その3
二人がギヤへ戻ってくると、最初に階段に座っていたモヒカンの男がこちらへ走り寄ってきた。
「いたいた、探したよ!」
そう言うが早いか、彼はシンとアイヴィーの腕を引っ張った。
「早く早く、みんな待ってるから!」
「えっ?」
不意を突かれて棒立ちになった二人を、モヒカンと何人かのパンクスが四方から取り囲んでフロアの方へ向かわせる。
「ちょっと待てちょっと、いったい何なんだ?」
シンがやや強い口調で言った。昔の彼だったらとっくに手が出ていた場面だけど、今はただ戸惑っている。
「決まってるでしょ、ライヴだよライヴ!」
「へっ?」
二人から間抜けな声がシンクロする。
「だって、せっかくアイヴィーが来てるんじゃん。“ズギューン!”が今夜ライヴやらないで、一体どうすんの!」
「いや、それは…。」
「みんな言ってるよ、“ズギューン!”のライヴ観ないと終われないって。もう時間がないからさ、さあ早く!」
彼らはそれ以上有無を言わさず、二人を楽屋へ連れ込んだ。
記憶の中の楽屋と同じ。
一面にパスが貼られた冷蔵庫と整理棚。真ん中に汚い机とパイプ椅子。そこかしこに出演者の機材や衣装が乱雑に置かれ、汗とヤニの匂い。
そのパイプ椅子に後ろ向きに座って、よくお喋りしてたよね。そんなアイヴィーの感慨は一瞬で吹き飛んだ。確かに、これでステージに上がれたらもう何も言うことはない。そう思ってるけど…。
「ちょっと待ってよ。ライヴって言ったって、アタシは一人だよ。他にメンバー誰も来てないんだから。」
「ギタリストなら、そこにいるだろ。」
モヒカンはそう言うと、シンを指さした。
「お、俺?」
シンが呆気にとられた声を出す。
「“ズギューン!”の曲、弾けるでしょ?」
「そりゃ、まあな…。」
「あっ、それはない!アンタたちは知らないと思うけど、シンはね…。」
そう。シンはアイヴィーと、バンドはやらない。
二人が出会った日。アイヴィーがシンに“自分がバンドを組んだらギターを弾いて欲しい”と頼んだ時、シンはきっぱりと断った。
女とバンドは組まない、と。
それが二人の初めての激論につながり、危うく険悪になりかけた。今となっては笑い話。
シンは女性を蔑視したり、女性がダメだと言っているわけじゃない。彼のポリシーとして“女性とのバンドは組まない”それだけだ。シンは男臭いバンドで演奏するのが好きなのだ。
以来、二人が同じステージに立つことはほとんどなかった。
一度だけ、“ズギューン!”のメンバーの結婚式でデュオを披露したことがある。それは本当に大切な仲間のためで、しかもアコースティックだった。
今さら、シンが信条を破るわけが…。
「分かったよ。誰か、ギター貸してくれ。」
シンの言葉にアイヴィーは耳を疑った。
彼はいたって落ち着いた顔でシングルの革ジャンを脱ぎ捨てた。
「シン…いいの?」
「こんなの、セッションみてえなもんだろ?お前とは絶対にバンドはやらねえって思ってたけどな。それで今夜、ギヤのステージに立てるなら…俺は何でもやるよ。お前だってそうだろ?」
モヒカンの男がギターを持ってきた。先ほどまでとは打って変わった、うやうやしい態度でシンにギターを渡す。まるで王様に宝を差し出すみたいに。
「俺のギターです。使ってください。」
「ありがとな。」
そう言ってシンはストラップの位置を調整し始めた。
アイヴィーはモヒカンの男に向き直った。
「アタシとシンだけじゃ、どうにもならないよ。ベースとドラムがいなきゃ。」
「大丈夫です、ちゃんと演奏できる人を用意しときました。」
彼はそう言って、楽屋の隅に待機していた二人の男を紹介した。
「ベースのヒデさんです。」
ヒデは金髪のマッシュルームカットで、黒いドンキー・ジャケットを着こんだ細身の男。その顔には優しさと一緒に、“やんちゃ”という文字もしっかり刻まれている。
「ヒデっす、よろしく。」
「ヒデさん、よろしく。アイヴィーです。」
「そしてドラムのウッチャン。」
あばた顔に肉づきのいい体格。袖をカットオフしたネルシャツを着て、テンガロンハットにサングラス。口調は素朴で気さく。
「ウッチャンさん、アイヴィーです。よろしく。」
「任せとけ。」
挨拶を交わしながらも、アイヴィーはまだ踏ん切りがつかない。
「ねえ、別に“ズギューン!”の曲じゃなくていいんじゃない?二人とも会ったばっかりだし、セッション・バンドなんだしさ、カヴァーで…。」
「絶対ダメです!」
モヒカンが強い口調で断定した。
「みんな100%のアイヴィーの歌が聴きたいんです。それには“ズギューン!”の曲じゃないと!アイヴィーだってギヤのステージに立つからには、自分の曲を歌いたいでしょ?」
「そりゃまあ、そうだけど…。」
「ヒデさんもウッチャンも、昔から“ズギューン!”の大ファンですから。ほとんどの曲は分かるから安心して下さい。正直リハの時間はありません。ぶっつけ本番ですけど、アイヴィーさんもシンさんも百戦錬磨のバンドマンですから絶対大丈夫です、俺が保証します!」
まったく調子のいい男だ。言ってることはその場しのぎもいいところ。だいいち、どうして彼がこの場を仕切ってるのかも分からない。彼が謎の主催者だとは到底思えないし。
だけど、そう言われると自分でも不思議と「そうだな」と思えてしまう。あまりにも奇妙なことの連続に、すっかり感覚もおかしくなってきちゃったかも。
「おい、アイヴィー。」
アイヴィーの心を支えるように、シンが声をかけてきた。
「少なくとも俺の方は心配ないぞ。このギター、めちゃくちゃ弾きやすい。まるで自分のギターみてえだ。」
「でしょ、でしょ?」
モヒカンの男が相づちを打つ。
「聞いたこともねえメーカーだけどな。」
ギターのヘッドには“Ultra”と印字されていた。
「ウルトラって、どこのギターだ?」
「台湾です!」
そのやり取りにアイヴィーはニヤリと笑った。先ほどまでのノスタルジックな笑顔とは違う、ライヴ直前の心地よい緊張感に包まれた、バンドマンの笑み。
アイヴィーは覚悟を決めた。
それじゃあ、一発やっちまうか!
アイヴィー以外のメンバーが転換のためにステージに出ていく。彼女は一人、楽屋に残った。パーカーを脱いで革ジャンとTシャツだけになる。こんなことなら完全武装してくれば良かったな。
さっきまで演奏していたバンドのメンバーがステージから楽屋に入ってきた。直線的でポップでキャッチ―な、スリーピースのパンク・ロックンロールバンドだ。
白い革ジャンを羽織り髪を逆立てた、スリムな体型のベーシストと。ボサボサの金髪が印象的な、背の高くて体格のいいギタリスト。
「カッコ良かったよ。」
あいさつ代わりにアイヴィーが声をかけた。汗まみれのベーシストがニッコリ笑った。
「サンキュー、サンキュー。」
「じゃあ後は、ヨンロクヨンキュー!」
巨漢ギタリストの言いかたに、アイヴィーは思わず吹き出してしまった。慌てて口を押さえたが、幸い彼らには聞こえなかったみたい。二人は行ってしまった。
「気にしなくていいよ、いつもあんなだから。」
ウルトラリーゼントをビシッと決めたドラマーが一歩遅れて楽屋に現れた。赤い革ジャンの背中には大きく「虚無僧」とペイントされている。
「そうなの?」
「年がら年中、つまんねーことばっか言ってんだよね。」
そう言って彼もフロアへ消えていった。静寂が再び楽屋を包む。
アイヴィーは昔のようにパイプ椅子に後ろ向きになって座り、目を閉じて出番を待った。
もう、今夜ギヤが営業している理由なんてどうでもいい。
アタシはこれから、ギヤのステージに立つ。
正真正銘、ギヤでの最後のステージ。ギヤでの最後の夜。
これで、終わらせることができる。
ドラムの音が、ベースが、そしてギターが。DJの選曲にかぶさり、ライヴ直前の現実感を強めていく。
出番はもうすぐ。
アイヴィーはふと目を開け、楽屋をぐるっと見渡した。
今夜、ギヤの全てを目に焼きつけ、耳で確かめ、心で感じた。
最期に残っているのはただひとつ。
あの白と黒のモザイクタイルのステージに立ち、思いのたけを歌に乗せ、みんなと一体になる。
そうしたらもう、悔いはない。
DJがフェイドアウトし、聴き慣れた映画のサントラが耳に飛び込んできた。“ズギューン!”のSEだ。
こんなものまで用意されていたなんて。
今はすべてが、必然だと感じられた。
大きく深呼吸をして、アイヴィーはステージに飛び出していった。
フロアとの段差が低いギヤのステージは、バンドと客の距離感が他のライヴハウスよりも近い気がする。
ステージ袖から出てきたアイヴィーは、すでに最高潮に沸騰したフロアを前に髪の毛が逆立つような感覚に襲われた。
最前列から奥までぎっちりと客が詰め込まれ、もう誰も入る余地はない。みんな盛んにヤジを飛ばしながら、ライヴが始まるのを今か今かと待ちわびている。アイヴィーがマイクスタンドに手をかけると、地鳴りのような歓声が響いてきた。
今まで経験したどんな大ホールでのライヴにも引けを取らない。握ったマイクからはビリビリと感電するような刺激が全身に伝わってくる。
これが高円寺だ!
いつもやっていたように、柵の上に片足を乗せて軽いストレッチ。ギヤの柵は太く平らで、上にドリンクがよく置かれている。昔はそれを見るたび、ライヴの邪魔だとイライラしていた。今夜は嬉しさしか込み上げてこない。
チラッとシンを見やると、彼はすでに自分の世界に入り込んでいた。下を向いて、ギターのネックを握ったり開いたりして、断続的につんざく音を響かせている。待ちきれないみたいだ。
セットリストも何も決めてない。最初の曲、どうしよう?
アイヴィーの思いに呼応するかのように、シンのギターが印象的なフレーズを奏で始めた。そこにベースラインが、ドラムのビートが次々に重なっていく。
“ズギューン!”がいつもライヴの1曲目に演奏するスピーディーなナンバー。アイヴィーは気持ちが安らぐのを感じた。
いつも通り、やればいいんだ。自分らしく。
彼女は息を深々と吸いこむ。
ゼンブ、ハキダセ!
「ワン、ツー、スリー、フォー!」
ライヴは熱狂の極みに達していた。フロアから次々とパンクスたちが頭上高く持ち上げられ、ステージに転がり落ちてはまたフロアめがけて飛んでいく。
立錐の余地もないはずなのに、押し合いへし合いが止まらない。ポゴ・ダンスなんてもんじゃない、衝動だけが身体をつき動かす。最前列にいれば背中を押され叩かれ蹴られ、上からは足が背中が落ちてくる。それでも前にいたい。
ウッチャンは“ズギューン!”のドラマーよりも少しスネアの音が硬い。けど、彼の熱いビートはアイヴィーやシンやみんなの心を躍らせる。
ヒデのベースラインも極太でうねりにうねり、楽曲の屋台骨を完ぺきに支えている。ステージに映えるアクションもお手の物。
二人とも“ズギューン!”の曲でライヴをするのに何の違和感も感じさせない。
シンは髪の毛から鼻からアゴ先から汗を滴らせ、狂ったようにギターを刻みまくっていた。下を向いて弾いていても絵になる男だが、時おり予想もしない動きでステージの端から端までぶっ飛んでいく。どんなバンドでもシンはシンだ。
全ての中心にアイヴィーがいた。噛みつくように吠え、高らかに歌いあげ、目を見開いてシャウトする。
今夜は声がよく出ている。最近のライヴでは一番かもしれない。ステージを所狭しと動き回り、足を踏み鳴らし、身体をくねらせ、赤い髪を振り乱す。
ブレイクの瞬間にステージ中央でジャンプすると、両サイドでシンとヒデが同時に跳ぶのが見えた。
“分かってるねー!”
アイヴィーのニヤニヤ笑いが止まらない。最高の緊張感、最高のリラックス。
曲順は何も決まってないのに、アイヴィーが次はこれ!と思う曲が自然に飛び出してくる。シンと息が合うのは当然としても、寄せ集めのセッション・バンドがこんなにピッタリくるとは思ってもみなかった。
“ズギューン!”のメンバーを差し置いてのライヴに後ろめたさもある。音に対する違和感もあるといえばある。
それでも、不思議と今夜はすべてを許されているような気がしている。どんなことが起きても間違いじゃないと。
そう、今夜は奇跡。すべてが、奇跡。
アイヴィーがふとフロアに目をやると、さっきケンカをしていたはずのDJとリーゼントパーマの男が仲良く肩を組んでピョンピョン飛び跳ねていた。
そうでなくちゃね!
輝くような二人の笑顔。いや、フロアから見えるみんなの顔が輝いている。ギヤ一面に咲く、笑顔の花。
アイヴィーは、そんなみんなの笑顔の輪に今すぐ飛び込んでいきたくなった。
握っていたマイクを離すと、まだ曲の途中にも構わずモニターアンプに、そして鉄柵に足をかける。
両手両足を広げて、アイヴィーは客席に向かいダイブした!
ギヤ中から無数の手が伸びて、彼女をしっかりと受け止めた。
まるで想いのすべてを受け止めるかのようだった。
アンコールは続き、もう1曲もう1曲、と終わりが見えないライヴも遂に終演を迎えた。
最後の曲が終わった瞬間、アイヴィーとシンは同時にステージ上でへたりこんだ。もう手が動かない。もう声が出ない。すべてを出し尽くした。これ以上はない。
割れんばかりの歓声と拍手の中、やっとの思いでシンがアイヴィーに肩を貸し、二人はよろよろとステージからフロアへ、そしてバー・カウンターへ這い出した。
パンクスたちが興奮しながら肩を叩き、抱きつき、声をかけてくる。それらすべてに笑顔を返しながらも、二人は外に向かい歩き続けた。いま必要なのは冷たい空気、外気だ。
階段はパンクスたちに占拠され、二人が座り込むすき間はなかった。それにこの場所もまだ空気が薄い。危険を冒してでも外に出ないと身体がもたない。
シンはアイヴィーを支え、アイヴィーはシンの腰に手を回し、二人は互いに互いを気づかいながら、やっとの思いで最上段へ辿りついた。
来た時には軽々と開いた秘密の扉。今は鉛のように重たい。
何とか開いた二人分の隙間に二人は身体をねじ込み、転がり出るように外へ躍り出た。凍りつくような外の空気を深々と胸に吸い込み―。
そこで、シンとアイヴィーは我に返った。
二人はエントランスの壁の前に立っている。
夜のとばりの中、PAL商店街を照らす街灯の灯りだけがうっすらと辺りを包んで―。
アイヴィーは自分の身体を見た。
楽屋で脱いだパーカー、ステージで脱ぎ捨てたはずのライダースをしっかりと着込んだ自分を。
「…どうなってるの。」
アイヴィーは茫然とつぶやいた。
息はまったく上がっていない。汗もかいていない。
つい先ほどまで、渾身のステージを繰り広げていたはずなのに。
「夢、だったの…?」
虚ろなままシンを見やると、彼はギヤと2百万ボルトをふさぐ壁を必死に動かそうとしていた。古ぼけたシングルの革ジャンのジッパーを上まで留めている。彼もまたこのエントランスに入ってきた時と寸分たがわぬ姿で。
押しても引いても横に動かしても、壁はビクともしない。それは、ただの壁だった。
二人で同じ夢を見たりはしない。
なら、今まで起きていたことって…。
「アタシたち…さっきまでギヤにいたよね。」
「ああ。」
緊張した面持ちでシンが答えた。
「ライヴを観てお酒を飲んでいっぱいお喋りして、ステージに立った。アンコールまでやった。今でもまだ、この手にマイクの感触が残ってる。」
そう言ってアイヴィーは自分の手をそっと握り、また開いた。
「あんなに大勢のパンクスがいた。大勢の仲間たちが。」
「ああ。」
「みんな、とっても楽しんでた。ライヴもお酒も、ケンカすらも楽しんでた。最後のギヤの夜を楽しんでた。」
「ああ。」
「ヒデさんにウッチャンさん。覚えてる?ホントに熱いライヴをさせてくれた。みんなのお陰で、ギヤの最後を飾れた。」
「ああ。」
「みんな熱くて純粋でカッコ良かった。階段で会ったあの子もドリンクのあの子も、他の名前を知らない誰も彼も!」
アイヴィーはいつの間にか、さめざめと泣いていた。彼女は思わず床に座り込んだ。
「夢かと思った。幻かと思った。最後にようやく、帰って来たんだと信じることができた。どうして今さら消えちゃうのよ!やっぱりウソでした、なんて言わないでよ!」
シンは黙っていた。今度ばかりは、かける言葉がない。アイヴィーの気持ちはよくわかる。“不思議の国のアリス”なら“あれは夢でした”で終わればいい。彼女が迷い込んだのは知らない世界。
でも自分たちは、失ったはずの我が家に再び戻ることができた。二人が経験したことが何だったとしても、たとえ二度と戻ることができないと分かっていても。
夢みたいに消えないでほしかった。
夢みたいに…。
夢…。
アイヴィーの革ジャンのポケットから、何かがヒラヒラと舞い落ちた。
アイヴィーは床に落ちたそれを見つめた。
「これって…。」
薄黄色をした、長方形の小さな厚紙。
ギヤの、チケット。
日付のスタンプは汚れてよく読めない、ギヤのチケット。
アイヴィーは涙に濡れた目でシンの方を振り返った。
ずっとポケットに入れっ放しだった、古いチケットなのかもしれない。ライダースのポケットを何年も探ってないなんてこと、あるかな。
たぶんないと思うけど。ないと言い切る自信はないけど。
でも、ないよね。
それじゃあ、これは。
二人はしゃがみ込んだまま、いつまでもそのチケットを眺めていた。
シンがポツリと言った。
「あのな。」
「うん。」
「あのモヒカンの若いやつ、いただろ。」
「うん。」
「アイツな。アゴに星のタトゥー入れてな。髪の毛オールバックにしてな。10歳くらい老けさせて、目の横に小じわをつけてな。」
そう言われて、アイヴィーにも分かった。
知ってる。よく知ってる。
彼だけじゃない。受付の彼も、ステージに立ってた女性のギターヴォーカルも、小太りのDJも、ほかのみんなも。
関わりが多かれ少なかれ、みんな知っていた。
ドリンク係の彼は言っていた。
「ギヤを心から愛する人たち」と。
それが何だったのか、正確には分からない。
でも、こう思えば間違いではないだろう。
それは、ギヤへの愛だったと。
明日にはこのビルが取り壊される日に。
高円寺ギヤというライヴハウスに想いを馳せたパンク・ロッカーたちが今夜、数え切れないほどいたのかもしれない。
そんな彼らの思いがこのビルの地下に集まって、ちょっとしたイタズラを起こしたのかもしれない。
アイヴィーとシンは、そこに迷い込んだのかもしれない。
「かもしれない」ことばかり。でも、言い切れることがひとつだけある。
アイヴィーとシンは、ケジメをつけた。
彼女がぼそりとつぶやく。
「最高のライヴだったね。」
「そうだな。」
彼が答える。
「アタシ、もうシンと一緒のステージには立たないよ。」
「ああ。」
「今夜の…ギヤ最後の夜に匹敵するような思い出のステージが、今後あるとしたら別だけどね。」
「またそんな日が来るような熱い人生を送らなきゃな。」
二人は微笑み合った。アイヴィーは右手でチケットを拾い上げ、そしてゆっくりと立ち上がった。
エントランスの外に向かう直前、アイヴィーはちょっとだけ振り向いてあの壁を見た。
「ばいばい。」
ちょこんと押した壁はビクともしなかったけど、少しだけ温もりを感じた気がした。
二人はビルの外に出た。明日には取り壊される、かつて2軒の伝説的ライヴハウスがあった雑居ビル。
チケットを持ったままの右手で、アイヴィーはシンの左手をそっと握る。彼はちょっと驚いた顔をしたが、やがて彼女の手を握り返した。
力強く、だが優しく。
まったく俺たちらしくねえけど。
たまにはいいだろ、こんな夜なんだからな。
二人は手をつないだまま、ぶらぶらと高円寺駅の方へ向かって歩き出した。