50、匂い
夜になっても偵察隊は誰一人動かなかった。
うとうとと眠くなる者は数人いたが、ほとんどの隊員は緊張感を持って偵察に臨んでいた。荒れ地から見る国境の城壁は静かなもので、人も動物も見かけない。城壁の中の音も聞こえず、この国の中は死に絶えているのではないかと思うほどだった。
真夜中を過ぎたころだった。
空気は落ち着いて肌寒い。マーシェは目だけを動かして、城壁や夜の荒れ地を眺めていた。空は晴れて星が見える。全ての生き物が眠っているかのような静けさは、逆に不気味だ。普通、夜の荒れ地には夜行性の動物が行き来しているはずである。
それなのに、この辺りには生きているものが見当たらない。
その時、少し風が吹いた。今まで風すらなかったのだ。やっと動きがあった、と思った時、嫌な臭いが鼻を通り過ぎた。
「?」
匂いはどこから来たのだろう。ほんの少しではあるが、腐った油のような形容しがたい匂いがした。フードを被り直して空を見上げる。
一瞬星が消えたように感じた。
匂いは相変わらず、ほんの少し臭い。
何かがあった、または何かが起こるということはわかったが、辺りは静かだった。
それから半時ほど経っただろうか。
遠くの方の空が赤くなった。国境隣接地帯の方だ。夜になると火があがるというのは、このことだろう。
暗闇にジッと目を凝らす。音を聞き、空を見る。
特になにも感じられない。
いや、匂いだ。
あの独特の腐った油のような匂いがまた漂ってきた。今度ははっきりと、あの国境のほうから漂ってきている。火をつけるために使った油だろうか。息苦しく感じる嫌なにおいだ。
その日はそれだけだった。その後、夜はすぐに終わり朝になった。
◇◇◇
偵察は二日目に突入した。
相変わらず、昼間は動きのない偵察だった。
見るものがない、動きがないのは結構キツい。いつも神経だけを張っていて、しかし気配を消していなければならないのだ。若い兵隊は二日目に入ると途端に消耗しだした。勿論、少しの飲み食いは許されている。動かないようにそっと口を動かすだけが、偵察隊の作業だった。
夜になり、また空気が重く静まり返った時、マーシェは見つけた。
一瞬星が隠れたと思ったところに、黒い大きなものが浮かんでいたのだ。それは西から現れスーッと音もなく東側、国境隣接地帯の方へ飛んでいく。
星の隠れ具合から、あれは大きな鳥ではないだろうか。ちょうど翼を広げた形に見えなくもない。それにしては羽音が聞こえないが、あの黒い影が見えた時にほんの少しの風と、そして昨日よりもはっきりとした異臭がした。
黒い鳥の影は荒れ地を飛び、ふと上空へあがったように見えた。
見間違いか? あの影をできる限り見失わないようにマーシェがその辺りを探していると、突然一本の木がパッと燃え上がった。続いてあの異臭が昨日よりももっと強く感じられた。
背筋にゾッと冷たい感覚が流れた。
不自然な発火。なぜ木が燃えたのだ。
あの鳥、異臭、そして火。
城壁の外に偵察隊がいるのがバレているのではないだろうか。
嫌な予感がする。
それから半時ほど経ったころ、また国境隣接地帯に火の手が上がった。それからゆっくりと腐った油の匂いが漂ってきた。
この匂いはおかしい。
マーシェはますます嫌な予感が心に膨らんだ。なぜだ、なぜ不安な気になるのだろうか。
それは違和感だった。羽ばたかない鳥、油なのか腐臭なのか異様な匂い。そしてほんの小さな火種から火の広がり方の奇異さ。
これは普通のことではない。
たとえ国境付近で被害がなくとも、明確な攻撃とは言えなくとも、これは何か意味があるはずだ。
この不安と違和感は覚えがある。
そうだ。マーシェは子どもの頃、この不安を感じていたはずだ。
本物の魔術師とは違う、まがい物の魔法を使うトクシックのそれと何かが似ているのだ。
まがい物の火、まがい物の鳥、そう考えれば、何かがわかりそうな気がした。
それがたとえ、トクシックのせいではなくとも、少なくともあの黒い鳥と腐った油の匂いは、まがい物の悪い魔法のせいではないだろうか。
あの頃感じていた恐怖がマーシェを取り囲む。
何かが、普通の人間が考えないような悪い何かが近づいているのは確かなようだった。