日月神示とガチのオカルトオタク達2
言霊信仰というものがある。数霊と共に処理すべき事柄なのだと、理解出来よう。
「日月神示」とガチのオタク達。
オカルトにおいて、頂点である人々が集まっていた。
「日月神示」の下にである。
彼らは「日月神示」というものを自己完結的に話し合っていた。話し合うと言っても直接話し合うわけではない。小説形式にした方が面白いと想うからそうしたまでだ。
彼らは予言という所に重点を置いて、他のオカルト話とも繋げようとしていた。ガチのオタクだけあって、まだまだ、オカルトのオタク達は新鮮であった。
ネット以外の萌えのオタク達と違って、ヤマタノオロチに犯されない処女性を持っていた。
すなわち、ある意味において、彼らは乙女だったのである。確かに、ぐちゃぐちゃになってしまった、萌えのオタク達と違い、彼らはネットで完結し、オカルト話も程々に、実に生真面目に「日月神示」に取り組んでいたのである。
もしも、彼らに場があったなら、宣伝する事は容易だったろう。それだけガチなオタクだけが集まっていたのである。
まだまだ、一般の人の広まりが期待される中で、彼らはガチのオタクであったと今述べておこう。
陰謀説や予言等が注目される中で、実際の著者であるうしとらの金神の神観について述べたいと想う。
まず、聖書に基づいて、あるいは、クルアーンに基づいて、神観を追い求めるならば、「ヨハネの黙示録」の様に、終末が来て、復活があり、神が裁く。という所までは同じな様だ。しかしながら、神の復活もあるので、別枠として、「日月神示」に描いていない、「神の復活」というものを加えたい。「神の復活」とは、真の神と言われるクニノトコタチノカミの復活だ。
すなわち、宗教化せずにおいたのは、完全なる良心によって、クニノトコタチノカミの復活が語られる為だろう。
完全なる良心。良かれと想ってと良心は語るが、その良かれ良かれが鍵なのである。
良かれ良かれとは、二回の良心による制裁や戒めの事である。
戒めは良心の塊だが、戒めこそ、良心の最新と言えよう。戒めの法として律法は語られるが、つまり、天地が滅びるまで律法の一点一画に至るまで廃れる事はない。
これは聖書自体の変化によってでも、律法が廃れる事はないという意味である。
ある意味の過去改変によって、「ダニエル書」もスリムになって全十二章となったが、それ以上減る事もないし、律法書も減る事も増える事もない。
良かれ良かれと想って、私は文章を描き開いてきた。それが実りつつあるのだ。
クニノトコタチノカミの復活は近いのか?遠いのか?案外近い事だと、完全なフィーリングで意見を述べてみる。
たとえば、「ヨハネの黙示録」にはこうある。
1:12-20「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。
それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。
そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。
その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。
わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、
また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。そして、死と黄泉とのかぎを持っている。
そこで、あなたの見たこと、現在のこと、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。
あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。」
すなわち、「人の子のような者」は神である主である。様々な姿を持つ神であるが、たとえば、力を表す為に、行った聖の攻撃は死んだ様になるものだった。「わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。」
ここから類推するに、この「人の子のような者」は、うしとらの金神の真の姿であると推理出来る。黙示録~「日月神示」~「第四の聖典」であると推理出来よう。では、第四の聖典とはどういうものなのか?それを描いていくのである。『聖定』の「復刻」によってである。