新空蘭国
ちょっと長いです。
十羅と名乗った不思議な少年を連れて、紗飛羅はアグルを走らせた。
一頭のアグルが倒れないように途中で幾度か休憩しながらも、強行したおかげで二日後の夕方に空蘭国に辿り着いた。アグルは完全に疲労困憊の状態だ。普通はこんな状態に強いることはないので、紗飛羅はねぎらいと感謝をこめてアグルのごわごわとした首の毛を数度撫でた。厩舎に戻ったらたっぷりと餌と水を与えなければならない。
十羅は自分で言った通り本当に暑さに弱いらしい。熱に当てられぐったりとしていた。
紗飛羅が到着を告げると、跳び起きた十羅はすぐにいぶかしげな顔をした。
「……どこに?」
「ほら、あそこだ。黒い煉瓦の壁が見えるだろう。この丘を越えれば都全体が見える」
紗飛羅が指さしたのは、右の方向。砂の丘の向こうに横に伸びた黒い塊だ。
「黒い煉瓦だって?」
紗飛羅の言う空蘭国に近づくごとに、十羅の顔がはっきりと強張っていった。
砂の丘を登り切ると、そこから空蘭国の都の全体が見て取れた。都を外敵から守るように黒い壁が都全体を囲い、その中の建物は空蘭国の象徴である白。都の中央にある最も大きな宮殿に向かって整備された太い道が伸びている。
「空蘭国に着いたぞ」
紗飛羅の目の前で金色の髪が左右に揺れた。
「これのどこが空蘭国なんだよ。砂漠の色だって変わってないじゃないか」
紗飛羅は目を剥いて少年を見た。
「こんなことで嘘つくかよ。これが新空蘭国。この国を治めている王がコライだ」
この地に住んでいるのに空蘭国を知らないわけがないだろう、と紗飛羅が続けると、振り返った十羅は茫然とした様子で呟いた。
「…しん、空蘭国? コライだって…?」
「ああそうだ。空蘭国は百年ほど前に他国から侵略されてここに移ったんだ。前の都もまだあるけど、あっちに住んでるのは新都に移らなかった連中の末裔ばかり。今じゃ行くのはクルギ目当ての商人くらいだ。紛らわしいってんで、昔の都を旧空蘭国、新しい都を新空蘭国って呼んでいるのさ。ま、もっと簡単に古都、新都って言う方が多いけどな。…このぐらい、知ってるだろ?」
「え…、え? ちょっと待って。百年前? 空蘭国が侵略された? そんな、まさか……」
振り返った十羅の声が震え、隠しようもない動揺で緑の目が揺れている。
紗飛羅は先ほどから胸騒ぎを覚えていた。この空蘭国の歴史は誰もが知っている話だ。それは四瑞国の人間であれば、誰でも聞けば答えられる。
緑の目の少年は空蘭国に行きたいと言った。それなのに目の前にある空蘭国を知らないという。
「…砂漠の色って言ったな。もしかして赤砂の砂漠のことか?」
新都からさらに西へ行くと、砂漠の色ががらりと変わる。くすんだ黄色から炎ような赤へと砂の色が変わり、次第に砂漠から険しい岩の谷が増える。黄砂のラムカトナ砂漠を凌駕する暑さとその色から赤砂の砂漠、その奥に広がるキャクラマン渓谷はその過酷は環境から別名、灼熱谷と呼ばれていた。
人の住めるような気候でないその場所に、旧空蘭国はある。
命を脅かされながら赤砂の砂漠を乗り越えてきた者たちは、誰もがそろって幻を見たと言う。砂漠の中に鬱蒼と生い茂る森があり、その中にそびえる赤い崖の上に白い都が建っているのだ。
オアシスとは比較にならないほど巨大な森など砂漠にあるはずがない。砂漠の熱にやられて幻覚を見ているのだと思った旅人たちは、その地を『幻の白の都』と呼び伝えた。
今は赤砂の砂漠ではなくラムカトナ砂漠にあるため、他国との交易が比較的多いが、旧空蘭国が侵略される前は、同じ四瑞国の人々からでさえ、存在を疑われていたという。
「…ラムカトナ砂漠からたった二日で行けるはずがない。どんなに飛ばしたって八日はかかるんだ。こんなところに都があるはずがない…。じゃあ、これはなんなんだよ……」
十羅は虚ろな声と表情で独り言のように呟いて黙ってしまった。
紗飛羅には何の事だかわからない。口を開きかけ、しかし十羅の尋常でない様子に何度も口を閉じてしまう。
「……一つ聞きたいんだけど、もしかしてその旧空蘭国って、クルギの森に囲まれた赤い崖の上にある都?」
長い沈黙のすえ、十羅は恐ろしいほど静かに尋ねてきた。
「ああ」
「…そ、か…。…ごめん。間違えたみたいだ。おれが行きたかったのは旧空蘭国のほうだ」
やっと出た声に、紗飛羅は目を見張った。とても十二、三才の子供の口から出たとは思えないほど深く暗い、絶望の声だった。金色の髪が揺れる肩が、泣いているように見えた。一気に老けこんで見えたのは、見間違えではないように思えた。
「……旧空蘭国まで案内しようか?」
声をかけるだけでは不安で、紗飛羅はそっと尋ねた。
「ううん、いい」
心配していたよりも、力強い声が返ってきた。
「ここまで連れてきてくれたんだもん。あとは自分でなんとかする」
黒い壁に囲まれた新空蘭国を、十羅は思いつめた表情で見つめている。
「でも、…ちょっと新空蘭国がどんな国なのか見てみたいんだけど、いいかな?」
「ああ。どっちにしろ、アグルも食料やなんかもここで調達しなきゃ、他で補給できる場所なんてないからな」
何かを言わなくてはと思いながら、結局、紗飛羅には思いつけなかった。
丘を下りて紗飛羅が向かったのは、長方形の形をした黒い壁の三か所に設けられた門だ。門を過ぎると、そこにはたくさんの店が立ち並んでいる。店の数以上に多いのが人だった。賑やかで、あちこちで威勢のいい掛け声や商談の話が聞こえてくる。
町行く人々の多くが黒髪黒目だ。だが、巡回し行き交う人々を鋭く見つめる戦士や商人には、赤い髪の者の方が多い。
大通りを歩いていた二人だったが、左右を見回していた十羅が急に進む方向を変えた。
「おい、ソラ。そっちにはなにもないぞ」
紗飛羅の制止の声は無視された。なにか気になる物が目に入ったらしい。
ずんずんと進んで大通りから細い路地へ入った途端、大通りの喧噪が嘘のように静まり返った。人もいなければ家畜もいない。ただかろうじて家と呼べる建物が雑然と並び、公共の井戸がぽつねんとある。のぞいてみると、両手ですくい上げる程の水がかすかにあるだけだ。
路地をさらに進んでいくと、建物の壁によりかかった小さな子供と老人がいた。二人とも粗末な服を着ていて、何日も身をきれいにしていないとわかる風体だ。
十羅は老人の前に膝を折った。
「おじいちゃん。ここで何をしているのですか?」
顔も上げず、老人は疲れたように言った。
「なにも…。することも、しなければならんこともない。ただ、死を待っているだけじゃ」
そう言って、隣に座る子供を引き寄せた。
「その子は…」
十羅の顔が歪んだ。
老人乾いた声で、咳き込むような声を出した。
「昨日の朝、天女セレィヤに導かれて天帝リジュ・ルドラの下に召された。じゃが、わしらには金がない。死ねば町の外に打ち捨てられるだけ。墓さえもない。娘夫婦は先に死に、たった一人の孫すら守れなかった。わしは鬼女ルミィヌに連れられ、冥王バルハシュの前に引き立てられるに違いない。…お若いの。あまりこんなところにおらんほうがええ。悪い病をもらってしまうよ」
しかし十羅は首を振って答えた。
「おじいちゃん。おれは目をそらすことは許されないんです。おれが、許さないんです」
老人が初めて顔をあげた。
「ほ、ほ。お若いのに、ずいぶんと覚悟をなさった目をしとる。この国の王も、少しはそういう目ができればよいのじゃが。民を思う心を持つお方じゃて、悪いお人ではないんじゃが、民を救う力がない。……ひどいもんじゃ。若いも老いも関係ない。ここでは弱い者が死んでゆく」
「なぜ…、いつからこのようになったのですか」
老人は目を開いているのかもわからないほど細めた。
「ここは絶望の中で新しい世界を夢見た者たちの都じゃ。わしら子孫は夢を失った。白の都に留まった者たちの言葉がようわかる。偽王に従ったとて、富も平和も夢さえもありはしない。お若いの、見えるかね? ここが東に栄し白の都と」
「いいえ。でもおれは知っています。かつてこの国は平和に包まれ、人々はみな幸せに生きていました」
「ああ、一度でもいいから、見てみたいのう…」
それきり、老人は口を閉ざした。
アグルを連れた紗飛羅は、いつまでも老人の前に座る十羅の背中を見ていた。
「ソラ」
十羅が立ち上がり、振り返る。その顔に悲しみはない。
「シャトラ、この国の王は、どこにいる?」
その顔は一見普通に見えた。その声も落ち着いたものだ。いや、落ち着きすぎている。
そりゃあ宮殿に、と言いかけた紗飛羅は、十羅の目を見て続きを言うのを止めた。
「聞いてどうするんだ」
十羅の目は一番高く白い建物をまっすぐに見つめている。かと思いきや、ものすごい勢いで歩き出した。それはもう、道行く人が立ち止まってしまうほどの勢いだ。声をかけようとした紗飛羅が手を出せないほど、十羅の気迫が変わっていた。
十羅は怒っていた。それはもう、完璧に怒っていた。
宮殿の前には戦士が並んでいる。怪しい者は通さんと、通行人に睨みを利かせていたが、全員が全員、十羅の気迫に押されて一歩も前に出られず、手にした武器も出せなかった。
そんな調子でずんずんと宮殿の奥へと突き進む。
宮殿に使える女官や高官たちが立ちすくんでいるのも目に入らない様子だ。
「ねえ、新空蘭国の王様はどこにいるのかな?」
十羅は召使いの男を呼びとめた。
言葉は丁寧だが、召使いは十羅の迫力に怯えてしまい、答えようとしない。十羅がもう一度尋ねると、しどろもどろになりながら返事を返した。
そして再びずんずんと突き進む。
ようやくその足を止めたとき、十羅の目の前には、豪奢な衣装を着た男が贅の限りを尽くしたような立派な椅子に座っていた。
「おまえがこの新しい空蘭国の王か」
十羅は静かな声を出した。
「何だこの者は。つまみだせ」
うるさそうに、十羅を汚らわしいものでも見るような目つきで見たのは、十羅が見据えている男ではなく、そばに控える男だ。
「おれは、おまえに、聞いてるんだ! 答えろ!!」
気迫だけではない。声そのものにも力があった。
追いついた紗飛羅は、唖然としてその小さな背中を見ていた。開け放たれた扉の向こうに並ぶ人々を見て、慌てて扉の影に隠れる。
一瞬にしてしんと静まりかえった場を打つように、十羅の声は響いた。
「どうしてこの国の民は幸せじゃない? なんで、家も財産もなく路上で野たれ死ぬ人たちがいるんだ? おまえは王だろう。いったいそこで何をしている。豪華な椅子にふんぞり返ってるだけか? 自分だけ贅沢できればいいとでも思ってるのか?! おまえは王としてしなければならないことをなに一つしてないじゃないか!!」
始めは唖然としていた側近たちが、青筋を立てて次々と立ち上がった。
「貴様、黙っていればなんという暴言! ここにおられる方は空蘭国の王、コライ様ぞ! 兵
たちよ、この曲者を即刻捕らえよ!」
「うるさい。関係ないやつは黙ってろ」
十羅の冷え冷えとした声と、鮮烈な緑の瞳には、どこまでも相手を押さえつける力があった。
その声と一睨みの下に、側近たちは次に出す言葉を失ってしまった。
「それと、もう一つおまえに聞きたいことがある」
おまえ呼ばわりされた新空蘭国の王は、豪奢な椅子の上で威厳というものを忘れてしまったかのように小さく縮こまっていた。
「瑞獣はどうした?」
王にも側近たちにも動揺が走った。側近たちは互いに目を合わせ、それらは否が応でも王に向けられる。その視線に耐え切れないのか、王はますます首をすくめて、誰とも目を合わせようとはしない。
側近の一人が叫んだ。
「な、なにが瑞獣か! 瑞獣など想像上の生物に過ぎん!」
しかしその声にはどこか力が欠けている。
十羅が視線を滑らせる。その途端に、部屋は静寂に包まれた。
「四瑞国では瑞獣に認められてはじめて王になれる。認められなければ、瑞獣は国を守護しない。すなわち、天帝に見捨てられた国となる。四瑞国が一、空蘭国の王を名乗るなら、もちろん瑞獣に認められてここにいるんだな? 代々空蘭国の王のみに継承される使命を知り、己が命を懸けて全うしているんだな? 天意を問うて、都を移したんだな?!」
憤怒という言葉では到底及びもしない視線で、十羅は王と側近たちを見回した。
「一つだけ忠告しておいてやる。天帝リジュ・ルドラと冥王バルハシュに認められない王は国を滅ぼし、瑞獣に守護されない国が辿るのは滅亡だけ。国だけじゃない。四瑞国が、このアーシェア=ラースに生きるすべての命が滅ぶ。王となった以上は民と瑞獣に対して責任を持て。この国はおまえのおもちゃでも食いぶちでもない。…いいか、これ以上おれの国を荒らしてみろ。そこから蹴り落としてこの宮殿ごとぶっつぶしてやる」
誰もが鋭く息を飲み込んだ。
一国の頂点に立つ王に対するにはあり得ないほど、敬意の欠片もなく恐ろしく伝法的な命令口調だった。いまだかつて王に向かってこれほどの暴言を吐いた者はいない。
その限度を超えた態度に、王も側近たちでさえも、取るべき行動を思いつくことができないでいた。
一方的に言い放って、十羅は背を向けて早足で宮殿を出て行ってしまった。周囲の反応を気にも留めない。
そんな十羅を見送った紗飛羅は、一度部屋の中を、その中心にいる哀れなほど痩せこけた男をしばし見つめ、その場を静かに離れた。
闖入者が出て行った後、騒然となった場を鎮めたのは国王ではなく、国王の傍に控えていた若い男だった。袖の短い衣装といい褪せた金の髪と目といい、一目で空蘭国の人間ではないことがわかる。
「あれほど威勢のいい子供は初めて見ましたよ。なかなかいるものではありませんね。…そう、あれほど身の程知らずな子供は」
感心するような口調で口には笑みさえ浮かんでいるが、その目は少しも笑っていない。
「そ、そうだな。マニルタ殿……」
コライは弱弱しい声で頷いた。
「罪名などいくらでもありましょう。半年後には本国から特別編成された軍が到着します。それまでには捕縛しなさい。ああ、もちろん生け捕りにしていただけるのでしょうね? 何が罪か若いうちにきちんと教えておかなければなりませんから。後悔をその身に刻んで死ねば私の溜飲も下がるというものです」
国王に対する男の口調も、敬語という形はとっているものの、敬意も何もない。むしろ侮蔑さえ感じられる。
新空蘭国の国王は男の視線から逃れるように、騒然とする廊下をただひたすら見ていた。
そんな国王を睥睨し、異国の男は開け放たれた廊下へ目をやった。
「空蘭国王にのみ継承される使命…。なかなか興味深いことを言っていましたね。…捕らえ、尋問するのも一興、ですか……」
その呟きは、誰にも聞こえないほど小さなものだった。
宮殿なのに警備がザル?
いえいえそんなことありません。みんな暑すぎてダレてるんです。きっと。
ソラが般若の形相だったからとかじゃありません。
ソラくんは愛嬌命。