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その2

二人は階段の下をのぞき込み、声の主を探した。知りたいことは山ほどある。彼が説明してくれるかもしれない。

すぐに見つかった。

パンクスだ。

しかも、2人。

彼らは階段の下の方に座り込んで、紙コップに入った酒らしき飲み物を飲んでいた。年はずいぶん若い、見たところ20代前半という感じか。

「誰も見てなかったよね?」

声をかけてきたのは細めのモヒカンに細い目つきの、ニヤニヤ笑いを浮かべている男。袖を切ったパッチだらけのGジャンを着て、スキニーなボンデージパンツを履いている。少年みたいな顔つきだ。

「バレたら大変だから。」

そう言葉をつなげたのは、短い金髪をスパイクにして白いタンクトップにレザーのパンツを履いた小柄な男。その顔はやっぱり幼くて、しかも人の好さそうな表情を浮かべている。

どちらも見かけない顔だ。いや、正確には…。

「ねえ…これ、なに?どうなってるの?ここ、ギヤと2百万だよね?誰がこんな…。」

おそるおそるアイヴィーが聞いた。口を開くと質問が止まらない。誰でもいいから、説明して。

返事の代わりにモヒカンは親指を横に向け、ギヤの入り口を指し示した。

「中に入れば分かるよ。」

そう言われて、アイヴィーとシンは思い出したように入り口を見た。

古ぼけた電気看板。タバコのヤニと落書きで汚れた壁。「ギヤ」と書かれた黒い金属扉。

昔のまま。自分たちが最後に訪れた、あの時のギヤ。

中からはワイワイと騒がしい声が聞こえてくる。

二人のパンクスはニヤニヤしながらこっちを見ていた。ずいぶん生意気なやつらだけど、不思議と腹も立たない。

アイヴィーは問いかけるようにシンの顔をのぞき込んだ。シンも戸惑った顔をしていたが、ややあってゆっくりとうなずく。いずれにしても、進むだけ。

二人は重い扉を開け、ギヤの中へ入っていった。


「うわあ。」

アイヴィーは思わず声をあげた。

壁と言わず天井と言わず一面に貼りつけられたフライヤーやステージ・パス。天井からぶら下がったオブジェ。真っ赤なバー・カウンターと、その上に乗ったチュッパチャップスのデカい入れ物。奥に鎮座するホワイトシルバーのマネキン。

そこは、二人が覚えているギヤそのものだった。

「信じられない。」

「ああ…。」

シンもため息を漏らした。

タバコの煙も酒の匂いも、全てがあの頃のまま。

入り口からライヴ・ホールをつなぐ、狭く横に長いスペース。バー・カウンターの向かいあたりにベンチが置かれ、ゴチャゴチャしたその場所には大勢のパンクスたちがひしめき合い、そこかしこで紙コップを片手に談笑を繰り広げていた。モヒカン、スパイクヘア、リーゼント、スキン。革ジャン、鋲ジャン、ガーゼシャツ、アナーキーシャツ。タトゥー、スタッド、シルバー、キャッツアイ。

さながらパンクの品評会だ。

ざっと見渡したが、二人の知った顔はいない。ただ…。

入り口の正面奥には机が置かれ、その後ろに長髪の男が座っていた。骨太で筋骨隆々だが敏捷そうで、いかにも鍛えているといった雰囲気。顔つきもごつく、むき出しの腕には鬼の顔のようなタトゥーが刻まれていた。

「はい、どうもー。こっちでお願いしまーす。」

二人に気づいた男が声をかけてきた。どうやら受付らしい。そういえば、昔もここが受付に使われていたっけ。

「今日はフリーライヴだから、ドリンク代だけ下さーい。」

シンがためらいながら千円を渡すと、男は机に置かれた紙に数字を記入し、そして二人に何かを差し出した。

「ねえ、シン!これって!」

アイヴィーが歓声をあげた。

薄黄色をした、長方形の小さな厚紙。

ギヤのライヴ・チケットだ。

「こんな色だったんだね。忘れてたよ。」

そう言いながらアイヴィーはチケットをひっくり返した。日付のスタンプは乱暴に押されて文字が滲んでいる。横書きで一番左に地図とロゴが載っている、シンプルなデザイン。

自宅でも、しばらく見かけていない。持っているのが当たり前すぎて、いつの間にかどこかへ消えちゃったチケット。

「ねえ、今夜はどういう…。」

アイヴィーは受付の男に話しかけたが、彼はアイヴィーの後ろに向かって大きな声をかけた。

「はい、どうもー。こっちでーす。」

振り返ると、また別のパンクス。新しいお客が来たらしい。仕事の邪魔をするわけにはいかない。シンとアイヴィーはとりあえずバー・カウンターの方に移動した。


笑い声の絶えないゴミゴミしたスペースを、二人は人の波をかき分けて進み、やっと一番奥の壁際に落ち着いた。例のマネキンが置いてあるその奥。このマネキンにも、よく意味もなく寄りかかってたっけ。

アイヴィーが小声でシンにささやく。

「ねえ、どういうことなの。」

「…分かんねえ。」

シンも当惑した顔であたりを見渡している。

ソファーの近くで、誰かが爆笑する声が響き渡った。

“夢なのかな…”

アイヴィーはそっと、自分のお尻をつねってみた。

夢にしては、ずいぶんハッキリと痛い。

なら、いったい…。

「ここ、何年も使ってないはずでしょ。」

「ああ。」

「どうして電気がついてるの?空気だって、そりゃ地下だから良くはないけどさ、普通に過ごせるし。これだけ長い間使ってない場所って、もっと汚いんじゃないの?そもそも、どうして昔のままなの?なんでみんな普通にしてるの?なんで…。」

「落ち着け、アイヴィー。」

シンはアイヴィーをなだめた。

「俺だって知りてえよ。」

そう言いながら、彼はゆっくりと横を向く。

「特に、あの奥がどうなってるのかは、な。」

その言葉に、アイヴィーも同じ方を見る。

そう、さっきから二人とも感じ続けている、ズンズンと腹に響くような音。二人にとっては子守唄のような慣れ親しんだ音。ライヴハウスに、バンドマンにとって無くてはならない音。

そこに何があるのか、もちろん二人とも分かっている。

分厚い防音ドアの奥にあるのは。

ライヴ・ステージ。

「行こうぜ。」

シンの言葉に背中を押されるように、アイヴィーは扉の方へ向かった。

ドアのレバーに手をかけたのは二人同時。アイヴィーの手をシンの手がしっかりと包み込んだ。

このドアを開けて、期待に満ちた夜の始まりを数え切れないほど味わってきた。あの時の感覚が戻ってくる。

二人はアイ・コンタクトをかわし、同時に深呼吸をして、そして一気にドアを開いた。

戻ってきた!


ライヴハウス特有の中から爆発するような音のかたまり。二人にとっては心地よいシャワーのようなものだ。

フロアは薄暗く、人だかりで埋め尽くされていた。パンパンにふくれ上がったギヤなんて久しぶりだ、とアイヴィーは思い、そして一人で笑った。

ギヤにいること自体、久しぶりだっての。

ステージの照明が一番奥できらめいている。フロアに立ったモヒカンやスパイクのシルエットの間から、ピンク色の髪をウニのように逆立てたヴォーカルが見え隠れしている。知らない曲、知らないバンドだけど盛り上がっている。前の方ではモッシュピットが激しく動き、時々ダイブも起きている。すでにいくらか空気が薄い。

夢にまで見た、ギヤのライヴだ!

今すぐ最前列に突っ込んでいきたい気持ちもあったけど、予想以上に人が多く、初見のバンドということもあって少し冷静になる。アイヴィーは改めて周りを見渡した。

やや横長のフロア。配管がむき出しの天井。黒い壁。

全てが、アイヴィーの覚えているそのまま。

今日は物販などは出ておらずフロアは広々としていたはずだが、詰めかけたお客の数はそのキャパシティーを余裕で振り切ってしまいそうな盛況ぶりだ。隅っこにビヤ樽が置いてあり、上には灰皿と飲みかけのドリンク。そういえば、あんなものもあったよね。

チラッとPA卓を見ると、暗がりで確認しづらいが女性が担当しているようだった。

ステージに目を戻すと、隣で腕組みをしてライヴを観ていたシンがアイヴィーの耳元に口を寄せた。

「ギター、走りすぎだな。」

アイヴィーは暗がりの中ではにかんだ。一気に記憶がよみがえってくる。

そう、二人でよくこうしてこの場所から、ライヴを観ながらああでもないこうでもないと目の前のバンドを批評していたっけ。シンの評価はいつも辛口で、でも的を得ていて、何よりアイヴィーはシンの批評を聞いているのが好きだった。

シンの息が彼女の耳をくすぐるたびに、お腹の奥底までザワザワと何かを感じていた。まだ二人が一緒になる前のお話。

あの時みたいに、今もザワザワしている。

忘れていた気持ち。

ますます激しくなるステージとフロアの後方で、シンとアイヴィーは二人だけの時間を積み重ねていた。


ライヴが終わり、汗まみれのパンクスたちは疲れと充実が入り混じった表情のまま、冷たい飲み物を求めてぞろぞろとバー・カウンターの方へ出て行った。

二人は流れに逆らって、ステージの方に足を運ぶ。

他のライヴハウスより少しだけ低めの柵。ステージの床は、やっぱり白黒のモザイクタイル。

ステージの左奥が楽屋。フロアの左奥にも楽屋に通じるドアがある。あの中へ、入っていきたい。出演者に誰か知り合いがいれば…。

ご機嫌なナンバーがフロアを揺らし始め、アイヴィーは我に返った。PA卓の前に置かれたDJブース。メガネにハンチングでスカジャンを羽織った小太りのDJが、オーバーアクションをしながらロックンロールを回している。このゲーム機みたいな独特の一体型CDJも、ギヤならではだ。

DJもやっぱり、見たことない顔。見たことないけど…。

「シン。お酒、買いに行こうよ。」

「そうだな。」

ライヴと同じくらいに沸きあがるフロアを後にして、二人はバー・カウンターに戻ってきた。人の流れはますます激しくなり、マネキンのそばも占拠されている。とりあえずドリンクの列に並んでおこう。

そこかしこで談笑が始まっている。壁際、カウンターにもたれて、ベンチに腰かけて。誰も彼も心からリラックスして楽しんでいるのが伝わってくる。みんな、いかにもギヤの常連といった雰囲気。

だれ一人、知った顔はいないというのに。

「はい、どうぞ。」

バー・カウンターには黒と灰色のネルシャツを着た、人懐っこそうなあごヒゲの若い男が立っていた。いかにもライヴハウスの店員らしいいでたち。アイヴィーはドリンク交換のため、チケットを彼に渡した。

「そのチケット、返してね。今夜は特別だから。」

「そうですよね。アイヴィーさんみたいな方でも、今夜は特別な夜ですよね。」

そう言いながら彼はチケットに“使用済み”のスタンプを押し、アイヴィーに返してくれた。どうして家でギヤのチケットを見ていないのか、思い出した。ここで、ドリンクと交換しちゃってたからだ。

あの時は、チケットの紙なんていつでも手に入ると思ってた。

「ラムコーク。」

「はい。」

男は慣れた手つきで酒を用意し始めた。

ギヤに初めて来た頃はラムコークをよく飲んでいた。お酒というものが分からなくて、とりあえず知ってそうな味、という理由で頼んでいたのだが。

すぐにビールの味を覚え、それ以来はビール党のアイヴィー。だけど…今夜は久々に、ギヤのラムコークを飲んでみたい。

「アタシのこと、知ってるんだ。」

サーバーから紙コップにコーラを注ぎ始めた男に、アイヴィーは再び話しかけた。

「そりゃ、有名人ですからね。」

「ああ、まあ…ね。」

この言い方をされるたび、アイヴィーは心底うんざりする。

数年前、彼女はプロの歌手としてソロデビューを果たした時期があった。

バンドが大きくなっていく中で、事務所や周りの様々な思惑に振り回されてのことであり、“ズギューン!”のメンバーは気持ち良く背中を押してくれたが、やはり水が合わずに結局戻ってきてしまった。

自分の中では楽しい経験ではなかったし、元・有名人扱いされるのは気持ちいいものではない。その頃の印税などで、未だに助かっているのは事実だが…。

醒めた顔つきのアイヴィーに男はラムコークを手渡すと、ニッコリと微笑んできた。

「高円寺でシンさんとアイヴィーさんを知らないやつはモグリですよ。」

アイヴィーの後ろにいたシンが、思わず自分を指さした。

「俺も?」

「そうですよ。“ズギューン!”のアイヴィーさんに、“ニー・ストライク”のシンさん。高円寺界隈のパンク・バンドでトップの二人、最強のカップルじゃないですか。誰だって知ってますよ。」

「そうか、有名ってそういう意味の…。」

「あ、俺、なんか失礼なこと言いました?」

「ううん、何でもない。大丈夫だよ。」

アイヴィーは自意識過剰な先読みをちょっと恥ずかしく思うの同時に、心から嬉しくなった。

誰も知り合いがいない今夜この場所で、だけどこの子、アタシたちと同じだ。

同じ空気を吸って、同じ価値観を共有し、同じ世界で生きてる。

そして多分、ここにいるみんな同じ仲間だ。

それだけはなぜか確信が持てる。


後ろを振り返ると、ドリンクに並んでいる人はいない。もう少し話をしていても構わないだろう。

「ねえ…ちょっと聞いてもいい?」

「どうして今夜、ギヤが営業してるのか、でしょ?」

男は紙コップに入った生ビールをシンに手渡しながら言った。

「とっくにライフラインも止められて、廃墟みたいになってるはずのライヴハウスが昔と同じように営業していて、ライヴまでやってる。そりゃ、普通に考えたらあり得ない話ですよね。」

「そう。だってさ…。」

考えを読まれてアイヴィーは言葉に詰まりかけたが、きっと彼は今夜、みんなからイヤというほど同じことを聞かれたんだろう。

「実は今夜のことは、かなり前から計画されてたんですよ。」

「計画?」

「そうです。」

アイヴィーはカウンターに腕を置いた。シンはビールを片手にキョロキョロしている。

「明日、このビルは取り壊されます。もう二度とこの場所は戻って来ない。だから、その前に一度、昔のギヤを復活させたい。ギヤでまたライヴがやりたい。そういう計画が持ち上がりましてね。」

「それって、誰が…その計画を考えた、今夜の主催者って誰なの?」

「ああ、それはねえ。」

彼はポリポリと頭をかいた。

「分からないんですよ。」

「分からない?」

アイヴィーは思わず間抜けな声を出した。

「いったい最初に誰がこの計画を思いついたのか、誰に聞いても知らないんです。僕も仲間から誘われたただけでね。でも、呼ばれた全員が全員、即答で協力を決めましたね。なんたってギヤの一夜復活ですから。そりゃ当然やるしかないでしょ?」

「そりゃ…そうだよね。」

シンがカウンターから離れて、ぶらぶらと受付の方へ歩いていった。アイヴィーは考えをまとめるのに精いっぱいだ。

そんなメチャクチャな話って、あるの?

「…じゃあ、どんな人たちが運営してるの?」

「ギヤを心から愛する人たち。昔のギヤのスタッフが中心ですね。PAも照明も、僕みたいなドリンク係も。あとは電力確保の係とか、清掃係とか。なにせ何年も使ってないライヴハウスですから。人が入れるようにするだけで大変でしたからね。」

そう言って彼は誇らしげに辺りを見回した。

「レイアウトがまた大変でしたよ。何せ昔のギヤになるべく近づけたいですから。少ない写真や記憶をもとに、再現するのが大変で!でも、苦労の甲斐はあったと思いませんか?」

アイヴィーもまた辺りを見渡しながら、深くうなずいた。

なるべく、なんてもんじゃない。

記憶の中にあるギヤそっくりだ。何の違和感もない。

「ねえ!」

アイヴィーは我に返ったように大きな声を出した。

「アタシの仲間も呼んでいいかな?みんな、きっと喜ぶと思うよ。喜ぶどころか、気絶するかもね。今から連絡して…。」

「ああ、それはね。」

彼は申し訳なさそうに言った。

「ダメなんですよ、今夜のルールで。」

「ルール?」

「そうなんです。」

彼の口調はキッパリとしていた。有無を言わせない響きがそこにある。

「今夜のことは当然、ビルの管理者にも工事関係者にも、近所の住民にも秘密です。絶対に知られてはいけない、知られたらそこでイヴェントは終わりますから。」

「まあ、そうだよね。」

「誰かが仲間を呼ぶ。例えばバンドのメンバーだけ、と言っても、連絡を受けた人がまた他の仲間を呼ばないって保証はありません。そうやってみんなが仲間を呼んできたら、この場所だけじゃ到底収まりきらない。外で騒ぐ人も出てくるかもしれない。」

「そうか…。」

「本当はギヤに関わった全ての人に来てもらいたいですよ。でも、みんなを呼ぶことはできないんです。今夜ここに集まったのは、偶然ここに引き寄せられた人だけなんです。アイヴィーさんたちみたいに。」

「えっ?」

アイヴィーは驚いた。

これだけ人がいるのに、集客してないってこと?

と同時に、妙なことに少し気持ちが安らいだ。

彼がさっき言った“ギヤを心から愛する人たち”という言葉が引っ掛かっていた。アタシたちだってギヤを愛してたのに、どうして呼んでくれなかったのかと。

誰も呼ばれていない。引き寄せられた人だけが今夜ここへ来た。

それでも大勢の人たちが集まった。ギヤに別れを告げに来た人たちが。

そこに自分の仲間が誰もいないことは気になったが。


「でもさ。」

アイヴィーは気になっていることを口に出した。

「スタッフは有志ってことで、分かったよ。でもバンドは?出演者は?どうやって決めたの?タイムテーブルとかどうなってるの?そもそも、今夜は何時に終わるの?」

昔、表に出していた手書きの看板はもちろん出せないだろうけど。どこを見ても出演バンドが書いていない。

知ってるバンドは出ていないのかな?

「ないです。」

アイヴィーはまたも呆気にとられるしかなかった。

「…ない?出演者も、タイムテーブルも…ってこと?」

「はい。」

シンがまたカウンターに戻ってきた。お札を見せて、ビールをお代わりする。アイヴィーをチラッと見たが何も言わない。

「さっきも言ったとおり、今夜はスタッフ以外は誰も呼んでないですから。当然バンドも呼んでないです。来た人の中でバンドのメンバーが揃っていればバンドで出てもらうし、いなくてもセッションみたいな感じでいいならそうしてもらう。そうやってやりたい人がステージに上がるシステムです。みんなが満足したら今夜はお開きです。」

アイヴィーは頭が混乱してきた。

今まで聞いた中で一番デタラメな話だ。そんなイヴェント、聞いたことがない。だいいち、それじゃ明日になっても終わる保証もないじゃない!

今夜のことは全てがおかしい。狂ってる。

周りが?それともアタシが?

アイヴィーは自分を取り戻すように頭をブンブンと振った。話題を変えよう。

「スタッフと言えば…君もギヤのスタッフ…だったの?」

「そうですよ!だから嬉しくてねえ。あの当時は“ドリンク係なんてかったるいな”なんて思ってたけど、またギヤでドリンクが作れる日が来るなんて!最高ですよ。」

「ねえ。その当時って、いつ頃の…。」

アイヴィーの質問はカウンターに酒を求めて押し寄せた一団に阻まれた。シンがアイヴィーをそっと押しやる。

ドリンク係の男は、また楽しそうに酒を作り始めた。


「絶対に変だよ。」

ステッカーだらけの白いベンチにシンと隣り合って座り、アイヴィーはひとり言のようにつぶやいた。

またライヴが始まったようで、人がフロアの方に流れていく。アイヴィーはラムコークに口をつけるのも忘れていた。

「そうだな。」

アイヴィーはシンにドリンク係の男に聞いたことを話した。シンは時おり相づちを打つだけで、あとは黙っていた。

「ずっと前から準備をしてたってのは、いちおう分かった。ホントにそんなこと可能なの?とは思うけど。でもさ…出演者が決まってないとか、お客を呼んでないとか、いちいち意味が分からないんだよね。」

「さあな。」

「誰も来ないかもしれない。バンドだって急に言われたって困るだろうし。マトモな企画者のやることとは思えないよ。」

しかし、現にギヤの中はパンクスであふれ返り、ステージでは熱いライヴが続いている。

一体どうなってるんだ。

「今夜こんなイヴェントがあるなんて、仲間の誰も何も言ってなかった。高円寺で起きたことなら普通は何かしらアタシたちの耳にも入ってくるでしょ?おかしいよ。」

「そうだな。」

シンはベンチにもたれかかり、首を後ろに倒して目を閉じている。その態度にアイヴィーはちょっとイライラした。

「そして、これだけ大勢のパンクスたちが来てるのに、アタシたちの知り合いが誰一人いない。誰もいないんだよ?高円寺で、しかもギヤだよ?なんで、知らない人しかいないの?」

「確かに知らないやつしかいないな。」

「でしょ?そんなピンポイントなことって…。」

「ただ、見たことあるようなやつばっかりだけどな。」

アイヴィーは思わずシンの顔を見た。

まさに、今それを言おうと思っていた。

「…シンも、やっぱりそう思う?」

「ああ。誰か、って言われると分からねえけど、絶対にどっかで会ってる。どこかで見かけてる。そんなやつばっかりだ。バンドも客も、いま話してたドリンクのアイツも。」

「ねえ。彼の年、いくつだろ。20歳?22歳?どう見ても25歳以上じゃないよね。」

「そんな感じだな。」

「アタシやシンが知らない頃のギヤのドリンク係って、いったい何年前の話?そんな子が20代前半なんて、どう考えても計算が合わないよ。」

アイヴィーの口調が熱を帯びてきた。

「全部が全部、納得できないことだらけ。話せば話すほど分からなくなる。これが夢じゃなかったら、じゃあ何なのよ!何かある。絶対に何かあるよ。」

「そうかもな。」

シンの口調が穏やかなことに、アイヴィーは突然気がついた。

シンは疑念を持っていない。

シンは気にしていない。

シンは落ち着き、くつろぎ…楽しんでいる。

「シン、知りたくないの?」

「ああ。知らなくていい。」

そう言ってシンは生ビールをひと口飲んだ。

「はじめは俺も思ったよ、こりゃいったい何なんだってな。夢なのか幻なのか、でなきゃ酒でも飲み過ぎたかなって。」

「…そんなに飲んでないよ。シン、昔みたいに飲まなくなって何年も経つじゃない。」

「そうだな、だから俺は変じゃない。アイヴィーも変じゃない。変なのはこの場所だ。でもな。」

シンは安らかな笑みを浮かべて言った。

「アイヴィー、お前、嬉しくないか?」

「えっ?」

「俺は嬉しいよ。こんな嬉しい気分は久しぶりだ。何たってギヤに戻ってこられたんだからな。夢でも幻でも誰かの陰謀でも、何でもいい。俺はいま、ギヤにいる。またここで、このベンチでお前と喋ってる。昔みたいにな。それで十分だ。理由なんていらねえ。」

アイヴィーは唇を噛んで黙り込んだ。

白いベンチ。赤いベンチの時もあったような気がする。そんなこと、気にも留めてなかった。だけど毎晩のように、シンとここに座ってた。

目の前をパンクスたちが陽気に通り過ぎる。笑い声がさざめいて、タバコの煙と酒の香りがブレンドする。

遠くで低音が響いている。またライヴが始まったみたい。

シンがまたビールを飲んだ。アイヴィーも手に持っていたラムコークをしばらく眺め、それからそっと口に含んだ。

「あっ。」

アイヴィーの声に、シンが片眉を上げた。

「どうした?」

「これ、ペプシだ。」

本当にペプシなのかどうかは知らないけど、いつもペプシだと思ってた。ギヤの、ラムコーク。

ギヤの味だ。

アイヴィーの左目から、涙が一滴こぼれ落ちた。

幸せだ。

生まれて初めて来たライヴハウス。アタシを育ててくれたライヴハウス。

閉店が決まった日は、おばちゃんの撮った写真を見ながら一人で泣いた。

さよならも言えずに急に消えてしまった。

それが今、こうして戻ってきた。

いま、ギヤにいる。

シンと一緒に。一番大事な人と、一番大事な場所で。

探偵ごっこなんかより、もっといい過ごし方があるよね。

アイヴィーは思わずクスっと笑った。

シンはそんな彼女を黙って見ていた。いつもみたいに。

「ねえ、覚えてる?ここでアタシがアンタの隣に座ると、シンいつもちょっと隅っこに寄ってたの。」

「そうだったか?」

「付き合う前は意外と紳士だな~って感心してたけどさ。付き合ってからもそうだったでしょ?もっと彼氏らしくしろよ!っていつも思ってたんだよ。」

「もう忘れたよ。」

そう言いながらシンは笑った。アイヴィーの大好きな笑いじわが浮かぶ。

トイレから誰かが出てきて、バタバタとホールへ向かった。ギヤのトイレとベンチの距離は極めて近い。昔は気にしたこともあったけど、今となってはこの距離も懐かしい。

「トイレのことは、覚えてる?」

「何かあったか?」

「これ。」

そう言ってアイヴィーはポケットからのどアメを取り出し、シンに見せた。

「ねっ。」

「そんなこともあったな。」

アイヴィーが自分のバンドどころか、誰も知り合いがいなかった頃。何かを求めて毎晩のようにギヤに出入りしていた頃。

のどアメを舐めようとしていた彼女に偶然シンがぶつかり、アメ玉が床に落ちた。極貧だったシンは新しいアメを買う余裕がなくて、トイレでアメを洗ってアイヴィーに返した。

それが二人の始まりだった。

「あれからずいぶん経ったね。」

「だな。」

アイヴィーはシンのそばに寄ろうとしたが、シンはわざとベンチの端によけた。それでまた二人で笑った。

遠くで誰かが再会を喜び合う声が聞こえてくる。

“ノボルか?俺だよ、ダイスケだよ!懐かしいな、何年ぶりだろ?まだバンド続けてたんだな…”


アイヴィーとシンはどちらからともなく、ギヤの思い出話を話し始めた。

二人が初めて出会った日のこと。

アイヴィーの初ライヴの日のこと。

ケンカした日のこと。

荒れていた時のシンがライヴをすっぽかした時のこと。

楽しかったことも辛かったことも、悲しかったことも嬉しかったことも、全てが大切な思い出。ギヤのベンチに座ると記憶はより鮮明に浮かび上がり、忘れていたこともたくさん思い出せた。

シンは久しぶりに饒舌で、アイヴィーはお腹の底から何度も笑った。昔はよくこうやって笑ってた。機嫌のいい時のシンはライヴやツアーでの面白い話を山ほどしてくれて、いつも飽きることがなかった。

かと思えば時にはお互いのバンド論について激しくぶつかることもあり、そんな時は誰も二人に近づいてこなかった。それもまた大事な時間だった。

最近はそんな大笑いも議論も少なくなっていた。それだけお互いを理解できるようになったってことだけど…。

二人はちょっと、守りの時期に入っていたかもしれない。

今夜、アイヴィーとシンはあの時の二人に戻っていた。

前に進むしかなかった二人に。

松下のおばちゃんが骨折したライヴの話が佳境に入った時、バー・カウンターの方で誰かが大きな声を出した。

二人が振り向くと、人だかりの中で誰かが怒鳴り合い、モッシュみたいに押し合っているのが見える。ケンカだ。

アイヴィーもシンは同時に立ち上がり、急いでそこへ向かった。ほとんど本能的な動きだった。

ライヴ中のケンカは止める。大事なルール。

ケンカの主は、さっきの小太りなDJと茶髪のリーゼント・パーマをあてた筋肉質でつぶらな目の男だった。すでに何人ものパンクスが、二人の身体を押さえている。アイヴィーとシンも二人の間に割って入った。

当事者二人の共通の知人らしい、金髪のオールバックに不敵な目つきの男が仲裁を始めた。どうやらDJの選曲が気に入らなくて揉めたようだ。ほどなくしてケンカは手打ちになった。場の空気が緩むのが感じられる。

「こんな夜だからよ。ケンカしてちゃ、もったいねえよな。」

「そうだそうだ、楽しもうぜ。」

「でもまあ、ケンカもライヴの華だもんな。」

「たぶんこれがギヤで最後のケンカだからな。それもいいかもしれねえよな。」

周りのパンクスたちは口々にそんなことを言っていた。緊迫した場面にしてはみんな一様に笑顔だったし、妙に説明口調なのも気になる。

アイヴィーはまたちょっと考え込んだ。

ケンカをした二人の男たち。彼らもまた、揉めながらも嬉しそうな笑顔を見せていた気がしたのだ。


立ち上がったついでにフロアに戻ってみると、メンバー全員が女性のハードコア・パンクのバンドが演奏中だった。その雰囲気にアイヴィーは思わず最前列に駆け寄った。

初めて観たバンドだけど、めちゃくちゃカッコいい!

演奏力も確かでビジュアル的にも映えるし、立っているだけで絵になる。何よりもフロントの女性のオーラがすごい。

黒いワンピースのドレスに長い金髪のパーマを振り乱しながら咆哮をとどろかせるギター・ヴォーカル。黒いアイラインに対して垂直に入ったアイメイク。

アイヴィーが死ぬほど憧れたあの人にそっくりだ。彼女みたいになりたくて、最初は金髪のパーマをあてた。似合わないと思って赤にした。以来、赤い髪がアイヴィーのトレードマークになった。

あの人は今もステージに立っている。パンクの最前線からは遠ざかってしまったけど、気の合う旦那さんと一緒になって、バンドと人生をエンジョイしている。スタンスは昔と変わっても、今のあの人も最高にカッコいい。

目の前のこの女性はどう見ても自分より年下。

初めてなのに何度も観たような、不思議な気分に陥りながらも、それでもアイヴィーは久しぶりにフロアで大暴れしてしまった。いちオーディエンスとしてここまで燃えたのは、一体いつ以来だろうか?

ああ、これで今夜ここで演奏できたら、どんなにか幸せだろう!

“ズギューン!”のメンバーがここにいないのは悔しいのひとことだ。こっそり連絡を取ったって誰にも分らないとは思うけど。

アイヴィーはそんな思いを噛み殺した。

ギヤにウソはつけない。


ライヴで熱くなった身体を冷やすため、アイヴィーはいったんギヤの外に出た。シンも後ろからついてきた。

階段はフロアよりもいくらかヒンヤリとしていて、アイヴィーはホッとした。パンクスたちが階段に座ったり、寝そべるようにしてリラックスしているのも昔と同じ。最初にここにいた二人はどこかへ消えていた。

地上に出るわけにはいかない。バレたら大変。

「ねえ、2百万ボルトにも行ってみようよ。」

アイヴィーはそう言うと、階段を降り始めた。シンは黙って後に続く。

階段は10段ほど降りると右に折れている。さらに10段ほど降りた、その突き当りが2百万ボルトだ。

「あれっ。」

アイヴィーとシンは右に曲がる踊り場で立ち止まった。

2百万ボルトは開いていない。

照明もついておらず、階段の下は真っ暗だ。

シンがスマホのライトをかざしてみたが、ほとんど役に立たなかった。

二人は踊り場でしばらく佇んでいた。またライヴが始まったようで、パンクスたちがぞろぞろとギヤの中へ入っていく。

違和感はなかった。今夜、2百万ボルトがギヤのように営業していない理由は二人にも何となく分かる。

2百万ボルトは、今も生きている。

このライヴハウスのフロア横にあった、2百万ボルトの象徴ともいえる壁画は、いま新しい2百万ボルトのステージのバックを飾っている。どうやって持って行ったかは聞いてないけど、魂は受け継がれた。

アイヴィーもシンも新しい2百万ボルトに初めて行ったとき、そこが確かに2百万ボルトなのだと心から感じた。

だから、この場所を懐かしく思い出すことはあっても、失われたことを嘆く必要はない。

きっと、そういうことなんだろうな。

二人は階段の上に立ち、何も見えない暗闇を見つめながら、かつての2百万ボルトに思いを馳せていた。


階段や踊り場には、二人のほかに誰もいない。

「俺たちも戻るか。」

「…うん。」

シンはゆっくりと階段を上り始めた。

アイヴィーはためらうようにその場にとどまっている。

「…ねえ、シン。」

言うかどうしようか、迷ったけど。

二度と来ることはできないから。

悔いは残したくないから。

「どうした?」

シンが振り返る。

「この場所のことも、覚えてる?」

いま二人が立っている、この踊り場。

思い出だらけのこのビルの中でも、とりわけ大切な記憶が眠る場所。

そう、二人の想いが通じ合ったのが、この踊り場。

「別に、だからどうってこともないんだけどね。」

アイヴィーは何かを弁解するように慌てて言葉をつないだ。

どうってこと、大あり。絶対に忘れない。

あの時も、シンはあくまでシンだった。気の利いた口説き文句なんてひと言も出てこなかった。

その代わりに…。

「もういいや、行こうよ。」

アイヴィーがそう言って階段の方に向き直った時、力強い手がアイヴィーの両肩を押さえた。彼女はあっという間に、だが優しく踊り場の壁に押しつけられた。

アイヴィーの目の前にはシンの顔。あの時みたいに意志の強い表情。

年齢こそ重ねたけど、そう、あの日と同じように。

シンもちゃんと覚えていたんだな。

普段の彼なら絶対にこんなこと、しない。お世辞にもロマンチストなんかじゃない。

でも、こんなにもあの日のことを美しく思い出す夜は、もう二度と来ないだろうから。

言葉よりも、もっと雄弁に語り合う方法で。

アイヴィーは目を閉じなかった。あの時と同じように。

彼女は彼の背中に手を回した。

彼も同じように彼女を抱き寄せた。

二人はずいぶん長い時間、唇を重ねていた。



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