第二部
1
つい数日前まで父が伏していた部屋の真ん中に、惟澄はぼんやりと座っていた。
昼の暑さは和らぎ、庭の池を渡って夕刻の涼しい風が吹き込んでくる。蚊遣り火の煙が、つんとする臭いとともに細く流れた。
遺品を片づけようとしたものの、父はこの部屋をいつ娘にあけわたしてもいいようにきちんと整理しており、やることはあまりなかった。
こんなにもあっけないものかと思えるような最期だった。なんの前触れもなく足腰が弱くなり、床につく時間が増え、やがて眠ったまま、静かに息をひきとったのだ。
死んだものの霊は、すみやかに地霊に還さなければならない。
弔いの儀礼は慌ただしく、気づけば父はもう墓の中だった。
母が病死した時はまだ幼くて泣いてばかりいた。羽矢がしきりに慰めてくれた。
「泣くな、伊澄」
自分だって目を真っ赤にしながら、羽矢は言ったっけ。
「わたしがいる。ずっとそばにいる」
その言葉は嘘だった。
いつのころからか羽矢は惟澄に背を向けて、こちらを見ようともしなくなった。
昔のように羽矢が手をさしのべてくれるのを、惟澄はずっと待っていたのだが。
自分が父のように横たわった時、羽矢はまだ青年の姿のまま、飽きもせずに馬を駆っているのだろうか。
ほんの少し、申し訳なさそうな顔をして。
惟澄は、ため息をつき、ふと眉をひそめた。
それにしても、自分の父の死と入れ替わりに刀也が現れるとは皮肉な話だ。羽矢は、父親の突然の帰還をどんな思いで受け止めているのか。
泉が来客を告げに来た。
更伎だった。
更伎は深々と頭を下げて哀悼を示した。彼自身、二年前に父親を亡くしている。
「まだ落ち着かないだろうけれどね」
「ええ。でも、そろそろ弓を引こうと思っているの。じっとしていても、しかたがないし」
「それがいい」
惟澄は更伎と並んで部屋の縁に座り、涼しくなってきた庭風を頬にうけた。
「羽矢は、刀也さまと顔を合わせていないようだよ、惟澄」
更伎の言葉に、惟澄は眉を上げた。
「気になっていたのだろう」
「ええ」
惟澄はあいまいにうなずいた。
「わたしも羽矢に会っていない。あいかわらず、一日中馬を乗り回している。このごろは、日が暮れても邸に戻って来ないようだ」
「そう」
羽矢は、父親にどう向き合っていいかわからないのだろうと惟澄は思った。あまりに突然すぎる対面だ。
「刀也さまは、なぜ帰って来られたのかしら」
「わからない」
更伎は長い両指を膝の上で組み合わせた。
「今日、はじめて刀也さまのお顔を見た。琵琶を聴きに来られたんだ。羽矢とはあまり似ていなかったな」
更伎は、ちょっと間を置き、
「刀也さまは、左手がなかった」
「手?」
「肘から下を失っていた。いったい、今まで何をなさっていたのだろう」
惟澄はぼんやりと首を振った。天香を離れていた十八年間、刀也が安穏としていなかったことだけは確からしい。
だが、何をしていたにせよ、刀也は帰って来たのだ。
惟澄は思った。
羽矢だって、やがては打ち解けるだろう。あの父子には、時間がたっぷりあるのだから。
「龍の琵琶は」
惟澄は話をそらした。
「すっかり弾きこなせるようになったのでしょう」
更伎は首を振った。
「まだ、月弓さまのようにはいかないな。意にそぐわない弾き方をすると、音が出なくなったり、自分で別の弦を弾いたりするんだ。うまくいっているような時でも、ふと気がつくと私が弾いているのか、琵琶に弾かされているのかわからなくなる。ともすれば、琵琶にとりこまれてしまう」
更伎は、自分の両手を見つめた。
「龍の琵琶に支配されるのではなく、支配しなければならないと月弓さまはおっしゃる。わたしはほんとうにあの琵琶の持ち主になれるのか、不安だよ、惟澄」
更伎は、目を伏せた。
「月弓さまは、なぜわたしを後継者にしたのだろう」
「なぜ──」
それは、惟澄も思っていたことだった。月弓は、おそらく自分たちより長く生きるだろう。いま月弓がやっていることは、ただの気まぐれにしか思えなかった。更伎が龍の琵琶を継いだところで、それはまた月弓のもとに還るはずなのだ。
「理由を訊いてみたことはないの?」
「ある」
「月弓さまは、なんて?」
「わたしには、その力があるとだけ」
「そう」
「わたしも、月弓さまのように龍の琵琶を弾きこなしたい。あれを支配してみたい。だが、生きているうちにできるだろうか」
更伎は深々と息をはき出し、首を振った。
「すまない。弔問のはずだったのに、こんな話を聞かせてしまって」
「そんなこと」
「なにも考えず、琵琶を弾くのが一番だとは思っているんだ。別に、龍の琵琶が自分のものにならなくともかまわない。月弓さまには感謝している。わたしに琵琶を、生き甲斐を与えてくれたから」
「うらやましいわ。あなたが」
惟澄は心から言った。
更伎には、一生かけて打ち込めるものがある。
自分には、何もなかった。
ただ生きているだけだ。
惟澄は、黄昏の色を帯びはじめた庭に目を向けた。
この鬱々たる思いから、どうすれば抜け出すことができるのだろう。
2
雨の音で目が覚めた。
もう日は昇った頃だが、蔀戸の外は薄暗い。風もなく、蒸し暑かった。
羽矢は床の上でのろのろと身を起こした。
篠つく雨だ。今日は明星に乗れそうにないな、とぼんやり考えた。一日中、館にいることになる。父が帰ってきてからはじめてだ。
はじめて顔を見たあの日、父は心で自分の名を呼んだ。自分も、目の前にいるのが父親だとはっきりとわかった。
だが、それだけだ。館に帰ってきても、ろくに言葉を交わしていない。向こうもこちらを避けているような気がした。母が死んだのは、羽矢のせいだからか?
だとしたら、帰って来たのはなぜだろう。
羽矢は顔をしかめた。
こんな自分をどうして生み出したのか、むろん恨みもした。文句のひとつも言えないうちに姿を消したのだから。しかし、父も母を失ったのだ。お互いさまだと思うことで、怒りはいつのまにか消えていた。
両親がいない寂しさなど、感じたことはなかった。月弓と由宇がよくしてくれたから。
今さら現れたところで、とまどうばかりだ。
部屋に運ばせた朝食を終え、不二を呼んで骰子でもしようかと思っていた時、静かに戸が開いた。
入ってきたのは刀也だった。
姿は身綺麗に整えられていたが、刀也の疲れたような表情は会ったときのままだ。日焼けした顔には額や目の下に皺が刻まれていて、兄の月弓よりも年上に見えてしまう。
刀也は、羽矢の前に胡座をかいた。羽矢は、思わず背筋をのばした。
二人はしばらく互いのまわりに視線をさまよわせ、無言でいた。
刀也が口をひらく前に、羽矢はぶっきらぼうに言ってやった。
「その手はどうなさったのです」
「手か」
刀也は、右手で残った左腕に触れた。
「置いてきた」
「どこに?」
「遠い所だ、ずいぶん」
刀也は、思い起こすように目を細めた。
「ずっと、旅を?」
「ああ、大那中を。それから、大那の外に」
「外?」
「武塔山脈を知っているか?」
羽矢はこくりと頷いた。
「聞いたことは」
「大那のはずれ、東方にある。そこを超えると、未開の地だ」
「だれも棲んでいないのですか」
「夷人には何度か会った。田畑を作ることを知らない者たちだ。木の実を採ったり、狩りをして縦穴に暮らしている。大人しくて、害はない」
天香さえ離れたことのない羽矢にとっては、大那の外れのさらに向こう、未開の大隅など別の世界と同じだ。たやすく想像はできなかった。
「そんな所へ、何をしに」
「地霊だ」
「地霊?」
自分は阿呆のように尋ねてばかりだな、と羽矢は思った。しゃくにさわって、つい声を高くした。
「地霊がどうしたと」
「大隅には龍がいる」
「龍」
羽矢は息をのんだ。
「何頭もの龍が空を翔んでいる。かつての大那の空と同じように」
「信じられない」
龍が翔ぶということは、それだけ地霊が豊かであるということだ。この空の下に、そんな場所が存在するとは。
「この目で見た」
刀也はきっぱりと言った。
「大隅は、地霊に充ちていた」
「地霊に‥‥」
「大那の地霊とは質が違う。まだ踏み荒らされていない若々しい地霊だ」
「それを」
羽矢はささやいた。
「ここで役立てることはできないのですか」
「地霊は大地に根ざしている」
刀也は首を振った。
「こちらが大隅に行くしかないだろう」
「遷都」
「無理だな、遠すぎる」
刀也はつぶやいた。
「民人の負担になることはできない」
「〈龍〉だけで?」
「伊薙さまを残してはいけない。〈龍〉の最後の務めは、荒霊の封印を守っていくことだ。そのためにだけ夜彦山にいる」
「では、どうすれば」
「若い〈龍〉だけなら彼らを大隅に導いてやることはできる」
「若い──」
「むろん、いままでのような暮らしはできないだろう。側人は、後々の憂いになるかもしれないから連れてはいけない。〈龍〉だけで、一から生活を作り出す。だが、もっと長く生きられるだろうし、呪力のある子供も生まれると思う」
ふいに惟澄の面影が脳裏をよぎった。
地霊が豊かならば、彼女の時間もゆるやかなものになるのだろうか。
羽矢を待っていられるほどに?
「新しい生活を望まない者もいるだろう」
刀也は言った。
「行くのは望む者だけだ」
「更伎はどうなります」
羽矢は眉を上げた。
「更伎は龍の琵琶を継ぐはずでは」
「大那に残る〈龍〉はいずれ滅びる。更伎が大隅に行くのなら、龍の琵琶も持って行けばいい」
「伯父上はご承知なのですか」
「ああ。長老たちにも伝えてある」
「わたしは?」
羽矢は、刀也を見つめた。
「わたしは、どちらに入るのでしょう」
刀也は眉根をよせた。
「おまえは、目に紫がある」
「でも、呪力はない」
「使わないだけだ。いずれ、目覚める」
「うそだ!」
思わず叫んでしまった。不二が大怪我した時も、使いたくても使えなかったのだ。ずっと幼い頃から、呪力がないと思ってきた。今さら目覚めるはずだと言われても、何になる。
羽矢の困惑を無視して、刀也は言った。
「おまえは、他の若い者たちとは違う」
羽矢はうつむき、膝の上で両拳を握りしめた。
言われなくとも知っている。若い〈龍〉たちが自分に向けるまなざし――羨望と、いくらかの怒りを含んだ――をさんざん感じてきたのだ。
羽矢も呪力を持たないことで、彼らは溜飲を下げてきた。羽矢に呪力があるとするならば、彼らとは何一つ同じものはない。
惟澄はどちらを選ぶだろう。
われながら勝手なものだと羽矢は思った。自分の方が天香を出ようと思っていたのに、惟澄が大那を去るかもしれないと知ったとたん、彼女を失うのが辛くなる。
もう二度と、惟澄がそのやさしいまなざしを自分に向けてくれることはないにしても。
3
湖面は風にさざ波立ち、まぶしいほどにきらめいた。
数日前に降った雨は、ほんの少し秋を近づけたようで、空は高く澄んでいる。まだ強い日射しを、船についた屋根がほどよくさえぎっていた。
船は、龍の身体を模った細長い流線型だった。龍の頭が形作られた船首から高く持ち上がった尾にかけて、鱗のひとつひとつにまで美しい彩色がなされている。
屋根の下、八人ほどの男女が思い思いに座をしめていた。
惟澄は、一番後ろに座っていた。
めずらしく、朔乃から文での誘いが来たのだった。
集まるのは同世代の者数人だという。一人でいるほうが気楽なので、彼らとはめったにつきあうことはなかったが、何か大切な話があることを匂わせていた。
朔乃は日の光を浴びて、船尾の櫓を握っていた。湖の中程に来たとき、漕ぐのをやめて惟澄を見つめた。
「ここにいるみなは、大体のことを知っている」
惟澄の前にかがみ込み、
「内密の話なんだ」
「どういうこと?」
「このところ、長老たちがしきりに心話を交わしている。気になって、大おじいさまに尋ねてみた」
朔乃は長老の一人、亜登の直系で同じ敷地に住んでいた。亜登は一番若い朔乃が愛しくてしかたがないのだ。朔乃の願いなら、なんでも答えてしまうのだろう。
「刀也さまのことだった。刀也さまは、なぜ帰って来たと思う?」
「わからない」
「刀也さまは武塔山脈を越えて大隅まで行った。大隅では、龍が翔んでいたという」
「龍」
惟澄は息を呑んだ。
大隅には、龍が翔べるほどの豊かな地霊があるということか。
朔乃は惟澄が驚く時間を充分に与えて、
「そこに行けば、われわれの寿命も延びる。呪力のある子も、いずれ生まれる」
「すばらしいことだわ。それが本当なら」
惟澄の脇で多季が言った。朔乃の許婚だ。
「わたしは、行くべきだと思う」
朔乃はちょっとため息をついた。
「だが、未知の地だ。どんな危険があるかわからない。事故や、病や――ここにとどまるよりも死と隣り合わせだ。これまで通りの生活はできないんだ」
「恐れていては、未来は開けないわ」
多季はきっぱりと言った。朔乃は、困ったように多季から目をそらした。
「あなたはどう思う? 惟澄」
多季の問いに、惟澄は眉をよせた。
突然の話に、当惑するばかりだ。
これまでは、限られた時間に同じ日々が繰り返すだけだと思っていた。それなのに、刀也の帰還が風穴を開けた。望みさえすれば、違う人生が送れるかもしれないのだ。
「われわれの親世代は、残る者も多いと思う。せめて若い者たちの意思を、一つにしておく必要があると思うんだ」
朔乃は、ちらと多季を見やって言った。
「長老たちから、はっきりした話があるまで」
「それぞれが、望む方をとればいいわ」
多季の言葉に、何人かがうなずいた。朔乃は、深々とため息をついた。
「われわれは、ただでさえ数が少ない。分かれてしまえば、どちらもうまくやっていけないさ」
惟澄は、白く光を弾く湖面を見つめた。まぶしさに目を細める。
大隅の存在は魅力的だ。たとえ危険が潜んでいても、短い寿命を恐れることはない。閉ざされた未来を開いていける。ここでは得られない新しい何かが、そこで見つけ出せるかも──。
ふと、羽矢の面影が胸をよぎった。
羽矢は大隅に行く必要がないのだ。大隅を選べば、羽矢と永久に別れることになるだろう。今だって顔を合わせることは滅多にないというのに、その存在を近くに感じられなくなるのは悲しかった。
「更伎どのは、このことを知っているのかしら」
多季が惟澄に言った。
「更伎どのが大隅に行ったら、月弓さまは後継者を失うわ。でも、わたしたちには琵琶弾きが必要よ」
惟澄は、はっとした。
月弓は、刀也と連絡をとりあっていたのかもしれない。はじめから更伎を龍の琵琶弾きとして大隅に送り出すために後継者に定めたのかも。
弔問に来てくれた時、更伎は大隅のことをまだ知らなかった。更伎の心配は、自分がほんとうに月弓の跡を継げるのかということだけだった。
大隅に行けば、更伎は正真正銘、新しい龍の琵琶弾きになれる。彼が何より欲しい、琵琶を弾き続ける時間が得られる。
更伎は喜んで行くだろう。
そして、自分は?
答えはわかっているはずなのに。
それなのになぜ、羽矢のことばかり考えてしまうのだろう。
鳥の羽音と、叫ぶような鳴き声で我にかえった。
湖の鳥たちがいっせいに飛び立ったのだ。湖面が一瞬傾くような気がして、船が大きく揺れた。波は高く船にぶつかり、跳ね上がって惟澄たちの衣を濡らした。
「地震!」
船縁をつかみながら、多季が叫んだ。
船は上下にゆらゆらと揺れ続けた。波がおさまるまで、みなは不安げに顔を見合わせていた。
惟澄は山頂の方を見上げた。不気味な地鳴りが聞こえてくるような気がしたのだ。
4
木陰に座って休んでいたので、異変はすぐにわかった。
馬たちが落ちつきなく足踏みし、直後に地面が大きく揺れた。
「羽矢さま!」
不二は羽矢に駆け寄った。羽矢をかばってうずくまる。
木々がぎしぎしと音をたて、伸びた枝がぶつかりあって葉を散らした。
揺れがおさまり、そろそろと頭を上げる。
「めずらしいですね、地震とは」
天香に来てから、こんなに大きな地震ははじめてだ。
「ああ」
羽矢は立ち上がり、木立の間から見える夜彦山を見上げた。
不二もならった。円錐形の夜彦山の頂が、まだ震えているような気がした。
おびただしい鳥たちが、上空を旋回している。
「帰ろう、不二」
羽矢は言った。
「向こうは、もっと揺れたかもしれない」
夜彦山に戻ると、館の者たちは倒れた調度品を片付けたり、そこかしこの点検をしたり、忙しく働いていた。
羽矢はすぐに母屋に入った。不二も皆の手伝いにまわる。
佐尽は母屋への渡り廊下に立って、壊れた箇所の報告を受けていた。書き付ける紙が足りなくなったようなので、持って行ってやった。
「おお、不二どの。驚きなさったでしょう」
「いささか」
「須守などは、腰を抜かしかけましたわい」
佐尽は笑ってみせたが、その目は笑っていなかった。
「震源はこの山ですね」
「さよう」
「山頂が、震えていました」
「伊薙さまのお力が」
佐尽は眉根を寄せた。
「衰えてきたのかもしれません」
「伊薙さま?」
伊薙は二千年も昔から夜彦山の山頂で眠り続けている龍の一門の惣領だ。〈龍〉と〈鳳凰〉の大戦で生まれた荒ぶる霊を夜彦山に押し込めて、自らが封印となっているという。
〈龍〉を権威づけるための、作られた伝説ではなかったのか。
伊薙は存在している。だとすれば、旧世代にとっても、二千年は長い年月だ。眠ったきりとはいえ、伊薙がここまで生きてきたのは、荒霊の力にほかならないのだろう。
伊薙は少しづつ荒霊を吸収している。荒霊は伊薙の呪力となり、彼の寿命を延ばしているらしい。しかし、今や伊薙の肉体は限界だと?
「それでは、どうなるのです? このままでは──」
「〈龍〉の方々もお考えになっているでしょう」
佐尽はつぶやいた。
「われらは、ついて行くよりありませんな」
翌日、羽矢は厩に来なかった。昨日の今日だ。外出を控えているのかもしれない。
好きなようにしていていいと言うことなので、不二は佐尽の許しをもらって久々に多雅の館に行くことにした。
都はさほど地震の被害はなかったようで、変わらず賑やかだ。
伯母が喜んで出迎えてくれた。
「すぐ帰ります。ただ、昨日の地震お見舞いに」
「土塀が少し崩れたくらいでしたよ。そちらの方が大変だったでしょう」
涼しい庇の間に水菓子など運ばせながら三咲は言った。
「足はどうなのですか。不自由でしょう。痛まない?」
「ええ、だいぶ気にならなくなりました」
「よかった。こんなことになって、ほんとうに兄上には申し訳なくて」
「いえいえ、そんな――」
「これは、従兄弟どの」
真崎が顔をのぞかせた。
「しばらく」
「ごぶさたしています」
「真崎も、あなたとお話したくてうずうずしていたようでしたよ」
「母上!」
息子の抗議の声を軽く笑って受け流し、三咲は部屋を出て行った。
真崎は不二の近くにどっかりと座りこんだ。
「足は気の毒だったが、夜彦山の居心地はずいぶんいいらしいな、従兄弟どの」
「ええ、まあ」
「いろいろあって、おもしろいだろう。刀也さまには、お会いしたか?」
「一度だけですが」
話というより、質問攻めだ。不二は、心の中で苦笑した。刀也の帰還は〈蛇〉をも騒がせているらしい。
「羽矢さまのご様子は?」
「いつもと変わらず、ですね」
「今になって、なぜ帰って来られたのだろう、刀也さまは」
「わかりません」
「羽矢さまから、なにか聞いていないのか」
「羽矢さまは、何も」
真崎は肩をすくめた。しかし残念と思っていないことが表情でわかった。不二が自分よりも多くのことを知らないと判断し、満足したとみえる。
「刀也さまがお帰りになって間もなく夜彦山が揺れた」
真崎は声を低くした。
「父上は何かが関係しているのではないかと言っている」
不二は眉を上げた。伊薙の力が衰えているかもしれないと佐尽は言っていたっけ。伊薙の衰えと刀也にどんな関係があるというのか。
真崎は笑みを浮かべていた。主導権を握った時の顔だ。ここはおとなしく教えを請うとしよう。
「どういうことです?」
「伊薙さまは、荒魂を封じきれなくなっている。代わりの者が必要らしい」
「代わり?」
「伊薙さまのように、呪力が強くなければならない。年をとりすぎた長老たちをのぞけば、該当者は限られる。月弓さまか、柚宇さまか、刀也さまも兄君に劣らない呪力を持つと聞いている」
「それが刀也さまだと」
「わからん。月弓さまは、わざわざ後継者まで定められた。月弓さまではないかと思っていたのだが」
三人のうちの誰かでも、羽矢はかけがえのない者を失うことになる。痛ましい気持ちで、不二は羽矢を思った。冬の大龍祭が終わったら、羽矢は天香を出ると言っていたが、自分から背を向けるのと、失ってしまうのでは話は違う。
「どちらにせよ〈龍〉は呪力者を一人失う」
真崎は言った。
「龍の一門の衰えは、われわれが思っている以上に早いかもしれない」
不二は黙ってうなずいた。〈蛇〉にとっては、他の一門に気取られてはならないことだ。〈龍〉に力が無いことがわかれば、大那の覇権を握る条件はどの一門も同じ。
〈龍〉と〈蛇〉の時代はいずれ終わりを告げるだろう。
時代の変わり目に身を置くのも面白い。そう不二は思っていた。しかし、今となっては、ずっと羽矢についていくつもりでいる。自分が生きているうちは、羽矢の悲しむ顔は見たくなかった。
不二は一人苦笑した。
すっかり情が移ったようだ。
5
矢は、的を外れてあずちに突き刺さった。
惟澄は顔をしかめて、もう一本矢をつがえた。板的は小気味いい音をたててようやく割れた。
十射一中とは情けない。弓の弦をなぞってため息をついた。
考えることが多すぎて、頭をはっきりさせようと弓場に出たのだ。だが、まったく集中できなかった。話にならない矢どころだ。
向こうにいる泉に、矢を抜いてくるように合図した。自分は床几に腰掛けて空を仰ぎ、そのまぶしさに目を閉じた。
初めて弓を引いたのは、月弓の邸だった。
更伎が琵琶の稽古をはじめていて、羽矢もなにか稽古をしたいと言い出したのだ。それならばと、由宇が弓を出してくれた。羽矢といっしょに惟澄も習った。なかなかおもしろくて二人とも夢中になった。羽矢の方が、はるかに上手かった。
「呪力を使っちゃずるいわよ」
口惜しくなって、言ったことがある。
「使ってないよ、馬鹿だなあ」
荒っぽい声で羽矢は答えた。
いま思えば、ひどいことを言ったものだ。その時は、羽矢にも呪力がないなんて考えもしなかった。
惟澄の矢が羽矢のものより長くなったころ、羽矢は弓を引かなくなった。
かわりに馬に乗って、遠駆けに出かけた。毎日、惟澄を置いて。
惟澄の足も、やがて月弓邸から遠ざかった。
大隅に行けば、羽矢と完全に離れることになるだろう。
いっそそうして新しい世界に踏み出せばいい。もうけして羽矢は歩み寄ってこないのだから。
何度も自分に言い聞かせていた。しかし、気持ちは静まらなかった。
惟澄はもう一度ため息をつき、そんな自分に苦笑した。
矢を持ってこちらにやってくる泉の足がぴたりと止まった。
泉の視線は、驚いたように惟澄の背後へ向けられていた。
惟澄は振り返った。
弓場は低い竹垣で囲まれていて、その竹垣の外に羽矢が立っていた。
紫色の瞳が影を帯びて、惟澄を見つめている。
惟澄は、弾かれたように立ち上がった。
「羽矢」
おかしいほどに声がかすれた。竹垣ごしに惟澄を見上げた羽矢は、すぐに目をそらして言った。
「地震はどうだった? 惟澄」
「ええ」
惟澄はうなずいた。
「うちは大丈夫よ。柚宇さまたちは?」
「うん。大事ない」
「よかった」
自分の声ではないようだった。羽矢と話をするのは何年ぶりだろう。しかし、会話はそこでとぎれ、二人は黙りこくった。
「惟澄」
ようやく羽矢が言った。
「大隅のことは聞いているか?」
惟澄は眉を上げた。
「それとなく伝えていると伯父上が言っていた。考える時間があるように」
亜登がやすやすと朔乃に話したのはそのためか。確かに、考えすぎて迷うほどだ。
「ええ」
「どうする?」
「どうする、って?」
羽矢はちょっと目を伏せた。ぶっきらぼうに言う。
「大隅に行くのか」
「わからない」
正直に首を振り、ささやいた。
「あなたはどう思う?」
羽矢は一瞬惟澄を見返した。すぐに目をそらして、
「惟澄が決めることだ」
「そうね」
惟澄は、細く息をはき出した。
「あなたには、関係ないことね」
「ああ」
羽矢は、こくりと頷いた。
惟澄は、はっと胸を突かれた。
羽矢の表情が、あまりに悲しげだったので。
関係ないと思っているなら、羽矢はなぜわざわざ訊ねに来たのだろう。いくらかでも惟澄のことを気にかけているからでは。
羽矢が自分を拒んできたわけではない。自分も、どこかで羽矢を拒んでいたのだと惟澄は思った。
背を向けていれば、羽矢だって待っていることに気づかない。
羽矢は、会釈して行きかけた。
「羽矢」
言葉が、自然について出た。
「わたしは、羽矢といっしょにいたい」
羽矢は、びくりと動きを止めた。
両こぶしを握り、ゆっくりと惟澄の方に首をめぐらした。まばたきもせず、惟澄を見つめる。
「わたしもだ」
羽矢は、ささやいた。
「わたしも、惟澄といっしょにいたい」
それだけ言うと、羽矢は弾かれたように駆け去った。
小道を走る羽矢の後ろ姿は、茂みに隠れてすぐに見えなくなった。
惟澄はその場に立ちつくした。
「惟澄さま」
矢を持ってきた泉が、そっと声をかけた。
惟澄はようやく振り向き、とまどったような笑みを浮かべた。
6
不二の方が先に帰っていた。
「お一人で、どちらへ?」
けげんそうに不二は尋ねた。羽矢はあいまいに首を振り、自室に入った。
組んだ両手に頭を乗せて、板間の真ん中に横になった。深々と息をはき出し、さっきのことを思い返した。
われながら、子供じみていた。惟澄の所から、逃げるように帰って来てしまった。
だが、惟澄は言ってくれたのだ。自分といっしょにいたいと。
その言葉がどんなに嬉しかったか、口にした惟澄ですらわからないだろう。もう何年も心は離れていると思っていたのに、惟澄はずっと傍にいてくれたのだ。
熱くなっていた胸は、やがて徐々に痛みを覚えた。
惟澄を、大隅に行かせたくない。
だが、このままでは惟澄は長く生きられない。
背中に、わずかな揺れを感じた。
起き上がりかけたが、すぐにおさまったので羽矢は同じ格好で寝転び続けた。
夜彦山が震えている。
昨日のような大きな地震は、またいつ来てもおかしくはないらしい。
昨日、羽矢が母屋へ戻ると、琵琶の稽古部屋に伯父と伯母、父の三人が顔をそろえていた。母親を心配して、更伎は帰った後だった。
「大事はなかったですか、伯母上」
「大丈夫よ」
柚宇は微笑んだ。
「あなたも驚いたでしょう」
「この夜彦山が揺れの元ですか」
「そうだ」
刀也が言った。
「思ったよりも、伊薙さまの力は衰えている」
「伊薙さま?」
柚宇は羽矢に座るように目で示した。羽矢は、柚宇の脇に座り込んだ。
「羽矢にも話した方がいいですわね」
柚宇が月弓を見た。月弓はうなずいた。
「伊薙さまは、いにしえの荒霊を夜彦山に封じて眠っているわ」
「それは知っています」
「でも伊薙さまは衰えて、荒霊を封じきれなくなっている」
羽矢は、はっとした。
「さっきの地震は、荒魂と関係が?」
「ええ」
柚宇は言った。
「これは始まりにすぎないの。荒魂が自由になるまえに、伊薙さまの代わりが必要なのよ」
「大龍祭までは保つと思っていたのだが」
月弓はつぶやいた。
「早く手を打たなければならない」
「わたしが、兄上の代わりになればいいのですが」
刀也が、苦しげに言った。柚宇は、静かに首を振った。
「刀也どのは、若い者たちを大隅に導く役目があります」
羽矢は三人の様子を見つめ、理解した。
「伯父上が伊薙さまの代わりになるということなのですね」
「そうだ」
「しかし」
羽矢は言葉を失い、月弓と由宇を見比べた。
この二人は、それで満足なのだろうか。二百年以上もともに生きてきたというのに。さらに多くの時間を過ごすこともできるのに。
「方法は、それしかないのでしょうか」
羽矢はささやいた。
「もし、このまま荒魂が解き放たれるとして――」
「荒ぶるままの霊よ。天は狂い、地は轟き、海はたぎるでしょう。大那は崩壊するかもしれない」
「鎮めることはできないのですか? 伯父上の琵琶で」
「無理だ。私ひとりでは」
「更伎」
羽矢は、はっとした。
「〈龍〉には、琵琶弾きが二人います」
月弓は、一瞬口をつぐんだ。
そうだ。
羽矢はうなずいた。
更伎は、すでに龍の琵琶を弾きこなせるほどの琵琶弾きになっている。月弓と更伎、二人の力で荒霊を鎮めて地霊に還せば、月弓が伊薙の代わりになることはない。
そして、鎮まった荒魂は多くの地霊をもたらすだろう。
「やってみるだけの価値はあるのでは?」
月弓の目が、揺らいだような気がした。めったに感情を見せない伯父なのだが。
「羽矢」
その時、刀也が口をはさんだ。
「多くの民人を危険にさらすことはできない。大那はもはや、〈龍〉だけのものではない」「刀也の言うとおりだ」
月弓はうなずいた。
「賭の代償が大きすぎるのだ、羽矢。荒霊は、封じておかなければならない。私が伊薙さまを継ぐ」
羽矢は柚宇を見た。
柚宇は、つと目をそらした――。
羽矢は、むくりと起き上がった。
柚宇とて、こんな月弓との別れを望んではいないはずなのだ。ほんとうは、伯父も自分の力を試してみたいのではないだろうか。
刀也が帰り、新世代に別の道を示したことで、伯父は賭けをやめたのだ。それが、一門が生きていくより安全な方法だから。
父の帰還がなければ、伯父は思い通りにしたかもしれない。そのためにこそ、更伎を後継者として育てたのではないか。更伎は伯父が満足するほどの奏者になっている。
早いうちに手を打たねば、と言っていた。
伯父は、いつ伊薙に代わるつもりなのか。
その前に、荒霊を解き放ってしまったら?
そうすれば、伯父と更伎は琵琶を弾かざるを得なくなる。荒霊は地霊に還り、惟澄もここで自分とともに生きていける。
いつのまにか、息が浅くなっていた。羽矢は大きく肩をあえがせた。
月弓には荒魂を鎮める自信と力があるはずなのだ。
荒魂を解き放つには、どうすればいいのだろう。
7
朝、もの悲しい思いで目が覚めた。
床の上で身を起こし、不二は顔をこすった。
朝方に見た夢が原因のようだ。夢といっても、はっきりしたものではない。形はなく、ただ思いだけが残っているような不思議な夢だった。
月弓が、自分たちのもとを去る。それだけは、はっきりとわかった。これまでの感謝と、後を頼むと言われたような気がする。
夢の知らせは館の皆が受け取ったようで、誰しもが沈痛な面持ちをしていた。
目を赤く泣きはらした須守に、不二は訊ねた。
「佐尽どのは?」
「お館さまにご挨拶に行っております」
不二は真崎の話を思い出した。荒霊を封じきれないほど衰えてきた伊薙を継ぐのは、月弓だったのだ。
いつもよりずっと早い時間に更伎がやって来たらしい。詰め所にはもうが都琉がいた。
都琉は、縁に座って母屋の方を見つめていた。彼の主の更伎はついに月弓の跡を継いで龍の琵琶弾きになるのだ。気が気ではないと言ったところか。
「このたびは――」
続きをどう言っていいかわからず、不二は頭を下げた。都琉は不二を見、会釈を返した。
「驚きました。突然のことで」
不二は正直なところを口にした。
「更伎さまは、ご準備されていたのですか?」
都琉はゆっくり首を振った。
「お話があったのはつい昨日のことです。だいぶ動揺なさっていました」
「でしょうね」
「しかし、龍の琵琶はいつでも引き継げる力はお持ちですから」
不二はうなずいた。
「引き継ぎの儀式などは?」
「旧世代の方々と更伎さまだけが、山頂に集まるようです。月弓さまが伊薙さまに代わって荒霊を引き継がれ、更伎さまが新しい〈龍〉の琵琶弾きとして伊薙さまの葬儀を行うとだけお聞きしました」
仰々しい儀式は、他の者に自分たちの力を見せつけるためのものだ。はじめから力のある〈龍〉には、必要ないのだろうな、と不二は思った。大龍祭にしても、〈龍〉よりもむしろ〈蛇〉が〈龍〉から委ねられた大那の執権を世に示すためにあるようなものだから。
伊薙の代替わりは、ひっそりと行われるのだろう。月弓が、まわりの者に別れを告げる夢を送っただけで充分というわけか。
都琉を残し、不二は明星の世話をしに厩に行った。たてがみを梳いやっていると、羽矢が現れた。
「羽矢さま」
不二は、まじまじと羽矢を見つめた。夕べは寝ていないのではないだろうか。目が赤く充血し、顔色も悪い。眉根をよせ、思い詰めたように唇を固く結んでいる。
父親代わりだった月弓と別れるのだから、無理もないかもしれないが。
「明星の顔を見たくなったんだ」
弁解がましく羽矢は言い、明星の鼻面を撫でた。
羽矢も伊薙のもとに行くはずだ。呪力がないとはいえ、目に紫のある旧世代だ。
「お支度があるのでは?」
「わたしは特にない。着替えるだけだ。出かけるのは午後だからな」
馬を使っては山頂に行けないだろうな、と不二は思った。急峻すぎる。徒歩か、輿か、いずれにしても時間がかかりそうだ。
「どうやって行かれるのですか」
「伯母上が連れて行ってくれる」
「柚宇さまが?」
「呪力を使えば、すぐだ」
なるほど、彼らは呪力者なのだ。空間を一瞬で移動できる。今さらながらに、不二は〈龍〉の力を思い知らされた。
「不二」
羽矢が改まったように言った。
「はい」
「以前わたしは、天香を出たいと言った」
「はい」
「だが、出ないかもしれない」
最後の方は、ほとんど聞き取れなかった。
「ここに、残るかもしれない」
「そうですか」
不二は素直にうなずいた。父親の帰還や月弓のこと。あの時よりは、だいぶ状況が変わっている。
「それでも、いてくれるか?」
「もちろんです、羽矢さま」
不二は言った。
「わたしは、羽矢さまの側人ですから」
羽矢は、ぎこちない笑を浮かべた。
「ありがとう」
いささかぎょっとした。羽矢に礼を言われたのははじめてだ。
羽矢は背を向け、行ってしまった。
羽矢の後ろ姿を見送りながら、不二は胸騒ぎを覚えた。いままでにない危うさが羽矢にはある。
羽矢に、何が起きたのだろう。月弓のことだけで、あんなにも憔悴するものか。
目を離さずにいたいところだが、山頂についていくことはできないのだ。
ふと思った。
ほんとうに、そうか?
これまで、〈龍〉以外の者は山頂に登ったことがない。怖れ畏みながら眺めるだけで。だが、禁じられてはいないのだ。そんな不届きな愚か者が現れるはずがないと、禁じる必要もなかったわけだろうが。
こっそりと、山頂に登ってみるのはどうだろう。呪力者ぞろいとはいえ、惣領の代替わりという大事なのだ。〈蛇〉の一匹くらいには、気づかないかもしれない。
もし見つかったら――。
不二は頭をそびやかした。
その時はその時だ。
荒霊を封じる者の代替わりなど、一生かかっても遭遇できない時に巡り合わせているのだ。無謀な好奇心が高まってくる。
行くしかないだろう。
8
更伎が月弓とともに前庭に現れた。引き継ぎは、すっかり終わったらしい。
明るい紫色の袍に銀糸の飾り帯の礼装で、龍の琵琶を持った更伎は、青ざめてはいたがその顔にしっかり決意のようなものを浮かべている。
月弓の方は、はじめから白装束だった。彼が普段使っている別の琵琶を手にしている。この琵琶とともに月弓は眠るつもりなのだ。
羽矢の傍らにいた柚宇の瞳が、ゆらぐように翳った。
佐尽だけが見送りに来ていた。庭の隅で、深々と頭を下げている。
「では、行こうか」
月弓が言った。
柚宇が静かにうなずき、領巾をからめた手を羽矢にさしのべた。羽矢がその手を取ろうとした時、またしても山がゆらいだ。
足を踏ん張っていなければ立っていられないほどの強い揺れだ。館の柱が、ゆさゆさと左右に揺さぶられているのがはっきりとわかった。中から女たちの悲鳴が聞こえてくる。
「急ぐとしよう」
揺れがおさまると、月弓がつぶやいた。
羽矢はこんどこそ柚宇の手をとり、彼女の呪力に身をまかせた。
不二は、ふうとひと息ついた。樹齢何百年とも知れぬ杉の木々が凛々とそびえ立ち、まわりを取り囲んでいる。
どのあたりを歩いているのか、見当をつけるにはむずかしかった。だが、山道がひどく急になってきたことで、頂が近くなってきたことだけはわかる。
やがて杉の木よりも灌木が多くなり、坂道にむきだしの岩が増えてきた。歩きづらく、右足に痺れるような痛みを覚えた。〈龍〉たちは足を使わなくとも山頂にたどり着けるから、道を整備することなど考えもしていないのだろう。
恨み言のひとつも言いたくなるが、誰も通らないのだから見つかる心配はまずあるまい。
道は急斜面に変わりつつあった。これが道と言えるのかどうか。石がごろごろと転がり、足場が悪かった。不二は這うように登り続けた。
したたる汗をぬぐって顔を上げると、斜面の上に空が広がっていた。
山頂だ。
ここからは、身を隠しながら登らなくては。
不二は、灌木の茂みの中に入ろうとした。
その時、臓腑が震動するような地鳴りが起こった。山が胴震いし、立っていられないほど足下が揺さぶられた。大小の石が斜面を転がり落ちる。不二は近くの木を掴んだが、あいにく根が浅く、周りの木もろとも地崩れにまきこまれた。
揺れがおさまり、土まみれになりながらも身を起こした。幸い崩れたのは斜面の一部で、山頂からさほど遠ざかっていない。
伊薙が〈蛇〉の侵入を怒っているのかもしれないな。顔の土をぬぐいながらちらと不二は思った。だが、ここまで来たのだ。行くしかないだろう。
不二は斜面にはりつき、灌木の影に隠れながら山頂をのぞいた。
頂の中央に、大きな石が積まれていた。よく見ると、一枚岩を組んで巨大な長方形の室が造られている。二千年も前の石室だ。おそらく、昔は土盛りがしてあったのだろう。長い年月で土は削られ、石室があらわになったのだ。
この中で伊薙は眠っているわけか。
〈龍〉の呪力者たちは、すでに十人ほどが石室の前に集まっていた。
銀髪小柄でひどく年老いた男女の一組がおり、彼らは側の〈龍〉に支えられて立っていた。長老と言われている者たちなのだろうと不二は思った。
その老人たちの近くに、人影が現れた。空から生み出されたかのように忽然と。
さすがに不二は息を呑んだ。恐るべきは〈龍〉の呪力だ。
羽矢たちだった。
羽矢は柚宇から離れると、落ちつかなげにあたりを見まわしていた。
月弓と柚宇が長老たちに歩み寄り、言葉を交わした。
羽矢は、硬く立ちつくしているような更伎の所に行って、励ますようにその腕をつかんだ。
刀也が石室の前に進み出て、右手をかざした。手前の石がゆっくりとずれて、石室の入り口が現れた。
羽矢は更伎になにかひとこと言ったようだ。更伎が返事をする間もなかった。
羽矢は駆け出し、刀也の前をすりぬけて石室の中へと飛び込んだ。
すべては、一瞬の出来事だった。
「羽矢!」
刀也の叫びだけがはっきりと聞こえた。
一呼吸後、大地が轟いた。
今までの地震とは比べものにならないほどの揺れが山を襲った。夜彦山全体が崩れてしまいそうなほど。
不二は、必死で木の幹にしがみついた。〈龍〉たちも立ってはいられず、伏せるようにしゃがみ込んでいた。
巨石が歪んだ。羽矢を中にいれたまま、石室が崩れ落ちていく。高く土煙が上がり、石片が四方に飛び散った。
「羽矢さま!」
不二は思わず斜面から飛び出していた。
揺れは小さくなったが、地鳴りの不気味な余韻が残る中、風が強くなってきた。黒雲が湧き、空が翳った。ぞっとするほど冷たい風が吹いてくる。
不二より先に、刀也が石室に駆け寄っていた。
巨石は、半地下だったらしい窪みに、めりこむように崩れ落ちていた。
刀也はその前で力なく両膝をついた。
不二は、刀也が何かを抱え上げるのを見た。
羽矢だ。
巨石の下から、呪力で救い出したのか。
羽矢の顔は、額が裂けて血が流れているほかは綺麗なままだった。しかし、胸から下は完全に押しつぶされ、形が妙な具合にねじれていた。右手には刀子を握り、その細い刃にも血がついている。
手から刀子が落ちた。羽矢はすでに息をしていなかった。
あたりは夜のように暗くなり、横なぐりの雨が降ってきた。羽矢からしたたり落ちる血が、雨とともに地面に流れた。
「荒霊が解き放たれた」
呆然と立ち尽くした不二の耳に、誰かの声がはっきりと聞こえた。
「更伎、琵琶を」
月弓の声もする。
「霊鎮めの琵琶を弾く」
月弓が伊薙と代わる前に、荒霊の封じ込めが解けたのか。
なぜ?
不二は雨で洗われている刀子を見つめた。羽矢のしわざなのか。
なんのために。
月弓たちの琵琶が響いた。二人は、風雨に負けじと琵琶をかき鳴らしていた。
「不二」
刀也が振り返った。
「羽矢を連れて行ってくれ」
「刀也さま」
刀也は、羽矢のなきがらを不二に押しつけた。
羽矢を抱え直す間もなく、不二は月弓の館に戻っていた。
母屋の庭先だった。
見まわすと、建物の柱は歪み、庇が落ちていた。池の水は干上がり、母屋の下にそって亀裂が走っている。倒壊した棟もあるようで、館の人々の互いを呼び合う声が風と雨の音に混じってあちこちで聞こえている。
「不二どの」
佐尽が不二を見つけ、羽矢に気づいて絶句した。
不二は、佐尽と目を合わせ、首を振った。どうしようもなく涙が出てきた。
「浄めてさしあげなくては」
佐尽は低く言い、不二を長屋の方に導いた。
屋根の低い建物はかろうじて潰れずに残っていて、女たちが、次の揺れが来てもすぐ逃げ出せるように軒近くにかたまっていた。怪我人もそこで手当をうけている。
詰め所は戸が全部落ちてしまったものの原型はとどめており、不二は羽矢をそこに横たえた。
泣き叫ぶ須守たちに羽矢をまかせて、不二はふらりと詰め所を出た。とたんに、誰かに腕をつかまれた。
都琉だった。
「ご無事でしたか、都琉どの」
「いったい、何があったのでしょう」
都琉は、押し殺した声で言った。
「羽矢さまは帰って来られた。更伎さまは?」
不二は首を振るしかなかった。都琉は低くうめき、山頂を見はるかすようにした。そして、身体を強ばらせた。
不二は都琉の視線の先をたどり見た。
黒く流れる雨雲の中に、龍が身をくねらせて翔んでいる。
月弓と更伎の琵琶が創り出した幻なのか、それとも本物の龍なのか。
不二にはわからなかった。
9
館の者たちは、最初の揺れでみな外に飛び出していた。次の凄まじい地震で、取り残された者がいなかったのは幸いだった。
母屋は、屋根が庭にすべり落ちそうなほど傾いている。もう一揺れ来れば、完全に倒壊してしまうだろう。
降り出した雨にうたれながら、惟澄は立ち尽くした。
山頂では、伊薙の代替わりが行われているはずだ。羽矢たちは大丈夫だろうか。
ひどい胸騒ぎがした。
呪力などないはずなのに、それは確かなことのように思われた。
「惟澄さま」
泉が駆け寄って来た。
「厨房の方が安全なようです。濡れてしまいますわ、行きましょう」
「ええ」
惟澄は空を仰いだ。雲に覆われて山頂は見えなかった。しかし、別のものの姿があった。
龍だ。
わだかまる黒雲の中に長い巨体を見え隠れさせ、上空を旋回している。その身体は、苦しげに悶えているようにも見える。
惟澄は雨に濡れた顔を袖でぬぐい、龍を見つめ続けた。
更伎は月弓の龍の琵琶を継いだ。では、あの幻を創り出しているのは更伎なのだろうか。
龍はしだいに下降し、風に吹きちぎれるようにかき消えた。
はっとしたのもつかの間、目が眩むほどの稲光が天にほとばしった。同時に巨大な雷が、頂にまっすぐに落ち、爆音にも似た音をたてた。地震とは違う震動が臓腑を突き上げた。
(惟澄)
自分を呼ぶ存在にぎょっとした。
(惟澄……お願い)
「柚宇さま」
(羽矢を……)
きれぎれの柚宇の心話だった。
「柚宇さま!」
惟澄は胸元に両手を組んで、高まる動悸をおさえつけた。
柚宇は、何が起きたかを惟澄の精神に流し込んだ。
呪力者の思念の奔流に耐えきれず、惟澄はうずくまった。大きくあえいで、それを受け入れた。
柚宇の存在は薄れていく。
(羽矢を──)
最後に柚宇は言った。
(羽矢を、とりもどして)
都琉の足下に、投げ出されるようにして誰かが現れた。
「更伎さま!」
都琉が震える手で抱え起こした。更伎の手には、五本の弦がすべて切れた琵琶が握られていた。
都琉はぐったりと目を閉じた更伎の首筋に手を触れて、深く息をはき出した。
「生きておられます」
「濡れない場所にお連れしましょう」
都琉が更伎を抱き上げた。
不二は、おそるおそる琵琶を手に取った。龍の琵琶だということは一目でわかった。龍の一門の秘宝。全体が漆黒で、棹から表板にかけてぐるりと巻き付くように銀箔の龍がほどこされている。龍の双の目にはめ込まれているのはみごとな紫水晶だ。
こんな時でなければ、じっくりと眺めていたかった。月弓が何度この琵琶ですばらしい曲を紡ぎ出したことだろう。しかし、いまやその龍の目も、輝きを失ってしまったかに見える。
一瞬、空が真っ白になり、耳を聾するほど大きな雷の音がした。地面が弾み返りそうだった。
落ちたのは、山頂の方か。
不二は身をすくめ、都琉といっしょに更伎を安全な棟に運んだ。都琉がかいがいしく主人の世話をするにまかせ、不二はもう一度軒下に出た。
空気はきなくさかった。風雨はいや増している。
佐尽が、地震に持ちこたえた場所の補強を命じていた。たしかに、このままでは風に屋根を吹き飛ばされかねない。
あまりに多くのことが起こりすぎて、頭をはっきりさせる必要があった。
何が起きたというのか。更伎だけが帰って来た。月弓や柚宇や、他の呪力者たちはどうなったのか。
羽矢が荒霊を解き放ったのは確かなようだ。
何のために?
なぜ大那に禍をもたらすようなことをしたのだろう。
もう、訊ねることもできないのか。
ため息が、嗚咽にかわりそうになった。
羽矢は、死んだのだ。
「不二どの」
名を呼ばれてあわてて顔をぬぐった。振り向くと、羽矢づきの侍女がいる。震える声でささやいた。
「おいで下さい。羽矢さまが……」
詰め所に入ると、羽矢の枕元にいた須守が不二を見上げ、這い寄ってきた。
「不二どの!」
不二は、すがりついてくる須守を支えてやった。須守は、泣いているのか笑っているのかわからないくしゃくしゃの顔をしている。悲しみに、取り乱しているのだろう。
「羽矢さまを」
須守はやっとの事で言った。
「ごらん下さい、不二どの」
不二は、はっとして羽矢の顔をのぞき込んだ。冷たく動かない少年の顔は、見るのも痛々しかった。額の血は、きれいにぬぐわれていた。
と、不二は、目を見張った。
血がぬぐわれているどころか、傷そのものが消えていたのだ。
震える手で、羽矢に掛けられていた布をめくった。ここに連れて来た時、肋骨は完全に身体を突き破っていた。足などは、もう形が変わっていたはずなのに。
不二は、思わず羽矢の身体をまさぐった。血まみれの衣の中で、羽矢の身体はもとにもどりつつあった。
不二は羽矢の手首をとった。ほんのかすかだが、脈が感じられた。
「衣を替えてさしあげようとしたのです。そうしたら、お身体が……」
須守はすすり上げた。
「羽矢さまは、生きかえったのですね」
不二は、夢中でうなずいた。
羽矢は呪力を持たないとばかり思っていた。眠っていた羽矢の呪力は、今めざめたのだろうか。
死から甦るとは。
不二は、ぞくりとした。
とほうもない呪力ではないか。
10
石室の中は闇ではなかった。
地震で石組みがずれ、わずかな隙間ができたらしい。半地下の階段には、うすぼんやりとした光が漏れ落ちていた。そこを一気に駆け下り、羽矢は伊薙が横たわる台座に辿り着いた。
二千年もの時を眠り続けている伊薙は、肉がそげ、髪は抜け落ちてもはや屍に等しくなっていた。だが薄衣が掛けられた胸は、ゆっくりと上下している。生きていること自体が痛々しかった。終わりをもたらしてやることに躊躇はなかった。
羽矢は隠し持っていた刀子をすばやく抜き、伊薙の胸に突き立てた。刃を抜くと、伊薙はかすかに口を開いた。それが、彼の最後の息だったようだ。
と同時に、足下に震えるような振動がおこった。それは、突き上げるような揺れへと変わった。
羽矢は後ずさった。
よろめき、出口に向かおうとしたとたん、
轟音とともに、石室が崩れた。
伊薙の存在は、ちりぢりに消えた。
羽矢には、かろうじて何かが残っていた。
霊の芯のようなもの。それが、巨大な意志の中で、塵のように漂っていた。
意志は、荒霊だ。
自分は死んだのか。
まだ、漠然と精神はあった。伊薙のように、やがては荒霊の中に呑み込まれてしまうにしても。
琵琶の音を感じた。霊鎮めの琵琶だ。荒霊とともに羽矢はふるえた。そうだ、鎮まらなければならない。荒ぶる意志を捨てて地霊に還り、大那を潤さなければ。
月弓と更伎ならばできるはずだ。そのためにこそ、自分は伊薙の命を絶ったのだ。
こうなることは予定外だったが。
惟澄と、もう少しともに時間を過ごしたかったが。
あきらめとともに、羽矢は琵琶の音に自分を委ねようとした。しかし、荒霊はそうはさせてくれなかった。
突然、猛々しい意志が強まり、怒りがこみ上げてきた。荒霊の思いは、そのまま羽矢の思いとなった。
なぜ鎮まらなくてはならないのか。
いまや羽矢はすべてを俯瞰できた。二人の人間が琵琶を弾いていた。周りの者たちも呪力を集中させ、二人に力を貸している。
荒霊は、あざ笑うかのように風を渦巻かせた。その程度の呪力など通用しない。
封じ込められていた長い年月のうちに、荒霊は大那の地霊と深く結びついていた。天香の、その周辺の地霊はすでに荒霊のものだった。その力は〈龍〉たちが思っている以上に強大なものになっていた。
そして、〈龍〉たち以上に、地霊の再生を欲していた。多くの霊が必要なのだ。生きとし生けるものすべて殺し、地霊に取り込まなければ。
荒霊は、琵琶の音を弾き返した。二つの琵琶の弦は切れ、人間たちは倒れた。琵琶弾きの一人は消えた。
それでもあきたらず、荒霊は巨大な雷雲を生み出した。二千年分の怒りは、膨大な力となって収束した。空気を轟かせ、凄まじい光の束を彼らに投げつけた。
白光とともに、山頂の半分が大きくえぐられた。彼らの肉体は、黒く焼け焦げて飛び散った。
(羽矢!)
馴染みあるものの霊が羽矢の意識に触れた。
(羽矢)
それでまた、自分が羽矢であることを思い出した。
(忘れるな、羽矢。おまえの名を)
人間の名など、何になるだろう。
羽矢は彼を振り払った。
思念は、ふっつりと消えた。
荒霊の破壊欲は、いや増す一方だった。羽矢もまた、それに同化していった。風をおこし、黒雲を広げた。雷鳴が、鋭い光とともに大気を裂いた。
羽矢は、もはや荒霊に化していた。
大那に、混沌をもたらすのだ。
政庁の方にも雷が落ちたと誰かが叫んでいた。
麓では火の手が上がっているようだ。
都は、惨憺たるありさまになっているだろうな、と不二は思った。こんなときこそ〈龍〉の助けがほしいところだろうに。山頂の呪力者たちはどうしてしまったのだろう。更伎だけを救って、荒霊に打ち伏せられてしまったのか?
だとすれば、もはやなすすべもない。
庭に誰かが駆け込んできた。
髪を振り乱し、雨でびっしょりと衣が濡れている。
「惟澄さま」
不二は驚いて腰を浮かせた。
惟澄は不二にもかまわず、詰め所に上がって羽矢の顔をのぞき込んだ。
顔を伝っているのは雨だろうか、涙だろうか。
不二は、息を呑んで惟澄の横顔を見つめた。
その表情がすべてを物語っていた。惟澄の羽矢への思いを。
羽矢は目覚めて応えてやるべきなのに、あるかなしかの呼吸で眠り続けている。
「羽矢を、取り戻さなければならないの」
惟澄はささやいた。
「手をかして、不二」
「とりもどす?」
「大那を救えるのは羽矢しかいない。柚宇さまがそうおっしゃっていた」
「柚宇さまは、どこに?」
惟澄は首を振った。
「わたしの内に来て、消えたわ」
どういうことだ?
しかし、不二が問うより早く、更伎が部屋に入ってきた。
更伎は、龍の琵琶を抱えている。弦はすっかり弦を張り替えられていた。
「更伎」
惟澄は、更伎を見上げた。
「身体は大丈夫なの?」
「ああ、月弓さまが守って下さった」
「月弓さまは?」
思わず不二は訊ねた。
「わたしの内に」
更伎は目を伏せた。
「すぐに、行ってしまわれた」
不二は惟澄と更伎を呆然と眺めた。柚宇と月弓の力がこの二人に及んでいることは確からしい。
「羽矢は、わたしに頼むと言い残した」
更伎は羽矢の枕辺にかがみこみ、つぶやいた。
「その時は何を頼まれたのか分からなかったが」
「羽矢も、こんなことになるとは思わなかったはずよ」
「力が及ばなかった」
「まだ遅くはないわ。羽矢をひきもどさなければ」
辛そうにうなだれていた更伎は、うなずき顔を上げた。
「ここではだめだ。人気のない所へ」
「湖のほとりがいいわ。あそこは開けている」
都琉が更伎を追いかけてきた。
「更伎さま、わたしもお供を」
「都琉は家に帰ってくれ」
更伎は首を振った。
「母上が心配なさっている。わたしは無事だと伝えてほしい」
都琉は何か言いかけたが肩を落とし、不二を見て頭を下げた。
更伎を頼むと語りかけているまなざしだった。不二も、深くうなずいてやった。
何が起きようと、自分は最後まで見とどける機会を得たようだ。
11
風雨荒れ狂う山道は、夜のように暗かった。
羽矢を背負った不二を従えて、惟澄は更伎と先を急いだ。
柚宇は、霊が消えてしまうまでのわずかな間に、惟澄の精神に触れていったのだ。惟澄は多くのことを知った。
羽矢は、まちがいなく呪力者だ。ただし羽矢の呪力は、精神ではなく肉体にだけもたらされてる。羽矢の肉体は、ほとんど不死なのだ。
荒霊とひとつになった地霊は、もはや鎮まることを知らなかった。封じる力を持つ者は、もういない――羽矢以外は。
羽矢の強固な肉体ならば、荒ぶるものたちを取り込む器となる。羽矢が彼らを引き連れて自分の身体に戻って来れば、羽矢自身が檻となり、彼らを制することが出来るだろう。
(それでは、羽矢でなくなってしまいます)
惟澄の思いを柚宇はなだめた。
(すでに昔の羽矢ではないのよ、惟澄。でも、羽矢だったことを思い出しさえすれば。身体と霊が結びつけば)
柚宇の思念は後悔に満たされていた。
(悪いのはわたしだわ。わたしは、月弓さまとお別れしたくなかった。あの子は、わたしの思いをどこかで感じ取っていたのよ。あの子の決意に拍車をかけてしまった)
(柚宇さま……)
(お願い、惟澄……あなたしかいない)
柚宇の悲しみと羽矢への慈しみは、いまや惟澄のものでもあった。
(あの子を、取り戻して──)
柚宇が教えてくれた通り、羽矢を荒霊ごと身体に呼び戻さなければならない。できなければ、羽矢は失われ、大那も滅びてしまうだろう。
湖の水は激しく波打ち、岸に押しよせていた。船首が折れて横倒しになった龍舟が、岸に打ち上げられていた。
三人は、船影に羽矢を横たえた。いくらかでも雨風をよけてくれるように。
「ありがとう、不二」
惟澄は言った。
「ここは、危険かも知れない。みんなのところに、帰って」
「とんでもない」
不二は、声高に言った。
「お側にいます」
惟澄は、不二の必死の表情を見つめた。不二とて、自分と同じだ。羽矢が大切なのだ。
惟澄はうなずいた。
「羽矢はいま、空っぽなの。霊を引き戻さなければならない」
「霊を?」
「手伝って」
更伎は舟の龍頭の脇に腰を下ろして、琵琶を奏で始めた。
霊呼びの曲だ。死んだ者の霊が、肉体に戻るように願う曲。戻らないことを認めてはじめて霊鎮めの曲が弾かれる。
羽矢が戻って来ないことを受け入れるわけにはいかない。羽矢の肉体は息づいている。霊の入り口は開かれている。
「不二、羽矢の名前を呼んで」
惟澄は言った。
「わたしといっしょに」
なにか小うるさいものが自分の霊をつついていた。それはふっと意識を甦らせた。
琵琶の音が、自分を絡みとるようだった。それは振り払おうとした。
「羽矢」
馴染みあるものの声が聞こえた。
「羽矢さま!」
それをとりまく、大きなものの意思が苛立った。稲光を起こし、横転している舟に向かって雷を落とそうとした。
それはとっさに邪魔をした。雷は湖畔を取り巻く樅の大樹に落ち、火柱を上げた。
なぜ攻撃をそらしたのか。
荒霊は怒りにかられ、その存在を押しつぶそうとした。だがそれはすでに荒霊と同化しており、自分で自分に掴みかかるのと同じことだった。
荒霊は、怒りに震えて咆哮した。凄まじい風の唸りが、湖水を沸き立たせた。
それでも、琵琶はひるまず鳴りつずけた。
呼びかけは執拗だった。
「羽矢!」
あの女はなんだろう。
荒ぶる霊はつぎつぎと雷光を生み出した。それがそらした稲妻で湖畔の木々がばりばりと裂けて地に倒れた。
女は叫んでいた。
「帰って来て、羽矢」
羽矢?
自分はなぜ、あそこにいる者たちをかばおうとしているのだろう。
大切なことを忘れている。
思い出せそうで思い出せない。
あの女は?
それのとまどいの隙をついて、光が迸った。
光はまっすぐに、羽矢に覆い被さっている惟澄に落ちた。
四人の身体が、はじけるように飛んだ。
(羽矢)
懐かしい霊が、それの存在をまさぐった。
さっきから呼びかけていたものの霊だ。
(羽矢)
荒霊はうるさがり、ひねりつぶそうとしたが、それは自分の内にしっかりと抱え込んだ。
繰り返し呼ばれる名を、それは反芻した。
(羽矢)
霊の核が、強固なものになってきた。
(わたしは……)
(そう。あなたは、羽矢よ)
(羽矢)
さまざまなことを思い出した。
(惟澄?)
(ええ)
惟澄の霊は、やさしく語りかけた。
(帰りましょう、羽矢。あなたの身体に)
(惟澄)
羽矢の霊は力を得た。名を取り戻したゆえに。守る者を見だしたゆえに。
(その前に、惟澄が身体に帰らなければ)
(もう、帰れない)
羽矢は、はっとした。自分は、あまりに深く惟澄の霊をとらえてしまったのだ。惟澄の霊を引きはがしても、正常に生身の身体に戻れるかどうか。
(いいの)
惟澄は言った。
(このまま、羽矢と一緒にいる)
(惟澄)
羽矢は、惟澄の霊を自分のずっと奥にしまい込んだ。
そして意識を大きく広げ、荒霊を呑み込んだ。
惟澄の鋭い悲鳴が耳に残っていた。
不二は地面にたたきつけられ、わずかの間、気を失っていた。
そろそろと頭を上げた。
むこうの更伎が身動きするのが見えた。しかし惟澄は羽矢の上でぐったりと動かない。
「惟澄さま」
不二はこわばる身体を動かして、惟澄に這い寄った。
惟澄は、息をしていなかった。
不二は更伎に目を向け、首を振った。
更伎はすすり泣くようなため息をもらした。
いつの間にか、風雨はやんでいた。
空は明るくなり、雲間から幾筋もの日の光がそそぎはじめる。
惟澄が動いたので、不二ははっとした。
動いたのは、羽矢のほうだった。羽矢は目を開き、空のまぶしさに眉をひそめた。
「羽矢さま」
羽矢は紫色の瞳を不二に向けた。そして手を伸ばし、惟澄の身体をそっと抱きしめた。
「すまない」
羽矢はかすれた声でつぶやいた。
「みな、わたしがやったことだ」
「羽矢」
更伎がよろめきながら近づいてきた。
「惟澄の霊呼びをしなくては」
「いや」
羽矢は、惟澄を抱えたまま起き上がった。
「惟澄は、わたしといっしょにいると言ってくれた」
「惟澄が?」
羽矢はうなずいた。
「わたしたちは、ひとつになったんだ」
12
政庁の半分は雷で焼け落ち、まだくすぶっていた。多雅の邸は延焼を免れたが、門も土塀もすっかり崩れ、家人たちが右往左往している。
母屋はなんとか無事だった。不二が行くと、叔母は真崎に取りすがって泣いていた。雷が落ちた時、政庁には〈蛇〉の重鎮が顔をそろえていたらしい。多雅はじめ、彼らのほとんどが帰らぬ人となったのだ。
真崎は、呆然自失の体で母親の肩をさすっていた。不二は叔母をなぐさめ、真崎を別室に連れ出した。
「従兄弟どの」
真崎は、ようやく力を得たように不二にくってかかった。
「いったい、何が起きたんだ。〈龍〉は何をしている」
「もういないのです」
不二は、首を振った。
「〈龍〉は滅びました」
「滅んだ……」
真崎は呆けたように繰り返した。
「何が起きたかは、後でゆっくりお話しします。まず、あなたのすべきことをして下さい」
「わたしの?」
「父上亡き後、あなたが〈蛇〉の惣領です」
「ああ、そうだ」
真崎は、途方にくれたように不二を見た。
「だが、どうしたらいい?」
「備蓄倉を開かなくては。民の不安は計り知れない。食べるものと、寝る所を与えるのです。それから、暴徒が出ないように見回りの者を。日が暮れぬうちに、できるだけ早く」
「その通りだ」
真崎は大きくうなずいた。
「すぐに命じる」
部屋を出がけに、真崎は振り向いた。その目が、一瞬たよりなげに揺らいだ。
「わたしを、手伝ってくれるか、従兄弟どの」
不二は眉を上げ、微笑んだ。
「もちろんです」
数日後、不二は再び夜彦山に登った。
羽矢が呼んでいた。
空は高く澄んでいる。風はすっかり秋めいて、蜻蛉がさかんに飛んでいた。
山に人気はない。
更伎はじめ、龍の一門の新世代たちは、すでに大那を去っていた。羽矢が大隅への扉を開いたのだ。刀也は大隅に埋めた自分の左手を媒体に、呪力で空間を繋ぐつもりだったらしい。刀也亡きいま、彼の記憶を受け継いだ羽矢が父の意志を引き継いだ。
〈龍〉に仕えていた者たちも、みな山を下りていた。都琉と泉の姿を不二は見かけた。泉が、都琉をいたわるように寄り添っていた。
不二は月弓の館に入って、厩に向かった。
明星の首を撫でながら、羽矢が待っていた。
不二は、羽矢を見つめた。
初めて出会ったときから、なんと変わってしまったことか。外見はたしかに昔のままだ。しかし羽矢の中には、大那の地霊をとりこんだ荒霊が収まっている。彼らが存在していた時代の膨大な記憶と呪力とが。それが、羽矢の紫色の目に深い翳りを与えてしまった。老人のようなけだるささえ、羽矢からは感じられた。
「他の馬は、佐尽に連れて行ってもらった」
羽矢は言った。
「でも、明星だけは残したんだ。わたしから、不二に渡したかった」
不二は深く頭を下げた。
「これから、どうなさるおつもりです?」
「わたしは、咎人だ、不二」
羽矢は悲しげに目を伏せた。
「自分の一門を滅ぼしたうえ、多くの者の命を奪ってしまった」
慰めの言葉をかけることはできなかった。
羽矢の言うとおりだったから。
「償いはできない。せめて、これ以上誰も傷つけることのない所に行きたい」
「……」
「手白香に行こうと思う」
「手白香」
不二の故郷の島だ。人が足を踏み入れることは許されない聖なる島。たしかに、そこならば羽矢はひとりで静かに時をおくれるだろう。千年、二千年、さらに長い時を。
「いいかもしれません。美しい場所です」
「うん」
不二は、少しためらってから訊ねた。
「惟澄さまは?」
「いる。わたしたちは、よく話をしたりするんだ、不二。子供のころのことや、いろいろなことを」
「そうですか」
救いは、羽矢が孤独ではないということだ、と不二は思った。
羽矢の中で、二人は決して離れることはない。
「頼みがある」
「何でしょう」
「手白香の砂を、わたしにくれるか?」
「砂を?」
不二は問い返したが、すぐに心得て懐をまさぐった。守り袋を羽矢に手渡す。
羽矢は不二を見つめ、守り袋を胸の前で握りしめた。
手白香の砂を、はるか手白香島の砂浜と呼応させた。
空間が結びついた。
羽矢のまわりが白く光った。一瞬、羽矢の背後に広がる白い砂浜が見えた。
「羽矢さま」
不二は、思わず一歩踏み出した。羽矢はちょっとうなずき、背を向けた。
明星が、低く悲しげにいなないた。
羽矢は消えた。
行ってしまった。
不二は、明星の首に腕をまわし、そのたてがみに顔を押しつけた。
〈龍〉の時代は、完全に終わったのだ。
龍の一門の滅亡は、いずれ大那中に知れ渡るだろう。
すべきことがありすぎた。悲しみに浸っている暇はない。
大那が混乱する前に、〈龍〉の後ろ盾なしでも〈蛇〉が大那を掌握できることを示さなければ。
新しい法が必要となる。軍備も強固なものに。真崎を助けて最善をつくすのがこれからの自分の仕事だ。〈蛇〉の時代がどれほど続くかはわからないにしても。
そして、いつか故郷に帰ろう、と不二は思った。
早波に帰り、手白香に舟を漕ぎ出そう。
羽矢は迎えてくれるだろうか。
波打ち寄せる白い砂浜に立って。