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Amour  作者: 星河 翼
7/12

#7 果実

 瑞希と怜羅が向かったその先は、光に包まれた、まるで天界の様な場所であった。

 でも、瑞希が知っているあの天界とは異なったまるで裏と表をひっくり返したような……鏡を見ているような場所であった。

 草花は咲き乱れているが、色は逆さま。宮殿は黒く朽ちて誰一人居ない。静まり返っていて瑞希と怜羅だけが存在しているかのような場所。水は下から上へと流れ、滝の下にある天秤は壊れているのか、動きを止めている。

 そしてこの世界を支えている木、セフィロトの木になるのであろうか? それだけは変わらずそこにあるが、葉の色が紫。

「此処は何処なんだ? 天界に似た全く別の世界なのか?」

 瑞希は、周りを見渡してきょとんとしてしまった。

「何処だって良い……取り敢えずあの空間から抜け出せたのだから! それとも何か文句でもあるのか?」

 怜羅は、こんな状況下でも、あの場所よりかはましだと思っているようだ。

「キミは、今が良ければそれで良いのか? この後の事も考えてだな……」

 と言っている傍から、怜羅はもう紫色をした芝生の上に寝っ転がった。危機感というものが無いらしい。というより小悪魔とはこういう性格をしているのであろうか? 瑞希は呆れるしかできないが、あの上も下も左右も無い空間に比べればまだマシなのかもしれない。と、そう考えてみるしか今は出来そうにもないから、瑞希は寝っ転がった怜羅の横に腰を掛ける。

「あ〜あ、しかしこれからどうなるんだろうな〜人間界に戻れるのだろうか? 礼司もここを訪れる事はなさそうだ。この様子だと……」

 瑞希は、体育座りで体を丸めると溜息を漏らした。礼司に電波を送るが、遮断されて意味を成さない。後は、界瑠といったあの小悪魔に託したことを願うのみ。

「少し黙れ? どうにもなりゃしない。私はどうせ魔界には帰れない身分だ。此処で過ごすのもまた良いかも知れない」

 全く自分勝手な。あの時仏心を出して助けなければ良かったと瑞希は心の中で苦虫を潰した。と言っても天使なんですが……

「怜羅……キミは良いだろうよ。戻れなくなっても、罰を受けなくて済むんだからな!」

 ついつい怜羅に当たってしまった。

「何?……自分が助けに入るからいけないのだ。全くこれだから天使というのは恩着せがましい!」

 フンッと怜羅は寝っ転がったままそっぽを向く。

「可愛くないな……俺は、そういう奴が大嫌いだ! 自分勝手なのも!」

「悪る〜ございました。自分勝手で!」

 やっぱり、可愛げがない。綺麗な顔をしているが心は腐っている。それが瑞希を苛々させていた。

「あ、あそこの木、実がなっている……ちょっと腹ごしらえでもしてみよう……」

 と、寝転がって瑞希から顔を背けた先に、大きな木が目に入った。

「実? 何処にそんなのが有るんだよ……」

 瑞希は、少し小腹が空いたなと思って、怜羅のその言葉に思わず目を見張った。

 この反転したのような天界の景色。その場所で一番に目に付くのは木といえば、セフィロトの木だ。

 そして、実際目に入ったのはその木と同じ大きさのものであった。

セフィロト。しかしそこにある木になる実は食べてはいけないもの。禁断の果実。天使に言わせれば堕天使になるそんな代物だ。でも、此処にある実はそんなことはないのであろうか? 瑞希はさっさと駆け出してその実に手を掛けている怜羅を止めないといけないと翼を操った。

「美味しい……これは、林檎みたいな味がするのだな……」

 既に口をつけている怜羅。どうやら毒ではなさそうだ。オレンジ色の林檎? それは瑞希にとって違和感が有る代物だが、怜羅に食べろと促されて、害はなさそうだしと一口かじる。それは、ジューシーな甘酸っぱい汁たっぷりの林檎だった。

「あれ? 何だか眠くなってきたぞ……私は寝る。後は好きにしろ。見習い天使……」

 そう言うと、木に寄りかかり怜羅はスヤスヤ眠りに入った。まるでこの林檎に睡眠薬でも入っていたかの如く。それを見守っていた瑞希だが、程なくして自らもその怜羅と同様睡魔に襲われた。

「あれ……眠い……俺も……くーっ」

 瑞希は、怜羅の後を追うように、その木にもたれかかり眠りに就く。怜羅の直ぐ傍で怜羅の左手と瑞希の右手が微かに触れ合いながら……


『本当に覚悟はあるのですね? もし堕天しても、あの亜空間に通じるという保証は無いのですよ』

 ガブリエル様は、礼司のひたむきな主人を想う心に打たれた。しかし、これは仮に堕天を許すという事ではない。今までの経歴を無にし、天使という身分を完全に捨て去るという事。ガブリエル様も、仮にそういう事をして上げられれば良いと思う。だけど、そんな事は許されない。ガブリエル様は四大エレメンタルというその地位を持ってはいるが、決して神ではないのだ。

『はい。お願い致します。この私にとって、瑞希様がお仕えすべき天使様なのです。だけど、その瑞希様がこんな事になってしまっては、私の在るべき場所がないのです。ならば、最期までお付き合いをさせていただきたい』

 礼司は冷静に答える。それは決意だった。

『では、ウリエル様の所に行きなさい。あのお方は、この天界から堕天使を魔界に送る任を預かっておられです。この事はこのガブリエルが言付けておきます。でも、礼司のような召使天使を失うのはこの天界には惜しいですね……だけど全ては自分で決めたこと。これ以上は何も言えません。この先礼司の身の上に幸あらんことを心より祈っています』

 ガブリエル様は碧い瞳を伏せがちに伝えた。これでもう、このガブリエル様の居している宮殿には用が無くなった。

『では失礼いたします』

 すくっと立ち上がった礼司に、

『あ、ちょっとお待ちなさい……忘れていました。これを……礼司に』

 はっと思い出したかのようにそういって差し出されたのは、小さな赤い羽根だった。

『これは何でしょうか?』

 礼司は問い掛けた。このような羽根を持たせる意味がよく判らない。

『本当に、最悪の場合の時を考えてのお守りです。まだこの件に関して神は答えを出されてはおられない。でも、もし答えを出されたならば、この羽根が緑色に変わります。そして、神からの審判も下ります。ですからこれを礼司、貴方に委ねておきます。では最後の最後ですが、幸あらんことを……』

 ガブリエル様は、その赤色の羽を、礼司の召使い天使のシルクの服に付けた。

『本当にありがとうございました。ガブリエル様』

 そう言って礼司は覚悟を決め、ウリエル様の居られる宮殿へと翼を広げ飛び立ったのである。


 ウリエル様のいらっしゃる西の宮殿は、砂漠の真ん中にある。砂漠はきつい風により砂埃が辺りに舞っていた。

 礼司はその宮殿に入ると、先ずウリエル様の居られるであろう広間へと通された。その部屋には、大きな砂時計が設えており、上から緩やかにその流れ落ちる砂が礼司の目に焼きついた。これが、時を操り、そして天使を堕天する仕掛けなのであろうか? 礼司はウリエル様がその砂時計の前に有る肘掛に座られるまで右膝を着き待った。

 ウリエル様は程なくその椅子に座る。その姿は、漆黒の髪を三つ編みにし、それでも地面に付くまで伸ばしきっていた。天使ガブリエル様とは違い、堕天の任を請け負っているだけあって、威厳や貫禄を感じさせられる。

『お前が、礼司とやらであるな。話はガブリエル様から聴いておる。本当に後悔はしないか? これは、思いつきや遊びで出来るほど生ぬるい事ではないぞ』

 低い声でそう問い掛けられる。それは覚悟の無い者には興味が無いとそう促しているように感じられた。

『肝に銘じております。このような私でも、あの瑞希様に仕える天使です。主なき今、私があの瑞希様にして差し上げられる唯一の考えられるそんな賭けです。瑞希様をお救いし、最高の天使様になって貰いたい。それが私の願いなのです。だからお願い致します。私を堕天して下さい。ウリエル様……』

 礼司の目は真剣だ。それを鋭い洞察力で礼司の心を読みウリエルは許可した。

『では、こちらに来なさい。そしてこの門を潜るのです。私は砂時計の流れを上から下では無く下から上へと変化させよう。それで礼司、キミは堕天できる。さあ、始めよう』

 ウリエル様は、砂時計の下に設えてある人一人が通れるくらいの門の鍵を開けた。門は重くそして頑丈に出来ている。これはもう堕天した場所から戻ってくる事が出来ないそんな扉だった。

『では、行くが良い』

 真っ暗な世界がその先に有る。見たことは無いがまるで、ブラックホールの様だ。そう感じられるほどの闇。それが目の前に広がっている。

『ウリエル様、ありがとうございました』

 礼司は軽く会釈すると、その先に身を投じた。闇は、礼司を吸い込むように導く。そして、振り返る。光があったその入り口はもう無い。そう、礼司はこの先に向かうしかないのだ。

亜空間。もしあるならばこの闇の中ではないだろうか? それは一縷の望みであり、そうであるのだと信じてみたいとそう想いながら……


 そんな頃、眠りに落ちていた瑞希は、

「あれ……寝ちまった……あれからどのくらい時間が経っちまったんだろう」

 まだ覚醒し切れてない頭をもたげながら右手に何か柔らかい感触を知りそれを見た。

 それは、怜羅の左手だった。

「へ〜。小悪魔の体温ってこんなに低いんだ。天使とは大違いだな」

 瑞希は自分が放出している体温の方が高い事にそういうものなのだと知った。

「お〜い。目を醒ませよ。何時まで寝てるんだ?」

 今が何時なのかなんて知りもしないのに、勝手に起きる時間だとせかしてみる。でも、何故二人して眠りに落ちてしまったのであろう? 瑞希は自らその答えが出せなくてウムムと呻った。

「もう朝なのか?……界瑠、私は目覚めが良いほうじゃないとあれほど言ってるでしょう……」

 怜羅は今の状況を忘れきり、寝ぼけ眼に左手を持っていこうとした。が、その左手は瑞希が占拠している為動かない。

「もう、界瑠〜!」

 怜羅は怒ったように体を預けているその木から身を起こした。そして、左を見る。そこには見習い天使の瑞希の顔があった。

「ちょっ……何であんたが此処に居るんだ!それに……」

 左手を見た。

「その汚らわしい手をどけろ! あ〜穢れてしまった。どこかで手を洗う所ないだろうか

!」

 瑞希が居ることで、今の自分の置かれている立場を思い出す。それは、考えても判らないそんな状況下であったのだと怜羅は頭を抱えた。

「おい……お前……」

 そんな事を考えている時に、『お前』なんて呼ばれて怜羅は頭に血を上らせた。

「私はお前ではない! 魔界の小悪魔、怜羅様だ!」

 振り返って瑞希を見る。が、しかしその瑞希は妙な顔をしていた。

「そんな事はどうでも良いことだぞ……怜羅、お前のその背中の翼はどうした? 今はもう要らないから消してるだけなのか?」

 瑞希は、あの黒い爬虫類独特の翼が無くなっていることを指摘した。

「まだ翼をたたんだりしていない。何を言ってるのだ……って、見習い天使、あんたも翼と天使の輪が無いじゃないか、人の事を心配してるのはどうなんだ!」

 そんな噛み合わない会話をしつつ、二人は翼を出すように体に力を入れた。しかし、お互い自ら有るべき翼が出せない。

「これはどういう事なんだ……もしかすると、あの実を食べたから、天使や小悪魔にはなれないという事なのか?」

 瑞希は必死で考えられる事を自らの範囲内で考えた。そして、それしか考えられないという判断に至った。

 もしあれが、あのセフィロトそのものでありそこに実った果実だとするならば、人間界に伝えられているアダムとイヴの禁断の果実だと考えてもいい。食べてはいけないと神に言われていたその林檎。それをかじったイヴは今では怜羅であり、アダムは自らを指し示す。

 まさかと思うが……俺達二人は天使と小悪魔であるそれそのものを失い、人間と帰化したと考えられる。断言は出来ない。それは妄想と想像の粋に達する。だけど、やはりそれしか考えられないのだ。

「おい、怜羅……俺達はもしかすると、人間になってしまったのかも知れないぜ……」

 瑞希は深刻な顔をして、怜羅に呟いた。それは、瑞希自身男の体になっていることも合わせていた。

「そんな……莫迦な……」

 怜羅は、自らを呼び捨てにされたことにも腹を立てず、呟く。今の自分が異常な状態になっていることは確かだ。だから、その言葉はある意味信憑性が高い。

「俺達は……この辺境の地で、これからどうしろと……居るんだったら、神よ、教えてくれ〜!」

 瑞希は、頭の中がグラングランと音を立てて何かが壊れて行くのを感じながら叫んだ。信じる事の出来ない神を望みながら……


 そのような状態に陥っている頃、礼司は暗闇の中を魔界に向かって堕ちて行く。何も見えないその中で、堕ちて行く感覚だけが礼司を支えていた。

「何処かに、亜空間に通じる穴が無いであろうか?」

 呟きながら、辺りをずっと見渡す。有るとしたら、それは針の穴を通すような小さな一点であろう。でも、それを見逃したくは無い。たった一つでも無いよりはましであるとそう考える。

 もし、このまま魔界に堕ちて小悪魔として生きなければならなくとも、後悔はしたくないように、礼司は集中した。

 でも、頭は人間が死に至る時に見るあの走馬灯のような感覚をもたらす。

 瑞希様と出逢った頃の事。

 自らはみすぼらしい姿の天使だった。整える事のできない髪は両側にはね、服もボロボロ。そんな自分に手を差し伸べてくれたのは、輝かしい光を放つ見習い天使にもまだなっていなかった瑞希様だった。

 少し癖のある金髪頭を天界の澄み切った風に靡かせながら、自らの手をお取りになられた。

「これからお前が俺付きの執事だ。絶対俺は、ガブリエル様の様な素晴らしい天使になるんだ! だから力を貸してくれ。約束だぞ?」

 そう言って、誓いの指切りをしてくれた。

 それからの自分は、瑞希様の為だけに、存在した。自らの気持ちなど無くても良い。それは全て瑞希様に捧げてくのだから。

 そんな事が頭を過ぎっていく。それを懐かしいと思っていても駄目だ。私は、瑞希様をお救いしなければならない。そう、今は集中しなければならないのだ。

 礼司は、この走馬灯を打ち消し、閉じそうになっている双眸を必死で開けた。すると、その双眸に一点の光が流れていった。

「あれは……!」

 堕ちていく体を必死に制御し、礼司は翼を広げる。すると、翼に圧力がかかり重力が下へと促される。でも、礼司はその圧力に屈することなく、必死でその光の在る所へと翼を操った。

「負けてなるものか! この刹那を……たった一つの手がかりをこんな事で!」

 真っ白な翼から、爬虫類独特の翼に変化しているだろうその翼。その翼に鈍い痛みが走る。でも、礼司にとってそんなことは知ったことではない。例えこの翼がもぎ取られようとも、あの場所へ、瑞希様の居るあの場所へ……その気持ちだけで飛んだのである。


「これからどうするよ……こんな所で、二人っきりで生きてけってことだなこれは……」

 瑞希は、やる気も生きる気力も失いかけたかったるい体を何とか持たせて、怜羅に問い掛けた。

「知らない……よりにもよって、小生意気な元見習い天使なんかと二人っきりなんてごめんだというのに、人間になってしまったなどともっと耐えられん」

 怜羅は、自分のことばかり。聴いてるこっちがもっと嫌になってくる。

「お前なぁ〜自分だけが嫌だ何て思ってるんじゃねえだろうな……俺だってごめんなんだよ。お前が女だから優しく接してるってのに、その言い草はねえだろう!」

 終に瑞希の頭に怒りマークが浮き上がった。眉間に皺を寄せてそれはもう鬼の形相。

「ほう。じゃあ女でなければ、如何してたっていうのだ? 殴っていたか?」

 怜羅は、フンッと鼻を鳴らした。何も出来ないくせに、粋がってるんじゃない。この元見習い天使!とでも言いたげだった。

 その態度に流石に我慢の限界が来た。瑞希の右手が怜羅の左頬を叩いていたのである。

「……な、殴ったな……この私を! お父様にも叩かれたことのないこの私の顔を!」 

 怜羅は、吃驚した目で瑞希を見た。それは、あり得ないと予想していた事だったので、あの切れ長な瞳は大きく見開かれ、瑞希に対峙した。

「ああ、今の俺の気持ちはこんな感じだ。自分の事ばかり言ってんじゃねえよ! 俺だって色々我慢してんだ! このヒステリー女!」

 瑞希は、拳をグッと握り締めて、言い放った。その拳は小刻みに震えている。それでも、掌で叩いたのはまだ慈悲の気持ちが有ったのかも知れない。

「ヒステリーだと? 何時私がヒステリーを起したって言う! このどてカボチャ!」

 それが既にヒステリーだ!

「こうなってしまった元々の原因は、お前が作ったんだろうが! 魔界で大人しくしていれば良いものを、のこのこ地上に出てきてまで俺の邪魔をして! それがいけないんじゃないか!」

 そうだ。俺は自分のお勤めをちゃんとこなしていたし、後半年で見習い天使から天使に昇格できたんだ。それをこの女が邪魔をして、失敗させて、そして、そんなこいつを助けてやるためにこんなことになって……踏んだり蹴ったりなんだよ!

 瑞希は、普段だったらこんな醜い感情を押さえ込んでいるはずなのに、この状況下、というより、人間としてのごく普通の感情を頭の中で繰り返した。それが今までの天使という感情ではなくごく当たり前の人間の感情だなんて思いもしない状態だろうけれど。

「はんっ! ご大層なことを言ってた割には、どん底に突き落とされたらもう弱音を吐くのだな! 最低だ。私は、自らの仕事をこなしても、あんたに潰されてずっとこれまで来た。その苦汁……この気持ちは私自身にしか判らない。少しはこの私の気持ちを察する事だな!」

 怜羅的には、何もかもがこの元見習い天使の性だと思っている。よって、自らが悪い訳ではないとそう思っている。だけど何? この後味の悪さは……言い切った後に来る罪悪感。こんな感覚、今まで感じたことなど無い。

 それが、人間としての感覚。自分が悪いのだけど、それを認められないという感情のどこかで後悔というものがある。今の怜羅には、それがほんの僅かだけど燻っている。

 そんな二人。元見習い天使であった清い心と、元小悪魔だった悪意の塊。それが各々判別できなくなってきている。

 人間とは、感情と理性を使い分けて生きている生き物。それが、今この二人に変革をもたらしている。人間の心という不可解なものが……

 二人は、お互い目を逸らして座り込んだ。

この先一体どうなるんだろうという気持ちを抱えつつも。


「此処まで来た。後は……」

 傷つきながらも亜空間の中に入ることが無事出来た礼司は、その先を目指す。それは、不可能に近い事なのかもしれない。だけど、自らの使命は、瑞希様を元の天界に連れ戻す事。それが出来ないならば、瑞希様付きの天使という訳には行かない。

 礼司は、先を急ぐ。それがもう、取り返しの付かない瑞希でいると知らなかった礼司の真っ直ぐな気持ちによる行動だった。


「なあ……住むところでも作ろうぜ。こんな所で意地張ってるのもアホらしくないか?」

 もう、どうすることも出来ないのなら、此処に住むしかない。天界とよく似た場所ではあるが、それとは異質。あの木はセフィロトと判ったが、神は俺達を人間にしただけであり、この世界から追放をしようと考えてはいないらしい。それは、何の啓示や兆候が無いから感じたこと。

「そうだな……アホらしい……ずっとこんな所に居る事になるんだったら、せめて贅沢に生きたい。と言っても贅沢できる物なんて限られてそうだがな……」

 魔界のあの豪華な建物はないし、ご馳走だって無い。それを考えると、何と物足りないことであろうか。有るのは草花、黒い大理石の朽ちた建物。そして、水。セフィロトの果実。

「贅沢できなくても、生きてはいけるだろう。

まだ贅沢し切れてなかったのか? 魔界ってどんな所か判らないけれど、よっぽど、物で満ちてるんだな……」

 瑞希は、関心は無いが、この怜羅を見れば大体想像出来るだろう。何といっても、あの女王様ぶりだ。

「魔界は、それこそ天国だ。天界はどうだか知らないが、色んな物達に囲まれて、贅沢し放題。あんな果実なんてそれこそ普通に有るし、建物だって細かい所まで細工し尽くされている。雅やかな都だ……」

 懐かしくなってきたのか、怜羅の語尾は段々小さくなっていく。

「ふ〜ん。でも、もう戻る事は出来ないんだ。ちゃっちゃと、ここでの生活考えようぜ? 怜羅……?」

「戻れないなんて言わないでくれ……これでも少しは望みがあると信じたいんだからな!」

 怜羅は、心の何処かに信じてみたいという気持ちが有るのであろう、少し肩を揺らしてグスグス言っている。

「はいはい。判ったから、こっち手伝ってくれないか? その木を動かしたい。家を作らないとな」

 瑞希は、出来る範囲で家を作ろうと考えていた。宮殿が朽ちているのでは、もし雨でも降ったりしたら、それこそ雨露が凌げない。

 此処は確かに天界に似ている。そして、天界は雨が降らない。だがその天候まで同じとは限らない。現に、空はオレンジ色に染まってはいるが、何処からとも無く雨雲のような雲が寄り集まってきている。

「……判った。手伝えば良いんだろ。この木、重い〜そっち持て!」

 怜羅は、文句は言うが、何とか手伝う気になったらしい。瑞希は取りあえず、その事にホッとしていた。あのままグジグジ二人敬遠していたらこういう助け合いという事は出来なかったであろう。ある意味良い傾向だと思える。

 そう、こういうのが人間なのであろう。もし明日が無くなったら……明日が無くなる?

 そうだ、人間はいつかは死ぬ。それこそ時間というものが天使や悪魔などより比べるにも値しないほどかなり短い。だからこそ、精一杯今日という日を生きている。そして明日を切に願う。

 何故そんな事を今思いついたのであろうか。こんな状況に事態になってしまったから? 人間というものになってしまったから? 瑞希はふと、自らの掌を見る。その掌は、ささくれ立った木を持ち運んだ事で、血が滲んでいる。鈍い痛みが掌から脳に伝達され、痛いという感覚を与える。

 それでも、この作業を続けている。ささくれ立った、木々をセフィロトの木に立てかけ、その上に木の葉を散りばめ、少しでも広い部屋を作ろうとしている。

 生きる事。それは、とてつもなく神聖なことなのだと知った。

 明日を望む人間達を軽く見ていたのではなかろうか。自らは、高い所で愛だの恋だの甘い感情を軽く見ていた。それは、凄く貴重な日々の一コマ。営みなのだ。

「ガブリエル様。俺は今やっと判った気がします。天使に有るべき姿というものが……」

 でも今の瑞希にそれが判ったとしても意味の無い事。もう人間になってしまったのであるのだから……

「そこ! ぶつくさ言ってないで、ちゃっちゃとそれを運べ。私には直ぐあーしろこーしろと言う癖に、自分は関係ないような、そんな態度だと頭にくる!」

 ツンツンな態度で怜羅は近くの葉っぱを敷き詰めている。でも、瑞希はそれを微笑ましく感じた。何でだろう? こういう子が可愛いなんて思えないのに……

 今までの瑞希なら、また言ってるとか思ってしまっていただろう。しかし、文句を言いながらも手を動かしているこの女王様な怜羅を可愛いと思ってしまった。不思議だった。

 そして、この感情がこれから先、瑞希と怜羅の関係を変えていくとはこの時二人とも考えてもいない事だったのである。

 

 オレンジ色の空が、真っ白い雲を敷き詰め、次第に雨が降り始めた。それは、地上の雲とは異なり、明るい光景の中降り出した。まるで、通り雨のように。

「雨に濡れなくて良かったな。早めに家作って正解だった」

 瑞希は、取り敢えずそう言った。取り敢えずと言うのは、

「こんな葉っぱで敷き詰めた屋根で、何が良かっただ。雨漏りしてるじゃないか!」

 まあこう言う事である。ポタポタと雨漏りしているという訳だ。で、当の本人たちは、ずぶ濡れにはならないにしろ、結局濡れているには変わらない。それを、瑞希は少しでもプラス思考でいたいと考えているらしい。

「ずぶ濡れになるよりかマシだろう? こんな薄っぺらいシルク生地の天使の纏ってる服だと、それこそ大量の滝に頭からかぶっちまったのと変わらない。その点キミは良いさ。それだけ体を覆うような厚い服を着ているんだからな」

 瑞希は、文句は言わないように。と言いたげだった。しかし、この狭い只その辺りに落ちていた木々を拾ってきてセフィロトの木に立てかけただけの簡易的な家なだけあり、体を密着させる状態の二人。その瑞希の右隣にいる怜羅は『クシュン』とクシャミをした。

「風邪か? そんな厚着をしてるってのに、風邪なんか引かないだろうに……どれ?」

 瑞希は、怜羅の左手を触った。すると、あの時感じた冷たい怜羅の体の熱は、今は自らのものより熱い。

「お前……熱でもあるのか? 体が熱いぞ」

 瑞希は、驚いて、立ち上がろうとしたが、立ち上がるには低い天井。葉っぱがパラパラと落ちてきた。

「焦ることはない。このくらい平気だ……只、体のコントロールが出来ていないだけ。人間の体って、微弱に出来ているのだな……」

 怜羅は、体育座りのまま体を丸めて背中にあるフードを被った。しかし吐く息は白い。外気と体内の温度が違う性だろう。

「おい、ちょっと待っていろ、雨に濡れてない藁か綿か何か持ってくるから……」

 と、様子がおかしい怜羅に言い放つと、瑞希はその手を離し腰をかがめてその家から出ようとした。でも、

「此処にいろ……一人にする気か?」

 怜羅は、瑞希の右手を掴み直して此処にいるようにと促す。それは、心細いからなんだろうか? こんな状態で、心細いとか言っている場合ではないと思うが、珍しく気持ちを伝えてきた怜羅に冷たく接する事が出来ないでいる。瑞希が何か温かいものでも用意できれば良い。しかし、こんな古代の原始人並みになってしまった以上、どうにも出来ない。

 自らが天使や、悪魔であれば凌げるであろうことも無理なのである。その力を失ってしまっているのであるのだから……

「せめて、火を熾せたら……」

 原始人でもやっていた事。でも、そんなことどうすれば良い? 確か、木と木を擦り合わせるんだっただろうか? でもそれには何か特殊なものを用いていた気がする。それが何なのか、今の瑞希は(うと)すぎて判らない。

 せめて、マッチやライターが有れば火を点ける事はたやすい。が、そんな文明的なものなどこの世界にはない。

「う〜ん……」

 隣では、肩で息をしている怜羅がいる。自らが出来る事。後は……確か何かの本で読んだ気がする。裸で抱き合えばそれで少しは癒されるのだと。でも、この怜羅と裸で抱き合う? 考えてみたが、怜羅は嫌がるだろう。というか、絶対蹴りを入れられる。

 だけど、此処にいて出来る事は何だろうかと考えるともうこれしかないのではなかろうか? 瑞希は、自らの見習い天使服をスッと脱ぐと、怜羅の重厚な服を取りあえず脱がせると、後ろから抱きしめた。

「目を瞑ってるから、安心しろよな……」

 それを、熱の回った怜羅の耳に聴こえているかは判らない。が、もうこうするしかないと覚悟を決めた瑞希はそのままずっと後ろから抱きしめ、脱がせた怜羅の重厚な黒い服をそのまま頭から被ったのである。 

 それからどのくらい時間が経ったであろう。瑞希は、いつの間にか眠ってしまっていた。

 その浅い眠りの夢の中、髪の長いとても美しい天使を見た気がした。聴き覚えるのある声と、その瞳。それがその天使の姿だった。そして次の瞬間、瑞希の耳に大きな声が響き渡った。

「ちょっと……離れろ!」

 怜羅の声だった。夢と現実が重なり合う瞬間のようなタイミング。そんな瑞希の左頬が『パシン』と鳴った。

「痛てっ!」

 瑞希は、直ぐ前に、怜羅の鋭い眼光を感じた。

「あんた、私に何かしなかっただろうな!こんな状態じゃなかったら、今頃……蹴り……」

 これから怒りを爆発させている所で、クラリと眩暈でもしたのだろう、体がふら〜っとなりもう少しで顔から倒れる所だった。

「全く……その体じゃまだ無理だぞ? もう少しこうしてるからな……」

 瑞希は、怜羅の意思を聞かずにそのまま同じように抱きしめる。

 怜羅の体のほてりが初めより少し緩やかになってきたように感じられた。あと少しこのままでいよう。で、雨が止んだら、薬草が無いか探しに出よう。それから、この家をもっと改良しよう。

 そんな事を考える。生きるために出来る事。次を、先を見据えて、その結果この世界に馴染まなければならないんだと結論付ける。

 後ろを振り返る余裕など無い。今はこれからの事をもっと考えなければならない。

 たった二人だけの、異質だった者達の共同生活。いくら否定しようが、それはもう変える事が出来ないのだから……


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