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ハイニョー!!

作者: ミッドナイト★ONIGIRI

      挿絵(By みてみん)

 僕には好きな女の子がいる、らしい。


「あ、おはよう紅炎こうえんくん」


 それが目の前にいるこの女の子、らしい。


「おはよう、ええと……雪隠ゆきがくれさん。雪隠鎮子(しずこ)さん」

「そうだよー、鎮子だよー」


 肩の下まで伸びる、絹のようにつややかな黒髪。きらきら輝く大きな瞳に、柔らかなアーチを描くほんわかとした眉。

 花のような女の子が、花のように笑いかけてくれている。

 きっと、何百回も同じやり取りをしただろうに、嫌な顔一つせずに。


 ドキンと胸が……膀胱が高鳴る。

 そうして思い出す。頭ではなく、僕の膀胱が思い出す。


 僕はこの子が好きなんだって。



 ※   ※   ※



「僕はオシッコをするたびに記憶をなくしてしまう体質だ」


 休み時間の教室。

 友人である小野おのの下子しもこに促され、僕は胸ポケットに入っていた手帳の冒頭を読み上げていた。


「……マジ?」

「マジだ」


 どこか冷徹な印象を感じさせる銀縁眼鏡を中指でクイっと押し上げて、下子は真顔で肯定する。


 にわかには信じられない話だが、どうやら本当らしい。下子は冗談の類を言わないし、なにより、実際に僕は記憶の欠落を感じている。

 なにせ僕はさっき、気づいたら男子トイレにいて、隣で下子に寄り添われていたのだから……。


「詳細はその手帳に書いてあるが、俺の口からも説明しておく」


 下子の口調は淀みなかった。


「お前は尿と一緒に、尿を溜めていた間の記憶を排出してしまう。よって、その記憶障害を患った二年前からお前の時はほとんど止まっている」


 この説明も、おそらく何百回と繰り返されたものなのだろう。

 僕は頭を絞って記憶を掘り起こしてみる。

 さっき気づいたのは男子トイレ。おそらく用を足していて、そこで記憶を失ったのだろう。それ以前となると……脳にぽっかりと空白が生じている。

 中学生くらいまでの記憶ならあるけど……そうだ、僕は今……。


ぼう紅炎こうえん。高校二年生。十七歳。バレー部」


 こちらの思考を読んだかのように、下子が淡々と僕のプロフィールを口にする。


「その名前から『膀胱炎』のニックネームをつけられがちだが、実際に膀胱炎になったことはない」

「そうなんだ……いや、それはともかく……」


 クラスの景色を見ているうちに、漠然と実感が沸いてくる。

 そうだ、僕は今……高校生。

 どうやら記憶を忘れるといっても、完全に忘れるわけじゃないらしい。感覚として覚えていることもあるみたいだ。


「頭ではなく、お前の膀胱が覚えているんだろうな」

「僕の膀胱が……」

「お前のここ二年の記憶は、膨大だからスマホにデータとして保存してある。手帳とは別にそれも軽く見ておけ」


 そこでチャイムが鳴り、下子は自席に戻っていった。

 僕は少しでも早く状況把握に努めるため、記憶の断片に目を通していった。




 放課後になった。

 授業中もずっと記録を読み漁っていたおかげで一通り状況は把握できたが、事態はかなり深刻だ。

 僕はトイレが近いほうではないと思うが、それでも日に二~三回は行く。そのたびに記憶をなくしてしまうなんて……。

 こんな病気(?)を持ちながらなんとか日常生活が送れているのは、ひとえに下子のおかげだろう。


「……まぁ、こんな体質になっちゃったのも下子のせいらしいけど」


 ため息をついたとき、ふわりとラベンダーの香りが鼻をくすぐった。


「おーい紅炎くん」


 はっと顔を上げると、知らない女の子がこちらを覗き込んでいた。その花のような笑顔を見ていると、膀胱が締め付けられるような感覚に襲われる。

 ひょっとして、彼女が――


「雪隠、さん?」

「ふふ。そうだよー、雪隠鎮子」


 やっぱり。手帳に高頻度で登場した人物だ。


 雪隠鎮子。

 大手トイレメーカー社長の一人娘で、眉目秀麗、成績優秀、スポーツ万能。絵に描いたような才色兼備のお嬢様。

 それでいて嫌味なところがない、クラスの人気者。

 ほわほわしたキャラクターは癒しそのもので、いるだけで場の空気を和ませてくれる。まさにトイレの芳香剤的な存在だ。


 そんな高嶺の花を――どうやら僕は好きになってしまったらしい。


「……うわ」


 意識したら途端に緊張してきた。


「どうしたの?」

「い、いや、なんでもない」


 くりんと小首をかしげる雪隠さん。仕草の一つ一つが可愛い。


「そう? じゃあ、部活いこっか」

「部活?」

「うん。バレー部」


 そういえば、僕はバレー部に入っていたんだった。


「ええと、雪隠さんは僕の記憶のこと……」

「もちろん、知ってるよ」


 知っていてこの自然な態度なのか。なんというか、器が大きい。さすがは僕が惚れた女の子だ。


「私はバレー部のマネージャーなの。それで紅炎くんと仲良くなったって感じ」


 たしか、手帳にもそんなことが書いてあったな。

 雪隠さんに一目惚れして、バレー部に入ることにしたって。


「……いつも世話をかけるね」

「気にしないで! 困ったときはお互い様だし!」


 下心満載の入部理由だから、とても申し訳ない。


「紅炎くんにかわやしん『ハナ=コ』のご加護がありますように」


 だしぬけに、雪隠さんが手を合わせて祈り始めた。


「は、花子?」

「雪隠家が代々お祀りしている神様だよ。紅炎くんの病気が治るように、いつもお願いしてるんだ」

「雪隠さん……」


なんて優しい人なんだろう。

僕も後で、雪隠さんにならって『ハナ=コ』にお祈りしておこう。


「さ、そろそろ行こっか! 部員のみんなも待ってるよ!」

「あっ……」


 ぐいっと手を引かれ、膀胱が弾む。

 好きという気持ちは、誤魔化せない。

 たとえ記憶をなくしても、この恋心は膀胱深くに刻み込まれているんだ。


 遠くから下子がこちらの様子を窺っていたが、一つ頷くと先に教室を出ていった。ちなみに下子もバレー部だ。




 バレー部での練習を終えた後、僕は下子と帰路についていた。


「うー、さむ」


 冷えきった空気が骨にまで染みてくる。

 暦は十二月。トイレが近くなる、嫌な季節だ。


「それにしても、まさか僕がレギュラーだなんて驚いたな」

「だろう? お前がバレー部に入ると言い出したときは、どうなることかと思ったが……みるみる成長して、今じゃチームの柱だ」

「体が気持ち悪いくらい勝手に動いて、スパイクを決めてたよ」


 もともと運動神経は悪くなかったけど、少なくとも記憶障害を患う二年前まではバレーなんてやったことがなかった。


「恋の力、ってやつかもな」


 下子が真顔で呟く。相変わらず表情の変化に乏しいやつだ。コイツだけは、中学時代からまったく変わっていないから話していて安心する。


「そういえば、トイレは大丈夫か?」


 僕の排尿周期をある程度把握しているのだろう、絶妙なタイミングで訊いてくる。


「家まではたぶん、我慢できると思う」

「そうか」

「……ごめん、下子」


 思わず、口から謝罪がこぼれた。


「自分の時間を削って、僕のためにいろいろ尽くしてくれて……」


 下子は僕の世話に付きっきりになってしまっている。バレー部に入っているのだって僕の面倒を見るためだし……。

 いとも簡単に記憶をなくしてしまう僕は、周りの協力なしには日常生活を送ることができない、はた迷惑な存在だ。


「いや、もとはと言えば俺のせいだからな。むしろ謝るのはこっちのほうだ」

「……『聖杯』だったっけ?」


 覚えている。僕が『ソレ』に触ったことは。


「ああ。聖水オシッコを入れる杯――『聖杯』だ」

「怒られない? そのネーミング」


 ローマ教皇とかに。知らないけど。


「小野家は飛鳥時代から続く『検尿師』の家系でな。『聖杯』は我が家に代々受け継がれてきた秘宝だ。小野家以外の人間が触ると、呪われちまう」

「その話は中学生のときにも聞いたけど、まさか本当だったとはね」


 昔から下子は冗談を言うようなヤツじゃなかったけど、さすがに荒唐無稽な話すぎて信じられなかった。


「あの日……お前が俺の家に遊びに来たとき、うっかり手入れ中の『聖杯』をテーブルの上に置きっぱなしにしちまった俺に非がある」

「そんなこと言ったら、興味半分で触った僕が悪いよ」

「この話は平行線になる。やめよう」


 再三思うけど、僕はいったい何百回、下子に同じようなやり取りをさせてしまっているのだろう。もし僕が下子だったら耐えられないかもしれない。


「ていうか、『検尿師』ってなに?」


 それでも聞きたいものは聞きたいんだけど。


「『検尿師』は『聖杯』を使って人々の尿を集め、ガンの特効薬などを作る仕事だ」


 下子は中指でクイッと眼鏡を押し上げる。


「お前の尿もよく採取させてもらっている。だからそのへんは、お互い様ってやつだな」

「へ、へえ……」


 次、下子とトイレに行くのがなんだか怖くなってきた。

 考えてみれば、僕は排尿時に記憶をなくしてしまうわけだから、いつも下子に介護してもらうような形で用を足してるわけで……。


「心配するな、俺もバレー部だ。タマの扱いには慣れている」

「やかましいよ」


 思いっきり下ネタじゃないか。




「着いたぞ」


 自宅の前まで、下子が送ってくれた。

 尿意は限界が近い。早めに今日のことをメモに書き残しておかないと。


「……なぁ、どうするんだ?」


 下子にしては、珍しく歯切れが悪い切り出し方だった。


「どうするって、なにを?」

「雪隠のことだ。告白しないのか」

「そ、それは……」


 手帳にも切々と、僕の雪隠さんに対する想いは綴られている。

 記憶がなくてもはっきりわかる。今日一日で嫌というほど思い知らされた。


 僕はやっぱり、雪隠さんが好きなんだって。


 でも……。


「告白なんて、無理だよ」

「なぜだ」

「僕みたいな、オシッコをしただけで記憶が消えてしまうような男、誰かに好きになってもらえるはずがない……」


 知らず拳を握りしめる。

 こんな障害を抱えたままじゃ、普通に恋をすることも許されない。


「この呪いを解く方法はないの?」

「小野家の総力をあげて研究中だが、いまだに確実と言える治療法は見つかっていない」


 下子は力なく首を振る。


「それに、実はにょろいに関して言えば、もっと喫緊の問題がある」

「にょろい?」

「尿の呪いのことに決まっているだろう」


 知らないよ。


「えーっと……喫緊の問題って?」

「これをお前に話すのは初めてだ。心して聞いてくれ」


 ものものしい前置きに、ごくりと唾を飲み込む。

 下子はためらいの間を取った後、いつもの淡々とした口調で言った。


「文献によると、『聖杯』を触ってからちょうど二年後に、にょろいの対象者は膀胱が爆発するらしい」

「なっ……」


 衝撃の事実に、言葉を失う。

 僕が『聖杯』に触れたのは、たしか二年前の冬。

 そして今の季節も……。


「なんてこった! 膀胱が爆発したら死ぬじゃないか!」

「必ずしもそうとは言えない」


 必ずしもそうだろ、と思ったが、どうやら下子にはなにか考えがあるらしい。


「小野家の秘術を尽くせば、助かる可能性はある」

「秘術?」

「膀胱が爆発した瞬間に、『尿意にょいぼう』を使って膀胱を修復するんだ」


 新アイテムの登場だった。


「……それも小野家の家宝か?」

「そうだ。かの孫悟空が使っていたとされる、まあまあ長めの棒だ」


 説明になってない。


「俺も全力を尽くすが、『尿意棒』を使った施術は難しい。成功の可能性は高くないだろう」

「その……『Ⅹデー』はいつなんだ? 僕の膀胱が爆発する……」

「一週間後だ」


 急すぎる余命宣告に眩暈がした。

 今日だけでいろんなことがあった。そして極めつけにこれだ。僕の小さな膀胱では、ちょっと受け止めきれない。


「それを踏まえたうえで訊こう。雪隠に想いを、伝えなくていいのか」

「雪隠さんは、このこと……」

「お前の膀胱が爆発することを知っているのは、俺以外ではお前の家族だけだ」


 下子が雪隠さんへの告白を促すのには、そういう理由があったのか。


「ただでさえ記憶のリソースが限られているお前に、余計な負担をかけたくなかった。だから今まで言い出せずにいたが……」

「ありがとう、下子」


 なにはなくとも、世話になっているこの男へのお礼が必要だと思った。

 この二年間、僕が想像もできないような苦労をしてきたに違いない。


「よく考えて結論を出してくれ。このことを手帳にメモするかしないかも、お前の判断に任せる。最期までなにも知らずに過ごすというのも、一つの選択だと思う」


 なんの予備知識もなく突然死ねれば、苦しまずには済む。

 下子の言う通り、しっかり考えてみよう。

 膀胱の限界まで……。



 ※   ※   ※



「僕はオシッコをするたびに記憶をなくしてしまう体質だ」


 手帳の冒頭を読み上げ、記憶の回収をしていく。

 なんともデタラメな話だが、下子のフォローもあり、どうにかして受け入れることができた。


「……で、結局あと一日の命なわけか」

「その可能性は低くない」


 昼休みの喧騒の中でも、下子の声ははっきり耳に届いてくる。


「この一週間、僕は雪隠さんに告白するか否かで、ずっと悩み続けているみたいだね」


 家族とパーティーをしたり、下子と二人きりで遊びに行ったりはしたみたいだけど、雪隠さんのことは後回しになっている。


「ああ。ずるずる引き延ばして、今日まで来ちまった。明日の十三時二十六分、お前の膀胱は爆散する」

「膀胱が爆散」


 嫌すぎる響きだ。


「分刻みで決まってるのか」

「お前が『聖杯』に触ったのが、二年前のその日その時間なんだ」

「よく覚えてるな……」


 明日は土曜日で学校が休みだ。動くなら今日しかない。


「今日、約束を取り付けて、明日……最期の日に決着をつける」


 雪隠さんの席に視線をやる。その横顔を見ているだけで膀胱が踊る。

 やはり、この恋は本物だ。


「膀胱の容量は、個人差はあるが平均して500mlくらいだという」


 下子が静かに呟く。


「さながら、500mlの恋といったところか」

「……一回の排出量は、水溜まりくらいにしかならないかもしれないけど」


 僕は雪隠さんへの想いがびっしり書き連ねられた手帳を机に置いて、立ち上がった。


「溜まりに溜まって、海のような恋心オシッコになってるんだ」

「ふっ……そうだったな」


 小さく笑う下子に背を向けて、僕は雪隠さんのもとへ歩いていく。


「雪隠さん、ちょっといい? 明日って空いてるかな――」


 あとは任せたぞ、明日の僕。



 ※   ※   ※



 運命の日が来た。


「トイレは済ませたか? 紅炎」

「ばっちりだよ」


 家の前まで、下子が迎えに来てくれていた。


「服、オシャレだな。よく似合ってるぞ」

「ありがとう」


 なんだろう、このやり取り。

 べつに下子とデートするわけじゃないんだけど。


「雪隠とは、どこで待ち合わせしているんだ?」

「メモによれば、学校近くの公園に十二時集合って話になってる」


 現在の時刻は、午前十一時過ぎ。

 公園までは歩いて十五分くらいだから、充分すぎるほど余裕がある。


「ゆっくり行こう」


 下子と二人、歩き出す。

 空は晴れ渡っており、絶好の告白日和だった。脇を流れる川のせせらぎが、膀胱に心地よく響いてくる。


 下子は片手にまあまあ長い棒を持っていた。


「それが『尿意棒』か」

「まあまあ長いだろう?」

「たしかに」


 まあまあ長い。


「その『尿意棒』をどんなふうに使って、僕の膀胱を治すんだ?」

「『尿意棒』は伸縮自在に大きさを変えられる神具でな。お前の棒にこの棒を差し込んで膀胱の手術を行う」


 訊かなきゃよかった。


こうえんの棒に棒を差し込むってわけだな」

「やかましいよ」


 棒だけに一本取られてしまった。


「それにしても、下子が見てる前で雪隠さんに告白するの、恥ずかしいな」

「すまないが我慢してくれ。もしものとき、俺が傍にいないと助かる命も助からない」


 爆発時刻が前後するリスクを考えてのことだ。僕の命が助かるかどうかは、下子の『尿意棒』捌きにかかっている。

 それはわかってるけど、やりづらいものはやりづらい……。


「……あっ」


 公園に向かう橋を渡っているとき、二人同時に気づいた。

 あわてて欄干に噛りつく。


「あれは……」


 川の中、浮き沈みする頭。

 間違いない、男の子が溺れている。


「大変だ!」

「待て」


 思わず飛び込もうとしたところを、下子に止められた。


「俺が行く。お前は雪隠のもとへ」

「なに言ってんだ! こんなときに……」

「こんなときだからだ! ここは俺に任せろ!」


 叫ぶなり、下子は川へダイブした。


「下子!」


 川の中、下子は無事に子供を確保したようだが、自らも溺れていた。手足をばたばたさせて暴れている。


「泳げないくせに、無茶しやがって……!」


 真冬の川は凍るほど冷たくて、体から自由を奪っていくはずだ。

 一瞬、雪隠さんの笑顔が頭をよぎる。

 ここで僕が助けに入ったら、待ち合わせには間に合わないかもしれない。


「でも……見捨ててはおけない!」


 僕は覚悟を決めて橋から飛び降りた。




「……! ……ん!」


 薄膜の向こうで、誰かが僕の体を揺さぶっている。


「……紅炎! しっかりしろ! 泳げないくせに、無茶しやがって……!」


 下子だ。

 さっきの僕と同じ台詞を叫んでいる。


「いいか、よく聞け紅炎」


 こんなに切迫した下子の声を聞いたのは初めてだった。


「体内の酸素が枯渇したせいで、膀胱に危険が及んでいる。もちろん救急車は呼んだが、医者ではお前の心肺は治せても膀胱は治せない」


 なら、下子に頑張ってもらうしかないな。

 そう答えようとして、声が出ないことに気づく。


「おそらく予定の時刻を待たずに、お前の膀胱は飛び散るだろう。正直な話、膀胱がこんなコンディションでは予定していた手術を執り行うのは難しい」


 そりゃ大変だ。

 僕はここで死ぬのか?


「だが、安心してくれ」


 下子は動かない僕の手を、ぎゅっと握った。


「お前のことは、俺が必ず助ける」


 そこで僕の意識は闇に落ちた。




 目の前に、白い天井があった。


「ここは……」


 どうやら病院らしい。

 ぼんやりした頭で思い出す。

 僕は下子を追って川に飛び込んで……。


「目が覚めたか、紅炎」

「紅炎くん大丈夫!? あー、よかったぁ……」


 ベッドの脇には、下子と雪隠さんの姿があった。


「……子供は無事?」


 真っ先にそれを尋ねると、下子が力強く応じた。


「安心しろ。隣の病室でピンピンしてる」

「そっか」


 ほっと膀胱を撫で下ろしながら、ゆっくり身を起こしていく。


「僕は……どうなったんだ?」

「あの後、お前の膀胱を俺が『尿意棒』を使って治療したんだ」

「成功、したのか?」


 膀胱をドキドキさせながら尋ねると、下子は満面の笑みで頷いた。


「ああ」


 それは僕が知る限り、下子の生涯で最も晴れやかな笑顔だった。


「紅炎くん、私のことは覚えてる?」

「? う、うん。そりゃもちろ――」


 雪隠さんの問いかけに肯定を返そうとして、気づいた。


「なんで僕、雪隠さんの記憶があるんだ……!?」


 それだけじゃない。

 これって、他の記憶も全部――?


「俺から説明しよう」


 下子はいつものように中指でクイッと眼鏡を押し上げ、なんでもないような口ぶりで告げた。


「お前には、俺の膀胱を移植したんだ」

「な、なんだって?」


 心臓や肝臓ならまだしも、膀胱の移植なんて聞いたことがない。

 しかも、手術者本人の臓器ときている。意味がわからない。


「お前の膀胱は危篤状態で、普通の方法ではどうやっても助からなかった。だから『尿意棒』を使って、俺の膀胱の半分をお前に移植したんだ。イチかバチかの賭けだったが、成功してよかった」

「じゃあつまり、下子の膀胱は今……」

「半分のサイズだ」


 血の気が引く思いだった。


「ま、待ってくれ! そんな……僕を助けるために、下子は……」

「心配するな。俺はもともと、一般人より膀胱のサイズが倍以上ある」


 誇らしげに言う。


「それに、『検尿師』は特別な訓練を受けていて、一般人より膀胱が丈夫にできている。今こうして紅炎の前に平然と立っているのがその証拠だ」


 たしかに、僕と同じ病み上がりのはずなのに、下子はいたってケロッとしている。


「ただ、自分の膀胱を移し替える手術は相当痛かった。さすがの俺もちょっと泣いてしまったくらいだ。今も膀胱がヒリヒリする」

「そ、そうだよな。麻酔もないんだし……」

「おそらく、しばらくの間は排尿するたびに激痛が走って気絶してしまうだろう」


 そんなにか。


「……僕に任せておいてよ」


 僕は決意とともに、宣言した。


「この二年間、下子が僕に寄り添い続けてくれたように、今度は僕が、下子の排尿をサポートする」

「紅炎……」

「僕の記憶が戻ったのは、下子の膀胱のおかげだったんだな」


 自分の下腹に手をやる。

 膨大な記憶が溢れてきた。

 失われたこの二年間の記憶……。


「記憶まで戻ったのは、俺としても望外の結果だ。そういう可能性もあるとは思っていたが……奇跡という他ないな」


 下子の話を受け、雪隠さんが粛然と瞼を閉じる。


かわやしん『ハナ=コ』のおかげかもね」

「そっか。『ハナ=コ』が……」


 だとすれば、祈り続けてくれた雪隠さんのおかげでもある。


「二人とも、本当にありがとう」

「なあに、お前のためなら」

「うんうん」


 雪隠さんは嬉しそうに何度も頷いた後、思い出したようにぽんと手を叩いた。


「ところで紅炎くん、私に話ってなんだったの?」

「そ、そうだ! すっかり忘れてた!」


 僕は咳払いをして、居住まいを正す。


「まずは、ごめん。待ち合わせをすっぽかして」

「ううん。人助けをしてたんだから、しょうがないよ」

「それで、なんだけど……」


 緊張で膀胱がバクバク跳ねる。

 呪いが解けたことで、ここ二年間の雪隠さんとの思い出も蘇ってきていた。

 何度、記憶がリセットされようと、嫌な顔一つせずに笑いかけてくれた雪隠さん……。

 いっそう、彼女への想いが膨れ上がっていた。


「雪隠さん」

「は、はい」


 かしこまった空気を感じたのか、雪隠さんが身を固くする。

 ……僕はもう、排尿をおそれる必要はない。

 対等な関係で、雪隠さんと向き合うことができる。

 僕の病気オシッコを受け入れてくれた、聖女トイレのようなキミに。


 下子は黙って見守ってくれている。

 ここまで奮闘してくれた下子に報いるためにも、やり遂げなくてはならない。


 大きく息を吸い込む。

 もう一度、強く膀胱が跳ねる。

 まるで下子の膀胱が、僕に頑張れと言っているようだった。


「好きです。僕と付き合ってください」


 雪隠さんは大きく目を丸くした後、花のように笑った。


「――喜んで」

以前、即売会等で頒布した短編小説に加筆修正を加えたものです。


著:浅葉桂一

イラスト:赤戯鳴兎(@Akagi_Meito_)


ノベルゲーム版(フリーゲーム)もありますので、よかったらプレイしてみてください。

→https://www.freem.ne.jp/win/game/23430

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