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龍の都  作者: ginsui


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1/2

第一部

               1


 木立を抜けると、視界が開けた。

 崖のような、急な斜面の高みだった。そこからは、美しい平野が見下ろせた。

 木々は青葉にあふれ、田植えを待つばかりの水田に影を落としていた。広々とした耕作地の向こうには、一筋の川がゆったりと流れており、さらにその先に、みごとな円錐形の山がひとつそびえている。

 平地に島のように浮かぶ端正な山だ。大那(だいな)の隅々まで名が知られている夜彦山(やひこやま)。麓には、街路や平たい屋根の連なりがはっきりと見て取れた。

 あれが天香(あまつか)の都か。

 不二(ふじ)はふうと一息ついて、大きな旅嚢を肩から下ろした。

 いやにひょろひょろとした手足の、背の高い青年だ。いつも笑っているような細い目と、愛嬌のある大きな口元。日にさらされた長髪は、ぱさついて茶色っぽくなっている。骨張った身体をつつんでいる筒袖の着物も、裾を絞った細身の袴も、だいぶくたびれ、汚れていた。なにしろ故郷を出てから二月あまり、都をめざしてひたすら歩いて来たのだから。

 馬を使えばいいと父は言ってくれたが、不二はありがたく気持ちだけを受け取った。初めての長旅を、自分の足で存分に楽しみたかったのだ。

 しかし、それももう終わる。ここから見ると、都には今日中にたどりりつけそうな距離だった。この山を抜ける道が、早いところ見つかればの話だが。

 やれやれ。

 不二は、ぼりぼりと頭を掻いた。

 都が近くなるにつれ、街道は行き交う人馬が増えていた。その埃っぽさに嫌気がさして、道をそれたのが悪かった。街道を使わなくても、都に降りる山越えの道があるはずだと思ったのだ。

 ところが山中に入り込んで、ここぞと思った道を辿れば行き止まり。

 不二は、もう一度、足下の斜面を見下ろした。

 岩がむき出しになった山肌に、短い灌木がところどころ生い茂っていた。斜面のずっと下に、細い道が見て取れる。街道ではなさそうだが、山を下りる道にちがいない。

 斜面の高さと勾配をじっくりと眺め回して、不二はひとつ頷いた。引っ掻き傷や擦り傷の二三は出来るだろうが、降りていけないことはないだろう。

 不二は、守り袋を入れた懐の上を、一度まじないのように軽く叩いた。旅嚢を背負いなおし、身を屈めるようにしてそろそろと斜面を下りる。

 突き出た岩に足をかけ、灌木の枝につかまりながら、初めは順調に行けそうだった。しかし、半分以上降りたころ、選んだ足場が悪かった。

 足が滑り、とっさに掴んだ木の枝もあえなく折れて──。

 不二は斜面を転がり落ちた。

 勢いあまって道の真ん中に投げ出された不二の目に、疾駆する馬の姿が飛び込んできた。

 立ち上がって身をかわす暇もない。両手で頭をかばうのがやっとだった。

 土煙が上がり、怒ったような馬のいななきが聞こえた。

 不二は、おそるおそる顔を上げた。栗色の馬は鼻息荒く、前足で空を蹴っていた。

 みごとな手綱さばきで馬を止めたのは、小柄な、まだ子供といってもいいくらいの少年だった。

「申し訳ない」

 不二はなんとか立ち上がった。身体のあちこちが痛んだが、今は憮然とした表情でこちらを見下ろしている少年の方に心を奪われていた。

 白っぽい上衣と袴に、紺の腰帯をきりりと締めている。細く真っ直ぐな黒髪、目鼻立ちのはっきりした、少女のように愛らしい顔立ち。

 しかし、何より不二を驚かせたのは、その目の色だった。

 彼の双の瞳は、明るい紫色をしていたのだ。

 故郷でも話には聞いていた。この大那で目に紫を持っているのは龍の一門のみ。紫色の瞳はすぐれた呪力者のあかし、天香の都に住まう大那の支配者のしるしなのだ。

 こんなにも早く、龍の一門に出会えるとは。

 〈龍〉の少年は、ふいと顔をそむけて馬の横腹を蹴った。不二は、あわてて脇に飛び退いた。

 馬は、すばらしい勢いで駆け去って行く。

 不二は、しばらくぽかんとしてその後ろ姿を見送った。

 やがて、思い出したように身体の土を払い落とし、一声小さな笑い声を上げた。

 道に迷ったおかげで、思いもかけない幸運に出会ったような気がした。

 それに、この道が都に続いているのは間違いなさそうだ。


               2


 不二が天香の都に入ったのは、陽もだいぶ傾いたころだった。

 目印にしてきた都の山、夜彦山は、黄昏の空に、深くなった影をきわだたせていた。

 間近で見上げると、何やら近づきがたい、威圧感のようなものがある。龍の一門のほとんどが、そこに居を構えていることは、不二も知っていた。

 訪ねる場所は、すぐに見つかった。都の南側にある、ひときわ大きな邸宅だ。

 蛇の一門の惣領(そうりょう)多雅(たが)の館だった。

 惣領とは一門の宗主、大那中の蛇の一門を束ねる最高家長である。まして、天香の〈蛇〉は代々龍の一門の執権を務め、〈龍〉に次ぐ地位にある。

 同じ一門とはいえ、普通ならば不二のような田舎出の若者がおいそれと会いに行ける人物ではなかった。しかし、多雅の妻は不二の父の妹なのだ。若い時代の気ままな旅で、遠縁にあたる不二の家に立ち寄った多雅が叔母を見初め、そのまま都に連れ帰ったいきさつがある。

 前もって手紙で知らせていたので、叔母の三咲(みさき)は喜んで迎えてくれた。不二が赤ん坊の時に嫁いだ、顔も覚えていない叔母だったが、故郷のことを尋ねながらあれこれと世話をやいてくれるのが嬉しかった。

 長旅の汚れを落とし、さっぱりとしたところで多雅に挨拶した。

 多雅は温厚そうな顔に顎髭をたくわえた、大柄な男だった。隣には叔母とよく似た顔の、いかにも育ちのよさそうな青年が座っている。さっき叔母が話していた、一人息子の真崎(まさき)に違いない。

「二三日は、ゆっり休んで旅の疲れを取るがよかろう」

 多雅は不二に酒膳を勧めながら、上機嫌で言った。

「わしを頼って来たからには、勤める先はいくらでもある。案ずることはない」

「ありがとうございます」

「おぬしは、幾つになる?」

「この春、二十歳になりました」

「真崎より、二つ上だな」

 多雅は、愛おしそうに息子を見やった。

「いずれは要職につき、真崎を助けてやって欲しいものだ。側に従兄がいれば、真崎も心強かろう」

 真崎は薄く笑みを浮かべ、値踏みするように不二を眺めている。怖い者知らずのお坊ちゃんといったところだな、と不二は思った。それに、性格もなかなかきつそうだ。

「まず手始めに、〈龍〉に仕えてみるのはどうかな」

「いきなりですか?」

 声を上げたのは真崎だった。多雅は鷹揚に応えた。

「〈龍〉あってこその〈蛇〉だ。彼らがどんな者たちか、学んでいくのも悪くはなかろう」

「しかし、〈龍〉を見たこともない者に‥‥」

「ここに来る途中で会いましたよ」

 不二は言った。

「それは美しい紫色の目をしていました。まだ子供でしたが」

「ほう」

 多雅は、驚いたようにうなずいた。

「奇遇だな。それはおそらく羽矢(はや)さまだ」

「羽矢さま?」

「ちょうど、そのお方のことを考えていたところでな。側仕えの者がいなくて困っている」

「あの方は、気難しいとの噂です」

 真崎は顔をしかめた。

「長く勤まる者はいませんよ。だめでもともと、とおっしゃるならしかたありませんが」

「これこれ」

 多雅はたしなめるように、

「決めつけるでない。不二が初めて会った〈龍〉が羽矢さまなら、何かの縁があるかもしれん。縁とはこれで、なかなか馬鹿にできないものでな」

 多賀は妻に目をやった。

「わしが気まぐれに早波(はなみ)に行ったのも縁、たまたまを三咲を見かけたのも縁。そのおかげでおぬしがいるのだぞ」

 叔母はくすりと笑い、真崎は肩をすくめた。

「どうだ、やってみるか」

「願ってもないことです」

 不二は、多雅に向かって深々と頭を下げた。

 あの少年には、また会いたいと思っていたところだ。それがこんな形で叶うとは、やはり自分は運がいい。

「精一杯勤めさせていただきます」

「詳しいことは、真崎に教えてもらうがよい」

 満足そうに多雅は言った。

「〈龍〉の近くにいることは、必ずおぬしのためになるだろうよ」


 野宿に慣れた身体には、柔らかい床がかえって落ち着かず、不二はなかなか眠れなかった。

 何度も寝返りを打ったあげく、あきらめて闇の中で目を見開いた。

 いくらか、興奮しているのかもしれないな。

 不二は、頭の下に手を組んで考えた。明日から、都での生活が始まるのだ。

 故郷に不満があったわけではなかった。

 不二の父は大那(だいな)の最南端、早波(はなみ)半島の一帯を治める有力者だ。いずれは家を継ぐ兄の下で、不二も何不自由なく暮らしていけるはずだった。

 だが、それだけではつまらない。決まり切った一生を送るのは嫌だった。自分で自分の居る場所を築いてみたいと思ったのだ。

 手始めは〈龍〉の側人か。

 不二は昼間の少年を思いだし、思わず笑みを浮かべた。さぞかし自分は間抜けな顔をしていたことだろう。

 龍の一門と、どう接すればいいのか、不二は皆目見当がつかなかった。ほとんどの大那の人間にとって、〈龍〉は雲の上の存在だ。

 気の遠くなるような昔、大那で覇権を争っていたのは龍の一門と鳳凰の一門だ。二つの一門は守霊の龍と鳳凰同様、長命で、計り知れない呪力を持っていた。

 呪力と呪力の戦いは、大那の地形を変え、月の運行さえ乱す凄まじさだったという。長い戦いの末、勝ったのは龍の一門で、鳳凰の一門は大那から姿を消した。龍の一門は、天香に都を定めた。今から二千年ほど前のこと。

 しかし、ここ百年ばかりの間、龍はしだいにその数を減らし、空を飛ぶ姿もめったに見られなくなった。〈龍〉の多くも都を離れることなく、蛇の一門に雑事を委ねて静かに暮らしている。

 それでも彼らの治世が揺るがないのは、誰もが〈龍〉の呪力を恐れているからだ。彼らは人の心を読み、空間を瞬時に移動し、山を動かすことも、天候さえも変えることができるとか。

 〈龍〉の惣領の伊薙(いなぎ)のことは、大那では伝説のように語られている。

 〈龍〉と〈鳳凰〉の壮大な戦いは、多くの呪力者の死を生み出した。猛った心のまま命を落とした彼らは、鎮まることを知らず、荒ぶる霊となったのだという。

 もはや生きていた頃の理性は失せ、すべてを破壊することだけに喜びをみだした。太陽は包み隠され、絶えることない大嵐や地鳴り、あらゆる天災が大那を襲った。

 伊薙は一門の呪力を集め、荒魂を夜彦山に封じ込めた。自身が封印となり、今も夜彦山の山頂で眠り続けている。二千年の時を経ても死ぬことなく。

 本当のところは、どうなのだろう。

 まさしく、〈龍〉を権威づけるための伝説ではないのか。

 これから、自分で確かめてみるしかないだろうな。

 不二は、ひとり頷いた。深く息を吐き出して目を閉じると、ようやく眠りの波がやって来た。


               3


 翌朝、与えられた部屋でのんびりしていると、真崎がやって来た。

「母上に、都を案内してやれと頼まれた」

 あいわらず生意気な口振りだが、母親には従順だとみえる。不二は思わず笑みを浮かべた。

「ありがとうございます。ぜひ」

 さわやかに晴れた、いい日だった。夜彦山は薄い羽根のような雲を背に、麗しい姿を見せていた。

 両側に植樹された都の大路を、不二は真崎の後についてゆっくりと歩いた。大路は夜彦山の真下にある政庁まで続いていた。

 荷車を引いた牛のまわりを、犬が吠えたてながら駆け回っている。役人に率いられた労働者の一団が向こうの角から現れたと思えば、綺麗に着飾ったどこかの姫君が侍女を従えて歩み去る。都には、田舎にはない雑多な賑わいがあった。

 〈蛇〉の惣領の息子の顔は知れ渡っているらしく、すれ違う者たちのほとんどが、真崎に深々と頭を下げた。だが、〈龍〉らしき紫色の瞳に、出会うことは一度もなかった。

「天香には、どれくらいの人間が暮らしているのでしょうね」

 不二は尋ねた。

「三万を少し越したくらいかな」

 真崎は答えた。

「大半は労役で地方から来ている者たちだ。それから幾つかの弱小一門。残りはわれわれ〈蛇〉と、ひとにぎりの〈龍〉」

「ひとにぎり」

「五百人前後だ」

 不二は目を細めた。思ったよりも少ないな。

 蛇の一門が〈龍〉の執権になれたのは、なんといってもその要領のよさだ。〈龍〉の呪力を恐れて近づけなかった他の一門とは違い、〈蛇〉はなりふりかまわず〈龍〉にまとわりついた。

 〈龍〉にとっても、〈蛇〉の存在は重宝だったにちがいない。まして、それほど数を減らした今となっては、〈蛇〉なしで大那を支配することなど不可能だろう。

 〈龍〉あっての〈蛇〉、と多雅は言ったっけ。

 これまで、誰もその逆を考えたことはなかったのだろうか。

「真崎さま」

 向こうから、声をかけてくる者がいた。

 目をやると、小柄な少女が人懐っこい笑顔で立っている。臙脂色の上衣に赤い裳。どこかの館の侍女といったいでたちだ。

「ああ、(せん)か」

 真崎が親しげに答えた。

「こんなところで、何をしている?」

「おつかいです」

 なるほど、泉と呼ばれた少女は、両手にしっかりと細長い包みを抱え込んでいる。鬱金染めの布にくるまれた、筒のようなものだ。

「真崎さまこそ」

 不二を見上げ、首をかしげた。

「お見かけしない方ですが」

「母方の従兄だ」

 真崎が説明した。

「昨日、田舎から出てきたばかりなので、都を見せてやっている」

「そうでしたの」

 泉はぺこりと頭を下げた。

「泉は、私の乳母の末娘なんだ」

 真崎が言った。

「今は〈龍〉の館に仕えている。それは何なんだ、泉」

惟澄(いすみ)さまの新しい矢ですわ。今朝出来上がったばかりなのを工房に取りに行ったんです」

「ほう」

 真崎は、興味ありげに筒を見つめた。

「どんな矢だ?」

「それは、みごとなものですよ。このあいだしとめた鷹の矢羽です。残念ながら今お見せするわけにはいきません。まずは惟澄さまに見ていただかないと」

「そうだな」

「いっしょに来られますか? 惟澄さまは、弓場にいらっしゃるはずですよ」

「ふうん」

 真崎は、不二に目を向けた。

「惟澄さまは、泉の主だ。顔を売っておくのも悪くはないと思うが」

 不二は軽く頭を下げた。

「お任せします」


 政庁の朱塗りの門が見えてきたところで、真崎と泉は左に大路をそれた。街中の喧噪はしだいに遠のいて、いつしか三人は大樹の生い茂る林の中に足を踏み入れていた。

 木々の下はほの暗く、濃い緑の匂いがする。

 ここはもう夜彦山の一部、〈龍〉たちの領域だ。

 そう思うと、空気までもが呪力に満ちた特別なものに感じられ、不二は思わず身を固くした。山頂には、惣領の伊薙が眠る。

 二千年の〈龍〉の息吹に絡み取られてしまわぬように、真っ直ぐ背筋を伸ばして先に進んだ。

 真崎と泉は、しゃくにさわるほど慣れた足取りで歩いていく。

 ふいにさわやかな風が吹いてきて、木立が開けた。

 不二は目を細めた。今までの陰鬱な林とはうってかわった、明るい風景がそこにあった。

 薄色の小花がところどころ群生している野原の向こうに、広々とした池が水をたたえていた。さざ波立つ水面は、まぶしいほど日射しにきらめいている。

 丈の高い水草の間から、池に浮かぶ二三艘の舟が小さく見えた。それぞれに何人か乗っているようだが、逆光でその姿は影になっていた。

 かすかな笑いさざめきが、風に乗って聞こえてきた。

「〈龍〉の若殿や姫君が舟遊びをしています」

 泉が教えてくれた。

「今日は天気がいいですから」

「で、おまえの主は、お仲間にも交じらずに弓の稽古か」

 真崎はちょっと肩をすくめた。

「あいかわらずだな」

 泉はにこりとした。

「だって、そんな方ですもの」

 池を眺めやりながら野原を抜けて、再び木立の中に入ると、道はゆるやかな登り坂になっていた。ほどなく木を切り開いて地ならしした弓場に着いた。

 道は射手のいる方に続いていたので、不二は弓を打ち起こしている者の姿をはっきりと見ることが出来た。

 そして、目を見開いた。

 不二が想像していたのは、片袖脱いだ筋肉質の若者だったのだが、そこにいたのは、しなやかに長い手足の女性だった。

 黒髪をきっちりと一つに束ね、筒袖の衣に袴。鹿革の胸当てをつけている。二十歳はまだ過ぎていないだろう。いくぶん顎の尖った細面の美しい顔だちは、龍の一門特有のものなのかもしれない。昨日不二が出会った羽矢と、どこか似ていた。

 泉は、惟澄が射終わるまで待つつもりらしく、その場に立ち止まった。

 遠くのあずちの前には綱が張り渡され、小さな板が数枚ぶら下がっていた。風のために、薄い板は絶えず揺れていた。

 あれを射抜くのは並大抵の技ではないだろうと不二が思ったとたん、鋭い弦音がして、向こう端の板が真っ二つに割れた。

 惟澄はゆったりとした動作で次々に矢をつがえ、的板は澄んだ小気味よい音をたてて、残らず割れた。

「呪力?」

 不二は思わず声を出した。泉が、くすりと笑って答えた。

「呪力なら、矢を放たなくても的は壊せますわ」

 弓を下ろした惟澄は、三人に目を向けた。

「泉について来ましたよ、惟澄さま。新しい矢を作られたそうですね」

 真崎が如才なく進み出て言った。

「ええ」

 惟澄は、不二に目を向けた。不二は深々と頭を下げた。

 下げながら、意外な思いにとらわれた。

 けげんそうに不二に向けられた瞳。その色は羽矢のような〈龍〉の紫ではなかった。ごく普通の、黒い瞳だったのだ。

「わたしの従兄で、不二といいます」

 真崎が紹介してくれた。

「早波から出てきたばかりです。父は羽矢さまの側人に推挙すると言っていましたよ」

「そう」

 惟角はかすかに眉を上げた。しかし、すぐに微笑んで、

「貸してちょうだい、泉。(はず)を合わせてみましょう」

 泉は包んだ矢筒の中から、二本の矢をうやうやしく取り出した。惟澄が手にした矢をのぞき込んだ真崎は、まんざらお世辞でもない声を上げた。

「これは美しい雪白(ゆきじろ)ですね。こんな羽根はめったに手に入りませんよ」

「ええ。一羽から二本しか作れなかったの」

 真崎の言うとおり、輝くような純白の羽根の竹矢だった。惟澄は矢を両手に乗せ、満足げに眺め回した。

「的を付け替えて来ます」

 泉が的場に向かって駆け出した。惟澄が矢筈と弦の調節をしているうちに、慣れた様子であづちに刺さった矢を引き抜き、新しい的板を付け替えた。

 泉は、向こうから大きく両手を振って、惟角に合図をした。

 惟澄は、惜しげもなく新しい矢を番え、的前に立った。

 心持ち細められた目は、的よりももっと遠くに向けられているようだった。

 呪力と集中力は、紙一重なのかもしれないな、と不二は思った。集中力が極まった時、呪力も生まれるのだろう。弓の名手だって、一種の呪力者と言えないこともない。惟澄はたまたま初めから、〈龍〉の呪力者であるだけのこと。

 惟澄は、のびやかに弓を引いた。その身体は美しい十字を描いていた。

 鋭い弦音とともに放たれた矢は、的を射抜いてあずちに刺さった。

 矢羽の白さが、いつまでも不二の目の奥に留まった。


               4


「どうだった、惟澄さまは」

 夜彦山を降りて再び街の賑わいの中に身を置くと、真崎ははじめて口を開いた。

「たいへん、印象深い方でした」

「だろう。泉などは、心底信奉している」

 もっと言いたいことがあるだろうと言わんばかりに、真崎は薄い笑みを浮かべた。そこで不二は、

「わたしは、龍の一門が、みな紫色の目をしていると思っていました。女の方はちがうのですか」

「いや」

 真崎は首を振った。

「目に紫があるのは、〈龍〉の旧世代だけだ。あまり知られていないことだが」

「ですが、羽矢さまは?」

「あの方も、旧世代に属している。惟澄さまの両親は、羽矢さまの両親より五世代ほど若い。惟澄さまと羽矢さまは、同い年だがな」

「同い年?」

 不二は、当惑して立ち止まった。

「待ってくださいよ。なにがなんだか、分からなくなってきました」

「だろう」

 真崎は、愉快そうに不二を眺めていた。

「家に帰ったらゆっくり説明してやるよ」

 屋敷に戻ると、真崎はまた来ると言って不二を部屋に残し、どこかに行ってしまった。そのまま一向に現れる気配はない。

 じらしているんだな。不二は苦笑した。

 まあ、気長に待っているとしよう。龍の一門について学ぶべきことは、山ほどありそうだ。出だしから焦っていても、はじまらない。

 不二は板間にごろりと横になって、天井を見上げた。

 それにしても、羽矢と惟澄が同い年とは、どういうことなのだろう。不二が出会った羽矢は、どこから見ても十三四の少年だったのに。

 いつの間にかうとうとした。はっと目覚めると、真崎のあきれたような顔があった。

「よく寝ていたようだな」

「そのようです」

 不二は、がばりと起きあがった。部屋の前の廊下に、西日が射し込んでいた。だいぶ眠っていたらしい。

「夕膳は、こっちに運ばせることにした。気兼ねなく話ができる」

 真崎は、どっかりと座り込んだ。

「さて、何から教えて欲しい?」

 不二は、姿勢を正して座り直した。

「いったい、羽矢さまと惟澄さまは、お幾つなんです?」

「二人とも、わたしと同じ年に生まれた。ああ見えて、羽矢さまは十八だ」

「しかし‥‥」

「〈龍〉の旧世代は、成長が遅い。その分、長命だからな」

「なるほど」

 不二は頷いたが、ふと首をかしげた。

「では、惟澄さまたちは?」

「新世代か」

 真崎は、薄い笑みを浮かべた。

「近頃では、五十を超えた新世代を見かけない。つまり、わたしたちより短命ということだ」

 不二は、目を見開いた。

 真崎は、不二の驚きぶりに満足したように言葉を続けた。

「〈蛇〉の惣領が、代々覚え書きを残しているんだ。〈龍〉の子供の中に、目に紫を持たない者が混じりはじめたのは、三百年以上も前のことだという。彼らにも呪力はあったが、寿命は普通の人間並で、その子供も黒い目だった。一方、紫色の目を持って生まれた〈龍〉からは、次代の子供が生まれることはなかった。やがて龍の一門の子供は黒い目だけとなり、それどころか、寿命もさらに短くなってきた。新旧の世代の間は開く一方だったのさ。羽矢さまの誕生までは」

 真崎は、言葉を切った。

「羽矢さまの両親は、子供を産むはずがないと思われていた最後の旧世代だ。羽矢さまは、すこぶる特異な存在なんだ」

 不二は納得した。

 紫色の目をした子供に会ったと話した時、すぐに羽矢の名が出たのはそういうわけか。羽矢は最も若い、真正の〈龍〉なのだ。

 侍女たちが入ってきて、薄暗くなった部屋に灯を点し、二人分の膳を用意した。

 不二は、しばらく無言で考えた。龍の一門は、思っていた以上に複雑だ。もしかしたら自分は、一番面白い時代に出くわしているのかもしれないな。

 侍女たちが去ると、不二は口を開いた。

「〈龍〉に、何が起きているとお思いです? 」

「父上は、地霊(ちれい)のせいだろうと言っている」

 真崎の声は、自然に低くなってきた。

「龍を見たことがあるか?」

「空を翔ぶ、本物の龍ですか」

「ああ」

「ありません。わたしの父なら、子供の時に一度見たことがあると言います。空高く、東の方角に翔んで行ったそうですよ」

「天香には、年に数度は現れる。同じ龍か、違う龍かはわからないが。だが、それだけだ。ほとんどの龍が、大那から姿を消した」

 不二は頷いた。

 龍は地霊を呪力に変えて飛翔する。大那の地霊は、以前よりも豊かでは無くなっているということだ。

地霊とは、この大那の命の源だ。人も獣も植物も、すべての生きものの霊は地霊から生まれ、死して後また地霊へと帰っていく。大那がまだ若く、地霊に溢れていた太古の時代には、龍も存分に空翔けていたことだろう。

 だが、今は違う。徐々にではあるが、大那の地霊は衰えているらしい。他の生きものには微々たる変化にすぎなくても、強大な呪力を持った龍には、致命的なものとなる。

 大那は、龍にとって棲みにくい世界になってしまったのだ。同じことが龍の一門にも起こっているということか。

「〈龍〉はこれから、どうなるとお思いです?」

「さあて」

 真崎は、小さく鼻で笑った。

「〈龍〉あっての〈蛇〉。我々はただ、龍の一門の時代が長く続くことだけを考えていればよいと、父上は言っている。〈龍〉の数が年々少なくなっているのは事実だが、羽矢さまが生まれた。羽矢さまがいる限り、龍の一門はこれから数百年は安泰だろう」

 羽矢の目は、龍の一門のゆるがぬ権威の象徴というわけだ。

「ともあれ、まずは羽矢さまに気に入られることだ、従兄どの」

 からかうような口調で真崎は言った。

「あの方についていて損はない」

 せいぜい努力することにしよう。

 不二は心の中で肩をすくめた。

 しかし、惟澄たちは羽矢をどんなふうに見ているのだろう。

〈龍〉の証である紫色の目、約束された長い命。

 自分たちにはないものを、生まれながらに手にしている羽矢を。


               5


 羽矢は伯父である月弓(つきゆみ)の館で暮らしていた。

 両親はいない。

 母の瑞緒(みずお)は、羽矢の出産と同時に亡くなっていた。父親の刀也(とうや)の嘆きは、計り知れないものがあったらしい。本来ならば、まだ何百年かの時を共に過ごすはずだった妻を失ったのだから。

 妻との思い出の地にいるのが辛かったのか、妻の命と引き替えに生まれた息子を見るのが耐え難かったのか、彼はある日天香から姿を消した。それきり行方知れずになっているという。

 月弓館の家令に連れられて、不二が再び夜彦山に上ったのは、都に来て十日目のことだった。

 家令の佐尽(さじん)は、実直そうな小柄な老人で、やはり蛇の一門だった。祖父の代から月弓に仕えている。

「それでは、月弓さまはだいぶご高齢なのですね」

 佐尽は、肩をゆすって小さく笑った。

「普通の人間であるなら、ですな。われわれがお仕えしているのは、龍の一門です。そのことをお忘れなきよう」

 佐尽の物言いは、居心地悪くなるほど丁寧だった。これも多雅の威光のおかげだな。〈蛇〉の惣領の甥という立場を、不二は甘んじて受けることにした。

 月弓の館は、深い木立に覆われて、夜彦山の中腹にあった。

 しかし敷地は、外から見るよりもずっと明るく、奥行きがあるようだ。裏門をくぐると、佐尽一家を始め、使用人たちの住居が並んでいる。

「まずは、奥方様にご挨拶を」

 不二は、佐尽に導かれるまま母屋に向かった。建物と建物を結ぶ回廊めいた廊下をいくつか渡り、中庭に面した部屋の手前で立ち止まる。

 部屋の扉は開け放たれていたが、不二は奥まで見ることができなかった。佐尽が正座をして深々と頭を下げたので、それに倣うしかなかったのだ。

「奥方さま」

 佐尽は言った。

「不二どのをお連れしました」

「ご苦労でした」

 やさしげな声とともに衣ずれの音がして、扉の近くに誰かが座った。不二はおそるおそる顔を上げ、月弓の妻、柚宇(ゆう)を見た。そして、あやうく声を上げそうになった。

 柚宇は、不二の想像とはまるで違っていたのだ。

 いかに龍の一門とはいえ、佐尽の祖父から仕えていた人の妻である。不二が思い描いていたのは、白髪の品のいい老女だった。

 が、そこで微笑んでいたのは、まだ少女のような面影を残した年若い女性だ。美しい顔立ち、明るい紫色の瞳。淡い桜色の衣をまとい、長いたっぷりとした黒髪を頭の上に結い上げている。羽矢の姉とも言っていいような‥‥。

「真崎どのの従兄と聞きましたが」

 柚宇は不二をまじまじと見つめ、いたずらっぽく首をかしげた。

「あまり似ていないのね」

「そのようです」

 不二は、思わず頭を下げた。その時、

 何かふわりとした温かいものが不二の心をまさぐった。

 不二は、はっとして柚宇を見た。柚宇は、にっこりと笑っている。

「では、あなただったのね。崖から降ってきた者がいたと、羽矢が言っていましたが」

「ええ‥‥」

 不二はしどろもどろで答えた。

「申し訳ないことをしました。さぞかし驚かれたことと‥‥」

「いいえ、怪我がなくてなによりでした」

 おもしろそうに柚宇は言い、立ち上がった。

「羽矢が遠駆けから帰って来たようだわ。佐尽に会わせてもらいなさい。よろしく頼みますね」

 不二は、ぽかんとしたまま母屋を後にした。佐尽はちょっと笑顔を見せ、

「ようございました。お勤めのお許しが出ましたな」

「許されない人もいるのですか?」

「このまま帰される者も、おりますよ。相性というものがありますからな」

「なるほど」

 不二はうなずいた。

 しかし、人となりを見るためにだけ、柚宇が自分と会ったとは思えなかった。

 あの時、確かに柚宇は不二の心をのぞき見た。ほんの一瞬のことだったが、彼女にとってはそれで十分だったろう。〈龍〉に心をのぞかれた者は、めったなことはできないと思い知る。

 つまるところ、服従するしかないわけだ。

 顔に似合わず、手厳しい教えだな。不二は、ふうと息を吐き出した。

 だが今は、受け入れてもらったことに感謝しておこう。


 佐尽は、その足で屋敷の南門の奥にある厩に向かった。

 柚宇の言葉通りだった。ちょうど帰って来た羽矢が、馬の手綱を馬丁に預けている。

 二人の足音に気づき、羽矢は振り返った。不二の姿を認め、かすかに眉を上げた。

「羽矢さま」

 佐尽が進み出て言った。

「不二どのです。今日からお側仕えを」

 不二は深々と頭を下げた。

「早波から来られました。お会いになられたことがあるとか」

「ああ」

 羽矢は肩をすくめた。

「蹴殺しそこねた」

 声変わりまぎわの、幾分かすれた声だった。不機嫌そうにした表情が、よけい子供っぽく見える。

 これで、十八か。

 不二は心の奥底でため息をついた。羽矢といい、柚宇といい、確かに龍の一門は、普通人の尺度では計れない。

 羽矢は馬の首を軽く叩き、不二の脇を通り過ぎてすたすたと行ってしまった。

「ああいったお方ですが」

 羽矢の姿が見えなくなると、佐尽が言った。

「よろしくお願いいたします」

「まず」

 不二は、ぽりぽりと頭をかいた。

「わたしは、何をすればいいのでしょうね」

「そうですな」

 生真面目に佐尽は答えた。

「身のまわりのお世話は、奥の女たちがしております。それ以外は、なるべくお側にいるようにして頂ければ。奥方様は何より、羽矢さまのよいお話相手をお求めなのですよ。いつもお一人でいられることが多いものですから」

 不二はうなずいた。

 羽矢と同じ年頃の〈龍〉は、みな新世代だ。目に紫を持たず、成長の度合いも違う。羽矢が孤立するのも無理はない。

 たしかに、他の一門の方が気は楽だろうな、と不二は思った。お互い、寿命の差など気にする必要もない。人間が、飼い犬の早い成長を羨まないのと同じことだ。はじめから、違う生きものなのだから。

「しかし、これまでにも、側人はいたのでしょう?」

「みな、お気に召さなかったようでして」

 不二は、笑うしかなかった。

「やれるだけやってみますよ」


 不二のために、佐尽は自宅の小綺麗な一室を用意してくれていた。案内に立った佐尽の妻は、いかにも世話好きそうな恰幅のいい婦人である。

須守(すず)と申します。ご不自由なことがありましたら、何でもおっしゃってくださいましね」

 大きな身体を揺すって、彼女は言った。

「お仕事がら、お屋敷の詰め所にいられる方が多いでしょうが、ここにいる間はご自分の家とお思いになって。家の娘は、奥にお仕えしておりますので、こちらにはたまにしか戻りません。ですから、どうぞご遠慮なく」

「ありがとうございます」

 不二は、にっこり笑って頭を下げた。

 部屋の濡れ縁の向こうには、広い竹林が続いていた。冴えた緑の葉群は、静かな波のようにそよいでいる。

 と、葉ずれの音に交じって、遠くから低い弦の調べが聞こえてきた。

 不二は耳をすました。心をくすぐるような、美しい音色だった。

「あれは‥‥」

「お館さまの琵琶でございますね」

 目を細めて、誇らしげに須守が言った。

「すばらしい音でございましょう」

 不二は、うなずいた。

 真崎が説明してくれたっけ。月弓は、龍の一門の琵琶弾きなのだ。

 〈龍〉の琵琶弾きは、ただ音楽を奏でるだけの他の一門の楽師とは、まるで違う存在だという。その地位は、夜彦山の頂で眠り続けている惣領の伊薙と、彼の代理である三人の長老らに次いで高いものだとか。彼自身が、一門のあらゆる儀式を司る祭司でもあるのだから。

「月の綺麗な夜など、琵琶の音にさそわれて、龍も姿を現しますよ」

 不二は、須守を見た。

「龍が?」

「はい。空を翔る龍は、それはそれは神々しいものでございます」

「羽矢さまも琵琶を弾かれるのですか?」

「いいえ」

 須守は、ぶるんと首を振った。

「羽矢さまはいずれ〈龍〉の惣領になられるお方ですもの、月弓さまの跡は継げません。代わりに麓の若殿がお稽古にいらっしゃいます。更伎(さらぎ)さまとおっしゃって、奥方さまの血筋にあたられます」

 琵琶の音は、途切れることなく続いていた。龍すら呼び寄せるという、この上なく美しい調べ‥‥。

 不二は、父が若い頃に見た龍の飛翔を思い描いた。

 今晩は龍の夢を見そうだな、と不二は思った。

 〈龍〉に仕える初日としては、ふさわしい夢にちがいない。


               6


 馬は黒々とした瞳で不二を見つめ、なんだ、おまえか、といったふうに軽く鼻をならした。

 不二は思わず笑って、ごしごしと首の横を撫でてやった。羽矢が乗っていた、栗色の賢そうな馬だった。

 名は明星(あかぼし)だと、馬丁の少年が教えてくれた。羽矢は明星を可愛がり、毎日のように乗っているという。遠乗りすることもあれば、館内の馬場を軽く走らせる時もある。

 不二はまず、この明星の世話をすることにしたのだった。

 なるべく羽矢の側にいるようにと佐尽は言ったが、羽矢はどうもそれを好んでいないようだ。いままでの側人も、うるさいだけの存在だったのではないか。はじめのうちは、目障りにならない程度に仕事をしていったほうがいいだろう。

 不二が明星のたてがみを丁寧に梳いてやっていると、羽矢がやって来た。手にしているのは竹筒と小さな包み。水と軽食。遠乗りの準備というわけだ。

「早いお出かけですね」

 明星に鞍をつけて、不二は言った。

「お供いたしましょうか」

「いや、いい」

 そっけなく、羽矢は答えた。

 さっさと駆け去っていく羽矢を見送りながら、不二は頭をかいた。

 さて、これから、どうやって過ごそうか。今日一日は始まったばかりなのだ。

 馬丁の仕事を一通り手伝い終えて、不二は厩を後にした。獣と藁の匂いを消し飛ばそうと、風通しのよさそうな場所で両手を伸ばす。

 そこはむき出しになった天然の大岩の上で、周りより少しばかり高くなっていた。背伸びすると、昨日、不二が佐尽とともに上ってきた坂道が見下ろせた。

 今はその道を、別の二人連れが辿っている。薄緑色の衣をまとった細身の人物と、その影のような黒っぽい大きな男。大柄な方は、一抱えの荷物を手にしていた。

 不二は一人うなずいた。そういえば、昨日、須守が言っていたっけ。琵琶の稽古に来る麓の若殿、更伎という名だったか。側人に琵琶を持たせてお出ましというわけか。

 ずっと眺めているわけにはいかず、不二は岩から降りて詰め所に向かった。みなそれぞれに仕事があるようで、詰め所には誰もいなかった。

 詰め所の壁にもたれて腕組みし、そのうちについうとうととしてしまった。誰かが入ってきた気配で目を開けた。

戸口に立って不二を見下ろしていたのは、浅黒い顔をした、頑丈そうな体格の青年だった。眉が太く、目つきが鋭い。さっき、琵琶を持っていた方の人物だ。

 視線が合うと、彼は軽く会釈した。ぼそりと低い声で、

「初めてお見かけしますが?」

 不二も頭を下げた。

「昨日からこのお館に来ました、不二と申します」

「ああ、あなたが」

 眉も動かさずに、彼は言った。

「わたしは都琉(つる)。更伎さまの側人です」

「今日は、お供で?」

「更伎さまの稽古の間は、いつもここで待たせてもらっています」

 都琉は、入り口近くに腰を下ろした。

「泉から聞きました。真崎どののお従兄だとか」

「血が繋がっているだけの田舎者ですが」

 不二は、笑ってみせた。

「泉どのとは、よくお話されるのですか?」

「更伎さまと惟澄さまはご友人です。泉とはたまに顔を合わせます」

「なるほど」

「羽矢さまは、お出かけなのですね」

「わかりますか?」

「更伎さまの稽古日には、たいていいらっしゃいませんから」

「そうですか」

 羽矢は更伎を避けているのだろうか。

 それとも、〈龍〉の新世代全部を?

稽古が始まったとみえる。琵琶の音が聞こえてきた。

 不二は、耳をそばだてた。

 ひとつの琵琶の旋律を、もうひとつの琵琶が正確に繰り返している。楽器のことにはまるで疎い不二にも、その指さばきの複雑さは理解できた。

 後の琵琶の音はしだいに早くなって先の琵琶を追いかけ、やがて二つの音はぴたりと重なって、一糸乱れぬ合奏となった。龍が大空を舞っているような、伸びやかで優美な曲だ。

「すばらしい腕前ですね」

 不二はお世辞抜きで言った。

「月弓さまにもひけを取らない」

 都琉の顔に、はじめて笑みがよぎった。

「更伎さまは、琵琶を弾くために生まれてきたようなお方です。本当に琵琶がお好きなのですよ」

「月弓さまの跡を継がれるとか」

「冬の大龍祭に正式に認められるはずです」

 目を閉じ、満足げに琵琶の音に聞き入る都琉を、不二はすこしばかり羨ましい思いで眺めやった。泉といい、都琉といい、主人を心底敬愛しているようだ。

 はたして自分は、羽矢にそんな感情を抱けるだろうか。

 いや、それより先に、この仕事を続けていけるかどうかが問題だな。

 不二は苦笑した。

 なんとか、がんばるとしよう。多雅の屋敷にはおいそれと戻る気にはなれなかったし、何より、不二はここが気に入った。〈龍〉に、これほど近く関わる場所など、他のどこを探してもないだろうから。

 琵琶が鳴り止んだのは、夕刻近くだった。門を出る更伎を、不二はさっきよりずっと近くで見ることができた。

 都琉と並ぶと、中背で肉の薄い体つきが、いっそう華奢に見える。不二と同じ歳だと須守から聞いた。

 常に微笑んでいるような、優しげで端正な顔立ちは、まぎれもなく柚宇の血筋を思わせる。だが、柚宇とは何世代離れているのだろう。

 不二は首をかしげた。

 そもそも、柚宇は何歳なんだ?

 更伎が去って間もなく、羽矢が帰ってきた。厩の前で待っていた不二に無言で手綱を渡し、行ってしまった。

 ごくろうさん、とでもいうように明星が不二を見てヒンといなないた。


               7


 更伎は、毎日のように稽古に訪れた。

 羽矢も日課のように遠乗りに出かけ、不二はせっせと明星の世話をした。

 羽矢と顔を合わせるのは、厩での短時間だったが、半月ほどたったあたりから、自分を見るときの羽矢の眼差しが、そうは冷たいものでなくなったことに不二は気づいた。

 ようやく慣れてくれたのかな。明星の方は、主人よりも早くすっかり不二に懐いてくれたのだが。

昼間の退屈をまぎらわすために、不二は館の仕事なら何でも手伝った。詰め所に来た都琉と話をすることもあったが、無口な彼と顔をつき合わせているより、身体を動かしていた方が気分はよかった。

 不二が館の主である月弓と初めて対面したのは、そんな日の昼下がりだ。

 不二は朝から庭木の剪定に手を貸していた。館の庭園は、地形を生かして作った瀟洒なものだ。山の斜面から滝が落ち、水の流れはゆるやかな曲線を描いて母屋の前にある池に続いていた。池の周りには、季節季節の花が植え込まれているが、この時期に見頃を迎えているのは菖蒲の花だった。薄紫や赤紫、〈龍〉の瞳を思わせる鮮やかな花群の中に、柚宇がたたずんでいるのが遠目に見えた。

 不二の視線に気づいたかのように柚宇は顔を上げた。

「いらっしゃい」

 柚宇の声が、耳の奥ではっきりと聞こえた。

 これも〈龍〉の力か。不二はぶるっと身震いした。そしてすばやく身繕いすると、彼女のもとに駆け出した。

 柚宇は一人ではなかった。傍らに、白髪の美しい人物が立っていた。

「お話はしましたが、お会いになるのは初めてでしたわね」

 柚宇が、彼を見上げて微笑んだ。

「多雅どのの甥御です。羽矢の側人をお願いしています」

 彼が月弓であることは一目でわかった。濃い灰色の上衣に、みごとな銀糸の腰帯を締めている。柚宇や羽矢と同様、瞳は明るい紫色。両肩に長く垂らした髪はなるほど真っ白だったが、その顔は皺一つなく、驚くほど若々しかった。佐尽の話からすれば、とうに百才は超えているはずなのだが。

 月弓は、穏やかな眼差しを不二に向けた。

 不二は、深々と頭を下げた。

 ようやく月弓と対面できたことに、新鮮な喜びを感じた。ほとんど毎日、彼の弾く琵琶の音を耳にしていたのだ。いつしか、館を流れるその音色を心待ちにするようになっていた。

 自然、月弓の手に目を向けてしまう。長く、しなやかでほっそりとした指。この指が琵琶の弦の上を自在に躍動して、あれほど美しい音を奏でているわけか。

「不二といったかな」

 月弓は口を開いた。深みのある落ち着いた声だ。

「よけいな仕事ばかりさせられているようだ。〈蛇〉の惣領が嘆かなければいいのだが」

「とんでもないです。わたしが好きでやっていることですから」

「まあ、気長に勤めていてくれ」

 月弓の瞳の奥が、面白そうにきらめいていた。彼は軽くうなずき、母屋の方にゆっくりと歩き去った。柚宇も彼の後に続いた。

 不二は、二人の後ろ姿に、もう一度頭を下げた。

 そして、深々と息を吐き出した。

 たとえ琵琶を聞いていなくとも、自分はこの対面だけで月弓に心を奪われただろうな、と不二は思った。彼にあるのは、〈龍〉の美しさだけではなかった。龍の一門の琵琶弾きであり、祭司でもある彼は、遙か遠い過去からの〈龍〉の歴史をまとっている。いわば、〈龍〉の神秘そのものだ。

 佐尽やこの館に勤める人々が抱いている感情を、不二は今さらながらに理解した。決して手の届かないものに対する、限りない憧れと崇拝。

 すべての人間がこんな感情を抱いていれば、〈龍〉の時代は永遠に続いていくことだろう。


懐に入れていたはずの守り袋を無くしたことに気づいたのは、夜になってからだった。 不二は、天井を見上げて頭を掻いた。庭仕事を手伝っていた時にでも落としたのだろうか。

 故郷を出た時から、肌身離さず持っていた。他の人間が見れば愚にもつかないものでも、不二にとっては大事なものだ。夜が明けたら、すぐに探しに行こう。

 しかし、朝早くから思いあたる場所を歩き回ってみても、守り袋は見あたらなかった。残るは、昨日柚宇に呼ばれた池のあたりだが、母屋に近いあの場所に、一人でのこのこ行けるわけがない。やれやれ‥‥。

 そうこうしているうちに、明星の世話をする時刻になった。不二はしかたなく厩に向かった。

 羽矢がやって来たので、明星を引き出した。挨拶して手綱を渡そうとすると、羽矢はぶっきらぼうに片手をつきだした。その手のひらに乗っているのは、藍色の小さな布袋だ。

 不二は目を見開いた。紛れもなく自分の守り袋。

「夕べ、庭先で拾った」

 羽矢は言った。

「伯母上が、不二のものだろうと言っていた」

「そう、そうです」

 不二は夢中でうなずき、幾度も頭を下げた。

「ありがとうございます。ずっと探していました」

「大切なものだったのか?」

「はい。お守りですから」

「お守り?」

 羽矢は、手の上で袋を軽く弾ませた。

「中味は、粉のようだが」

「砂ですよ」

「砂?」

「ええ。手白香島(たしらかじま)の。故郷の早波にある孤島です」

 羽矢は不思議そうにお守りと不二を見比べた。何か言いかけようとした時、明星が促すように鼻を鳴らした。

 羽矢は軽く肩をすくめて、明星の鬣を撫でた。そして守り袋を不二に差し出し、明星の手綱を取った。

 いつものように行ってしまった羽矢を見送りながら、不二は守り袋を大事に懐にしまい込んだ。

 羽矢と会話らしい会話をしたのは、これが初めてだ。これも、お守りのおかげかな。

 それとも‥‥。

 不二は首をかしげた。

 柚宇が、少しばかり力を貸してくれたのか?


               8


雨の多い季節になっていた。

 晴れ間のない空が幾日も続いた。更伎は都琉を従えて、変わらず琵琶の稽古にやって来たが、羽矢は遠乗りにも行けずに、自室に引きこもっていた。

 肌寒い日で、不二は都琉といっしょに詰め所にいた。雨音に交じって嫋々と聞こえる琵琶の音は、いつにも増して心に響いた。

 あいかわらず無口な都琉は、部屋の隅でじっとしている。不二も頭の後ろに手を組んで、うっとりと壁にもたれていた。静かで、このうえなく贅沢な時間。

「不二どの」

 戸口から、ふっくらとした顔立ちの少女が顔を覗かせた。母屋づきの侍女だ。

「羽矢さまがお呼びです」

「羽矢さまが?」

 不二は、驚いて繰り返した。都琉も、意外そうな顔を不二に向けた。不二は思わず彼の顔を見返し、しかし急いで立ち上がった。

侍女に連れられて向かった羽矢の部屋は、母屋の南角にある。羽矢は敷物の上に胡座をかいて、庭に降る雨を眺めていた。

 一瞬目にしたその横顔がひどく寂しげだったので、不二ははっと胸を突かれた。もっとも、すぐに不二に向けられた紫色の目は、いつもながらのきかん気そうなものだったが。

 不二は廊下に膝をついた。

「お呼びとのことで」

「雨にはうんざりだ」

 羽矢はむっつりと言った。

「退屈している。故郷の話でも聞かせてくれ」

 ほう。

 不二は目を見開いた。羽矢がこんなことを言い出すとは。ようやく側人として受け入れてもらえたれのかな。

 そこで、不二は一礼して室内に入った。

「早波がどこにあるか、ご存じですか?」

「大那の最南端と聞いた」

「ええ。海と山ばかりの土地です。わたしの家は岬の上にありまして、外に出ると細長く続く磯浜が見下ろせました。天気のいい昼間は、たいてい子供たちが貝や海藻採りをしていて賑やかでしたよ。波の音は昼夜問わず絶え間なく、そうですね、わたしは早波を離れてもしばらくは耳の奥に波の音が聞こえるような気がしました」

 不二は、懐かしい故郷を思い出した。

「ずっと向こうの水平線の上に、手白香島がぽつりと見えます。ちょうどこの夜彦山のように円錐形の美しい姿をしていて、沖に出た漁師たちが陸地に戻る目印になっています。古くからの海上の守り神。俗人が足を踏み入れることを許されぬ、聖地なんです」

「その聖地の砂を」

 羽矢は口をはさんだ。

「なぜおまえが持っているんだ?」

 憶えていたのか。不二は、ちょっと笑ってみせた。

「天香に来る前に、どうしても見ておきたいものがあって、一人で舟を出したんです。沖に向かってどこまでも漕ぎました。もう出会う舟もなく、島影も見えない。見渡す限り海と空のただ中に、わたしだけがいるんです。すこぶるいい気分で漂っているうちに、急に雲がかき曇り、嵐になってしまいました。わたしはあっけなく波に呑み込まれ、気がついた時には、舟といっしょに手白香の砂浜に打ち上げられていました。命拾いしたわけです。わたしは手白香への感謝を込めて、その砂を持ち帰りました」

「何が見たかったんだ?」

「水平線ですよ」

 羽矢は眉を上げた。

「いつでも見えただろうに」

「端のない水平線です。漁師たちからは聞いていました。ずっと遠くの沖では、水平線は一続きになって海をとりまいているのだと。その景色を一目見ておきたかったのです」

「そんなにしてまで?」

「はい」

 不二は、にっこりと笑った。

「海は、とてつもなく大きな水盤のようでしたよ」

「おかしなやつだな」

 羽矢はつぶやき、想像するかのように目を細めた。

「わたしは、本物の海を見たことがない」

「いずれ、ご覧になれるでしょう」

 そう、羽矢には時間がたっぷりある。

不二は懐から守り袋を出して、縫い目の端を少しほどいた。手のひらに、さらさらと砂をこぼしてみせる。

 砂はきめが細かく、一粒一粒が透明に近い白だった。遠い海の匂いを不二は感じた。手白香に打ち上げられていたのは夜だった。砂浜は、月の光を含んで銀色に輝くようだった。

 羽矢は、そっと手を伸ばした。

「触ってみてもいいか?」

「もちろんです」

 羽矢は感触を確かめるように指先で砂をつまんだ。

「綺麗なものだな」

「ええ。わたしもあれほど美しい砂浜は見たことがありません」

 不二はうなずいた。

「溺れたかいがありましたよ」

 羽矢はちらと笑みを浮かべた。意外にあどけなく、可愛らしい。はじめて見る羽矢の笑顔に、不二は少なからず満足した。

 いつごろからか、琵琶の音はやんでいた。不二が砂を守り袋に戻していると、廊下の曲がり角に静かな人影がさした。

 更伎だ。

 不二はあわてて羽矢から離れ、頭を下げた。更伎は、そのままで構わないといったしぐさをして微笑み、羽矢の部屋に入った。

「ひさしく会っていなかったのでね」

 にこやかに更伎は言った。

「羽矢の顔を見に来たよ」

「稽古は終わったのか?」

 眉を上げた羽矢の口調はぎこちなかった。あきらかにふいをつかれたらしい。

「いや、休憩だ」

「なら、少し横になった方がいい。顔色がよくないぞ」

「いつものことだ」

 更伎は微笑んだままだった。

 確かに、よく日焼けした羽矢と比べると、更伎の肌は病的なほど青白い。ほっそりとした指の先などは、骨が透けるかのようだ。

「もう少ししたら、大龍祭の曲を通しで弾くよ。初めて龍の琵琶をお借りする。月弓さまが助けてくださるが、うまくいくかどうか」

「大丈夫さ。伯父上は、いつもあなたを誉めているよ」

「月弓さまには、まだまだ追いつけなくてね」

 更伎は目を伏せ、軽くため息をついた。

「羽矢も聴きに来てくれるだろう?」

「うん。じゃあ、そうさせてもらう」

 羽矢を見つめる更伎のまなざしは、弟を見る兄のように優しげだ。少なくとも、更伎は羽矢を嫌ってはいない、と不二は思った。目をそらしているのは、羽矢の方だ。自分たちの違いに負い目を感じているのは、羽矢の方なのか。

 羽矢が下がっていいと言ったので、不二は二人の会話に興味を抱きながらも羽矢の部屋を後にした。

 詰め所に帰ったころから、雨は小止みになってきた。都瑠が動かない黒い影のように、奥の壁にもたれて座っている。

「更伎さまは、これから龍の琵琶をお弾きになるそうですよ」

 不二は声をかけた。

「どういうものなのですか? 龍の琵琶とは」

「〈龍〉の宝物です」

 低い声で都瑠は答えた。

「わたしは見たことがありませんが、漆黒に銀箔の龍が描かれた、この上なく美しい琵琶だそうです。琵琶自体に大きな呪力がこもっていて、それが認めた者でないと音を出さないとか。龍の琵琶弾きだけが、代々それを弾きこなすことができると聞いています」

「ほう」

 更伎が龍の琵琶を弾くことは、月弓の跡を継ぐ試験のようなものなのか。

 いつのまにか雨は止んでいた。夕方には空が明るんで、西の方によどんでいる雲が薄橙色の輝きを帯び始める。

 不二は廊下に出て、次第に色を濃くしていく夕焼けを眺めた。明日はめずらしく晴れそうだ。

 しばらく途絶えていた琵琶が、再び澄んだ音を響かせた。

 更伎が弾き始めたのだ。

 不二は耳を澄ました。何度も聞いていた曲だったが、今はどこか感じが違う。これが龍の琵琶の音なのだろうか。耳よりも、心の奥底が共鳴するような響き。

 都瑠が、いかにも安心したように息を吐き出した。それはそうだろう。龍の琵琶は、更伎を受け入れてくれたのだ。

 夕焼けは、琵琶の音とともにすばらしく美しい。

 琵琶の伸びやかな旋律はいっそう深みを増し、やがて荘厳なものに変わっていく。龍が巨大な身をくねらせ、いましも大空を飛翔する龍ような‥‥。

 と、不二は目をこらした。朱に染まって重なり合う雲の中に、何かの姿が見えたのだ。

 鳥?

 いや。

 不二は思わず声を上げた。

「龍だ」

 まぎれもなく龍だった。

 龍は長い尾を打ち振って、胴をくねらせた。枝分かれした二本の角が、逆光にくっきと浮かび上がった。

 天香では、年に何度か龍が現れると真崎が言っていたっけ。月弓の琵琶の音に呼び寄せられて、と須守も。

 しかし、不二にとっては初めて見る龍だ。興奮をおさえ、不二は龍に目をこらした。気流に乗って、悠然と飛翔する龍を。硬質の鱗は、金色に輝いていた。長いたてがみが、炎さながらに翻った。

 いつのまにか、都瑠が不二の側に立っていた。龍を見つめたまま、満足げな笑みを浮かべている。

「あなたは」

 不二は、ささやいた。

「何度かご覧になったことがあるのですね」

「はい」

 都瑠はうなずいた。

「ですが、これは更伎さまの‥‥。更伎さまがはじめて呼んだ龍なのです」

 だが、どこから現れるのだろう。

 ふと不二は考えた。この近くに、龍の棲む場所が残っているのか。それとも、龍の琵琶がつむぎ出す呪力が、時空を超えたどこからか龍を呼び寄せるのか。

 龍は、雲の上に昇りつめた。首をもたげ、咆哮するかのように口を開けた。空気を震わす深々とした声が、ここまでも聞こえてくるようだった。

 さらに高く、龍は舞い上がった。不二が見守り続けるうち、やがて藍色の空に見えなくなった。

 龍の曲も止んでいた。

 更伎が倒れたのは、その直後のことだという。


               9


「あまり根を詰めて稽古するからだ」

 怒ったように羽矢が言った。

「涼しい顔で無理をする。だから更伎は嫌いなんだ」

 だが、彼のことを心配しているのは確かなようだ。大事をとって泊まった更伎を、不二は翌日明星で送って行くように言いつかった。

 明星に乗った更伎の身体は、いっそう薄く、疲れて見えた。目ばかりが冴え冴えと輝いている。彼自身、昨日の琵琶に満足しているのだろう。だが、呪力がこもる龍の琵琶。それを弾くということが、どれほどの気力と体力を必要とするか、不二にも理解できたような気がした。

 来たとき同様、更伎の琵琶を恭しく抱えた都瑠が、明星を引く不二の道案内をしてくれた。

 更伎の屋敷は夜彦山の西の麓近くにあった。月弓の館よりも幾分小ぶりの門をくぐると、見覚えのある人物がいた。

「惟澄」

 更伎は微笑んだ。

「来ていたのか」

 惟澄は上衣に袴といった男装だった。動きやすい格好がお好みらしい。

「龍の琵琶を弾くと聞いていたから」

 惟澄は気遣わしげな目を更伎に向けた。

「夕べは帰れなかったそうじゃない」

「大丈夫だ。伯母上に大事をとらされただけでね」

 更伎は、明星から降りた。不二に向き直り、

「世話になった、不二。羽矢によろしく言っていてくれ」

 惟澄は眉を上げた。

 前もこんな顔をしたな、と不二は思った。羽矢の名前が出た時に。ほんのかすかだが、惟澄は表情を曇らせた。

 ちくりと、どこか痛むように。

 惟澄は不二を思い出したらしく、軽くうなずいてみせた。不二は頭を下げ、母屋の方に行く二人を見送った。

「なんとか弾けたよ、惟澄」

 更伎が言っていた。

「だが、まだだな。月弓さまには及びもつかない」

「焦ることはないわ」

「そうかな」

 最後に聞こえた更伎の言葉は、ほとんどささやきに近かった。

「時間がないんだ」


 羽矢の元に戻った不二は、無事更伎を送り届けたと報告した。

「惟澄さまがいらっしゃいました」

「惟澄か」

 羽矢は鼻先に皺をよせた。こちらは、分かりやすい反応だ。

 二人の間に何があるのだろう。

「このお館に来る前にも、一度お会いしたことがあります。みごとに弓を引かれていました」

「あいつも嫌いだ。いまでこそ大きな顔をしているが、昔はわたしより小さかった」

「昔?」

 羽矢は肩をすくめてそっぽを向いた。それ以上尋ねるのはやめて、不二は退散した。また側に近づけなくなったらかなわない。かわりに、夕食時に須守に聞いてみた。

「羽矢さまと惟澄さまは、昔はお親しかったのですか」

「親しいもなにも」

 須守は、不二に野菜汁を渡してくれながら言った。

「お二人は乳兄弟でございましたからね。惟澄さまのお母上が亡くなる六つの時まで、羽矢さまはほとんど向こうのお屋敷で過ごされておりましたよ」

「ほう」

「その後は、惟澄さまがよくこちらに見えられました。可愛らしいお姫さまでしたわねえ。更伎さまも琵琶のお稽古に通い始めたころで、三人ともとても仲がよろしくて」

 須守は、当時を懐かしむように目を細めた。

「あのころの羽矢さまは、惟澄さまのいいお兄さまのようでしたっけ」

 四五年ほど前から、二人が顔を合わせることはなくなったという。ちょうど成長期だな。不二は思った。自分たちの違いに気づき始め、お互い距離を置くようになったのか。

 共にすごした時間が長かったぶんだけ、葛藤はあったのだろう。羽矢が気難しくなったのは、そのころからかもしれない。

 更伎の館では、泉にも会った。

 惟澄と来ていた泉は、明星を引いて帰りかけた不二を呼びとめたのだ。

「羽矢さまのところにも、だいぶ慣れたようですわね」

 あいかわらずの人懐っこい笑顔で泉は言った。

「まあ、おかげさまで」

「先日、ちょっと里帰りした時に、真崎さまにお会いました。おかんむりでしたよ」

「へ?」

「あなたが夜彦山に登ったきり、音沙汰なしだって」

「ああ、なるほど」

 戻らないのは、恙無く勤めている証。多雅も叔母もそう思っているはずだった。だが、真崎にしてみれば、面白くないらしい。長くは続かないだろうと断言した不二が、まだ羽矢のもとに留まっているのだから。

 そろそろ、感謝の言葉でもかけて来るか。こうしてうまく勤めていけそうなのも、あなたのご助言のおかげです、と。

「おお、そうでしたな」

 不二が願い出ると、佐尽は何度も頷いた。

「気づかずにいて申し訳ありません。不二どのがお顔を見せれば、惣領もご安心なさるでしょう。いつでも行ってらっしゃいませ」


               10


 数日後、羽矢が遠乗りに出かけるのを見届けて、不二はふらりと夜彦山を降りた。

 多雅は政庁に出かけていていなかったが、叔母が喜んで迎えてくれた。

「真崎も心配していましたよ。あなたが、どんなお勤めをしているかって」

「ご挨拶してきましょう」

 部屋を訪ねると、真崎はふふんと笑って不二を迎えた。

「元気そうで何よりだな、従兄どの」

「はい」

 不二は、ぺこりと頭を下げた。

「ご無沙汰していました」

「まったくだ。羽矢さまと仲良くやっているようじゃないか」

「というわけでもないのですが。なんとか置いてもらっています」

「このまま勤め通していけそうか?」

「はあ、できれば」

「それは頼もしい」

 真崎は鷹揚に頷いた。

「従兄どのは貴重な存在だよ。同じ龍の一門でさえ、羽矢さまに近づく者は数少ない。羽矢さまが寄せつけないようでもあるが」

「そのようですね」

「羽矢さまのことは、今までよくわからなかった。たいていの〈龍〉には蛇の一門の側人がついていて、いろいろ情報が入って来るんだが」

「情報、ですか」

 不穏な響きだ。

「どんな?」

「たとえば」

 真崎は不二に顔を近づけた。

「いまの若い方々は、けして呪力を使わない、とか」

「呪力?」

 不二は眉を上げた。

「ここ二三十年、新世代が呪力を使うところを誰も見ていない」

「必要ないからでは」

 真崎は、ふんと笑いとばした。

「〈龍〉の権威を示したければ、使ってみせるのが当然だろう」

「まあ」

「新世代には」

 真崎は、不二の耳元にささやいた。

「もう、呪力がないかもしれない」

 不二は、はっと真崎を見つめた。

 真崎は、不敵な笑みを浮かべていた。

「寿命とて、五十年足らず。我々もより劣るということだ」

 不二は、静かに息を吐き出した。

 真崎は、不二の驚きを面白そうに眺め、

「羽矢さまは、どうだ」

「羽矢さまは普通の人間とは成長が違います」

 不二は、即座に首を振った。

「それだけでも呪力が働いているかと」

「確かにな」

 真崎は、軽く腕組みをした。

「羽矢さまは旧世代の子で、目に紫を持っている。だが、従兄どのは羽矢さまの呪力を見たことがあるか?」

「いえ」

「これから、よく観察していて欲しい。羽矢さまの呪力はどの程度のものか」

 不二はうなずくしかなかった。

「いずれ、〈龍〉は怖れるに足らないものになるだろう。旧世代がいなくなったら」

 真崎は真顔で言った。

「むろん、これは他の一門に知られてはならないことだ」

 それはそうだ。他の一門にとっても〈龍〉が特別のものではなくなるということだから。

 〈龍〉あっての〈蛇〉なのだ。蛇の一門が大那の権力を手中におさめているのは、〈龍〉の後ろ盾があってのこと。〈龍〉に力がないとわかれば、他の一門も黙っていまい。〈蛇〉を執権の座から追い落とし、取って代わろうとするかもしれない。〈龍〉までも滅ぼして、新しい大那の主を名乗ろうとする一門が現れるかも。

 戦乱の世がやって来る。

「〈龍〉にも〈蛇〉は必要だ。お互いうまくやらなければ」

 不二はもう一度頷いた。

 〈蛇〉がこの先ずっと大那を支配していくためには、今まで通り、絶対的な〈龍〉の後ろ盾が必要だ。

 〈龍〉の威光は守り通さなければならない。たとえ、それが空っぽのものであっても。

 いや、空っぽの方が、担ぐには楽に決まっている。

「今のところ、〈龍〉には伊薙さまがいる。旧世代もまだまだ生きるだろうが」

 真崎はにっと笑って不二を送り出した。

「状況はよく把握しておかなければ、な。何か気づいたことがあればすぐに教えてくれ、従兄どの。あなたが羽矢さまの側人になってくれて、まったく好都合だよ」


 〈龍〉は呪力をひけらかしたりしない。

 不二が体験した呪力は、柚宇がやんわりと示してくれたものだけだ。それは十分効果的だった。

 しかし、本当に若い〈龍〉たちは呪力を持たないのだろうか。まさか、羽矢までが?

 多雅の屋敷を後にしながら、不二は考えめぐらした。

 おもしろい時代に遭遇したとも思う。二千年続いた〈龍〉も、衰えの時を迎えている。

 これから先、どうなっていくのか。

 不二は、目を細めて夜彦山を見上げた。

 とりあえず、今のところは真崎の言う通り、〈龍〉たちをじっくりと観察することにしよう。彼らに何が起きようとしているのか、十分に見定めなくては。

不二は、帰路についた。

 そろそろ、羽矢が戻ってくるころだった。


               11


 いつもの朝、不二はなにげなく羽矢に声をかけた。

「お供しましょうか?」

「好きにすればいい」

 思いもしなかった言葉が、ぶっきらぼうに返ってきた。

 不二は喜んで、従者用の馬に鞍を置いた。

 拒まれないのをいいことに、それからはほとんど毎日、不二は羽矢の遠乗りに従った。

 羽矢の行く先は気まぐれだ。南かと思えば北、野山かと思えば河原、続けて同じ道を取ることはない。

 不二は、長い綱で杭に繋がれた子犬を連想した。周りを遮二無二駈けまわり、日が暮れると律儀に杭の側へ戻るのだ。

 羽矢の杭とは、龍の一門の血なのだろう。彼の父親は、綱を断ち切ってどこかへ行ってしまったのだが。

 その日の羽矢は、夜彦山の西に出た。政庁のある東側と比べると、家屋敷の数はずっと少ない。三つ四つの集落と耕作地を過ぎると雑木林が一面に広がり、なだらかな丘陵に続いている。

 馬は、丈の低い木々の中を一気に駈けぬけた。茂みの中の野兎が、驚いて跳び上がり、四方八方に逃げていく。

 まぶしい陽射しはもう夏のものだ。丘に入って木陰を求めた。涌き水があったので、二頭の馬を憩わせた。

 不二は汗をぬぐって一息ついた。

 羽矢は明星のかたわらで、冷たい水に両手をひたしている。顔を洗い、ぶるっと獣のように首を振った。

 不二はあわてて乾いた手拭を差し出した。

「水が気持ちいい季節になりましたね、羽矢さま」

「ああ」

 顔を拭きながら羽矢は言った。

「不二の故郷は南だ。ここより、ずっと暑くなるのだろう?」

「どうでしょう。海辺ですから、浜風が入りましてね。叔母などは、都の方が暑いと言っています」

「そうなのか」

「まあ、この夏を過ごしてみないと、わたしとしては何とも言えませんが」

 不二は目を細めて空を仰いだ。

「天香より夏が早く来るのは確かですね。わたしの弟たちは、もう海で泳ぎまわっているでしょうよ」

「不二には弟がいるのか」

「妹もいます」

 羽矢は、きょとんとした。

「何人兄弟なんだ?」

「兄と姉、弟と妹がひとりづつ」

「五人か」

 羽矢はあっけにとられたように言った。

「めずらしいな」

「故郷では、普通でしたよ」

 普通でないのは天香の方だ、と不二は思った。龍の一門は別にしても、都の子供の数は少なすぎる。真崎のような一人っ子は当たり前で、せいぜいが二人か三人きょうだい。

 地霊の少なさは、〈龍〉どころか天香に住む者すべてに影響を与えているのかもしれない。

 二人は、もう一度馬に乗ろうと歩みかけた。あたりの茂みにざわめきが走ったのはその時だ。

 けたたましい鳴き声と羽音をたてて鳥たちが一斉に飛び立った。

 明星が、警戒のいななきを上げた。

 羽矢と顔を見合わせる間もなく、叫び合うような人声が聞こえた。潅木を掻き分けて、一頭の鹿が二人の前に踊り出た。

 角の見事な雄鹿だ。背中に傷を負っているようで、毛並みにべっとりと血が張り付いている。

 痛みと恐怖で興奮した鹿の目には、何も映っていなかった。ただ、なんとかしてこの場を逃れたい一心だったのだろう。角を振り上げ、そのまま二人に突進してきた。

 不二は夢中で羽矢を庇った。彼を抱えるようにして鹿に背を向けた瞬間、右足に凄まじい痛みを覚えた。

「不二!」

 羽矢が叫んだ。

 鹿の角は、深々と不二の太ももに突き刺さっていた。鹿はとどめのように頭をひねって不二に激痛を与え、角を引き抜いた。そして身をひるがえし、茂みの中に走り去った。

 不二は、羽矢にささえられたまま倒れ込んだ。脈打つたび、足から血が吹き出すのが分かった。

「おい!」

「大丈夫か!」

 羽矢ではない、別の声がいくつか聞こえた。

朔乃(さくの)、おまえたちの仕業か」

 羽矢が怒っている。

「すまない。仕留めそこなったんだ。まさかここにあなた方がいたとは」

 かろうじて意識が留まり、不二はうっすらと目を開けた。見知らぬ狩装束の青年が四人ほど、自分の周りを取り囲んでいる。瞳の色は黒かったが、明らかに龍の一門を思わせる風貌だ。

「傷口を塞がなくては。羽矢」

 朔乃は、不二の横にかがみ込んでいる羽矢に首をめぐらし、ゆっくりと言った。

「あなたの呪力でなんとか」

 羽矢は、一瞬顔を強ばらせた。

「いえ」

声をふりしぼって不二は言った。

「羽矢さまのお手を煩わすなど‥‥。羽矢さま‥‥どうか、ご心配なく」

 しかし、もう起き上がることもできなかった。

 身体の力はすべて抜け、不二は完全に気を失っていた。


               12


 うつらうつらと夢を見た。

 故郷の家族や羽矢や真崎が、とりとめもなく現れては消えていった。

 二年前に亡くなった祖母が、懐かしい顔で微笑みかけてきた時には、自分もついに死んだのだと思った。

 まったく。これで幕切れとは情けない。天香の夏を過ごすこともなく、鹿に突かれて終わりとは。鹿ならば、故郷の早波にも山ほどいたぞ‥‥。

 しかし祖母は静かに背を向け、靄の中に歩み去った。

 はっきりと目覚めたのは朝日の中で、見慣れた自室の床にいた。

 右足の痛みは、うそのように消えていた。手でまさぐってみると、傷口に乾いた布が巻かれてある。ためしに動かしてみたが、いくらか強ばっているだけで、すぐにでも歩けそうだ。

「あらまあ」

 戸が開いて、須守が顔をのぞかせた。

「お目が覚めましたか」

 須守は、起き上がりかけた不二をあわてて床に押し戻した。

「ご無理なさらないで。命取りになりかねない出血だったそうですよ。しばらくは静かに休んでいるようにと、奥様が申されています」

「柚宇さまが?」

「羽矢さまのお頼みで、奥様がじきじきに治して下さったのですよ。羽矢さまは、たいそう心配なさっていました。なにしろ、不二どのがここに運び込まれた時には、真っ青で、息も絶え絶え‥‥」

「覚えていません。面目ない」

「いいえ、本当にようございました。何かお口に入れるものをもってきましょうね。血を作るには、食べるのが一番ですからね」

 須守は、そそくさと出ていった。

 助かったのは、呪力のおかげか。

 不二はふうと息を吐き出した。

 あの時、あの若い〈龍〉たちも羽矢も、呪力を使おうとはしなかった。

 朔乃の顔を思い出した。呪力を使ってくれと羽矢に言った時の、勝ち誇ったようなまなざしを。

 鹿が飛び出して来たのは偶然だったのだろう。しかし、それを機に、彼らは羽矢に呪力があるのかどうか、試そうとしたのだ。

 羽矢は、明らかにためらっていた。

 なんて正直なんだ。

 不二は、ため息をついた。

 あれでは、誰でも分ってしまう。

 羽矢は、呪力を持っていない、と。

 そして、おそらく新世代も。彼らは羽矢が自分たちと同じであることを確かめ、溜飲を下げたことだろう。 

 また人の気配がしたので、不二は目を開いた。

 当の羽矢が、むっつりと、怒ったような顔で立っている。

「羽矢さま」

 不二は身を起こして、微笑んだ。

「申し訳ありません。ご迷惑をかけてしまいました」

「いや」

 羽矢は不二の枕元に座り込んで頭をたれた。

「すまなかった」

「何をおっしゃいます」

「傷は塞がったが、右足に不自由は残るそうだ。叔母上が言っていた」

「‥‥そうですか」

 不二は、羽矢の言葉を自分の中で受け入れた。

「ですが、命を助けて頂きました。それだけでありがたいです」

「もう少し手当てが早ければ、こんなことにはならなかった。わたしに、呪力さえあれば‥‥」

「羽矢さま」

 不二は、低い声で遮った。羽矢は首を振った。

「本当のことだ。すまない。それだけだ」

 粥を持って来た須守と入れ違いに、羽矢は部屋を出ていった

 羽矢の潤んだ紫色の瞳が、いつまでも不二の脳裏に残った。

 不二は、はじめて羽矢が愛しいと感じた。身分の違いがなかったら、弟のように抱きしめてやりたいところだ。

 困ったことになったな。

 不二は苦笑した。

 自分が見たいのは、時代の変化だ。何かが始まりつつあるというのに、これ以上羽矢に情が移ってしまっては、冷静な傍観者ではいられなくなるではないか。


               13


久々の太陽のまぶしさに目を瞬きながら、不二は外に出た。

 季節は、すっかり夏の盛りだ。

 須守がせっせと作ってくれた滋養たっぷりの食事のおかげで、身体のふらつきは、すっかりとれていた。右足の強ばりだけは治らなかったが、こればかりは一生の付き合いと諦めるしかないらしい。少しばかり悲しい思いで、不二は自分に言い聞かせた。

 しかし、足をひきずりながらも杖なしで歩けたし、馬にも乗れそうだ。羽矢の側人を務めるには支障ない。

 だいたい、こうなったからには、羽矢は自分を離すまい。羽矢は不二の怪我に責任を感じているはずだから。

 厩に足を向けると、明星が嬉しそうに鼻面を擦りつけてきた。

「よしよし、おまえは可愛いな」

 明星とじゃれあいながらその身体を拭いてやる。ほどなく、羽矢がやって来た。まじまじと不二を見つめ、

「大丈夫なのか、不二」

「ひと月も休ませて頂きました。もう、すっかり良くなりましたよ、羽矢さま」

「無理するな」

「ご心配なく」

 不二は笑ってみせた。

「お供もできます」

 羽矢は明星のたてがみを撫で、つられたように微笑んだ。

「では、伯父上をお見送りしてから出かけるか」

「月弓さまが、お出かけですか」

 めずらしいことだ。不二がここに来てから初めてではないか。

「霊鎮めの琵琶を弾きに」

 羽矢は、目を伏せた。

「惟澄の父君が、夕べ亡くなったんだ」

「それはそれは‥‥」

 不二は眉根を寄せ、頭を垂れた。惟澄の父親なら、まだ五十にも満たないにちがいない。だが、これが〈龍〉の新世代の寿命なのだ。

 儀礼に則って、惟澄の館から迎えの使者が訪れた。白装束の四人の男が担ぐ輿が用意された。細かな蒔絵が施された、天蓋付きの輿だ。厚い織物が掛けられた長櫃が後ろに続く。龍の琵琶が入っているのだろう、運び手の二人の少年が、恭しく脇に控えていた。

 輿に乗り込む月弓も、館の正門まで見送りに出た柚宇も、美しい顔を翳らせていた。

 だだの人間でさえ、年下の者の死は痛々しい。月弓たちはこうした死を、どれほど沢山見てきたのか、と不二は思った。旧世代も旧世代なりの辛さを抱えている。

 羽矢と共に母屋へ入りかけた柚宇の後ろ姿に、不二は遠くの方から深々と頭を下げた。自分がこうして生きているのは、とにもかくにも彼女のおかげだ。

 振り向きはしなかったが、ほんの一瞬、柚宇は温かな思念で答えてくれた。いたわりと同情、そして信頼。

 不二は満足した。

 この右足の怪我は、けして無駄にはならないだろう。


 昼過ぎに、不二は羽矢について館を出た。

 羽矢は、夜彦山の北側に、ゆっくり馬を進めた。こちらには〈龍〉の館も建っておらず、うっそうと木々が茂っている。四方から蝉の鳴き声が聞こえたが、木陰が多く、暑さは感じられなかった。

 羽矢がふと明星を止め、空を見上げた。

 高い木の間から見える空に、飛翔するものの姿が見えた。こんどは不二もすぐにわかった。

「龍、ですね」

「伯父上が霊鎮めの琵琶を弾いている」

「龍は、琵琶に呼び寄せられるのですか?」

「いや、あれは幻だ」

 羽矢は、あっさりと言った。

「伯父上の弾く曲は、幻を見せる」

「しかし、琵琶の音など聞こえません」

「龍の琵琶の音は遠くまでとどく。音として聞こえなくなっても」

「呪力」

 不二はつぶやいた。

「では、先日‥‥更伎さまが龍の琵琶をお弾きになった時に現れた龍も、幻なのですか」

 羽矢は頷き、薄く笑った。

「わたしは、本物の龍など見たことが無い」

 不二は、細く息を吐き出した。

 これで疑問が解けた。

 龍が生きるためには、膨大な地霊が必要だ。不二の故郷でさえ、龍が見られなくなってから何十年も経っている。天香は、おそらく大那のどこよりも地霊の衰えている場所なのに、この空にだけ龍が現れるのは、あまりに不自然だと思っていたが。

 龍の琵琶は生きた龍を呼び出すのではない。その音が幻を作り出すにすぎないというわけか。

 確かに、人々を惹きつけるのは、はっきりと目に見えるものだ。龍を目にした人々は〈龍〉を畏怖し、崇拝の心を新たにするだろう。

 龍の一門が大那に君臨し続けるために、龍は翔ばなければならないのだ。

 幻であろうと、天香の空に。

「形だけだ。わたしと同じさ」

「何をおっしゃいます」

 不二は、どきりとして首を振った。

「羽矢さまは、ちゃんとそこにいらっしゃいます」

「そうかな」

 羽矢はため息まじりにつぶやいた。

 不二は何も言えず、もう一度空を見やった。

 龍は消えていた。

 羽矢には、少なからず同情する。〈龍〉の証である紫色の瞳を持ちながら、呪力を持たない。旧世代にも、新世代にも属せない中途半端な存在。おそらく羽矢は、自分が生まれた理由を探しあぐねているのだろう。

羽矢は無言で明星を歩ませ、見晴らしのいい峠に出た。

眼下遠くに、山道が続いていた。羽矢は明星から降り、しばらくの間、何かを待つようにじっとしていた。

 やがて、緑濃い木々の中を静かに歩んで行く、白装束の一団が見えた。墓所に向かう葬列だ。棺の後ろに、白い裳裾をつけた惟澄の姿があった。

 不二は、羽矢を見やった。羽矢は、深々と頭を垂れていた。

 羽矢は幼いころ、惟澄の館で過ごしたという。世話になった惟澄の父を、ここでひっそりと見送っているわけか。

 羽矢の孤独が、痛いほど感じられた。本当ならば惟澄の元に行って悲しみを分かち合いたいところだろうが、羽矢に何が言えるだろう。羽矢には、彼らの数倍もの時間が許されているのだ。

 惟澄がふと立ち止まり、こちらを見上げた。

 とまどったような羽矢と視線が合う。

 惟澄は静かに一礼し、再び歩き出した。

「不二」

 葬列が見えなくなると、羽矢は言った。

「はい?」

「わたしが天香を出る時は、いっしょについてきてくれるか?」

 不二は目を見開いた。

「どこに行かれます?」

「まず海を見てみたい。それから後は、また考える」

「気の向くままですか」

 羽矢は、ちょっと笑みを浮かべた。

「そうだな。気の向くままだ」

 父親のように、羽矢もようやく鎖を断ち切る決心がついたわけか。

 不二は考えた。

 羽矢がいなければ、〈龍〉の主流はやがて新世代のものになる。だが、旧世代が死に絶えて彼らの後ろ盾が無くなった時、呪力がなく寿命の短い新世代が、大那でどこまで力を保っていけるというのか。

 天香に飛来する龍は、琵琶が見せる幻だった。夜彦山の頂で大那を守護しているという伊薙にしても、〈龍〉を権威づけるための方便ではないかと思えてくる。

 やがて人々がそれに気づき始めた時、〈龍〉を担ぎ上げている蛇の一門の立場もあやういものになるだろう。他の野心ある一門は、黙って天香を見ていまい。

 自分に身体が二つあればな、と不二は思った。

 一つは羽矢と共に行く。大那の見たことの無い地を経巡り、あと三四十年、人としての時間が終わって息絶える時には、羽矢も涙してくれるだろう。悪くは無い人生だ。

 もう一つは、天香に残って〈龍〉の行く末を見届ける。大きな時代の変化は、いつやって来るのだろう。できるなら、それに立ち会いたい。都に来た甲斐があるというものだ。

 どちらにしようか。

 不二は、心の中で肩をすくめた。

 しかし、今はとりあえず‥‥。

 不二が口を開き駆けたとき、突然、羽矢が何かを感じたかのように後ろを振り返った。

 不二は、その視線を追った。

 茂みの中に、一人の男が立っていた。

 ぴくりとも動かずに、羽矢を見つめている。

 日焼けした顔はやつれ、乱れた髪は色あせたような灰色だった。旅嚢を背負い、薄汚れた柿色の筒袖。その左手は、だらりと垂れたままだった。肘から先が、失われている。

 だが、不二の目を奪ったのは、男の左手ではなく、双の瞳だった。

 はっとするほど明るい〈龍〉の紫。

 羽矢は食い入るように男を見返し、つぶやいた。

「父上?」



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