9
「あなたの名前が聞きたいわ」ある日の夜、岩穴の外に見る空に星が輝き始めると、ツバメはそう言った。
「ナマエ? ナマエとはなんだ?」
「名前よ。あなたを呼ぶ時に使う言葉よ」
「そんなものはない。俺は鷲だ。空の王だ。それだけでいい」
「駄目よ、そんなの。いつまでも『あなた』なんて呼ぶのは嫌だわ。ちゃんと名前で呼びたい。お母さんは、あなたのことをなんて呼んでいたの?」
「何とも呼んではいない。ただ『空の王になれ』と、それだけを言った」
「そう、そうなのね」
「お前には名前と言うものがあるのか」
「ええ、もちろんよ? アーリアと言うの」
「アーリア……」
「気に入った?」
鷲は黙り込んで目を逸らした。
「気に入ったみたいね」
「何も言ってない」
「あなたは私の言ったことが気に入ったり嬉しかったりすると、黙り込む」
「勝手に決めるな」
「次はあなたの番よ?」
「何がだ」
「名前を決めるの」
「そんなものはいらん」
「ウラノスと言うのはどう?」
鷲はまた何も言わなかった。
「気に入ったみたいね。空と言う意味よ」
「勝手に決めるなと言っている」
「私は自由よ。どこに行くのも、いつ行くのも、あなたの名前も、自由に決めるわ」
「その羽でか」
「その羽?」そう言ってアーリアは動かない自分の左の羽を見た。
「その羽で、どうやって自由に空を飛べる」
「飛べるわよ。この羽でも、私は自由にどこにでも行ける。私はツバメですもの」
「馬鹿なことを」
「そう思う?」そう言うと、アーリアは動かない羽を引きづり、不器用に足で歩きながら岩穴の端まで行った。
鷲は何をする気だと思いながら、その様子を見守った。
「見ててね?」そう言い残すと、アーリアは岩穴から飛び降りた。
「何をする!」鷲はそう叫ぶと、鉤爪が割れるほどの力で岩を蹴り、岩穴から外に飛び出した。
崖を見下ろすと、右の羽を必死にばたつかせながら、楓の種のようにひらひらと回りながら落ちて行くアーリアが見えた。鷲は目が良かった。一キロ先の獲物でさえ空からとらえることができる。黒く艶のあるアーリアの体は、みるみる地上の闇の中に吸い込まれるように落ちて行った。
鷲は大きく地上に向かって羽ばたくと、狩りの要領で翼をたたみ、瞬く間に時速二百キロを超えるスピードで急降下した。
小さく柔らかいアーリアの体を空中で傷つけることなく捕まえるのは、狩りでウサギを捕まえるより数百倍難しかった。下に突き出した岩が見えた。針葉樹の木々も見える。捕まえる瞬間羽を広げ、アーリアの落ちる速度までスピードを落とすと、脚をアーリアに向け突き出した。鉤爪でアーリアを傷つけるわけにはいかなかった。そっと、そっと足の付け根でアーリアを掴み、羽をさらに広げてスピードを落とした。だがそれがいけなかった。なんとかかわしたつもりでいた突き出した岩に左の羽をぶつけ、バランスを失った。鷲はアーリアの体を素早く自分の腹の下に抱え、羽をたたんで針葉樹の木々の間に突っ込んだ。