8話:米騒動、大企業倒産、銀行の取付騒ぎ
同年、内務省は省内に社会局を設置し、府県などの地方庁にも社会課を設けた。騒動の発生地域・参加人員と軍隊出動、検挙者の処遇:「米騒動」や「米騒擾」などと呼ばれた約50日間にわたる一連の騒動は、最終的に1道3府37県の計369か所に上り、参加者の規模は数百万人を数え、出動した軍隊は3府23県にわたり、10万人以上が投入された。
呉市では海軍陸戦隊が出動し民衆と対峙するなか銃剣で刺された事による死者が少なくとも2名出たことが報告された。検挙された人員は2万5千人を超え、8253名が検事処分を受けた。また7786名が起訴され、第一審での無期懲役が12名、10年以上の有期刑が59名を数えた。米騒動には統一的な指導者は存在しなかったが一部民衆を扇動したとして和歌山県で2名が死刑の判決を受けた。
政府は8月13日に1千万円の国費を米価対策資金として支出することを発表し各都道府県に向けて米の安売りを実施させたが騒動の結果、米価が下落したとの印象があるとの理由から8月28日、この指令を撤回し安売りを打ち切った。結果として発表時の4割程度の支出に留まり米価格の下落には至らず1918年末には米騒動当時の価格まで上昇した。しかし国民の実質収入増加によって騒動が再発しなかった。
第一次世界大戦によってもたらされた好景気「大戦景気」が、終戦にともなって終了した。戦前の日本は、大戦景気と戦後恐慌が循環する状況がしばしば繰り返された。この景気循環は日露戦争の際にも確認できるが、一般には第一次世界大戦後の1920年に発生した不況を指して「戦後恐慌」と呼ぶことが多い。
1918年11月のドイツ帝国の敗北により大戦が終結したとき、大戦景気は一時沈静した。しかし、ヨーロッパの復興が容易でないと当初見込まれ、また、アメリカ合衆国の好景気が持続すると見込まれたこと、さらに、中国への輸出が好調だったことより、景気は再び加熱。ヨーロッパからの需要も再び増加して輸出が伸びはじめた1919年後半には金融市場は再び活況を呈し、大戦を上まわるブーム「大正バブル」となった。
このときのブームは、繊維業や電力業が主たる担い手だったが、商品投機「綿糸・綿布・生糸・米など」、土地投機・株式投機が活発化しインフレーションが発生。1920年3月に起こった戦後恐慌は、第一次世界大戦からの過剰生産が原因。日本経済は、戦後なおも好景気が続いていたが、ここにいたってヨーロッパ列強が市場に復帰し、輸出が一転不振となり余剰生産物が大量に発生。
株価が半分から3分の1に大暴落。4月から7月にかけては、株価暴落を受けて銀行取付騒ぎが続出し169行におよんだ。大戦景気を通じて日本は債務国から債権国に転じたが、1919年以降は輸入超過となった。大戦景気で好調だった綿糸や生糸の相場も1920年には半値以下に暴落して打撃を受けた。これにより21銀行が休業、紡績・製糸業は操業短縮を余儀なくされた。
休業した銀行の多くは地方の小銀行であったが、横浜の生糸商3代目茂木惣兵衛の経営する茂木商店が倒産したため、茂木と取引のあった当時の有力銀行、第七十四銀行も連鎖倒産している。これには、里見敬之も信じられないと、思ったくらいだ。それでも、何とか、政府の救済措置により、恐慌は終息をみた。
大戦中に船成金として羽振りのよかった山本唯三郎、一時は三井物産をうわまわる取引をおこなった神戸の貿易商鈴木商店、銅の値上がりで巨利を得た日立鉱山の久原房之助、高田商会、吉河商事など、大戦時に事業を拡張した事業者の多くが痛手を受け、中小企業の多くが倒産。企業の経営者は、こうした事態に対し粉飾決算をおこなって利益があるように見せかけることが横行した。
*この情報は、当時の新聞から抜粋し記載しました。