プロローグ:日常を忘れるため
『 日常という言葉がある。
それは普段おきている、認識している事の総称とも言える。
例えば都会の喧騒。多くの人間が一つの場所に集まれば騒がしくなり、
密度が高まり気温は上昇する。
生きていればわかる、当たり前のことだろう。
もっと簡単な例を出すならば…そうだね、「物は下に落ちる」という
のはわかりやすいか。
人間は重力の働きをいつの間にか理解し、物は下に落ちていくのだと
理解する。そんなことは論ずるまでもなく当たり前だろう?
そう、当たり前の事なのだ。
我々はそういった共通認識、日常の中生きている。
そして我々はその日常から逃げたがる。
とあるホテルでは部屋にTVがないという。携帯もフロントで預かる。
理由は「現実から離れてもらうため」だ。
都会の喧噪、仕事や家業、日常で感じている事は一切遮断する事で、
より上質な癒しを感じてもらうためだ。
また無重力体験など、日常ならば感じる事が出来ないような感覚に、
我々は感動を覚える。
人間は日常を捨て、「非日常」を求める。
理由は簡単だ。日常に飽き、辛さを感じ、疲れ、逃げるためだ。
しかし「非日常」的な感覚、力を目にした人間はそれを日常的なことと
認識しようとする。
手品を見た事があるだろう。最初は非現実的な力を見て感動と興奮を
覚えるが、すぐにタネを考え、仕掛けを知りたがる。せっかく見つけた
非現実的な現象を、人間はすぐに日常の範疇に入れようとする。
そうしてまた現実へと戻る。
一生続く非日常などこの世には存在しないのだ。
もし、今の科学で証明できない非日常ができれば、どうなってしまうの
だろう。
それは… 』
キーンコーンカーンコーン
「おや、授業が終わってしまった。無駄話をし過ぎたね。今日はこれくらいにしよう。えー次回は今日の続きを…」
自分が嫌いだった。
勉強は出来ないし、運動もダメ。何の取り柄もない。
特技記入欄は未だに『特になし』。
親に無理矢理行かされた大学も最近はサボり気味。
特に趣味もなく休日も何かに追われるよう過ごす。
将来の夢も否定され、どこに向かって行けばいいのかわからずに
日常を生きる。
もう疲れた。
生きなきゃダメなの?どうしたらいいのかもをわからないのに。
そんな言い訳を繰り返した。
気がつけばカンカンという音がする。
いつの間にか階段を上がっていたようだ。
見覚えのある景色が目の前に広がる。見てきた中で一番好きな景色だ。
ああ、この場所でなら…
柵に手をかける。
もしまた生き返れるなら、非日常がずっと続く、日常を忘れられる
そんな人生を送りたい