落とし物奇譚
誰も死なず、復讐や過去の因縁など何もない日常の話です。
そんな日常の中で接するちょっとした話でも、少し考えてみるとパッと見では分からなかった状況が見えてくることがありますよね。
これが推理小説かと言われるとただの日常系エッセーみたいな雰囲気の作品ですとしか言えませんがもしかしたら何か謎があるかもしれないと信じで読んで頂ければ幸いです。
私、青目静夏は悩みがちな性格だと思う。
女子寮の廊下を歩きながら補食室に向かう日曜の夜。
廊下の窓の外はもう真っ暗で、九月の終わりの少し涼しすぎる風が吹く音が聴こえる。
私が持つお盆の上のガラス製のフレンチプレスと二つのマグカップがカタカタ、キンキンと音を立てる。
ガラスと陶器が当たっているので、材料工学の授業で習った脆性とか靭性とか粘性などの言葉が頭の中でクルクルと回り、割れないか少し心配になる。
持ち替えてマグカップの位置を変えようかとも思うがお盆ごとひっくり返す気もするので、悩む。
そう、私はいろいろなことに悩みがちなのだ。
最近もかなり悩んでいたことがあったのだけど、その件に関してはいろいろあって友達に助けてもらって無事に解決した。
で、この件で私が得た教訓……というと大げさかもしれないけど、ともかく悩みというのは自分の中にだけ存在するうちはどんどん大きく、重く、深くなっていくもので、つまり何が言いたいかというと……えっと、なんだっけ?
そんな考え事をしている間に補食室に着いた。
補食室のドアを開けると談話スペースのソファーに座ってテレビを観ている指導寮生のガマ先輩がいた。
「あ、ガマ先輩、こんばんは」
「お、青目ちゃん、お、紅茶? いいね。なんかこう、オシャレな女子って感じがする。あたしなんか、これだよ?」
振り返ったガマ先輩はそう言って笑うと、持っているカップラーメンを掲げた。
ジャージのハーフパンツに白いTシャツという、まるで部活帰りの男子高校生みたいな恰好だけどこれがガマ先輩の普段着だ。笑顔、白い歯、日焼けした肌、全てが健康的すぎる。
先輩は環境科の四年で、この女子寮三階の指導寮生だ。
「町野さんとお茶を飲もうと思いまして。彼女もさっき帰ってきたところで……」
「おー、里子ちゃんの部屋でやるのね。あいつ今週も門限ギリギリだったんだな。名古屋だっけ? 実家」
「そうです、バイト終わって疲れたーって言っていました」
二年生になってすぐの一学期の寮の部屋替えで、隣の部屋になったのが電気科の町野さんだった。
これまでは朝の体操や掃除の時に少し挨拶をする程度だったけど、先日の私の悩みについて相談に乗ってもらったのが彼女だった。
それ以来よく会話するようになり、今では夜の自由時間に部屋でおしゃべりをする仲になっていた。
日曜の夜の二十一時を過ぎると、さすがに補食室で夕食を作るような人はいない。ガマ先輩のような例外もいるが、今は給湯スペースやガスコンロには誰もいない。
私は町野さんの部屋から持ってきたフレンチプレスとマグカップにお湯を入れる。途端にカモミールの甘い香りが部屋に広がる。マグカップのお湯を流しに捨てて、温かくなったマグカップをお盆に戻す。
テレビの方を観るとガマ先輩はバレーボールの試合を観ていた。日本の女子チームとブラジルが対戦しているようで、先輩はたまに「ヨシッ! 良いパンケーキ!」「あぁ、アウトかぁ」と声を上げていた。
フレンチプレスの中で踊る茶葉が落ちついてきたので私は先輩に挨拶をして補食室を後にしようとする。
「あ、青目ちゃん、今度の寮祭の後の打ち上げの会費五百円。今週のどっかで回収するから用意しておいてくれる? 毎回お釣りで大変だからできればキッチリ五百円あると嬉しいかも」
ガマ先輩はチラリと私の方を見て引き留めると、目線をテレビに戻しながら言った。
そうだ、寮祭の打ち上げの集金があるんだった。
「はい、わかりましたー。町野さんにも言っておきますね」
補食室を出て町野さんの部屋に戻る廊下には、私の足音とどこかの部屋から漏れてくるラジオの音がかすかに聞こえていた。
◇
「静夏ちゃん、聞いて! 昨日のバイトでね、面白いことあったの」
私が補食室から戻ると実家から帰ってきた町野さんは荷物の片付けを終えていて、チェックのスカートにクリーム色のカーディガンという普段着から、寮生らしいジャージ姿に戻っていた。
よほど話たかったことなのか、彼女は開口一番でそう言った。
「面白いこと? なになに?」
町野さんは私と違って思ったことはズバリと言うし、明るくて誰とでも会話できる社交性の高さを持っている。
「いや、ちょっと待ってごめん。面白いかというとちょっと自信なくなってきた」
「ふふっ、なにぃそれ」
私は思わず笑ってしまった。もうこの時点で面白い。
「いや、昨日のね、バイトの時、朝の開店前の掃除をしていたら店の前の花壇みたいなところにコンビニの袋が落ちてたのよ。はじめはゴミかと思ったんだけど、袋の中にいろいろ入ってたから店長と中身を確認したの」
町野さんは勉強机の椅子を引き寄せて背もたれを抱きかかえるように逆座りすると、ぐいっと身を乗り出してきた。
私はベッド横のサイドテーブル替わりの衣装ケースの上にお盆を置き、マグカップにお茶を注ぎながら彼女の話を聞いた。
「そしたらね、中にお財布が入っていたの。で、免許証とか身分証みたいなものが入ってないかなって中身を確認したらスゴイ札束が入っててね。財布以外にも近くのコンビニのピラフ弁当とコーラと水のペットボトル、あとはタバコとかガムとか……。あ、完全に溶けて液体になったアイスのパピコとガリガリ君も入っていた」
「さ、札束? それはすごいね。いくらぐらいだったの?」
「千円とか一万円とか、そういうのがごちゃ混ぜで何十枚も入っていたよ。うーん、だいたい三十枚以上あったと思う」
町野さんは顎に親指を当てて天井を見ながらそう言った。とても分かりやすい『うーん』というポーズが町野さんらしいなと少し楽しい気分になる。
私はニコニコしながらマグカップを彼女に手渡してベッドに座る。ここが最近の私の定位置だ。
「はい、カモミール。って、それはたぶん結構な額だねぇ。落とした人、お金持ちの社長さんとかなのかな。大丈夫なのかな」
「ありがと。そうそう、たぶん大丈夫じゃないよね。お財布の中はお札以外にも免許証とかクレジットカードとか定期券が入っていたの。落としたら絶対凹むものオールスターみたいな状態だったよ。で、免許見たら普通のおじさんだった」
「なんだ、じゃあ名前分かるからすぐにお財布、その人に届くから良かったね」
「それがさぁ、そこが意外だったんだけど。店長がそれを交番に届けにいったの。土曜の朝よ。で、免許証も入っとるからすぐ警察が連絡とってくれると思っとったんだけど、警察からはすぐ本人に連絡するとは限らんのだって」
「えぇ、そうなの?」
「そうそう、店長が届けた時はまだ警察にその財布の落とし物の届け出はされてなかったっぽい。遺失物? だっけか。そういう情報をまとめるセンターに登録してから免許証とか落とした人を特定できるものがあれば連絡することもあるんだって。基本、落とした人が落とし物の届け出をしたら、それですぐ連絡とれるらしいんだけど」
「へぇ、落とし物ってそんな感じなんだ」
「そうみたい。それが意外で面白かったんだけど、もうちょっと不思議なところがあってね……」
町野さんは勢いよく喋って喉を潤すためか、ようやくカモミールティーを一口飲んだ。猫舌なのであんなに勢いよく喋っていたのに飲むスピードはとても慎重でゆっくりだ。
私はマグカップを両手で持ち、ワクワクしながら次の言葉を待つ。
「美味しい……。そうそう、でね、警察届ける前に財布の中を確認したって言ったじゃん? その時に定期券を見たら栄から八草までの区間だったの。おかしくない? うちの店、そもそも駅から離れているし、近くても藤が丘駅なんよ」
町野さんがバイトしているのはコーヒー豆や製菓材料を売っているワルツというお店だ。
町野さんの実家の近く、名古屋の東の端に位置する地下鉄の藤が丘駅から歩いて十五分ぐらいのところにある。
彼女は週末実家に戻って土日でバイトをしている。
「栄から地下鉄で藤が丘、そのあとはリニモで八草なのかな。確かに藤が丘は乗り換えの駅だけど、そこからお店まで来るのはちょっと寄り道にしては遠いよね」
「でしょでしょ。だから何でそんな人の落とし物がうちの店の前にあったのかなって。不思議じゃない? 定期券ここにあるのにどうやって帰ったんだろうって気にならない?」
「財布も定期もなくて、ほんと、どうやって帰ったんだろうね」
「謎だよね。まあ場所的に落としたというよりは、たまたまそこにコンビニ袋を置いて忘れちゃったんだと思うけど、それにしても忘れ物のレベルが高すぎる」
「ふふっ、いや、忘れ物のレベルって。でも確かに授業で教科書忘れるよりも電車に乗ろうとした時に定期券が無いって方が困るレベルが高いね」
「忘れ物といえば、若木のやつが先週の実験実習で作業着忘れてきてさ。朝着てくるだけなのに忘れるとか、なんなのよ、あいつ。普通そんなもの忘れる?」
「あー、でも若木くん、地味に忘れ物よくするよね。昨日もバイト同じ時間でシフト入っていたけど店のエプロン忘れてきてた。結構、気が回ってしっかりしている感じがするのに、たまに抜けてるところあるよね」
そんな感じで私たちの夜のおしゃべりは消灯時間まで続いた。
◇
「え、そんな話してたの? 俺の忘れ物の話を?」
昨日の夜にくしゃみをした理由はそれかと昼飯を食べている今、俺は理解した。
目の前では町野さんがアジフライにかじりつきながら、午前中の実験実習で測定をミスった俺に文句を言っていた。
お小言の中で、昨夜も寮の部屋で青目さんと会話して俺のバイト先での忘れ物の話が出て『そもそもお前は抜けているところがある』という結論になったという指摘を受けたのだ。
「いや、でも町野さん、そんなことを言ったって人間、忘れるものは忘れるんだよ。ヒューマンエラーは防ぎようがないから、こう……なんというか、仕組みとか仕掛けでそういうエラーが発生しないように」
「若木、それが分かってるなら何とかしなさいよ。部屋を出る前にメモを目に付くところに貼っておくとか、あるじゃない」
町野さんは元々細い目をさらに細めてこちらを見る。見るというか、これは睨んでいる。
「橋田くん、どう思う? 若木の忘れ物とか、結構ひどくない?」
町野さんは俺の隣でニコニコしながら大盛りのご飯を掻きこんでいる橋田に同意を求めた。
「まあ、確かに若木くん、たまに忘れ物することあるよね」
橋田は特に俺に助け舟を出すわけでもなく、そう言うと黙々と昼飯を食べている。
「あー、そうだ若木、知っとった? 免許証とか落としても警察はすぐに連絡くれんのよ」
「え? そうなの? だって名前分かるじゃん。それじゃダメなの。ってか何で急に?」
突然忘れ物の話から警察の話が出てきてシンプルに驚いた。
どうやら町野さんは週末の地元でのバイトで落とし物の対応をしたそうで、彼女からバイト先での落とし物の話を俺達は聞かされた。
「……ということがあったのよ。まあ警察に届けたのは店長だから、私が直接聞いたわけではないんだけど結局警察も暇じゃないからね。いちいち連絡とれんのじゃない?」
町野さんは一通り喋りながら、きっちりと合間にアジフライを平らげて今はお茶を飲んでいる。
「へぇ、知らなかった。落とし物も大変なんだね。ってその落とし物、結構、謎だよね」
「そうそう、札束が入った財布の落とし物ってことでちょっとテンション上がったけど、どうやって帰ったとか、なんでうちのバイト先に置いてったのかとか、謎過ぎる」
「確かに、財布も定期券もそこに置きっぱなしだったんだろ。藤が丘駅から電車に乗ったとして、どうやって乗ったんだ」
町野さんの話を聞いてどういう状況だったのかイマイチ理解できないでいると、いままで黙って話を聞いていた隣の橋田がようやく口を開いた。
「忘れ物を町野さんが見つけたのが土曜の朝でしょ。ということは金曜の夜から土曜の朝にかけてそのおじさんがコンビニで買い物をしてそれをお店の前で忘れたってことだよね」
「そうなの。コンビニ、うちの店からめっちゃ近いから、そもそも忘れるの早すぎるのよね」
そういうと町野さんはケラケラ笑った。
「じゃあさ、町野さん。町野さんのバイト先の近くに居酒屋さんか、ラーメン屋さんってないかな?」
「えっと、居酒屋さんは近くには無いと思う。そういうお店は藤が丘駅の近くに多いの。あ、でもラーメン屋なら味仙があるよ。すごい近く」
「あー、味仙か。知ってる。名古屋で有名な辛い台湾ラーメンのお店でしょ。一度行ってみたいんだよね」
橋田はそういうと手をすり合わせた。さっき大盛りのご飯を食べ終わったばかりなのに、運動部は食欲が無限に湧くのかもしれないなと思った。
「橋田、それがなんか関係するのか」
「あるある。あると思う。いや、今聞いた話から思いつく話だから、本当にそうか分からないけど、その落とし物の顛末はなんとなく説明付くと思うよ」
「え、橋田くん、それ、どういうこと?」
町野さんが細い目を見開いて橋田の方に身を乗り出す。町野さんはとても良い笑顔をしている。彼女は橋田のこういう話を聞くのが好きなのだ。
「その落とし物は、財布の持ち主のおじさんが近くのコンビニで買ったものであることはたぶん間違いないと思うよ。その落とし物は恐らく金曜の夜の物だよね。おそらくそのおじさんは、その夜に飲み会があったんだと思う」
「まあ、サラリーマンが金曜の夜に飲み会をするってのは分かる」
俺は自分の家で会社員の父親が良く金曜の夜に酔っぱらって帰ってくるのを何回も見ている。
「そしておそらく、そのおじさんはその夜の飲み会の幹事さんだったんだよ」
橋田は人差し指を立てて断言した。なんだその人差し指は。
「なんでそんなことわかるんだよ」 俺は食い気味に橋田に聞く。
「あ、会費か。飲み会の会費をまとめていたから、そのおじさんの財布にお札がたくさんあったってこと?」
町野さんが理由に気づいてつぶやいた。
「その通り。皆から飲み会の会費を現金で回収して、まとめて支払ったんだろうね。おそらく支払いは一気にできるクレジットカードを使ったんじゃないかな。だからお財布にはみんなから回収したお札がたくさん入っていたのかもよ」
言われたら確かにその通りだ。ちゃんと会費きっちりの金額を出す人もいれば、一万円札を出してお釣りをもらう人もいるだろう。千円や一万円札がごちゃ混ぜでお札に貯まるのも分かる。
俺も今週先輩に言われて寮祭の打ち上げのお金を回収しなきゃいけないから、お釣り用の五百円玉を多めに貯めていたのを思い出した。
「飲み会の場所は栄だったのか藤が丘駅だったのか、他の場所だったのかまでは分からないけど、そのおじさんは恐らく結構酔っぱらった状態で藤が丘駅までは来ていたんだと思う。そしてそのあと、ラーメン屋さんに行きたくなったんじゃないかな。有名な味仙があるなら、藤が丘駅から歩く程度はするでしょ」
そう言うと橋田は二本目の指を立てた。これはもしかしたら状況を一個ずつ説明するということなのか。町野さんは目をキラキラさせながら橋田を見ている。
「ご機嫌で散歩した後、味仙で二次会か飲み会のシメなのか、ともかく何かしら飲んだり食べたりして満足したおじさんは、ラーメン屋を出て目の前のコンビニを見た」
「そりゃ行くわね、コンビニ」
町野さんが合いの手を入れる。
「そこでまだ小腹がすいていたのか、タバコを切らしていたのか、水分を取りたかったのか、アイスが食べたかったのか、どんな理由か絞り込めないけどコンビニに入った。そして買った物を食べたりするために休憩したのが町野さんのバイト先の店の前。ちょうど生垣のブロックがあるからそこに腰かけたんだと思う」
なるほど、それなら話が通る。
「でもそれならどうしてそこに忘れ物をして、どうやって帰ったんだ」
俺は残っている疑問点を言う。
橋田はそれを聞いて三本目の指を立てて笑顔になった。
「たぶん、おじさんと一緒にいた同僚さんが目の前を走るタクシー見つけたんじゃないかな。それでタクシーを呼び止めて、二人でタクシーに飛び乗ってその時コンビニの袋をそのまま忘れちゃったんじゃないかな」
「え、なんでもう一人が出てくるんだよ。そんなの分かんないだろ」
「いや、だって町野さんが見た落とし物の袋に、溶けたパピコと解けたガリガリ君の袋があったんでしょ。いくら酔っぱらっていても、アイスを一気に二つ食べる人は少ないと思うから、その時おじさんの隣にはもう一人いたんでしょ。たぶんその人の家がおじさんと同じ方向だったから、一緒にタクシーで帰りましょう……ってなったんじゃない?」
橋田は一気に言い切ると、自分は満足したという笑顔で食器の乗ったお盆を持って立ち上がった。
俺と町野さんは、一瞬で解かれたどうでもいい謎解きの答えを聞いてポカンとした顔になったまま「あぁ、なるほど」と声を合わせてつぶやいた。




