の仕事ではない。分からないものは分からない。それでいい。限られた時間の中でキビキビいそいそと動かなければならない。前もって事前に動くことで時間にも心にもゆとりができる。人の一生は限られているのだから。
タイプライターをダッフルバックに詰め込み、俺は机の上に置かれた伝票を手にして席を立ち、そして気づいた。隣の席の中年のオラルルト星人が口元に運ぼうとしていたサンドイッチを白い皿の上に乗せようとしていることに。
良く効いていたはずの空調設備は涼しい風を吐き出そうとせず、意地悪なことに逆に冷風を吸引をしている。
――そんな馬鹿な。
大きな声で喚いても誰も俺の存在に気付いてはくれない。窓から見えるシャッター通りを行き交う人々は全員後ろ歩きをしている。
その中で貴婦人が連れていた一匹のゴールデンレトリバーだけが立ち止まり俺と目が合ったが、大きくざらついていそうな舌でペロリと舌なめずりをしてすぐに尻尾を振ったままマダムにリードで引かれ後ろ向きに立ち去っていった。
犬の黒曜石のように煌めく瞳の中に俺は映っていないようだった。代わりに室内の照明に照らされ窓に薄く映った俺自身の姿が浮かび上がる。それを認めた時、俺は全てを悟った。
◆◆◆◆
「食い逃げされただと?」
「えぇでもおかしいのよ。さっきまでそこにいたはずなのに、パッと消えたの。まるで煙みたいに」
厨房で料理の腕を振るっている厳つい顔をした妙齢の男性の表情は深刻だった。眉間には彫刻刀で掘られたような深い皺が寄せられている。
「そんなバカな言い訳が通用するか。いったい何年この仕事やってるんだお前は。食った後にお前の目を盗んで逃げだしたんだよ」
「そうかもしれないけど……でもあなたおかしいのよ。だってそしたらドアが開いた時、鈴が鳴るはずでしょ。それすらなかったのよ」
「そいつはどんな姿をしてたんだ?」
「皮膚が黄色くて、頭から触覚が2本生えてて、でもそれ以外はそっくり人間に近かったったわ」
「触角の先端の色は何色だった?」
「確か……ええっと。赤色だったような」
「くそ。よりにもよってトリアース星人か。あいつらすぐに別の時間軸に逃げ込むからな……こっちの時間に戻ってきたときには取っちめて警察に突き出してやる。しばらくその場で見張っていろ。全く……この忙しい時期に」
黄昏時の喫茶店の床に彼の仕事道具であるダッフルバックがそのまま床の上に放り出され、ファスナーの隙間からタイプライターと鄭禧碕禰砥笥が顔を覗かせていた。
夜の帳が降りる。