第四の聖典 第一巻 第一帖~第二帖
有機霊感で描く「第四の聖典」。
第一帖
富士は晴れたり日本晴れと言うた事、間違いではないぞ。悪を抱き参らせよと申した事、間違いではないぞ。キリストにはキリストなりの善、ムハンマドにはムハンマドなりの善があると申してあろうが、一貫しているぞ。「第三の聖典」の聖典となった「日月神示」はまつりぞ。「第四の聖典」、この書は結婚式ぞ。多神教と一神教の結婚式ぞ。意味の分からん事を申しているようなれど、わけの分からんのは、多神教と一神教の区別ぞ。神には分けがないのは分かるか。どうしてであるか、分かるか。神には多神教の区別と一神教の区別こそがのうになっているのだ。
それで神には分けがないと主張出来るのだ。神ばかりに押し付けておいて、今更何を言うか。神分けないぞ。つぶやくたびに、増長した心がうずくぞ。みな神がさしているのだ。と申した事、間違いではないぞ。ツイッターというものは、ささやくという言霊が元ぞ。それでやらせたまでは良かったなれど、情報共有を仲間内でして、何をたくらんでいるのやら。始めがあり(「創世記」のベレシート)、預言者の終わりがあるぞ(「クルアーン」の預言者の打留)。
付け加えあるぞ。ないとは限らんという事悟りなされよ。
始めあるぞ(「日月神示」)、終わりあるぞ(「第四の聖典」)。
第二帖
星は降り、天魔も降り、神も降る。降る様な夜空はこの様であるぞ。
降ってきた神をまつり、存分に栄えよ。
降ってきた神の正体、まがつ神であるぞよ。
「聖書」の星が落ちてくるではなく、まがそのものが落ちてくるのである。
まがつ神、まがの神は案外、天性に満ちあふれているのであるぞ。
降ってくるのは、まがつ神。
降って湧いた様に、この神も湧いてくるのであるぞ。
この神とは、国の神である。国祖神の事である。(クニノトコタチノカミである。)
降る様な夜空とは良く言ったものだが、むしろ、重要なもの程、降るのであるぞ。集めて参れ。
尾張の仕組みなったぞ。
この書こそがそれであるぞ。
もし、尾張の仕組みがなったなら、この書もなりなり、始めなり、終わりなりと、天の神様、萌え出る、言申し上げてから、身新たに、生まれ変わるがごとくにして、蘇りし真の神、ゆえ、すべて、丸く収まれり。