その1
「アイヴィー、聞いたか?」
今夜はこれで最後の一杯、と決めたビールのジョッキに口をつけたその刹那。
「ギヤと2百万のビル、取り壊しだってよ。」
シンの言葉に、きっかり心臓の鼓動3回半、アイヴィーの時間が止まった。
JR高円寺駅の北口近くにある焼き鳥屋の座敷に、二人は腰を落ち着けていた。
お世辞にもシャレた感じの店じゃなく、雑多でザワザワしていて、自分たちが最初にやって来た頃の高円寺を思い出させてくれる店。
二人ともそんな雰囲気が好きで、たまに外食といえばもっぱら大衆居酒屋ばかりだ。
シンとアイヴィー。二人は高円寺で一緒に暮らしている。
生業は、パンク・ロッカー。
それぞれが別々のルーツからこの高円寺へ流れつき、ライヴハウスの片隅でひっそりと出会った。
それから幾年月。身体は離れ離れになった時期もあったけど、ハートはずっと一緒。
高円寺は、ここ数年間で確実に変わりつつある。
共に熱い時間を過ごした仲間たちが少しずつこの街を離れ、通りでパンクスを見かける機会も年を追うごとに減っている。ライヴハウスの閉店も続いている。
パンク・イズ・デッドなのか?
パンクス・ノット・デッドじゃないのか?
それでも変わらないものだってある。
変わりたくないものだってある。
二人はここでずっとパンク・ロッカーとして暮らしている。たとえ高円寺で最後の二人になっても、シンとアイヴィーは死ぬまでここでパンクであり続けるだろう。
「…そうなんだ。」
無意識に髪をかき上げながらアイヴィーはつぶやいた。他に気の利いた言葉が出てこない。
ハート型の顔の周りをふわふわと揺れ動く、肩まで伸びた緩いウェーブの真っ赤な髪の毛。切れ長の目に小さな鼻。大きめの口。
パッチでカスタムした分厚い黒のパーカーを着て、タータン・チェックのスカートにボーダーのタイツ。自慢の鈍く光るライダース・ジャケットは店のハンガーに引っ掛けてある。ピンクのベレー帽を斜めにかぶったその姿は、田舎から出てきたあの頃とあまり変わっていない。
ロックンロールをベースに敷いたハードコア・パンクバンド“ズギューン!”のヴォーカリストとして、パンク界のみならずロック・シーンでも全国区での知名度を誇るアイヴィー。初めて高円寺に足を踏み入れた時、彼女は高校も卒業していない家出娘だった。
不安まじりのあどけない表情を見せていた少女は、ライヴハウスの最前線で身体を張り続けた数年のうちに、いつの間にか大人の女性へと変化を遂げていた。食べる量や内容に気をつかうようになったし、化粧なしで外を出歩くようなことももうできない。
二度と戻ってこない瑞々しさの代わりに、“知的”と表現してもいい聡明な魅力を手に入れた。“頭がいい”というのは単に学歴があるってことじゃない。アイヴィーは本当の意味で“いい女”の域に足を踏み入れつつある。
そして熱い気持ちはあの頃のまま。何よりその歌声は年月を経てますます磨かれ研ぎ澄まされ、今も唯一無二の輝きを放ち続けている。
二人の間につかの間の沈黙が流れた。
シンはアイヴィーの気持ちが落ち着くのをじっと待つように、ただ黙ってビールを口にする。アイヴィーも「いつなの」とか「誰から聞いた」など余計なことは聞かない。
何も言わなくても伝わるものは伝わる。二人の間では。
シンはボロボロになったシングルのライダース・ジャケットを座敷でも脱ごうとはしない。下は白のタンクトップ。擦り切れたジーンズ。
シルバーをいくつも身につけたアイヴィーとは対称的に、アクセサリーは一切身につけない。唯一の飾りは無造作に立てたボサボサの黒髪に、頭に巻いたヒモ。
細い眉毛に猛禽類みたいな鋭い目つきは昔のままだが、シャープだったアゴや腰回りには以前よりも少し肉がついて、ニヤリとすると鼻の横に笑いじわが目立つようになった。アイヴィーはそのしわを密かに気に入っている。
もともと酔っぱらって機嫌がいい時以外は口数の少ない男だったが、年齢を重ねたせいか最近はさらに黙っていることが多い。
シンはギタリストとしていくつものバンドを渡り歩き、ここ数年はファストコアのバンドで腕を鳴らしている。長年行動を共にしているドラマーと結成したバンドで、シンが在籍した中では一番長い活動歴を誇る。前のバンドは全てトラブルを起こして解散するかシンが脱退するか、その繰り返しだった。
だいたい昔のシンは口を開けば出てくるのは悪態で、言葉の代わりに拳をふるうような男だった。ステージ以外で自分を表現するのが苦手で、良くも悪くも真っすぐすぎる性格は誤解されやすい。
結果として彼の周りには人が寄りつかず、それで彼はますます苛立ち続けていた。
今は違う。ライヴハウスに顔を出せば、シンの周りには大勢の仲間が集まってくる。若いパンクスたちにとってシンは尊敬に値する存在だ。ギタリストとしての彼の腕も、その人柄も。彼は後輩たちの目をのぞき込み、穏やかな表情で納得させてしまう。そこにかつてのはみ出し者のシンはいない。
高円寺という舞台の上で、二人はゆっくりと大人になっていった。楽しいことも哀しいことも、嬉しいことも悔しいこともパンクの神様はイヤというほど与えてくれた。
嵐が過ぎれば土台が残る。シンとアイヴィーはバンドマンとして、そして男と女として本当にいい時期を迎えていた。
そんな二人を育ててくれた思い出の場所が、消える。
かつて、JR高円寺駅南口からほど近い屋根つき商店街にある雑居ビルに、2軒のライヴハウスが入っていた。
地下1階が「ギヤ」。地下2階が「2百万ボルト」。
地上と2軒をつなぐL字型の階段と共に、この2軒は高円寺パンク・ロックの象徴であり、パンクスたちの拠り所だった。
平日も休日も関係なく数々のバンドたちが夜な夜なステージにて熱い演奏を繰り広げ、フロアは髪を立てて派手な衣装を着込んだパンクスたちであふれ返り、バー・スペースでは笑顔とお喋りが絶えることがなかった。階段や踊り場さえも彼らにとってはたまり場であり、ライヴ中やライヴ後は階段に座り込んで余韻にひたり、また大いに酔っ払うのが風物詩だった。
時には殴り合いの喧嘩も起きたり、トラブルなどは日常茶飯事。だがそれもまた譲れない真剣な想いのぶつかり合いであり、褒められたものではないにしても…ある種の大事な風景ではあった。
この2軒からは(パンクに限らず)沢山のバンドやミュージシャンが巣立っていき、そのうち何組かは有名になり、より広い世界へ進出していった。しかし有名・無名を問わず、多くのバンドマンたちにとって「ギヤ」「2百万」と言えば自分たちのルーツであり、大事な故郷だった。
あの出来事が起きるまでは。
数年前のある夜明け前、2軒の上にあった居酒屋で火事が発生した。フロアを焼き尽くし、4人の死者を出す大惨事だった。高円寺の街は騒然とし、数日の間、テレビカメラを構えたクルーが我が物顔で通りを占拠し、バンドマンたちに「ビルの写真や映像が残ってないか」と聞いて回っていた。
騒ぎの陰で、2軒のライヴハウスは休業を余儀なくされた。かなり古い建物だったため、火災によって消防法などの不備が露呈してしまったのも良くなかった。「早くオープンしないかな」「しばらくすればまた復活するだろう」というパンクスたちの楽観的な希望は、日が経つにつれ徐々に焦りへと変わっていった。
残されたライヴハウスのスタッフたちは存続を訴えて各地を奔走した。バンドマンたちの間でもライヴハウスの親会社に再開を嘆願するための署名運動が始まり、誰もが“あのハコでの熱い夜をもう一度”と心から願った。
しかし、オーナー側が最後に出した答えは悲しい現実だった。
「ギヤ」「2百万ボルト」閉店。
パンクスたちはエデンの園を追われた。
自らに何ひとつの落ち度もなく。
二人は黙って酒を飲んでいた。まるで、想いを口にしたら壊れてしまうとでもいうように。
その後、2百万ボルトは当時の店長を中心とした熱いスタッフたちにより隣町に新天地を見い出し、少しの名称変更を経て新たなパンクの聖地として再スタートを切った。
しかしギヤが復活することは叶わなかった。気持ちだけではどうしようないこともある。
月日が流れ、ギヤは過去の思い出としてのみ語られる存在となった。
アイヴィーにとっても2軒のライヴハウスは思い出の詰まった青春のステージ。特に思い入れが強いのはギヤの方だった。
田舎にいた頃のアイヴィーにとって高円寺のライヴハウスは憧れの存在で、その中でまず最初に足を踏み入れたのがギヤだった。荷物をロッカーに預け、今夜の宿も決まっていないままライヴを観に来たのだ。そこにはパンク雑誌で見た通りの世界が広がっていた。
ギヤを中心に彼女のバンド人生は広がっていった。もちろん他のライヴハウスにも出入りはしていたが、暇さえあれば顔を出すのはギヤだけだった。
自身のバンド“ズギューン!”の初ライヴもギヤだったし、初の自主企画もギヤだった。
ひょんなことから知り合った松下のおばちゃんをライヴハウスに呼んだのもアイヴィーで、その舞台もギヤだった。
松下のおばちゃんがギヤで撮ったアイヴィーのライヴ写真が写真展で入賞し、そこから彼女は注目され始めた。そんな舞台でもあった。
そして何よりも。
アイヴィーとシンは、ギヤで出会った。
とあるアクシデントをきっかけに言葉を交わすようになり、やがて引き寄せ合う磁石のように二人の心は交錯し、その想いは結実した。一緒に暮らすようになるとギヤはご近所さんとなった。
一番大切な人も、ギヤが与えてくれた。
ずっとずっと、そんな思い出を永遠に積み重ねながら…白と黒のモザイクタイルに彩られたあのステージに立ち続けるものだと信じていた。そんな思いは、あの火事によって木っ端みじんに打ち砕かれた。
あの夜、二人はギヤからほど近いロックバーでの友人のバースデー・パーティに顔を出していた。
しこたま酒を飲み、気の合う仲間と大笑いをして、時間が経つのを忘れて楽しんだ。大騒ぎがやっとお開きになったのは明け方近くだった。
最初はかすかに感じる程度だった焦げ臭さは、やがて足元がおぼつかないほど酔ったシンやアイヴィー、仲間たちの鼻にも届き始めた。店の中じゃない、もっと遠く。
程なくして消防車のサイレンと鐘の音が、白み始めた高円寺の朝の静寂を切り裂いた。どこかで火事が起きている。
それでもまだ、千鳥足で駅の方へ向かう一行の気分は上々だった。PAL商店街にたどり着くころ、辺りは既に煙が充満していた。
商店街の入り口は封鎖されていた。非常線が貼られたショッピングモールの前には既に野次馬が集まり始めている。
誰かが携帯電話に喋っているのが聞こえた。
“石川亭が燃えている”
その時になって、シンやアイヴィーはやっとこの火事が他人事ではない、と理解した。酔いは一瞬で吹き飛んだ。
「石川亭」は、ギヤと2百万ボルトの上にある居酒屋だった。打ち上げで何度も使ったことのある、安くて料理もまあまあ美味くて、何より終電を逃したバンドマンが朝までダラダラと過ごせる、馴染みの店。
二人が初めて会った日の打ち上げも、石川亭だった。
仲間たちと別れ、アイヴィーとシンは何とかして石川亭の近くまで行けないか、とPAL商店街の周りをウロウロしながら、少しでもビルが見える場所を探し続けた。
頑丈な造りのモールに阻まれ、ビルはおろか炎を見ることすらできない。いつも何気なく使っているビルの全貌を見たことがないことに、二人は今さらながら気づいた。
人だかりはますます増え続ける。緊迫感が漂っていた。
シンがポツリとつぶやいた。
「昨日、誰がライヴやってたんだ?」
そう、石川亭の下。ギヤと2百万ボルト。
二人は昨夜ライヴハウスに仲間や知り合いが残っていなかったか、石川亭に行っていなかったか、確認の連絡を取り続けた。何かせずにいられなかった。
ますます激しくなる煙とサイレンの音を横目に、サラリーマンたちがいつも通りに朝の通勤をするために通り過ぎていく。日常と非日常の、狂ったコントラスト。
バンド界隈の人間で、火事に巻き込まれた者は誰もいなかった。
人命の代わりに、パンクスたちは我が家を失った。
「ごちそう様。」
そう言ってアイヴィーはえんじ色のDr.マーチンの靴ひもを結び始める。古ぼけたコンバースに足をつっこむだけのシンは、立ったままそんな彼女をずっと待っている。
これも、いつもの光景。
焼き鳥屋ののれんをくぐると、身を切るような寒さが二人を包んだ。今年の冬は寒くて、革ジャンくらいでは到底しのげない。早く家に帰ってお風呂に入らないと。
今日は二人とも、仕事もスタジオもライヴも何もない。
普段のシンは左官職人。アイヴィーは服飾デザイナーもどき。“もどき”というのはそれ一本で食えるほど稼げてはいないから。その代わりバンドで赤字は出ていないし、実は他に収入源もある。二人でなら、そんなに贅沢をしなければ日々の暮らしには困らない。
お互いの肩が触れるか触れないかくらいの距離で、並んでぶらぶらと歩く。ブーツを履いたアイヴィーは平均的な女子より少し背が高いけど、それでもシンの方が頭ひとつ大きい。
手をつないだり腕を組んだりはしない。付き合い始めた頃から、ずっとそうだ。それがパンクらしいとか何とか、はよく分からない。そんな性分じゃないからだ。こうやって並んで歩いている方が自分たちらしい。
二人が住んでいるのは北口の、駅から10分くらい歩いた場所にあるアパート。高円寺では何度か引っ越しをしたけど、一貫して北口に住み続けている。
ギヤと2百万ボルトが閉店して以来、二人がPAL商店街に行く用はほとんど無くなってしまった。
いま高円寺のライヴハウスはほとんどが北口に集中している。南口には仲間の経営するロックバー、パンクショップ、タトゥーショップなどががんばっているが、PAL商店街にはほとんどパンクの痕跡がない。
実のところアイヴィーはここ数年、PAL商店街を避けるようになっていた。
石川亭と2軒のライヴハウスがあった雑居ビルは、その上にあるキャバクラのみが営業している状態が長く続き、ライヴハウスに通じていた階段は塞がれた。
火事のあとに彼女は何回か塞がれた階段の前に立った。そして、長くそこに留まることができなかった。いろいろな感情が溢れすぎて、呼吸が苦しくなる。
どんなものにも必ず終わりはある。そんなことは分かってる。
慣れ親しんだライヴハウスの閉店は、これまでも何回か経験してきた。確かに寂しいことだけど、普通は前もって告知があり、ラスト・ライヴをする機会があり、何らかの形で踏ん切りをつけることができる。
でも、ギヤの場合は。
終わりすら、与えられなかった。
アイヴィーの中では、未だにギヤは終わっていない。再び始まることは絶対に無い、と知りながらも。それがどんなに苦しいことか。どんなに辛いことか。
だから、彼女はギヤへの想いをむりやり封印した。
到底忘れられるわけはない、と知りながらも。
たぶん、そう感じているのはアイヴィーだけじゃない。
「寝る前にさ、ちょっと飲み直す?」
「そうだな。」
「コンビニでさ、何かおつまみ買ってこうよ。」
「そうだな。」
二人の会話は短い。アイヴィーが話題を振って、シンが言葉少なに答える。それで十分こと足りる。
シンもアイヴィーも一本気な性格。付き合ってから二人の愛情が揺らぐことはなかったが、シンが尖っている頃にはバンドとしての衝突は何度かあった。
当初、バンドマンとしての実績はシンの方が遥かに先を走っていた。しかしアイヴィーのバンド“ズギューン!”はあっという間に彼を飛び越し、その情熱をステージで余すところなく表現し、高円寺からはるか先の広い世界でも認知される存在となった。
シンはそんなアイヴィーがまぶし過ぎて、それも彼がどん底まで転げ落ちる一つの要因となった。負のスパイラルは連鎖し、彼が払った代償はとてつもなく高いものについた。
シンがツケを精算して再び立ち上がるために戻ってきた時、アイヴィーは手を貸さなかった。その代わり、ある時は背中を押し、ある時は突き放し、ある時は抱きしめ、ひたすら支え続けた。シンが自分とバンドを取り戻すまで。そして、自分は一人じゃないと気がつくまで。
シンは自らそれをつかみとった。初期衝動はそのまま、彼の人生はうるおい始めた。彼は自分を信じ、仲間を信じられるようになった。そして、それを成し遂げた時にまだ自分の隣にいてくれる赤い髪のこの女、彼女なしに今の自分はあり得ないことも理解していた。
アイヴィーのためなら、この心臓ごとくれてやってもいい。
口には出さない。出す必要もない。お互いに理解していれば、それでいい。
今もバンドのスケールとしては、シンのバンドより“ズギューン!”方がずっと上だ。でもシンはもう惑わされない。人のバンドの境遇をうらやむより、ただ目の前のライヴに魂を賭けてステージに立つ。それで十分なのだと。
動員が多いバンドが偉いなんて、どこにも書いてない。
シンはパンク・ロッカーだ。
高円寺駅前には、大嫌いなオマワリが立っていた。いつの時代もパンクスたちはオマワリの目の敵にされる。これほど自分に正直な人種は、他にいないってのにね。
シンがオマワリを避けるようにプイと向きを変え、駅の構内に入っていった。
「シン、どこ行くの?」
「ちょっとな。」
アイヴィーが慌てて後を追う。シンは改札の前を通り過ぎ、南口の方へ向かっていった。終電まであと少し、高円寺駅はいつものように騒がしい。
駅を通り抜けるとシンは右に曲がり、高架下を横断歩道に向かって歩いた。目の前の信号を越えて少し歩けば、左側には…PAL商店街。
「ねえ、シン。」
赤信号で立ち止ったシンに、アイヴィーはまた問いかけた。
数年前、この横断歩道を歩けば知り合いの誰かと必ず顔を合わせたものだった。今となっては、バンドマンらしき人間がここを通ることすらも珍しい。
青信号をゆっくりと歩き出しながら、シンはぼそりと言った。
「ちょっと、最後に見たくなってよ。」
「えっ…。」
シンは振り返らず、すたすたと歩いていく。
アイヴィーは立ち止った。
シンが高円寺の南口で、最後に見たいものなんて。
あの場所に、決まってるじゃない。
シンはどんどん歩いていき、やがてPAL商店街に入って姿が見えなくなった。
一緒に来いとも何とも言わない。
けど、アイヴィーには何となく分かる。シンが自分のために、あの雑居ビルに行ったんじゃないってこと。
シンは知ってる。二人でPAL商店街を歩いていても、あのビルの前になるとアイヴィーは早足になる。意識して前だけを見て歩き続ける。
アイヴィーがどう感じているか、シンは分かっている。
今までなら、それでも良かった。
だけど、もうそんな感情すら示すことができなくなる。
向き合うなら、今しかない。
だから。
「…行くか。」
アイヴィーは深呼吸をして、シンを追いかけ歩き出した。
どんな気持ちになるかは分からないけど。
大声で泣いちゃうかもしれないけど。
蓋をしたまま終わりになるよりはずっといい。
今夜、抑えつけていた感情と向き合おう。
自分の気が済むまで。
アイヴィーが追いかけると、シンはあのビルの手前にある交差点を歩いていた。横に並ぶと、彼はチラッと彼女を見たが何も言わなかった。
アイヴィーは柄にもなく、ちょっと緊張した。
ただ、前にライヴハウスがあった雑居ビルを見に行くだけ。それだけなのは、分かっているけど…。
気持ちを落ち着ける暇もなく、二人はあのビルの前に立った。
ギヤと2百万ボルトが入っていた雑居ビルは、駅からPAL商店街に入って中ほどの左側。
短い階段を上がると、ドアのない長方形の奥まったエントランス。一番奥にあるエレベーターは上の階にあるキャバクラのために数カ月前まで稼働していたが、今やそれらの店も閉店し、ビルはひっそりと終わりの時を待っていた。
「ねえ、これ見て。」
アイヴィーが指さした壁には、ビルの解体計画書。
「…明日からか。」
「ねえ。今夜、来て良かったね。」
明日、このビルは取り壊される。
ギリギリ、最後に間に合った。運が良かったな。
いや、ギヤがアタシたちを呼んだのかな?
そんなことを思いながら、二人は灯りの消えたエントランスへ足を踏み入れた。
エントランス奥の左側に、かつてギヤと2百万ボルトに通じていた降り階段がある。
商店街の灯りにうっすらと照らされた、他の部分と色の違う壁。
アイヴィーとシンは壁を前にして、黙って立ち尽くした。
何も感じないわけじゃないけど、思ったような感情は沸いてこない。もっと、抑えられない何かが爆発するんじゃないかと思っていたけど。
さまざまな記憶は遠くにあって、掴めそうで掴めない。
ギヤが閉店してからずいぶん時間が経った。思い出はあくまで過去のもの。
この壁が、思い出すことを阻んでいるのかもね。
そう思いながら、アイヴィーはシンの方を見た。暗がりの中で、彼の表情はうかがい知れない。
外気はますます冷たさを増し、エントランスにも時おり風が吹き込んでくる。アイヴィーは身を震わせた。
「行くか。」
シンがつぶやいた。アイヴィーは黙ってうなずいた。
自分が思っていたのとは違ったけど。
これが、ギヤが終わるってことなんだな。思い出が本当に思い出だけになるってこと。
大人になったのかもな。
まあ、想いを少し吹っ切ることができたかな。
うん。今夜、来て良かった。
シンのおかげ。
二人は顔を見合わせた。何も言うことはなかった。
シンとアイヴィーは商店街の方へ向きを変え、外に向かって歩き出そうとした。
アイヴィーはふとお別れの挨拶のつもりで、かつて出入口だった壁をそっと押してみた。
「ばいばい。」
柔らかさと、光。
壁際から、ひと筋の光が漏れ刺した。
不意を突かれアイヴィーは目を大きく見開く。
「なに…これ。」
完全に埋められているものと思っていた壁がグラグラと傾いている。巧妙に隠されてはいるが簡単に動くようだ。前に来た時、そんな気配は一切なかった。それとも、気づかなかっただけ?
アイヴィーはシンの方を振り返った。シンもまた驚いた表情で、漏れた光を見つめている。
彼は慌てて後ろを振り返った。人通りはない。こんな寒い夜、終電も終わり、街はすっかり寝静まっている。
「アイヴィー、ちょっと下がってろ。」
シンはそう言うと、壁を慎重に調べ始めた。どうやら引き戸のように横に動くようになっているらしい。
シンが力をこめると、音もたてず壁が動いて出入口があらわになった。低い天井、下に続く階段。灯りに照らされ目がくらむ。予想された異臭なんかは漂ってこない。
生きている照明に、清潔な空気。
何年も密閉されていたはずなのに。
「早く入って!」
急に発せられた声に、二人はビックリして危うく階段から落ちそうになった。押し殺したような若い男の声。
誰かいる!
こんなところに、誰が?
浮浪者でも住み着いたんだろうか。
「早く閉めて、早く!」
アイヴィーとシンは顔を見合わせた。
ギヤは自分たちの聖地。中がどんな状態にせよ、いま再びギヤに足を踏み入れるチャンスがある。
迷う理由はない。
二人は入り口へ飛び込んだ。そして急いで壁を元に戻した。
音もなく壁が動いて、再び辺りには静寂が戻った。