日月神示とガチのオカルトオタク達1
ガチオタの変遷かな?
まず、始めに。
日月神示は1990年代に普及された日本語版聖書である。
元々の聖書とクロスオーバーをした世界観を持ち、1990年代、2000年代、特に2010年代、2020年代の中矢伸一、岡本天明著、中矢伸一訳の「完訳 日月神示」が大きかった。
「日月神示」内で、日月はひふみと読み、神示はふでと読む事が示唆されている。
中矢伸一という名がある訳者によれば、これは、予言書なのだとも言われており、もしくは、岡本天明による預言書だとも言われる。しかしながら、「クルアーン」にて、「クルアーン」では、ムハンマドを「預言者の打留」としている為に、実は、各新興宗教で預言書とされている「おふでさき」等の自動筆記の書物は、やはり、預言書ではなく、予言書であるという事の様だ。
なぜなら、預言者あっての預言書であり、「霊界物語」等の出口王仁三郎等は預言者ではなく、予言者である。
その神がかり現象について、異論はないのだが、どうしてそれが神によって描かれてあるものなのか?
少し推敲した方がいい様に想う。
”本当にアッラーは全知にして英明であられる。”
これ、実は、アッラーフであるのだが、訳としてはやはり、アッラーと成ってしまうらしい。
すなわち、アッラーとは、クニノトコタチノカミの事らしいのだ。
アラーであるとか、エホバであるとか、と言われているうしとらの金神は、クニノトコタチノカミである事が大本教にて判明した。
戦前の話である。
何でも、国祖神(すなわち、国常立尊)の治世は厳格を極めたため、不満を募らせた八百万の神々により国常立尊は艮の方角(鬼門)に封印されて「艮の金神」となり、妻神豊雲野尊は坤の方角にこもって「坤の金神」となったという。
すなわち、復活するのがアッラーフであるとするならば、その復活の時を待ちに待っているのが、うしとらの金神と言えよう。
日月神示とは、アッラーフをして神がかった出口なお、出口王仁三郎、岡本天明の三代のアッラーフをして、三つのペルソナを持たれる神すなわち、第三の聖典である「日月神示」の神を三という数字に見出す事も出来よう。神は七三とも描ける為に、七、三、四、十、十二、四十と関連付けられる。すなわち、その内の十は十進法、十二は時間と歳月の区切り、四十は「出エジプト記」の章数、四はテトラグラマトンであるから、余ったものは七と三となる。それを合わせると数霊にて神となる。
すなわち、完全数が七と三が余るので、それを足せば神となる。すなわち十となるので、十は十戒の十なので、神を表すと共に、法を表す。律法とは、戒律という意味と戒めの法という意味がある為に、「日月神示」だと区別される。「戒律のある宗教は亡びる」と描かれているではないか?要するに、幻想があるものは生き、幻想がない戒律そのものは亡びるという事である。幻想があれば生きるという事を遠回しに言っているのだと考えられる。
この事から幻想というものはあるに越した事はない。
ある種の余裕として、幻想は現れるのである。