第八章 存在の証明
僕が心身ともにボロボロになって店へ戻ってきた時には、すでに閉店時間を過ぎていた。涙を見られずによかったと思う反面、みんなと一緒に戦いの終わりを迎えられなかったことに、言いようのない寂しさを感じる。
何か事を成す時、何かを達成するその瞬間、みんなとその瞬間を共有できないことは、どうしたって、仲間はずれな気持ちになってしまう。
多分時間的にまだ閉店後の作業をやってるはずだ。それども、僕はなんとなく、そこには入っていける気がしなかった。一度感じてしまった寂しさは、なかなか胸の中から消えてはくれない。
仕方なく、僕は自分の部屋へと戻った。暗く、誰も迎えてくれない部屋。慣れ始めた部屋なのに、今はそれが寂しさに拍車をかける。そんなことは無いって分かってても、結局僕は一人ぼっちなんじゃないか。そんな気さえしてくる。
「はぁ……」
暗い気分を変えるためにも、窓を開けてベランダに出る。
「みんな大丈夫だったのかな?」
「はい、問題なく今日の営業は終了できましたよ」
「そっか。それならよか……はい?」
「ふふ、お帰りなさい、高橋くん」
なんと、お隣さんであるところの愛沢さんが、ベランダの仕切りからひょこっと顔だけ覗かせていた。
「あ、え、あ、愛沢さん? まだ閉店作業中じゃ……?」
「津田さんの言った通りです」
「マリアが?」
「はい」
愛沢さんが楽しそうに、手を口に当てて微笑む。僕は何がなんだか分からず、苦笑いで愛沢さんの言葉の続きを待った。
「津田さん、『あいつが戻ってきた時、もし閉店時間を過ぎてたら、多分自分の部屋に戻るから』って、私だけ早めに上がらせてもらったんです。津田さんはお店にいなきゃいけないし、私は隣の部屋だからって」
「そうだったのか」
琴子もそうだけど、どうしてこう、僕の行動は周りに筒抜けなんだろうね。そんなに分かりやすいのかな?
「みんな心配なんですよ」
僕の心情を知ってか知らずか、愛沢さんが優しく続ける。
「高橋君はこう、自分の周りに壁を作ってるような気がします。それも、人を寄せ付けないための壁じゃなくて、自分を外に出さないための壁」
「そうかもしれない」
長年そう生き続けてきたから、自分を人に深く関わらせないようにする行動が、身体に染みついてしまっている。個性を、キャラを無くそうとしてしまう。閉店後、店に寄らなかったのだってそうだ。一人ぼっちになった気がしたのだってそうだ。それでも……。
「もう大丈夫。何だかんだバタバタしてて、深くは考えられてなかったけど、もう大丈夫だから」
さっきの配達がショック過ぎて、また少しネガティブになってた。
苦手だと勘違いしていたオタクの方々は、僕と好きなものを共有したいと、優しく接してくれる。決して価値観を押し付けたりしない。
マリアは僕を必要だと言ってくれた。キャラなしをキャラにしろと。そう言ってくれた。
そして、愛沢さんは『おかえりなさい』と言ってくれた。
僕はもう一人じゃない。
まったく、何回確認すれば実感が湧くのかね。もしこの感情に形があるのなら、指差し確認したいぐらいだ。
「ありがとう、愛沢さん」
「いいえ」
何だか照れ臭い。
愛沢さんのほっぺは少し赤くなっている。多分僕も。
「それで、大事な話ってなんですか?」
「え?」
「配達行く前に言ってたじゃないですか」
「あ……」
やっべぇ、完全に忘れてた!
てか今言うの? マジで?
さっきの僕は本当にバカだな! 完全に変なテンションになってたとしか思えない! アレだ。オール明けの朝みたいな、ダルすぎて一周回って逆にハイテンションみたいな感じだったんだろうな。ちくしょう、過去の自分に対する殺意が止まらない!
「えーと……」
「はい」
ああ、完全に逃げられる雰囲気じゃない。
よし、僕も男だ! この際腹をくくって一世一代の大勝負といこうじゃないか。
「愛沢さん、聞いてほしい!」
「は、はい!」
僕の気迫に押されてか、愛沢さんの背筋がピンッと伸びる。
「急にこんなこと言われたら困っちゃうと思うけど……」
「はい……」
あれ? 何て言えばいいんだ? 好きって言うんだよな。でもいきなり言ったら引かれないかな? あー、こういう経験ないから全然分からない! 雑誌なり何なりで、もっと勉強しておくべきだった!
「えーと、その、愛沢さんにとってすごく困るというか、むしろ罰ゲームなんじゃないかと思っちゃうかもだけど……」
やべー、ムチャクチャ緊張する! 手汗ハンパない!
「その、うん。僕と付き合ってほしいんだ!」
言った! 言ってやったぞ! ついに僕は言っちまった!
と、達成感が訪れたのも束の間、突如として大きな不安が胸に去来する。
もしフラれたらどうしよう。
いやでも、多分嫌われてないはずだし。いやいや、その程度で「分かりました」僕と付き合ってくれるのか? かと言って、お部屋に「いいですよ」お招きいただいたことだってあるんだぞ? だけどまだ会ってから二週間しか経ってないし……。たしかしたかしだがしかし──あれ?
「今、何とおっしゃいました?」
「いいですよって言いました」
「え? マジで?」
「はい」
愛沢さんの屈託のない笑顔は、とても嘘をついてるようには見えない。
ってことは……。
「いいぃぃぃぃやっほおおおおぉぉぉぉぉ?」
え? いいの? 愛沢さんが僕の彼女? いやむしろ嫁? 夢じゃない? 痛い! ベランダの手すりに思いっきり頭打ち付けたけど、やっぱ痛い! 血出たけど気にしない! もう撤回しないんだからね! ちくしょう、ベランダの仕切りが邪魔だな。いっそぶち抜いて今すぐにでも愛沢さんを抱きしめようか?
「それで、いつ、どこにいくんですか?」
おやおや、もうデートの約束かい? マイハニーは気が早いな。
「どこにしようか?」
「あれ? どこか行きたいとこがあるんじゃないんですか?」
「え? そんな話したっけ?」
「え? でも付き合ってくれって……」
「ん?」
「え?」
…………………………………………。
待て待て。どうもちょっと話がおかしいぞ。一回冷静になろうか。
「えっと、愛沢さんは僕と付き合ってくれるんだよね?」
「はい。ですから、行きたい場所があるんですよね?」
「あの、それってどういう……?」
「え? 罰ゲームなんですよね?」
「罰ゲーム?」
「もう、高橋君がさっきそう行ったじゃないですか。バック対決で負けた時の罰ゲームだから、|高橋君が行きたいところに付き合う《●●●●●●●●●●●●●●●●》ってことですよね?」
ほほぅ、なるほど。そうきますか。はいはい。
…………………………………………。
「思いっっっっきりベタじゃないかぁぁぁぁぁ!」
「ひうっ!」
愛沢さんがビックリして可愛らしい悲鳴上げてるけど、今はそれどこじゃないんだ!
何だこれ! 何このベタな展開! さっきの配達で十分オチはついたよ! 何回オトせば気が済むんだ! 僕の気持ちもドン底まで落ちたよ! 追い打ちですか?
ああ、神様! この仕打ちはあまりにもヒドすぎるでしょう!
こうなったら反乱じゃあ! 神相手にケンカじゃあ!
「あ、あの、血の涙を流してるところ、とても申し訳ないんですけど……」
「何?」
「ひぐっ! え、えっと、もしかして私、何か間違えましたか……?」
うるうると潤んだ瞳が、上目遣いで恐る恐る聞いてくる。その小動物的な愛くるしさに、僕はいっきに毒気を抜かれ、みるみる気持ちが萎んでいく。
「あ、愛沢さんは何も間違っていません。言わば、やんちゃで気ままな神様の悪戯が原因なのですよ」
自分でも何を言ってるのか分からず、涙は依然としてナイアガラのごとく。怒りの気持ちは萎んでも、愛しさと切なさと、心強さを飛ばして、悲しさと空しさだけが残ってしまった。
なんとも惨めな生物の誕生の瞬間です。
「あの、なぜ泣いて……」
「心の汗です……」
「え? いや、でも……」
「心の汗です! 僕の心は新陳代謝がいいんです!」
「そ、そうなんですか?」
「はい……」
そんな、愛沢さんを責められるわけないじゃないですか。
神よ、命拾いしたな!
もう少しでこの物語は、神と人類との存亡を懸けた、長きに渡る戦いの話にシフトチェンジするとこだったぜ!
「えと、日時と場所は、シフトを確認してから連絡するね」
まぁ、しょうがない。せめて、ポジティブに考えようじゃないか。
別にフラれたわけじゃないんだから、僕にはまだチャンスがあるはずだ。それに、最低でも一回は愛沢さんとデートができる! いたって僥倖である!
……このぐらいテンション上げないと、心が折れそうだよ……。
「分かりました。さて、一区切りついたところで、ちょうどいい時間ですね」
僕の一世一代の告白もあっさりと話題転換され、不思議なことを言い始める。
「ちょうどいいって、何が?」
「ふふふ」
愛沢さんはひたすら微笑むだけで、詳しいことは何も話してくれない。
「それじゃあ、私は外で待ってますので、用意ができたらすぐ出てきて下さいね」
「こんな時間からどこ行くの?」
「すぐそこですよ」
愛沢さんを待たせないために、超特急で準備をし、サンパレスのエントランスを出たとこで再度聞いてみた。けど、返ってくるのは相変わらず曖昧な言葉。
「すぐって、場所ぐらい教えてくれても──」
「着きました」
「って早ぁぁ!」
いや、着いたって、まだマリアの家の前までしか進んでないじゃないか。いったい何があるのかと周囲をキョロキョロ見まわしていると、愛沢さんは何も躊躇することなく津田家の門を押し開く。
「え? ちょっと、え?」
「ほら高橋くん、急がないと始まっちゃいますよ」
愛沢さんの小さく、柔らかな手が僕の手を握る。驚きと照れで手を引っ込めてしまいそうになるのを全力で抑え、彼女の手のぬくもりを楽しもうとしたのも束の間、なかば引きずられるようにして津田家の玄関をくぐった。
一週間前に訪れて以来、再度入ることは無かったマリアの家。それなのに、最初に感じたのは『懐かしさ』。硝子戸の玄関も、いくつも襖が並ぶ長い廊下、そして微かに香る畳の匂いも。
「高橋くん?」
つい感慨に耽ってしまった僕の顔を、心配そうに覗きこむ愛沢さん。
「あ、大丈夫。ゴメンね」
僕は靴を脱ぎ、待っててくれた愛沢さんの横へと並ぶ。そのまま二人、仲良く肩を並べて歩き、入り口から二つ目の襖を愛沢さんが開けてくれる。促されるまま部屋に入った瞬間──
パンッ! パパンッ! パンッ!
いくつものクラッカーの音と、そこから発射された紙吹雪に出迎えられた。先週マリアが通してくれた部屋の三倍はありそうな部屋に、ダウンしていた斉藤さんや栞も含め、オールキャストが揃っている。僕がキョトンとして目をパチクリさせていると、愛沢さんが僕の背中を押しながら説明してくれる。
「無事に昨日、今日とキャンペーンを乗り越えられた打ち上げと、それに……」
「あんたの歓迎会をまだやってなかったからね。仕方なく、皆にこうして集まってもらったわけよ」
愛沢さんの言葉を引き取るように、みんなの中心にいる自称魔法少女が口を開いた。
「よく言うです。このパーティー自体、マリアっちがノリノリで企画したです」
「ちょ、栞、それはひみつ──何にやけてんのよ?」
「え? 別に?」
いつもはマリアに怒られてばかりの栞が、パーカーの袖をぷらぷらさせて、ここぞとばかりに復讐を開始する。そんな普段とは逆の光景が、微笑ましく見えた。
「私の新しい魔法、『直撃の杖』で顔のかたち変えてあげましょうか?」
ただ、その微笑ましさのおかげで、今まさに僕は二度と微笑むことのできない顔にされそうなのだけど……。
「てか、やっぱ魔法じゃない! 『杖』が『直撃』って言っちゃってるし!」
「うるさいわねぇ。もういいわ。はいはい、みんなグラス持って!」
僕の抗議は毎度のごとく一蹴され、乾杯の音頭のために、それぞれが近くのコップを手に取る。皆が立って輪を作る。もちろん、僕もその一部だ。
「それじゃあ、このキャンペーン期間を無事に終えられたことに。そして……」
マリアが僕を見る。それに続くように、みんなの視線が僕に向く。僕はそれに、一人一人目を合わせることで応える。
「そして、新しい『仲間』に!」
『乾杯!』
全員がコップを上に掲げ、いっきに中身を飲み干す。三国志の桃園の誓いじゃないけど、この瞬間、僕にも実感できるぐらい、ちゃんとした意味でこの人たちの『仲間』になれた気がした。
感傷に浸れたのはここまで。その後はあまりにもカオスだったため、ここからはダイジェストでお送りいたします。
「し、しおりはぁ、新世界の神になるDEATH!」
「ちょっと、栞、酔ってるの? 名字が同じ読み方だからって、無理やり新しいキャラを添加しないで! 語尾もいつもと綴りが違うから!」
「……一発芸。…………腹踊り」
「武光さん、キャラに似合わないことしないでください!」
「……なら……腹切り」
「うん、キャラ通りだけど、腹芸から離れてみようか!」
「何だい、一発芸かい? ならば僕もやろう」
「そこで小野さんはなぜズボンを脱ぐんですか?」
「一種のマジックだよ。何もないところから、一瞬にしてゾウを出して見せるという……」
「帰れ」
「おう、なんだぁ? 今日は裸祭りか? なら俺も……」
「スーパーウルトラミラクルローリングパーフェクトプリティプリンセスサンダーファイヤーフリーザートライデントキック?」
「げべらあぁぁぁ!」
「何か愛沢さんが凄い技出した! てか、愛沢さんも様子がおかしい? それなのに、確実に斉藤さんのテンプルを蹴り抜いただと?」
「うっ、えぐ、どうせ私なんて……」
「春日さんは何で泣いてるの?」
「ひぐ、私なんて、どうせ、武器だの兵器だの、そんなもんばっかが好きなんですぅ! えぐ、何が好きだっていいじゃん! うう、どうせ可愛くないもん……」
「春日さん、現在進行形でムチャクチャ可愛いんですけど! てか、この店には酒乱しかいないのか!」
「まったくうるさいわね。エターナルフォースブリザード!」
「ひゃっほう! 見事に場の空気が凍ったね! 僕、魔法の存在を信じられそうだよ☆」
それは場の空気のせいなのか、はたまた、飲んではいけないものが混ざっていたのか。
気づいた時には、僕もいい感じで壊れてたのでした。
○
「痛て……」
鈍い頭痛で目を覚ましてみれば、宴会場は死屍累々(るいるい)としていた。誰一人として起きてる人はいない。武光さんは胡坐をかいて壁にもたれて、春日さんは目元を濡らしたまま焼酎の瓶を抱えて、愛沢さんと栞は抱き合うように。なんかエロい。斉藤さんは白目を剥いて、小野さんはパンツ一丁で大の字に。それぞれが、それぞれの寝方をしている。
マリアを除いて。
「マリア……?」
呼んでも返事はない。みんなを起こさないように襖を開けて、廊下に忍び足で出る。廊下は暗く、ひっそりとしていた。誰かがいる気配はない。
ふと、頬を何かにくすぐられたような気がして振り返る。そこには二階へと続く階段。上の階から微かに風が流れてくる。
階段が軋まないように注意し、ゆっくりと登る。行きついた先には、一階同様、襖が並んだ廊下だった。
ずらりと並んだ襖の一つ、そこから細い線のように、月の光が漏れていた。
ここも足音をたてないように注意し、ゆっくりと月光の漏れる部屋へと近づく。やっとの思いで部屋の前まで辿り着き、隙間から中を窺う。
天使がいた。
──いや、マリアだ。
開け放たれた窓の縁に腰掛け、月を仰ぎ見ている。そこだけ月光のスポットライトが当たってるように、マリアは輝いて見えた。放っておいたら、今にも背中から翼が生えて、窓の外へと飛び立ってしまいそうだ。
白いフリフリのワンピースに、黒い大きなポンチョ。白いカチューシャと、駅で初めてマリアを見た時と同じ格好だった。
「起きたの?」
「まぁね。マリアこそ眠れないの?」
「火照っちゃって。夕涼みしてるとこよ」
マリアの声に導かれるように、僕は自然と襖を開けて部屋の中へと入っていった。
初めて入るマリアの部屋。
大きめのタンスに、その隣には同じ高さの本棚が設えてある。その中の本の背表紙は、教科書ではなく魔法関連のものばかり。ベッドの前のローテーブルの上にはタロットカードが積み重なり、その隣に魔方陣のようなものが描かれたノートが開いて置いてある。ベッドの上には黒猫と、白いフクロウの可愛らしいぬいぐるみ。基本的に、調度品は黒と白で統一されていた。ここだけ異世界に迷い込んだかのように、この家に似つかわしくないほど洋風然としていた。
僕はテーブルとベッドの間、自分の部屋でもそうするように、ベッドを背もたれにして座る。
しばらくの沈黙。
お互いの息遣いぐらいしか聞こえない。だけど、マリアとの沈黙は、僕にとってまったく苦じゃなかった。
どれくらい経ったか。窓は開けっぱなしにしたまま、マリアが僕の隣へと移動してくる。
「おかしな部屋よね」
「そんなことない……と思う」
「ううん、自分でも自覚してるの。女子高生らしからぬ部屋よね」
僕は肯定することも否定することもせず、話の続きを待つ。
「でもね、魔法は本当にあるのよ」
僕は否定することはせず、マリアの話に耳を傾ける。
「人は何で、映画を観たり音楽を聴いたりすると思う?」
「え?」
唐突な質問に、思わずマリアを見つめる。僕が答えないでいると、マリアは笑顔を浮かべた。
「感動したいからよ」
「感動?」
「そう」
思いのほかシンプルな答えに、僕がオウム返しすると、マリアはそのまま優しげな声で、ゆっくりと語る。
「音楽でテンションを上げたい、映画を見て、名曲を聴いて泣きたい。コメディで笑いたい。つまりは『感』情を『動』かしたい。感動したいのよ」
「なるほど」
「感動なら他の方法でもできる。本を読む、人と話す、食べ物を食べる。いろいろ方法があるわ。でも、本は時間がかかる。人と話して感動するには、話題を選んだり、言葉で上手く表現する力が必要。感動するほどの食べ物は値段が高い。でもレンタルCDやDVDなら?」
「値段も手ごろ。映画なら約二時間、歌なら約五分で感動できる」
「そういうこと」
マリアは僕の答えに納得したように、にっこりと微笑んで大きく頷いた。
「悲しい曲を聴いたり、切ないラブストーリーを観て泣く時もある。でも、その涙は悲しい涙? 観て泣いた後、心が満たされてない?」
確かに泣ける映画を観た時、その時は悲しいかもしれないけど、泣いたあとは満足感、充実感で満たされている。泣ける曲で泣いた時は、不思議とすっきりする。
「それは一種の幸福感と言ってもいいんじゃないかしら? そして映画や歌は、その幸福を『一瞬』で誰かに与えることができる。それって──」
────魔法と言ってもいいんじゃないかしら?
マリアと目が合う。月光が反射し、夜空のように輝く瞳。何度となく、この瞳に吸い込まれそうになる。
「そう……かもね」
それは願望ではなく確信。
空想ではなく現実。
触れぬ幻想ではなく、掴める真実。
幸福になりたくない人間なんていない。
それは一時の間かもしれない。でも、映画や音楽は人に幸福を与えることができる。
「小さいころに会った『彼』のおかげよ。『彼』が魔法のように私を泣きやませて、挙句の果てには幸せな気持ちにしたんだから」
「まったく、無責任なやつもいたもんだ」
「まったくよ」
二人で笑い合った後、マリアの言葉を最後に再び訪れる沈黙。
今はこの沈黙が心地いい。
微かに感じるマリアの体温が心地いい。
マリアの息遣いが、僕を安心させる。
「あんたのおかげよ。ありがと」
急に襲われた眠気にまどろんでいると、マリアの声が聞こえた気がした。そして、何か温かいものが僕の左手を包む。それを握ると、それも僕の手を握り返してきた。
それが何だったのか確認しないまま、僕の意識は深く深く沈んでいった。
この町に来て初めて、夢を見ることのない眠りだった。