#6 亜空間へ
瑞希は、保健室を出る瞬間に人間仕様に戻った。そこから先は人間としての瑞希の生活がある。先ずは教室へと戻る事にした。
「すみません〜遅刻しました〜」
五限目が始まってまもなくの頃である。三年A組の後ろのドアを開けて瑞希は頭を掻きながら入っていった。
「お昼まで寝てたのか? お前もっとちゃんと授業に出ろ! 成績が悪いわけではないからこれ以上は言えないが、内申書と言うものもちゃんとあるんだぞ。普段からちゃんとやれ!」
五限目は世界史の授業であった。眼鏡をかけた細い体のその教師は、眼鏡を押し上げつつそう言ってはいるものの、この生徒に何を言っても暖簾に腕押しだとそれ以上はもう何も言わずに席に座るように促す。
廊下側の最後列の席は礼司。その礼司に目配せをして、瑞希はその隣の席に座る。
「もう、宜しかったんですか? 何か都合が悪い事があったのではなかったのですか?」
礼司は、皆に聞こえないように呟いた。
「ああ、それは杞憂だった。もう、今日はこのまま授業を受ける。世話掛けたな」
瑞希はボソッと呟くような声で礼司に伝える。鞄から世界史の本とノートを机の上に置きながら。
そう、今日はもう何も起こらない。否、あの件はもう終わったのだと伝える。怜羅はもう動けない。もう一人の小悪魔である界瑠とかいうのは只の腰ぎんちゃく。何も出来はしない。そう予想できる。あの時、リベンジなどという言葉を捨て台詞にしてはいたが、怜羅を頂くその召使と考えてもおかしくない。
そしてその判断は正しい。瑞希がこの教室に入って来た時向けられたクラスメイトの視線の中、見かけない生徒である、界瑠の人間仕様のその様子から判断できる。
唇に親指を持ってゆき、かみ締めるなどと言う悔し紛れのその仕草。瑞希にははっきりと、界瑠は直接手を下せない礼司と同じような待遇の怜羅の僕。力など無いのだと。
後は、これから先もこの小悪魔達がこの地上に潜伏する事になるのか? 今のこの時点でまだこの教室にいる界瑠。だが真の目的は皆目見当もつかない。瑞希の仕事をことごとく潰すつもりで此処にいるのか。それとも、もう魔界に戻るのか。所詮違う世界の天使と小悪魔なのである。よって、計り知れない。
授業の内容など右から左に流れていく中、瑞希はそんなことを考えた。
一体、何故天使と悪魔はこの世に存在するのであろうか? 人間の世界では勝手な想像の産物であるが、実際こんな風に存在する。
創造神は何を考えてらっしゃったのだろうか? そんな答えは何処を探してもその創造神を捕まえて吐かせない限り無理。そう考えると、アホらしくなる。まあ、今に始まった事ではないけれど……
時々窓際からあの界瑠がこちらに視線を向ける。憎悪という感情をダダ洩れさせながら。
それに気が付いているけれど、瑞希は無視をした。こんな挑発は受けない。礼司に言われたように、この均衡を崩すのは確かに危険だ。でも、気にはなる。だけど瑞希はもうこれ以上この件については何も考えずに、授業に集中したのであった。
何事も起こらず、六限目の授業も終わり、後は情報操作をしている家へと帰宅するのみとなった瑞希は、教室を出る際礼司に、
「じゃあ、また明日」
「はい」
そこまで仲の良い友達とは思わせないように今まで振舞ってきたとおり、瑞希は教室を出ようとする。それは、界瑠に知らせる訳にはいかないからでもある。と言っても、界瑠が知っているかどうかは別としてだったりもする。これがこのクラスでの在りかたである。
礼司と瑞希は別々の環境でこの地上では生活をしている。必要な時は電波を飛ばしながらの会話。それで充分なのだ。
だから、この後、界瑠自らが瑞希に詰め寄ったとしても、礼司は関心を示す事は直接出来ない。そして、実際、その界瑠は瑞希に接触を試みたのは、瑞希と礼司にとってイレギュラーな事になったのである。
「ちょっと待ちな! そこの金髪頭のちんくしゃ!」
腕を捕られ、瑞希は振り返るしか出来ない行動。
「はい。何でしょう? お嬢さん」
瑞希は、平然とした態度で返した。こんなクラスメイト達の前で「何をしやがる!」なんて反発する事はできない。注目を浴びるのは、内申書の悪い単位だけ取るうつけ者という事だけで充分だ。
「何でしょうはねえだろう!」
界瑠は、罵声に近い声で言った。一斉にこちらに皆の視線は注がれた。
「此処ではなんですから、保健室でも行きましょうか? 用事があるのは、界瑠さん。怜羅さんの方でしょうから」
瑞希は、狡猾に笑った。それは挑発を受けてやろうという決め込んだそんな笑いだった。
「……判った。此処では確かに目立つな。怜羅様ももう回復されているでしょうし、舞台をそこに移そう……」
界瑠自身も、余り勝手な事はできないと判断したのであろう。こんなことをして良いとは怜羅自身の意志とは反するだろうし。そう考えていたのかも知れない。
「判っていただければ良いのですよ。では行きましょうか……」
瑞希は、丁寧な言葉遣いで保健室へと足を運ぶこととなる。それを礼司は、少し歪んだ表情で見送る事となってしまった事は、考えるに容易な事であった。
瑞希と小悪魔である界瑠は一言も話しをせず保健室までたどり着いた。
保健室は、放課後の周りのざわめきにも影響されず静まり返っている。そんな保健室から女医が出てきた。今日一日自らが何をやっていたのか? その疑問を抱えつつも。
「あら、瑞希君だったかしら? 今日先生体調が悪いみたいだから、このまま帰宅するのだけど……もしかして、あの、怜羅さんに用事でもあるの?」
女医の記憶に、怜羅は刻まれている。全く凄いものだ。天使や小悪魔のこの記憶操作は。
「俺じゃなくて、こちらの界瑠さんです。僕は只の付き添いですから」
瑞希は、直ぐ横に控えているその界瑠を見た。界瑠はただ会釈をするだけで何も話さなかった。
「そう。界瑠さん、怜羅さんのお友達ですものね。じゃあ、この後戸締りお願いするわ。
……にしても今日は一体何をしていたって言うのかしら……」
女医はボソボソ呟きながら、保健室前から去っていく。瑞希は申し訳ないという気持ちを心持ち抱きながら界瑠と共に保健室へと入った。
「怜羅様……大丈夫ですか?」
入って直ぐ怜羅の眠っているベッドに駆けつけた界瑠は、既に目が醒めていた怜羅を確認すると、ぎゅっと抱きしめる。
「界瑠。悪いわね……もう大丈夫。あれくらいの事でへばってたら、あの小生意気な見習い天使の瑞希に一泡吹かせる事なんてできやしない」
当の瑞希がこの場所にいるとも気付かなかったのか、怜羅はさらっと言ってのける。
「あのさ、その〜俺何かキミにしたか? と言うかキミ達小悪魔にさ?」
一泡吹かされる様な謂れなどないのだがと瑞希は思わず口を出す。それに気が付き、怜羅は、
「界瑠! 何故此処にあの天使が居るの!
あ〜〜〜目覚めに嫌なものを見た気分だ。吐きそう……」
というのは気持ちの問題なんだろう。実際吐くようなそんな様子は無い。
「すみません。怜羅様……事の成り行き。いえ、あたしの性でこうなりました」
界瑠は、一部の無礼を詫びた。
「で、その見たくも無いような天使にまだ用事でも有るのか? この地上に居ても仕方ないだろうに……此処は、魔界の者達が表立って出てくるところでもないだろう?」
瑞希は、呆れながら問い掛けた。不幸を喜ぶならば、魔界で事足りるのではないのだろうか? と言っても、魔界がどんな仕組みでどんな考えを持って成り立っているかなど知らない瑞希ではあるが。
「見習い天使、瑞希……あんたはことごとく私の邪魔をしている。あの雛と玲於奈の両名は、あの子達が六年生の時にこの私が別れさせた。それを今更結びつけおって! それだけじゃない! 此処三年間、お前が取り組んできた事は全て私が引き離すように仕向けて来た仕事だったのに……この……盗人!」
怜羅は、切れ長の綺麗な瞳に妖しい光を放ちながら力を込めて瑞希を威嚇する。
「盗人って……それは違うぞ。俺は、ちゃんと天界からの命令でこの仕事をしてきただけだ。よって怜羅、キミの思惑など俺の範疇には無い」
盗人呼ばわりされても、それは瑞希の預かり知らぬこと。ただ、礼司の翼箱に届いた指令をこなしてきただけだ。それも忠実に。
「天界のことなど知らぬわ! 私は魔界の小悪魔だ!」
はいはいそれで? こちらだって先に言ったとおり、天界から遣わされた見習い天使だ。と、言い返してやりたいところだが、それを言っていたら只のいたちごっこで話は前に進まない。全く困った小悪魔である。話のしようが無いじゃないか……
「たまたま同じ標的に当たっただけじゃないか? そんな目くじら立てるような事でもないと思うけどな〜」
瑞希はしれっと言ってのける。しかし、怜羅にそんな言葉が通じるはずも無く、
「たまたま〜? そんな偶然が何度も起こってたまるものか! 今回は、私の意地であの二人を引き裂き直したが、それで、お前は何とも思わなかったのか!」
その言葉に、瑞希は確かに疑問を持った。何故失敗したのかと。だからと言ってそれが何だ?
「私は、この三年間ずっとその苦汁を舐めさせられてきたのだぞ! 毎日毎日!」
あ、それはちょっと可哀想かも……我が事に思うまでには行かないが、瑞希は少しだけそう思った。
「で、その腹いせに魔界からこの地上に出てきたと? そんなんで大丈夫なのかお前……
」
「そんな事……この見習い天使〜〜〜! お前、この決断は私自身の誇りだ! まあ、失敗はしたが……それでも、禁を破ってまで魔界から出てきてお前に対峙してやろうという心は持ち合わせていた! それをそんな事の一言で済まされるとは腹に据えかねる!」
怜羅は、そう言うと、ベッドの上に立ち、細いその腕で瑞希の襟元を握った。
「もう大丈夫そうだな。それだけ元気が有れば心配する必要はない。俺は帰るぞ」
瑞希はその様子を楽しげに見下ろした。ベッドの上に居る怜羅だが、それでも瑞希の身長には劣る。それが余計腹立たしい。怒っているその怜羅の整った顔は悔しいと物語っていた。そして、女性に手を出すのは意に反すると、その手を軽く払った。
「じゃあな。禁を破ってまですることじゃない。お前達はさっさと魔界に戻れ」
そう言うと保健室から去ろうとそのカーテン越しのベッドの傍から離れようとした。
しかし、その瞬間……そう、そのベッドの下から何千何万という腐った人間の手のような塊が、亜空間のような黒い穴をベッドの上に作り上げそこから怜羅の体を握り引きずりこもうとしていたのである。
「きゃあ〜! 怜羅様!」
界瑠は、今までの瑞希との会話に口を挟まず、ずっと静かに脇に控えて聴いていたが、この沸き起こるような邪念のある腕達に引きずり込まれている怜羅の手を取った。
「界瑠! 助けて! 嫌〜これは何!」
引きずり込まれいていくその怜羅は必死で抗おうとしていたが、差し出される手達の力は絶大なもので、どうしようもない。
「見習い天使! あんたも手伝って! このままだと、怜羅様が……!」
グググというベッドを揺るがすようなその振動の中、界瑠は必死で止め様としていた。瑞希もこれには驚きを隠しきれず、言われなくとも! と怜羅の腕を取って引きずり上げようとしていた。なのに、自らもその穴の中に引きずり込まれていく。何という力であろうか。
「ちょっと、これは無理……!引きずり込まれる……界瑠、お前は手を離せ! この事を俺の相棒礼司に伝えてくれ、俺は……」
その言葉は、亜空間の穴の中へと消え行く。界瑠は、瑞希の言うとおり、手を離した。そして、次の瞬間振動は止まった。この保健室に界瑠一人を残して……
何故こんな事になってしまったのであろう。瑞希は、亜空間の中に引きずり込まれ、意識の無い怜羅を抱えてフワフワ浮いていた。
この怜羅に何の恩もない。それに助ける義理さえ。でも、目の前に起こっている事に手を差し出さないわけには行かなかった。そう、結局天使様というのは身分も肩書きも関係無しに助けるという事をしてしまうらしい。それも、自らに刃を向けた者であろうと。
「は〜それにしても此処は空気が淀んでいるな……息苦しいぞ……」
瑞希は、上も下も左右も無いこの空間で、怜羅をとりあえず起こそうと、ペチペチと頬を軽く叩いた。後で殴られない事を祈りながら。
「う、んん……」
その行為を繰り返していると、怜羅はやっと意識を取り戻した。そしてゆっくりと瞼を開ける。黒い瞳が光を取り戻した。
「此処は……何処だ?」
こっちが問いたいぞ。瑞希はちょっと苦笑いしたが、助けに入ったのは自分の意思だ。ならば、文句を言うのは筋違いだろう。よって、
「とりあえず起きたようだな。怜羅、お前も知らない所か?」
まあ、あんな事が起こり、怜羅自身助けを請うたのだ、知る由もないだろう……
「知らないわ……ちょっと、離れなさい! 無礼な!」
小悪魔は助けられる事に慣れてないのか?それともありがとうという言葉さえ知らないのであろうか? 瑞希もやれやれだと思わずには居られない気分だった。
「はいはい。女王様……」
そう言って、抱えていたその体を離す。しかし、事態は変わらない。そう、この亜空間に浮遊しているだけだ。
「なんだ? その女王様というのは……」
怜羅は、腑に落ちない言葉を聴いてイラッとしたらしい。だけど、この異常事態には首を捻らずにはいられないようだった。
「女王様とは我が侭が付き物だからな。だからそう言ったまでだ。そんな事より此処から脱出するその方法を考えようじゃないか?
此処にずっと居るつもりか?」
「そうか。我が侭は女王の決まり文句か!
ならそれは良い。私は小悪魔なのだからな!
で、此処から出る方法か……う〜ん……」
怜羅は、上下を入れ替えるように、ひっくり返った。スカートの中が見えそうだと瑞希は上を見るのを控えた。
「うむ……左舷四十五度に光が見える。そこまで行ってみるか?」
怜羅は、鋭い眼光でその先を見ていた。
瑞希はそれを見ようと目を凝らしたが、それを見ることは出来ない。この身体能力の違いに恐れ入った。
「ああ、じゃあ、取り敢えずそこまで行くか。人間の姿ってのもいけないな。此処は翼を使って!」
という事で、ボンッと見習い天使様の姿に変身する。翼を操る方が早いであろう。
「そうだな。此処は私も元の姿に戻ろう!」
そう同意すると、怜羅も小悪魔の姿に戻る。黒い重たそうなローブに爬虫類のような鱗のある羽。
「で、左舷四十五度ってどっちだ?」
瑞希はその言葉が判らず、問い掛けた。
「情けない天使見習いだな……判らぬなら良い。私の手に捕まれ、私が導く」
怜羅は、心にも無い手助けをしなければならないと思うとそれが癪に障ったが、この場所でのんびりこのままこの間抜けなお人よしと一緒に居るのはもっといやだと判断した。というか、助けてくれなんてこいつには言ってないのだがな……と、あの時自ら発した言葉は何処へやらだが……
そんな経緯を持って、怜羅は右手を瑞希に差し出す。それを瑞希は手に取ると、こっちだと導かれるまま、怜羅に行き先を託し翼を操ったのであった。
その頃の地上では、界瑠が礼司を捜していた。界瑠自身、礼司という者が、まさか瑞希に仕える天使だとは考えもしなかった。瑞希の口からあの時礼司という名前を発せられるまで。
よって、意識して見ていなかったため、どういう顔をしていたのかも朧。だけど、頼るしかないのはこの礼司という天使。だから、必死になって捜した。爬虫類の羽を駆使し、上空から帰宅している学生の顔を確認しながら。
そして、終に見つけたのである。文具店から出てくる礼司を。礼司は、瑞希専属の執事をこなしながら、この地上での学園生活をきちんと営んでいる。その証拠がこの行動に現れている様に感じられる。
『そこの男子! 止まりなさい!』
界瑠は、小悪魔姿のまま上空から叫んでいる。するとその声に気が付いたのであろう、礼司は、声の主を捜した。でも、周りには誰も居ない。という事は空耳なのであろうか?
と、礼司はそのままその場を去ろうとする。
『聴こえないのか? 全く……』
界瑠は、礼司が動こうとするその方角の道まで降り、礼司の前に立ちはだかった。
『おい! お前、礼司とか言う奴だろう? 今、お前の仕えている瑞希って見習い天使が、大変な事になってるぞ!』
両手を腰に従え界瑠は、意気込んでそう言い放った。
「ちょっと待っていただけますか? 君は、
確かあの怜羅という小悪魔に付き従う界瑠と言う小悪魔ではないのですか?」
礼司は、周りに人が居ないか一応確認し、そして低い声で問い掛けた。
『怜羅様はあたしの主人だ! でもその怜羅様とお前の主人が亜空間に飲み込まれてしまった……とにかく力を貸してくれないか? あたしでは役に立たない!』
界瑠自身、今は真面目に話をしているようだ。これは、嘘ではないであろう。でも一応確認のため瑞希様に礼司は電波を送る。しかしその返事は無い。というより、遮断されていた。だから礼司は、
『この先に私の家があります。とりあえず此処で話をする訳にはいきません。ですから、
そこまでご同行ください』
また小声で話すと、直ぐ様家へと駆ける。
それを、承認したと取り、界瑠は、その後を追いかけたのである。
マンションの一室に居を持っているその礼司は、誰も居ない自らの部屋に足を運ぶと、学園鞄を机の上に置き、そして、界瑠から事の次第を聴く。
「瑞希様らしいですね……助けに入られるとは。で、亜空間が出来たその原因は何ですか
?」
礼司は、あのまま保健室に足を運ばせないようにするべきだった事を後悔した。でも、後悔は先には立たない。後は、自らがどう動くかによる。
『有り得るのは、あたし達小悪魔が無断でこの地上に来たからかも知れない。でも、そんな事であんな事になるなんて思えないけど』
小悪魔は、遠隔操作によって呪いをかけることで修行を積み重ねていくのが慣わしだそうだ。立派な悪魔になるまでは地上に来たりは出来ない。
「はぁ〜……また無茶な事をなされましたね。それほどに、あの瑞希様を憎まれたのですか。 私の主では有りますが、まだ、瑞希様は見習い天使様なのですよ……でも終わった事を言っても仕方ないですね。界瑠さん。魔界に戻られて、リヴィアタン様に謝罪なさい。それで万事解決です」
これが、魔界を出た結果ならば、謝るしかないであろう。謝って済む事であるならば。
『それは出来ない。リヴィアタン様は決して許してくれません! でなきゃ、貴方に助けを請う事なんてしない!』
全く、小悪魔とは自分勝手だなと思わずには居られない礼司であったが、そんな礼司に、響く声があった。
「界瑠さん。ちょっと待っていてください。天界からの伝令が……」
そういうと、礼司は天使の姿に変わる。銀髪頭をそのままに真っ白な翼を解き放った。
『暫く、この部屋に居てくださいね。私は天界に行かないといけないようですから……』
緊急の伝令。それは、四大エレメンタルであり、瑞希にとっての上官。愛の天使、ガブリエル様直々の直接伝令であった。
『おいっ! あたしはどうなるんだよ! このまま此処にいても仕方ねえだろう! あたしも連れて行け!』
界瑠はそう言い放ったが、
『それは無理です。貴女と私は小悪魔と天使。相容れないのです。住む世界が違うのですよ。
そうですね、言っていた保健室ででも待っていた下さい』
礼司は、冷静に界瑠の申し出を断った。それは申し出というより、命令口調に感じられたが、そんな事はどうでも良いことで、今はこの緊急伝令に従うのみ。『今すぐ天界に戻るように』という伝令に……
天界は、草や花が溢れ空は碧く澄み渡り、雲ひとつ無い所。所々で天使が集いそして、唄を歌っていた。その天界を支える柱は、一本の木。そう、世界樹セフィロトが支えている。その遥か彼方にある天界の果ては、清く零れ落ちていく水の滝を大きな天秤でその流れを量っている。これは、人間界と、天界・魔界を上手く吊り合わす為の秤だ。どちらかに秤が傾くと、それは何かの現象を指し、天使達は与えられた任務を果たすために人間界へと出向くという仕掛けだ。
そしてこの秤を監視するのは、神とも交信ができる天使様達の仕事であり、低級な天使達がどうこうできる代物ではない。
しかし、今はその天秤に不可思議な現象がある。よって、天使ガブリエル様は礼司に指令を出したという訳であったりする。
『ガブリエル様、ただ今戻りました』
急いで、ガブリエル様が居る宮殿に足を運んだ礼司は、片足を着きそして真っ白な翼を折りたたんだ。
『人間界では礼司……で名が通っていましたね。見習い天使になろうとしている、瑞希に仕え本当にご苦労様です。で、話を進めましょう』
天使ガブリエル様は、愛の天使の代表として、それは美しい金色の真っ直ぐな髪の毛をゆっくり肩から払うようにして話を進めようと持ちかけた。それは事を急ぐ事であるのか
? そこまでは判らないが、瑞希の事はこのガブリエル様にはお見通しなのかもしれない。
『はい、お願い致します』
こんな見習いにもなれない天使にこの場に来るように伝令を出すはずも無いのだから。
『瑞希。見習い天使は、仕事をきちんとこなしているようですね。それに関しては安心しました。というのは、あの天使を今までどのように育つか見守って来たからも有るのです』
ガブリエル様のソプラノの声がこの水の宮殿の部屋一室に響き渡っていた。
『見守っていらした。それは特別な意味でしょうか?』
話が見えない。確かに素行が良いとは思えないが、仕事はちゃんとこなしている。だからと言って、特別に見守る事などあるのであろうか?
『瑞希がこの天界に輪廻する前ですが、あの子は、魔界の悪魔だったのです』
瑞希様が、魔界の悪魔? そんな事を聴いたのは勿論初めてだったため、普段からの礼司としては考えられない、
『そんな……本当なんですか?』
思わず敬愛するガブリエル様に使うべき敬語を忘れて友達にでも気軽に尋ねるように問い掛けていた。
『嘘偽りはありませんよ。あの子は、悪魔でした。しかし、天使に恋をし、魔界で求刑され、一度死んだ身の上です。そして、その生まれ変わった先がこの天界と言うわけなのです』
ガブリエル様はそう言って、しとやかな笑みを浮かべた。それは微笑ましい事であろうか? と礼司は思ったが、この天界の四大エレメンタルの天使様が無用心にそんな軽はずみな表情をされるわけも無く、礼司は、その話に聴き入った。
『神は、一つの試みに出たのです。悪魔が天使に恋をした。その気持ちは純粋であったためにお気に召したのでしょう。その悪魔を天使にしてみようと。そして、輪廻先を天界に委ねられました。この私ガブリエルにその旨を伝えられて。だから、私は瑞希を永い眼を持って見守り続けてきたのです。そして、今回の困難な仕事を瑞希に託してみました。それは見事に瑞希の心に刻み込まれたでしょう。良くあの壊れてしまった二人の心を結び付けられたと感心しました。そして私は安堵までしました。がしかし、その仕事は小悪魔である怜羅に阻まれました。これも何かの因縁なのですね。神が出したもう一つの試練……』
ガブリエル様は、両脇にある肘掛に肘を着きそして溜息をついた。
『もう一つの試練と申されますと?』
礼司には皆目見当がつかなかった。怜羅との一件は、瑞希様の話では片がついたとの事である。では、怜羅と瑞希が亜空間に投げ出されてしまった事を指すのであろうか? それしか考えられない。しかし問い掛ける。自らだけの考えで片を付けることは出来ない。
『怜羅は、元天使。そう、悪魔であった瑞希が愛した一人の天使であったという過去があるのです』
ガブリエル様は、溜息をつきながら、その事を礼司に伝えた。
『あの小悪魔が、元天使で……瑞希様が愛した天使だったと申されるのですか?』
愕然とした。天使は恋をしない。いや、性別が無い以上、恋をする事ができない。そのはずなのだ。それなのに恋をした? 重罪ではないか……
『怜羅は、天使という自らの立場を忘れ去り愛というものに手を出した。悪魔である瑞希を愛してしまったのです。これは本来有ってはならない事だった。よって、神は怜羅の魂を輪廻という輪から悪魔になるように転生させたという次第なのです』
礼司は既に放心状態になっていた。只の見習い天使である瑞希様がたった一度だけ失敗をしたそのお勤め。それがあの雛と玲於奈を結びつけるというそういった重い恋。その失敗した原因を作ったのが怜羅。何たる運命。いや、これが一つの試練なのだろうか? それとも業?
二人は今、お互い何の感情も持ち合わせていないであろう。そう確信しているのはあの瑞希様のことだ、いくら女の子をお気に入りとしている瑞希様であっても、ああ言った小生意気な女性に関心を抱くはずが無いからである。確かに瑞希様は、雛みたいな女の子らしい女の子には関心を抱くきらいはある。しかし気の強い自分勝手な者に関心を抱く事はない。そう礼司は確信している。
『今まで、礼司の翼箱に指令を出していたのは、私の範疇にありましたが、その判断をされる仕組みは神にあります。よってそれが偶然だったのか……それとも何かの糸が引き寄せているのか……これは神にしか判らない事なのです。しかしこのガブリエルにも一つだけ判っていることは、小悪魔である怜羅と、性別のない天使の瑞希が勤めている仕事のその全てが、ぶつかり合っていたということです。何故こんな事になっているのでしょう? そして、今回は二人で亜空間に……天界も魔界もその全てを把握できないそんな空間に投げ出されてしまいました……』
ガブリエル様は、また一つ溜息をつかれた。しかしそれは、何かを予兆している様に感じられて、礼司は少しだけ疑問を持った。
『で、私は如何すれば良いのでしょうか?ガブリエル様……亜空間への入り口は小悪魔の界瑠という者に聞くところ、閉じられてしまったとの事です。今の私では手も足も出せません』
それは、ガブリエル様にも判らないことであり、見習い天使瑞希様の召使である礼司がどうこうできる訳ではないのは判りきっている。それなのに、瑞希様の過去の話を聞かせるためだけにこの天界に呼び寄せたわけではないであろうと考えてしまう。
『今は、神に連絡を取ってる所です。神が創ったであろうその亜空間について教えていただくようにと。でも、もしかすると、それは必要ではない事なのかも知れませんが……』
ガブリエル様はもしかすると、もう、このままあの怜羅と瑞希様をそっとしておくのが一番良いのでは無いだろうかとそう考えているのかもしれない。それは、ガブリエル様自身愛を守護する事を考えての事である。
そっとあの二人を見送るそう考えているのではないだろうか? 礼司はそう考えると、これ以上自ら何も出来はしないであろう。
でも、自らの主人は瑞希様である。それが居なくなる。そんな事になるというならこれから先如何すれば良いのであろうか? それが頭を過ぎる。そして一か八か……自らの立場を忘れ去り、あの亜空間を呼び寄せるその効力が有るかどうかの賭けをしようと思いたった。
『ガブリエル様……私に考えがございます』
そう言って、自らの考えをガブリエル様に申し上げた。それは、本当に危険な申し出であり、ガブリエル様の首を縦に振らせるには程遠い事であった。しかしもうこれしかないであろう。そう、自らが堕天する。その覚悟を申し上げたのであった。