35、雨
朝、スプトゥが言った通り、途中で雨が降り出した。
兵隊たちはそれぞれマントのフードを被った。軍隊にはマントが支給されている。それは魔法使いが作ったもので、防水、防火、防塵、防刃と、様々なものを防ぐことができるもので、この国の軍隊は鎧を着けない代わりに、この軽いマントをいつでも身に着けることになっている。
体が濡れて冷えることはないが、視界が煙り班長が見えにくい。もともと茶色とも緑色ともつかない軍のマントは見つけにくいのに、さらに雨。そして風が絶え間なく吹いていて、ひたすら五感が疲労する。
足元は濡れた葉っぱが重なり滑りやすく、靴の裏に泥が付いて重くなる。
薄暗い森の中、マーシェは感じたことのない疲労と重い恐怖を感じた。ビシャビシャと靴を鳴らす前の足跡をたどり、下を向いてひたすら進む。
いつの間にかマーシェはほとんど下を向いて歩いていた。
薄暗い雨の中、味方や方向を見失わないよう緊張し続ける。雨や風のせいで疲労しながら、重くなった足を動かす。そんな中を歩いていると、何か苦いものを思い出しそうになる。神経が必要以上にささくれ立つ。
なんのためにここにいるのか、こんなに暗い中を足を引きずって歩いているのか、わからなくなった時、自分の前に、すぐ近くに人の気配を感じ、体が強張った。
瞬時に短剣に手をやる。
襲ってきた敵の目を把握しろ。と誰かが命令する。
目だ。目を攻撃するのだ。そうしなければ危険だ。
短剣を握ったまま周囲を観察する。雨粒の隙間を鋭く睨むと、そこには同じ軍のマントを羽織った仲間が立っていた。
「あ」
そうだ。
ここは訓練の森だ。
なぜ敵だと思ったのだ。
マーシェは一瞬混乱して、立ち尽くしてしまった。
「大丈夫か?」
「は、はい」
本当は声を出してはいけない場面であったが、班員はマーシェに近づいて声をかけてくれた。
仲間の声だ。
やっとホッと息を吐く。
薄暗い森の長い緊張感から、マーシェの感覚が昔に戻ったような気がしたが、大丈夫だ。ここは訓練の森。あの悪い魔法使いはいない。
「ここから先は、最後の訓練が始まる。良く聞け」
「はい」
班員はマーシェの目が落ち着いたのを見ると、次の作戦を教えてくれた。それはこうである。
『一、目の前の細い道は一人ずつ通ること。二、前の人が見えなくなったらその足跡をたどって出発。三、細い道の終わりに班長が待つので、列に加わること』
たぶん、橋や戦場を横切ることを想定しているのだろう。
マーシェは理解すると静かにうなずいた。
一人ずつ、木々に覆われた細い道を渡りはじめる。途中で道が弓なりになっているため、姿が見えなくなると次の人が歩きはじめる。
マーシェは最後なのでみんなの歩く方向を一生懸命見ていた。
そしてマーシェの前の兵隊が歩きはじめ、一瞬一人取り残されると、思った以上に不安に感じた。それでもとにかく、その姿が見えなくなるとマーシェも歩き出した。
雨のせいで足跡がわかりにくい。ほんの少し葉っぱの上に泡がたっているのがそれだろう。見失わないようにたどっているうちに、道は少しずつ弓なりに曲がり、そして前の兵隊の後ろ姿が見えてきた。この時の安堵感といったらない。
つい速足になりそうなところだが、ここは急いではいけない。慣れない道で歩調を変えるのは色々と危険があるからだ。
マーシェが前の兵隊に追い付くと、待っていましたとばかりに列は歩きだした。
このような細い道を歩く場面が何度もあった。これこそがこの森での訓練の主な目的なのかもしれない。
何度目かに『これが最後』という伝達があったので、マーシェはかなりホッとした。
森での行軍は敵と戦うことはないとはいえ、ただ列を作って歩くことが異様に疲れた。だから最後と聞いて安心してしまったのだろう。
そういう時に油断が生まれるというのを、マーシェはまだ知らなかった。