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第七章 100(ワンハンドレッド)

 「うーん……」

 愛沢(あいざわ)さんのお部屋に初めてお邪魔した次の日。

 僕は「TSUDAYA」のドアの前で猛烈に悩んでいた。

 時刻は九時十五分。

 開店時間まであと四十五分。開店前の作業があるため、他の従業員はみんな九時ごろから作業をしてるはずだ。今日は日曜日、そしてクーポン適応最終日ということもあって、従業員は全員駆()り出されているらしい。

 「ま、考えててもしょうがないか」

 そう呟いて、僕は電源の切れている自動ドアを手で開いた。

 事務所の方では微かに話声が聞こえる。

 普段は夕方からシフトに入っているため、開店前のお店は新鮮だった。中は何一つ変わってないのに、なんだか違うお店のような感じだ。

 店の最奥、事務所までできるだけ足音をたてずに向かう。

 一昨日マリアと喧嘩し、昨日はすごく忙しい日だったのに、僕は無断で休んだ。もちろん、みんな事情は知ってると思う。でも、みんなにどんな顔して会えばいいのか分からなかった。

 モヤモヤと考えてる内、気づけばもう事務所のドアの前。ドアを開ける勇気どころか、ドアノブに手をかけることさえできずに立ち尽くすこと数分。

 何の前触れもなしに、あまりにも唐突に、ドアが一人でに開いていった。

 「あっ……」

 急な出来事すぎて僕は何も反応できず、ただ内側へと開いていくドアを見つめることしかできなかった。そしてそのまま、ドアを開けた当事者と完全に目が合う。その大きくクリクリとした目が一度パチクリと瞬きしたかと思うと、そのまま細められ、口の両端を少し吊り上げる。

 そう、それはあまりにも自然に出てきた笑みだった。

 「やっときましたです。まったく、遅刻ですよキャラなしさん」

 「う、うん……」

 アホ毛を二本、犬のしっぽのようにぴょこぴょこさせた(しおり)が、屈託のない笑いを僕に向けていた。あまりにも自然な対応に、僕は完全に戸惑っていた。

 「高橋君、君が遅刻なんて珍しいね」

 「…………稀有(けう)だな」

 「新兵は、誰よりも早く来るぐらいの気持ちがなくちゃダメだろう」

 「チッ、おせぇんだよアホ」

 事務所の中から、小野(おの)さん、武光(たけみつ)さん、春日(かすが)さん、えーと、佐藤? いや、斉藤? ま、いいや。チャラ男が順々に声をかけてくれる。今までと変わりなく。

 「高橋くん。もう、遅刻はダメですよ?」

 そして僕の思い人が声をかけてくれる。

 僕の心のわだかまりを、そっと(ほど)いてくれた人。

 「愛沢さん。ゴメン」

 僕の言葉に無言で微笑み返してくれる優しい人。

 そしてその隣。

 みんなが立っている中、一人だけ椅子に座って不機嫌そうにしている小さな影。

 マリアは一言も喋らず、僕と目も合わせようとしない。怒っていても当然だろうな。僕もそれに無言で応える。ただし、瞳をしっかりマリアへと向けたまま。

 「さ、僕たちはさっそく仕事に取り掛かろうか」

 小野さんが代わりに仕切るように、みんなをまとめて事務所から追い出す。愛沢さんとすれ違う時、彼女にウィンクされた。僕は肩を(すく)めてみせる。

 事務所のドアが閉まり、残ったのは僕とマリアの二人きり。

 しばらくの沈黙。

 でもその沈黙は、不思議と気まずくなかった。

 「ゴメン」

 先に言葉を発したのは僕。どんな言葉をかけようかと散々迷った挙句、結局はシンプルに僕の気持ちを伝える言葉になった。

 ハッとして顔を向けるマリア。やっと僕と目が合う。大きくて、少し吊りあがった、猫を思わせるような黒い瞳。その目を見るのはすごく久しぶりな気がした。

 「何で……?」

 「何でって、一昨日のことは全面的に僕が悪いじゃないか」

 『オタク』を嫌いって気持ちが、価値観が、思い込みが先行して、僕はマリアにヒドい言葉を言った。謝って当然のことをした。

 自分の価値観を押し付けてたのは僕の方だった。

 「許してほしいなんて都合のいいことは言えない。でも、僕をここにいさせて欲しいんだ」

 自分でも驚くぐらい、素直に自分の気持ちを語ることができた。ダムが決壊して水が溢れ出てくるように、今まで思い込みにせき止められていた気持ちが溢れ出る。

 「そ、そんなの……。そもそも一昨日だって私が売り場で話してたのが──」

 「それも理解してるよ」

 実は昨日、愛沢さんから聞いている。

 こういう下町のお店というのは、都内の大型店と違って、なかなか新規の客層を獲得するのが難しい。最寄り駅がジャンクション駅だからと言って、わざわざ改札から出て観光するほどの町でもないし、私鉄のため、そもそも規模だって大きくない。

 ならどんな人たちがよく来るのか。

 ずばり周辺住民。つまりは常連さん。

 何回も来店されれば、こっちも向こうも顔を覚える。そんなお店は、どこにだってたくさんあるだろうけど、ここは『下町』。

 僕だって経験がある。この町に初めて来た日の駅で。

 『下町』の人たちはフレンドリーなんだ。横のつながりが強い。お隣さんと仲良しであることだったり、困っている人がいたらすぐ助けることだったり、商店街のアーケードの、アットホームな感じだったり。

 一昨日、マリアが話してたのは常連の主婦の方々。その光景は『下町』ならではのものであり、営業的に言ってしまえば、常連さん獲得のため。

 もちろんマリアの行為が、そんな気持ちの(もと)に行われていることじゃないのは火を見るより明らか。行為の結果、常連さんになってくれているんだ。

 僕は『下町』のことなんて考えたことなかった。でもそれを理由に開き直るのは卑怯だ。最低だ。

 愛沢さんがいてくれてよかった。じゃなきゃ、僕は自分のことを本格的に嫌いになっているとこだった。今以上に。

 「全部聞いたよ。理解した。納得もしてる。で、改めようと思う。だから……」

 真っすぐにマリアの目を見つめる。マリアも、もう僕から目を逸らそうとはしない。

 「ゴメン」

 頭を下げる。マリアは何て言うか。やっぱり不安が先行するけど、妙に清々しい。自分の言いたいことを言えるって、こんなにも気持ちいいことなのか。

 転校ばかりの学生生活で、当たり前のことを忘れてたみたいだ。

 と、僕の服の袖に何かが触れる感触。頭を上げてみると、マリアが小さな指でチョンと袖の端っこを(つま)んでいた。

 「私もあんたにヒドいこと言った。本当にヒドいこと……。だから頭上げて? 私も謝らなくちゃ」

 頭を上げてみれば、逆に今度はマリアが頭を下げていた。

 「本当にごめんなさい」

 「いや、僕の方こそゴメン」

 「ううん、私の方が」

 「いや僕が」

 「わたしが」

 「「…………」」

 「ぷっ」

 「ふふ」

 二人して謝り合い、頭を上げて目が合った途端、なんだか可笑しくなって、今度は二人で笑い合った。

 マリアの手が一回袖から離れ、両手で僕の右手を包む。

 温かかった。

 安心からか、マリアの目には光るものがある。上目遣いで見上げられ、ちょっとドキッとしてしまう自分がいる。女の子の涙って、攻撃力高すぎだよね。

 

 「ずっと一緒にいてくれるんでしょ? あんたが私を泣かせてどうするのよ」

 

 「え? それって……?」

 「あっ! やば、これはダメなやつ……いいいや、ち、違くて! いや違くないけど……。そ、そう! ずっとあんたをこき使ってやるってことよ!」

 僕は一生家畜だそうです。

 「だから、そんなあんたに、ここにいる理由を与えるわ!」

 僕をビシっと指差しながら、ズバッと言う。

 「私はあんたが必要よ! ここで、私がいらないと言うまで働きなさい!」

 「え? それってまさか……」

 告白?

 「そう!」

 そうなの?

 「あんたの能力がこの店には必要なの!」

 「いやマジ急すぎて照れるって。僕だって心の準備が──って、えぇ?」

 告白ちゃうやん! てかベタだな! 上げて落とす。ベタだな!

 ま、僕には愛沢さんがいるからいいけどね!

 「武光から聞いてるわよ」

 「何を?」

 急な話題転換に、僕のおつむが置いてけぼりになってる。

 「その前に。あんたは有能な店員ってのはどんな店員だと思う?」

 「んー、接客が丁寧とか?」

 「そんなのは当たり前よ」

 バッサリ斬って捨てられた。僕なりに考えたつもりだったんだけどな。

 「お客様に対する態度は当たり前の範疇(はんちゅう)。もっと、才能のような意味での有能さ」

 「いや、全然意味が分からないんですけど……」

 さっぱりだ。

 マリアは一回溜息をつくと、指を四本立ててこっちに向けた。

 「努力すれば誰でもいい店員にはなれる。でも、有能な店員になるために、才能に()る部分が大きいものが簡単に言って四つ」

 「なに?」

 「動体視力、記憶力、聴力、そして体力」

 なるほど。

 「いまいちピンとこないんですが……」

 「でしょうね」

 勉強のできない生徒に、一から丁寧に教える先生のようにマリアは教えてくれた。

 「内パケと外パケの、同じ番号のシールを探す時は動体視力が必要。どこに何の商品があるか憶えてればバックだって早くなるし、検索機を使わずにお客さんを案内することだってできる。売り場は背の高い棚が並んでるから視界が悪い。でも、耳が良ければそれだけで回りの状況把握ができる。体力は言わずもがな」

 「確かに」

 単純に感動した。レンタル店の店員ってそんなに奥が深いものなのか。

 そして、マリアの次の言葉は、もっと僕を驚かせた。

 「太郎。あんたはその素質がある」

 「え?」

 僕にそんな隠された力が?

 「体力に関してはまだまだだけど、動体視力、聴力、記憶力に関しては確認済みよ」

 「確認? 僕、別に何か特別なことした覚えは──あ」

 「思い出した?」

 そうだ! 愛沢さんとバック対決した時だ!

 「そう、あんたは店内にいるお客の人数を当ててみせたし、(あおい)にバック対決で勝ってる。まぐれなんかじゃないわ」

 僕の手を握るマリアの手の力が、少しだけ強くなる。

 「キャラってのはその人の個性。(しおり)ならアニメ、武光なら歴史、舞子なら軍事、(あおい)は戦隊ヒーロー、斉藤は……まぁ、女ね。ことレンタル店の店員の能力には、その個性が強く影響すると言ってもいい」

 自分の好きなもの、興味のあるものなら、それに関しての知識も多くなる。映像や音楽など、一種の『情報』を取り扱うからこそ、そういうのが強みになるってことか。

 「だったら、僕にいくら才能があってもダメなんじゃ……」

 「それは違う」

 断固とした、確固とした否定だった。

 「あなたはキャラが無いかもしれない。何かに特化してるわけじゃないかもしれない」

 手を握る強さがどんどん強くなっていく。何かを伝えるかのように。直接、何かを強く訴えるかのように。

 「何かに(ひい)でてないからこそ、特定のものだけに固執してないからこそ、あんたにしかできないこともある」

 マリアの瞳が僕を射抜く。その瞳は魔力を持って引きこむように、僕の視線を掴んで話さない。

 

 「あんたは全てに特化した、『万能型』になりなさい。一点集中じゃない、何でもこなす役割。あんたにはその才能がある。『キャラなし』が、あんたのキャラになる」

 

 報われた。

 そう思った。

 初めて人に必要とされたような、初めて自分の居場所ができたような気がした。

 人に不審に思われないようにチラ見の能力を高め、周りを気にするあまり耳がよくなり、会話についていくために記憶力がよくなった。そんな人生が、初めて肯定された気がした。

 「僕、ここにいていいのかな?」

 「さっきも言ったでしょ? あんたが必要よ」

 いつから流れてたのか、マリアは僕の涙を指でそっと(ぬぐ)い、優しく抱きしめてくれた。

 

 

 ○

 

 「なんじゃこりゃ?」

 マリアと仲直りした後、制服に着替えてカウンターに来てみれば、そこに積まれたいくつものタワー、タワー、タワー……。

 「実は、返却BOXに入っていた商品なんですけど……」

 返却BOXとは、閉店後から開店前まで、つまり営業時間外だけ開いてるBOXで、営業時間外はその中に商品を返却することができる。返却予定日が前日でも、次の日の開店前までに返却BOXに入れれば、延滞料金はかからないというシステムだ。

 で、愛沢さんいわく、いくつも立ち並ぶタワーは全部その中にあった商品らしい。

 「こ、こんなにあるの?」

 普段は夕方からのシフトなので、返却BOXに返却された商品を目の当たりにするのは、これが初めてだった。

 「普段はこんなに無いです。でも先週の土曜に半額クーポン配信したですからね。七泊で借りられた商品がいっきに返ってきたです」

 (しおり)が愛沢さんの言葉を引き取って説明してくれる。

 「開店まで時間がない。もうジャンル分けはしてあるから、みんなで返却しよう」

 小野さんの言葉に従い、皆がそれぞれ商品を持って売り場へと散る。ちなみにマリアは事務所で店長業務だ。

 開店まで約二十分。

 よし、僕も頑張るぞ!

 

 

 「んー、まずいな」

 開店まで五分少々。春日(かすが)さんが頭を()きながら呟いたのはそんなタイミングだった。

 もちろん、何がまずいのかは一目瞭然だ。

 こんな時間なのに商品のタワーが五本は残ってる。

 「仕方なしか。武光(たけみつ)さん、アレやりましょう」

 「……承知。……場所は?」

 「洋画新作です」

 春日さんが売り場にいる武光さんに呼び掛ける。

 「アレ?」

 「お、ついに出るか。高橋君、面白いものが見れるよ」

 「面白いもの?」

 僕が聞き返しても、小野さんは人のよさそうな笑顔を返してくるだけだった。

 「いきます!」

 そう言うと春日さんはDVDのタワーを抱え、何回か深呼吸そして……。

 「23! 1192! 3345! 3348! 3350!」

 数字を叫びながらDVDを、洋画新作コーナーの方に向かって投げ始めた!

 「か、春日さんがご乱心だー?」

 どうしたの? あまりにもバックが多すぎて発狂しちゃったの?

 「チッ、うるせぇぞ。静かにしてろ」

 取り乱す僕を(いさ)めるように、チャラ男が口を開く。

 「でも!」

 「落ちつけボケ。よく見ろ」

 「え?」

 洋画コーナーへと目を向けると、そこには微動だにしない武光さん。そこへ迫るDVDの嵐!

 「あ、危な──」

 叫びかけた瞬間、武光さんの身体が舞った!

 スパン! スパン! スパン! スパン!

 武光さんは商品棚から、次から次へと外パケを取り出し、なんと飛んできたDVDをその中へと納めていく!

 商品の納まったパケは元の場所へと綺麗に戻り、また新しいパケを取り出す。その繰り返し。

 「は、はあああぁぁぁ?」

 起きてることの意味が分からずつい叫び声が出る。

 「店内に同じ番号のシール、連番(れんばん)が貼られてる商品はない。春日さんが番号を読み上げ、商品の連番を全て暗記している政宗(まさむね)が商品を納める。二人のコンビネーションがなきゃ出来ない技だね」

 「いや、全部記憶って、え? マジ?」

 何でもないことのように小野さんは語ってるけど、それムチャクチャ凄いことだよね?

 正確に商品を投げる春日さんも凄いけど、武光さんがそれにも増して神がかってる。まるで踊るかのように──いや、殺陣(たて)だ。殺陣でも演じるかのように、荒々しく、雄々しく、力強く、そして軽やかに舞っている。

 神業(かみわざ)なんて一言で片づけてしまうのがもったいないぐらい、その姿は神々(こうごう)しかった。

 「助けてくださいです……」

 武光さんの姿に見とれていると、ちょいちょいと制服の(すそ)を引っ張られた。

 「ど、どうした?」

 振り向けば、すでにげっそりした感じの栞が、相変わらず長い制服の袖をぷらぷらさせていた。

 「バックが、アニメが終わらないです……」

 カウンターを見れば、タワーが四本ほどまだ残ってる。

 「もしかして、あれ全部アニメ?」

 「はいです……。なぜかこの地域にはアニメ好きが多いです……」

 あの量、あと五分でどうこうなる量じゃない。今手が空いてるのは僕と栞だけ。皆も皆でバックに忙しい。

 「開店してからじゃダメなの?」

 「ダメです!」

 落ち込んだ様子から一変、断固拒否の姿勢で詰め寄られる。

 「そ、そうか。何で?」

 「栞のプライドが許しません!」

 気持ちの問題かよ。

 「仕方ありません。少し危険ですが、奥の手を使います」

 「え? お前までそんなのあるの?」

 「はいです。危険かつ少しの時間しか使えませんが、栞はパワーアップできるのです」

 「そ、そうなの? 何か凄いね……」

 喋ってるヒマがあったら早くやれよ、なんて無粋(ぶすい)なことは言わないよ?

 「この場合はハイパーモード? いや、種が割れるやつの方がいいですか?」

 何かブツブツ言い始めた。どっかで聞いた気もする……。

 「いや! ここはあれしかないです!」

 「おお! 決まったのか?」

 「危険ですので少し離れて下さい」

 そう言うと、栞は両方の握り拳を腰にあて、何やら力を溜めているようだ!

 そしてついに──

 

 「トランザム!」

 

 そう叫んだ瞬間、栞の身体が赤く輝き始めた! 気がした!

 「シオリ・ヤガミ、目標を駆逐する! です!」

 そう言う栞の動きは、普段の動きの三倍速い! 気がした!

 「てかパクリだろ」

 それに意味があったのかどうかは知らないけど、結果、なんと栞は開店と同時にバックを全て終わらせていた。

 「……栞は……本気なら……アニメの場合……俺より…………早い」

 「マジすか?」

 演舞から戻ってきた武光さんは、汗一つかいていなかった。

 この人も大概だけど、八紙(やがみ)栞、なんて恐ろしい子……。

 

 

 ○

 

 「ハァ……ハァ……」

 店は開店直後から、引っ切り無しにお客さんが来ていた。『百円クーポン』、恐るべし。

 開店から二時間。

 レジの前にできた長蛇の列は、一向に引く気配がない。

 もう息が上がってきているのにも関わらず、まだ二時間しか経っていないことに絶望する。閉店まであと九時間……。

 「葵、そこはもういい! お前はバックにまわれ!」

 「は、はい!」

 春日さんにそう怒鳴られ、DVDを抱えた愛沢さんがカウンターから出ていく。もちろんバックは返却BOXに入れられたものだけじゃない。営業時間中にだって、商品を返却に来るお客さんはいる。カウンター後ろの棚には、そこそこの量の商品が積み重なっていた。

 「み、水……。喉が……」

 その棚の前、床で栞がただのしかばねと化していた。開店前のパワーアップの反動なのか、すっかり力を使い果たしてしまったらしい。目は(うつ)ろ、口からよだれは垂れ流し、時々電気でも流されたようにビクッと痙攣(けいれん)してる。カウンターの陰に隠れてお客さんからは見えない。

 本当によかった。

 正直ドン引きレベルの残念っぷりだ。

 もちろん、みんなに栞を気遣ってやれるほどの余裕はない。

 「あ、新規のお客様ですね? 本日は何か身分証明書などお持ちでしょうか?」

 僕と斉藤さんと一緒にレジを打っている小野さんの声が聞こえた。

 新規だって?

 こんなに混んでるのにレジが一台、しばらく使えなくなってしまった。

 「TSUDAYA」でレンタルするには、もちろん会員証が必要になる。手続きはレジで、五分程度で簡単にできる。

 でも、今はその五分が命取りだ。三人がかりでレジをやってもほとんど列が短くならないのに、五分だけと言えど、一瞬レジが二台しか機能しなくなる。その結果……。

 「マジか……」

 お客さんのレジを終えた隙をついて店内に視線を走らせると、人の列は店内を横切り、店の端、アニメコーナーの方にまで及びそうになっていた。

 「高橋! 回避!」

 「うわっ!」

 落胆して一瞬集中力が切れた時、僕の顔面目がけて何かが二、三と飛んでくる!

 その物体は僕の頬をかすり、後ろに立っていた春日さんの手の中へと収まった。見ればDVDの内パケ。

 「注意! 怪我!」

 普段では考えられないほどの大声で、武光さんが怒鳴る。

 「す、すみません!」

 僕の言葉を聞いて武光さんは微かに頷いた後、また棚の間へと消えていった。

 「疲れたか新兵?」

 「いや大丈夫です」

 「無理はするなよ。じゃ、私はこれを客に届けなくちゃいけないんでな」

 そう言うなり、春日さんはカウンターから颯爽と去る。

 今飛んできた商品は、お客さんが探してたものだったのか。

 「あ、いらっしゃいませ!」

 それから約三十分、お客さんが落ち着くまで引っ切り無しにレジを打ち続けた。


 

 「やっと引きましたね……」

 「お昼時だからね。お客さんもご飯は食べるだろうし」

 店内にはまだ人の姿があるものの、さっきまでの長蛇の列は姿を消し、小野さんと会話を交わすことができるくらいには落ちついていた。

 「まぁ、一時的なものではあると思うけどね。あ、いらっしゃいま──」

 「……小野さん?」

 小野さんの言葉が不自然に途切れ、その細い目は入り口を向いたまま、凍りついたように動かない。

 その視線を追うと、入り口にはマダムの方々が五人、店内に入ってくるところだった。みなさん、髪を紫に染めていらっしゃる。

 「バカな……。あれは、『深紫の令嬢(ディープ・パープル)』? 出てくるのが早すぎる……」

 「小野さん?」

 「高橋君、気をつけるんだ。やつらは『深紫の令嬢(ディープ・パープル)』。紫の髪を持ちし韓流(ハンリュウ)荒らしだ!」

 「……はい?」

 「来るのが早すぎる。やつらは昼ドラを見てから来店するはずなのに……」

 『深紫の令嬢(ディープ・パープル)』? 韓流荒らし? いまいちピンとこなかったけど、ピンときた部分もあった。小野さんも僕と同時に気付いたらしい。

 「『新作』狙いですか?」

 そういえば、今日からレンタル開始の韓流タイトルがいくつかあったはずだ。

 「そのようだね──何っ!?」

 再度小野さんの目が驚愕に見開かれる! いや、飽くまで比喩表現であって、その線目はまったく開いてない。実は気になってたんだけど、ちゃんと見えてるのかな?

 視線を追えば、また入り口の方。今度は若い奥さまがたが来店されるとこだった。人数はこちらも五人。

 「まさか『黒髪連合ブラック・サバス)』まで?」

 「…………はい?」

 「高橋君、気をつけるんだ。やつらは、黒い髪は若さの証! 自称・地域一番の韓流ファン、若奥様連合『黒髪連合(ブラック・サバス)』だ。夜な夜な韓流スターを崇拝するかのような鑑賞会を開いているらしい。まさかやつらまで新作を?」

 「えーと……」

 「政宗!」

 今まで何をしていたのか、開店以降、カウンター内では一度も姿を見かけなかった武光さんが、暗殺者(アサシン)のごとく棚と棚の間から現れた。

 ちなみに僕は完全に置いてけぼりである。

 「愛沢さんを一回引かせて! 荒れるよ」

 「……御意」

 それだけ言うと、また音もなく棚の間へと消えていった。

 『深紫の令嬢(ディープ・パープル)』と『黒髪連合ブラック・サバス』が──って面倒だから、『紫』と『黒』でいいや。紫と黒が入り口付近で邂逅(かいこう)する。お互いはお互いを知ってるのか、両者の間の空気は、今にも火花が視覚できるんじゃないかというぐらい緊張し、()ぜていた。

 この緊張の飽和状態がずっと続くかにも思えた瞬間──

 ダッ!

 という踏切音とともに、どちらからともなく二つの団体、合計十人が全力で店内を疾走し始めた!

 紫と黒の二匹の龍は、身体をぶつけ合うようにして店内を進んでいく。要は、走りながらお互いを邪魔しようとまさかの殴り合いをしてるという状況。

 なんかもう、うん。全然付いて行けずに、もはや思考はコールドスリープ状態。地球が平和になったら起こしてほしい。

 「まずい!」

 小野さんがそう叫ぶのと、二匹の龍の前に一つの影が躍り出るのとはほぼ同時だった。

 「さ、斉藤さん?」

 金色(こんじき)の髪をなびかせ、威風堂々、凛とした姿で龍の前に立ちはだかったのは誰であろう、チャラ男・斉藤。

 「このままじゃ、客に迷惑がかかっちまう」

 かっけぇ! でもそれ以上に似合わねぇ!

 「このままじゃ、客として来てくれた女の子たちに迷惑がかかっちまう!」

 とても似つかわしい言葉になったけど、わざわざ言い直しちゃいけなかった!

 「そして……」

 まるで通せんぼでもするように、両腕が大きく開かれる。いや、あれは通せんぼというより……。

 「女を止められるのも俺だけだァァ!」

 まさか! 二匹の龍を正面から抱きしめるつもりか?

 凄い! もの凄くバカすぎる!

 ああ、斉藤さんが興奮してハァハァ言ってる!

 この人、案外モテないのか? 女に飢えてるのか? ただのバカなのか?

 多分全部だ。

 黒と紫はというと、お互いを殲滅(せんめつ)するのに夢中で斉藤さんには気づいてない。目は攻撃色で真っ赤に血走り、まるで怒れる王蟲(オーム)の大群のように、勢いを落とすことなく斉藤さんへと迫る!

 「斉藤さん!」

 「(たか)(ひろ)!」

 「チャラ男!」

 今にも怒涛(どとう)の突進の中に斉藤さんが巻き込まれようという時、バックから戻ってきた愛沢さん、小野さん、そして僕までもが悲痛な叫びを上げる。

 「ふっ……」

 僕たちの声を聞いたのか、斉藤さんは腕を下ろし、口の端に小さな笑みを浮かべた。何かを(さと)ったかのように。

 

 「わりい。俺死んだ」

 

 ドゴオォォン! ベチィ! ビタァァン!

 「斉藤さぁぁぁぁぁん!」

 愛沢さんの悲痛な叫びが店内に響き渡る。

 某ゴム人間のような言葉を吐いた斉藤さんは見事、(きり)()みしながら吹っ飛び、天井と熱いキスを交わしたあと、床を全力で抱擁(ほうよう)するハメになった。僕の脳内では、ナウシカレクイエムが再生されたことは言うまでもない。

 あとにはピクリとも動かない、死んだカエルのようになっている、変わり果てたチャラ男が一匹。

 「変態さん、あなたは死ぬ間際に笑った人を見たことありますですか?」

 「お、おう栞。起きたの?」

 (いま)だに(うつ)ろなのには変わりなかったけど、何とか起きたらしい栞が意味の分からないことを言っていた。

 「いや、僕は見たことないけど……」

 「笑ったんですよ、あの金髪の男が! 二十年前、七十三人との修羅場の果てにこの町で処刑された、ナンパ王と同じ様に!」

 「この町でそんな惨劇が?」

 「ちなみに斉藤さんのお父さんです」

 「ああ、もうそりゃあ遺伝だよ!」

 一族でアホなんだよ。

 「というわけで栞も限界です」

 「まさか、それを伝えるために……?」

 僕の周りには………………アホが多すぎる!

 「くっ、我々ではやはり止められないのか……」

 「いや副店長殿。まだ諦めるには早い」

 「……そうだ」

 「春日さんに、武光さん!」

 そうか! この二人ならやってくれる気がする! 開店前のバックで見たように、この二人はポテンシャルが高い。きっと何か秘策が──

 「確かこの辺に……お、あったあった」

 「……斬る」

 春日さんはレジの下のスペースからロケットランチャーを、武光さんは掃除用具入れから日本刀を取り出すと、軽やかな足取りでカウンターを出ていこうと──

 「って、ちょっと待てえぇぇぇ!」

 もどかしそうに振り返る二人。なんでそんな、おもちゃを取り上げられた子供みたいな顔してるんだ!

 「残念そうな顔しすぎですから! そもそも何でそんなものが、さも当たり前のように店内に常備されてるんですか!」

 「「……有事(ゆうじ)に備えて?」」

 「あなたたちの存在が有事だ!」

 あとハモるな!

 「いつかはやつらと決着をつけなきゃと思ってたしな」

 「……悪・即・斬」

 「あなたたちに接客は向いてない!」

 どこの世界に、客と雌雄(しゆう)を決しようとする接客業店員がいるんだ!

 そうこうしてる内、ついに韓流コーナーの棚の前で、二匹の龍の決戦が本格的に始まろうとしていた!

 武闘派二人にレジを任せ、僕と小野さんはCDコーナーの陰から、他のお客さんに迷惑がかからないように、この闘いを見守ることにした。

 「あなたたち、わたくしたちが『深紫の令嬢(ディープ・パープル)』だと知っての狼藉(ろうぜき)ですの?」

 「ふっ、最古参の方々はそろそろ隠居された方がよろしいのではなくて?」

 リーダー格の二人がガンのくれ合いを初めていた。

 「だいたい、目当てのDVDを一枚しか借りず、それを仲間うちで又貸しするってのはどうなの? 韓流作品に対する冒涜(ぼうとく)だわ。本当に好きなら一人一枚ずつ借りなさいよ。いかにもケチ臭いおばさんの考えね」

 黒のリーダー格であろう、綺麗な黒髪をポニーテールにした、少し目つきのキツイ奥さまが攻撃、いや口撃を開始する。

 なるほど又貸しか。確かに一枚のDVDを複数人で借りれば、一人あたりのレンタル料を節約できる。いろいろ考える人がいるんだな。

 「これだからガキは。わたくしたちが借りる量が少ないおかげで、他の人も借りられるでしょ? それに本当に好きなら、レンタルではなく購入しなさいな」

 「ぐっ……。でも又貸しだなんて、DVDを貸して頂いてるこの店の売上にも影響するわ! それはこのお店にも失礼なんじゃなくて?」

 「それも、本当に人気の商品なら他の人がレンタルするでしょう? 売上には大して影響はないはずですけど?」

 「うぐっ……」

 さすがは最古参。ちょっとやそっとの口撃には動じない。黒が押され気味だ。

 「やはり白黒つけなきゃいけないみたいね。いや、黒と紫かしら」

 口では勝てないと踏んだのか、意味の分からないことを言いながら、ついに実力行使を決定したらしい黒い方々。

 「ふん。軽く揉んであげましょう」

 紫の方々までやる気だ! そして──

 「ヨン様はわたくしの王子様ァァァ────────!!!」

 「グンちゃんは私の婿(むこ)ォォォォォ────────!!!」

 ついに拳と拳がぶつかり合う!

 それぞれがそれぞれの好きな韓流スターの名前を叫びながら、一進一退の攻防を繰り広げる!

 僕はその熱い死闘を、限りなく冷めた目で見ていた。

 バカかこいつら。

 そんな僕をよそに、血沸き肉踊る闘争は続く。口では押され気味だった黒も、純粋な力のぶつかり合いでは互角。このまま、どちらかの体力がつきるまでその闘いが続くのではないかと思われた時──。

 「あ、いらっしゃ──」

 自動ドアが開き、一人のお客が入店したことによって、店内の空気がガラッと変わった。

 無理やり変えられたと言ってもいい。

 ──女の子だった。

 サングラスで顔が隠れているけど、多分僕とそんなに歳は変わらないと思う。赤みがかった茶色の髪は、そうセットしてあるのか、周りを威嚇(いかく)するかのように逆立っている。スレンダーで引き締まった体には、黒いタンクトップと黒い革製のショートパンツを(まと)い、そして何より目立つのが、真っ赤な、これまた革製のロングコート。

 そんな女の子が、顔に不敵な笑みを浮かべて来店した瞬間、僕でも分かるぐらい空気が変化した。その変化の影響が顕著(けんちょ)に表れたのは、小野さん、そして韓流コーナー前で争っていた二つの団体。

 「あ……あ……」

 「小野さん?」

 小野さんは口をパクパクと動かして、言葉にならない声を出している。

 「まさか……」

 「やつですの?」

 黒と紫も警戒の色を顔に浮かべ、さっきまで殴り合っていた総勢十人が、そろって入り口の方を見ている。

 「皇帝の帰還だ……」

 「……はい?」

 「高橋君、気をつけるんだ。やつは一匹狼にして最強! その行動力は空を()けるごとし! やつの通った後には(しかばね)しか残らない。その名も『真紅の飛空帝(レッド・ツェッペリン)』!」

 「えーと……?」

 「まさか帰ってきていたとはね」

 もう、何がなんだか分からない。なんだこの展開。僕、そろそろ考えるのを放棄していいかな?

 てか最早カラーギャングですよね。この町はいつから池袋西口公園になったんですか?

 僕のツッコミ能力も処理落ち気味です。

 「おう、あんたら久しぶりやな」

 ツカツカとブーツを鳴らしながら、その赤い女の子は韓流コーナーへと歩みよる。顔馴染みなのか、二つの団体へと軽く手を上げて挨拶するも、他の人たちは誰も返そうとしない。よく見ればガクガクと(ひざ)が震えている。

 「何や、何の挨拶もなしかい。久しぶりに()うたのに」

 赤は、まったく動けないでいる黒と紫の前で進軍停止。サッと鋭く、そして不敵に一瞥(いちべつ)をくれてやる。

 「()ねや。それとも、ウチのために棚ん前まで血まみれの屍の(レッドカーペット)でも()いてくれるんかい?」

 その一言が決め手だった。

 モーゼが海を割ったかのごとく、綺麗に黒と紫が左右に割れる。棚の前まで障害物はなにもない。

 黒と紫の間を、威風堂々たる姿で進軍を再開。その姿、まさに王の凱旋(がいせん)

 赤は目当てのものだったらしい、今日入荷の新作を何事もなく手に取り、レジへ向かう。

 「とりあえず危機は去ったようだね。よし、僕たちもレジへ戻ろう」

 赤の圧倒的な殺気からようやく解放されたらしい黒と紫が、敗軍の将のようにほうほうの(てい)で解散していく。

 「想定外ですわ……」

 「まさか、やつがこの町に戻ってきていたとはね」

 赤にお目当てのものを取られたのか、二団体は何も借りずに、悔しそうに店から出ていった。

 長き(いくさ)の幕閉めは、レンタルを終えた赤の「おおきに!」という勝鬨(かちどき)の声だった。

 

 

 ○

 

 開店から五時間。午後三時。

 店内は、再び混沌(こんとん)としてきていた。

 「一回引くよ! 少しの間持ちこたえてくれ!」

 またも列が長蛇になりつつあるレジで奮闘していると、小野さんの声が聞こえてきた。

 そう。武光さん、春日さんに続いて、今度は小野さんの番だ。いわゆる『休憩』というやつである。

 当たり前だけど、開店から閉店までの十一時間+αを、休憩なしでぶっ通し働き続けるなんて無理だ。なので、三十分の休憩がそれぞれに三回ずつ割り振られている。なにせ、従業員全員が開店からラストまで入るという特別なシフトなもんだから、休憩の取り方も特殊だ。普段なら、一時間が一回とか。ちなみに僕は夕方の五時、六時ぐらいからしか入れないから、休日のシフトの時ぐらいしか休憩もらえないけど。

 まぁ、その話は置いておくとして、つまり、小野さんが三十分はカウンターから離れるということだ。

 僕らはすでに(しおり)、チャラ男という二人の(とうと)い犠牲を払っている。

 「し、栞はまだ……死んでません……」

 何か聞こえた気もしたけど、とにかく払ったものは払ったのだ。

 そんな中で、現在最大の戦力とも言える、副店長の小野さんがいなくなるのは正直辛い。また混み始めた店内。バックにかかりきりの武光(たけみつ)さん。春日(かすが)さんと愛沢(あいざわ)さん、それに僕はレジから動くことができない。全員が何かにかかりきりなので、どこにも余裕がない。さっきまで小野さんがやってくれていた、みんなのバックアップの役が誰もいない。これじゃあ、何かあった時に瞬時に対応ができない。

 チラッと事務所の方を垣間見る。

 そう、最後の希望。

 あと一人。あいつさえ出てきてくれたら……。

 五時間、あいつは沈黙を(たも)ってきた。いまだに動く気配は一向にない。

 「あ、えと、少々お待ち下さいませ!」

 ハッとなって、その声のした方へ首を向ければ、愛沢さんが小走りに売り場へと消えていく姿だった。

 まずい。

 レジ前にはすでに、万里の長城のごとく終わりが見えないほどになってしまったお客の列。とても二人でさばける数じゃない。

 終わった。

 絶望で意識が遠のき、諦めかけたその時──。

 

 「いらっしゃいませ」

 

 混沌たる戦場に響き渡る澄んだ声。

 それはまさに、砂漠に突如現れたオアシス。

 騒々しいはずの店内なのに、そいつの声は鈴の音のように僕の耳に心地よく滑りこんできた。

 接客の合間に視線を右に向ける。事務所から満を持して、とばかりに期待通りマリアが出てくるところだった。

 神々(こうごう)しい。

 黒い制服に白いレースのロングスカート。頭には白いカチューシャ。そんなお決まりの格好なのに、マリアの登場は神がかって見える。後光が差してる。

 マリアとの距離はだいぶあるものの、確かに目が合い、口の端を吊り上げて笑うのが確認できた。さっきの神々しさはどこへやら、その笑顔には邪悪ささえ感じる。

 「もうへばったの? あんたってその程度? 戦いはまだまだこれからなのよ?」

 あいつの目は、そう言ってる気がした。気がしただけだけど、頼もしいことこの上ない。

 笑顔に鼓舞されるように、僕は気合を入れ直す。

 レジに戻ってきた愛沢さん、春日さんも顔に生気が戻り、僕に笑顔を向ける。バックをしてる武光さんは親指を立てている。

 僕はそれに頷いて返し、次のお客を迎え撃つ。

 さぁ、あと半分、戦い抜いてやるぞ!

 

 

 ○

 

 それからはマリアも出ずっぱり。各メンバーが入れ替わり立ち替わりで休憩、という形で業務をこなしていく。

 一時間、二時間、三時間と順調に進んでいく。『ディスクの傷で映像が見れなかった』というクレーム、『間違ったものを借りてしまった』、『この商品はどこ?』、『あら可愛い。新人さん? 君ってレンタルできるかしら? なぁに、後ろの穴があれば大丈夫よ』などという、お客の要望に応えたり、身の危険を感じてガタイのいい男性からBダッシュで逃げたりなんてことはあったけど、基本的には何事もなく進んでいく。

 危なかったのは僕の貞操ぐらいだ。

 さすがにみんなの顔には疲れが見えているけど、ここまできたという自信が、皆の身体を支えている。

 だけど閉店まで一時間を残した午後八時。

 ついに事件は起こった。

 ピークは過ぎたものの、いまだにレジ前には列ができている店内に、電話の音が鳴り響く。

 「お電話ありがとうございます。TSUDAYA赤砥(あかと)店の愛沢がお受けいたします」

 ちょうど手の空いていた愛沢さんが電話に出る。僕はレジを打ちながら、耳は愛沢さんの方へと向けた。

 「はい……はい……あ、それは……はい……そうですか。大変申し訳ございませんでした」

 どうやらクレームの電話のようだった。

 「はい……えっ、あ、はい。少々お待ちくださいませ」

 何やら様子がおかしい。てっきり画像不良のクレームか何かだと踏んでいた僕は、愛沢さんの様子が気になって、うっかりお釣りを渡すのを忘れるとこだった。

 「もしもし、お電話代わりました。店長の津田です」

 マリアに電話を代わったらしい。愛沢さんには判断できないような内容だったのかな?

 「はい……はい……かしこまりました。少々お待ちいただいてよろしいですか?」

 マリアは受話器の保留ボタンを押すと、カウンターの中に置いてあるパソコンを操作し始める。

 「お待たせいたしました。確認のため、お客様のご住所を(うかが)ってもよろしいですか?」

 一旦レジが落ち着いたので、『休止中』の札を置いてマリアの様子を見に行くことにした。どうやら、会員証を作る時に登録する、個人情報を検索してるようだ。

 「はい、確認いたしました。では、三十分少々お時間をみていただければ……はい……大変申し訳ございませんでした。それでは失礼いたします」

 「どうしたの?」

 電話を切ったマリアは難しい顔をしていた。マリアはパソコンを操作しながら、事情を説明してくれる。

 「いやね、売り場に並んでる外パケの中に、違う商品が入ってたらしいのよ」

 「それって、僕たちが返却する時に、商品を間違えて違う外パケの中に戻しちゃったってこと?」

 「うーん、この店には、そんなつまらないミスする人はいないと思うんだけどね。お客さんが一回商品を出したけど、やっぱり借りるのを止めて、違う外パケの中に戻しちゃうってことも考えられるし。ま、このパターンのクレームって、一概には何とも言えないのよね」

 こっちは、一日に何百枚という商品を売り場に戻している。連番シールも貼ってあるし、そうそう返却ミスするなんてことは考えられない。かと言って、僕たちだって完璧じゃない。それに、お客が違う外パケに戻してしまったという証拠ももちろんない。ディスクに傷がついてるとかだったら、僕たちがちゃんとチェックして研磨なりしなかったせいだけど、こればかりは誰が悪いとも言えない。商品一枚一枚、ちゃんとしたパケに入ってるかどうかなんて、毎日確認できるわけないし。

 「仕方ないし、客も結構怒ってたみたいだから、本来借りる予定だった商品を家まで配達することにしたわ」

 「それだと時間かかっちゃうんじゃない? 明日にならないと宅急便頼めないだろうし。取りに来てもらった方がいいんじゃない?」

 「何言ってるの? 私たちの誰かが行くのよ」

 「え?」

 「自転車で」

 「えええぇぇぇ?」

 レンタル店の店員て、そんなことまでしなきゃいけないの?

 「普通はしないけどね。いつもは経費削減で、必要最低限の人数しかシフトに入れてないからそんな余裕ないし。ごねる客には、閉店後とかに届けることになるって事情を説明すれば、だいたいの人は来てくれるわね。ま、今は若干手が空いてるし、それに、この距離ならすぐ帰ってこれるでしょ?」

 パソコンの画面には、この店周辺の地図が映し出されていた。その一か所にマークが付いている。どうやらそこが電話してきた人の家らしい。ここなら自転車で十分くらいかな?

 「基本的には女の子に行かせたくないんだけど……」

 それを聞いた瞬間、僕の脳内にあるイメージ映像が湧きおこった。

 

 愛沢さんみたいな可愛い子が、のこのこと男の一人暮らしの部屋へDVDを届けに、夜遅くに行く。男は愛沢さんの手を掴み、強引に部屋へと連れ込む。

 「代えのDVDはもういい。責任は君の身体で払ってもらおうか」

 「そんな、ダメですぅ……」

 「おや、拒否するのかい? それなら君のお店の悪評を言いふらすだけだよ?」

 「そ、そんな……」

 「君のせいで他の人に迷惑がかかっていいのかい?」

 「それは……」

 「なら言うことを聞くんだね」

 

 そ、そんなことになったら、ムチャクチャ興奮──じゃなくて、許せない!

 愛沢さんは僕が守る!

 となるとマリアは女の子だし、店長だからここに残る。女性ということで春日さんも除外。強そうだけど……。武光さんは、だいぶ溜まってしまったバックを片付けてるし、小野さんはみんなのバックアップに、今はレジにかかりきり。栞とチャラ男は事務所に収容中。てか、寝すぎだろ。

 そうなると、あとは……あれ?

 「僕しか選択肢なくね?」

 なるほど、そうなりますか。

 「太郎、行けるの? 大丈夫?」

 「高橋くん、電話受けたの私ですし、私が行きましょうか?」

 「大丈夫!」

 ここで逃げたら男じゃない!

マリアは僕のことを、少なからず信頼してくれている。それは昼間の言葉で確認済みだ。

それに愛沢さんを、僕の好きな人を、危険な目に合わせるわけにはいかない!

「僕に任せて! ちゃんとやってくるから」

マリアは僕の目を見たまま、少し考えたあと首をゆっくり縦に動かした。

「分かった。あんたに任せる」

「うん」

嬉しかった。責任のある仕事を任せられた上に、みんなの役に立てることが。

時計はちょうど八時半を指していた。

 今日一日、ここまでやってこれた。その事実が、自信として僕の背中を押してくれる。

 嬉しい。そしてなにより楽しい。そう思えるのは初めてだ。

 愛沢さんと一緒に渡しに行くDVDを探し、事務所に入るまでそんなことを考えていた。制服の上から上着を着る。あくまで業務の延長線上だから、制服を着てかなきゃいけないらしい。愛沢さんが、地図のコピーを渡してくれる。

 「高橋くん、ありがとうございます。さっきの人、ちょっと怖かったので、本当は行きたくなかったんです」

 「こんなのお安い御用だよ。昨日、愛沢さんが話してくれたことのお礼って言ったらなんだけど、喜んで引き受けるよ」

 愛沢さんの困り顔が、花でも咲いたように、みるみる笑顔へと変わっていく。

 「ありがとうございます! 高橋くんって、頼りになるんですね」

 そう言われた瞬間、心臓が口から飛び出すかと思うほど跳ね上がる。

 もうダメだ。我慢できない。この想いを、僕のちっちゃなハートの中に押し止めておくことなんてできないよ。

 「愛沢さん」

 「はい?」

 「このバイト……いや、この戦いが終わったら、僕は君に話したいことがあるんだ」

 「え? 急にそんな……。でも、はい。分かりました。楽しみにしてますね」

 「そ、それ……死亡フラ…………ぐふっ」

 栞の声が聞こえた気がしたけど、そんなことはお構いなしに、意気揚々と僕は事務所から走り出す。

 「新兵! これ使え!」

 春日さんの声と同時に、僕に向かって何かが投げられる。キャッチしたのは自転車の鍵。

 「店出て一番手前にある黒いのだ!」

 「ありがとうございます!」

 そのままDVDの棚を抜け、シングルCDの棚の前で仁王立ちしてるのは武光さん。

 「…………頑張れ」

 僕がその横を走り抜ける時、さりげなく呟いてくれた。

 「はい!」

 小野さんはカウンターの中で力いっぱい頷いてくれる。

 そして店の入り口。自動ドアを出る寸前でマリアと目が合う。

 「任せたわよ」

 口の端を上げて笑うマリアの目がそう言っていた。

 僕はサムズアップしてみせ、自動ドアを駆け抜ける。

 春日さんの自転車をすぐに見つけ、早々にこぎ出す。ペダルを思い切り踏みこみ、いっきにスピードに乗る。下町の景色が後ろへ飛ぶように流れていく。自転車の性能がいいからか、テンションが高いからか、いくらスピードを出しても疲れを感じない。

 風になった気分だ。火照った体に風が気持ちいい。

 しばらく線路沿いに進んでから、住宅街の方へと進路を取る。

 下町は住宅が密集してるため、細い道、唐突に行き止まりになる道が多い。それでも、一度も迷うことなく、その上、信号に一度も捕まらずに快走を続けた結果、目的地まで十分弱で辿り着けた。

 サンパレス津田よりは古いであろう、二階建てのアパート。ここの二○六号室らしい。

 鉄製の階段を、カンカンと音を響かせながら二階へ上り、廊下を奥へと進む。廊下の突き当たりの角部屋。二○六号室という札、そして、愛沢さんから手渡されたメモに書いてある名前と、ドアの横にある表札を確認。この部屋で間違いない。

 一度大きく深呼吸する。やっぱ緊張するな。

 さっきは勢いでそのまま出てきちゃったけど、こういう時の対処法なんて教えてもらってないんだよね。最初は何て言えばいいのかな? とりあえず謝罪?

 頭の中でぐるぐると、深い思考の海へ沈みこんでいきそうになった瞬間、みんなの顔が僕を繋ぎ止めてくれる。

 そうだ。みんな僕を信用してくれている。小野さん、春日さん、武光さんの顔が浮かんでくる。気絶してた栞と斉藤さんのも。そして、もちろん愛沢さんの笑顔。

 最後にマリアの、ずっと見てると引き込まれそうな黒い瞳。

 それらすべてが僕の背中を押してくれる。

 

 僕はもう一人じゃない。

 

 そう自覚した時、僕の指は自然と呼び鈴へと伸び、そのまま一気に押し込んでいた。

 部屋の中で呼び鈴が鳴り、人の動く気配。そのまま真っすぐに玄関の方へと足音が近づいてくる。足音が止まったと思えば、ガチャリ、と間髪入れずにドアの鍵が開いて──

 「夜分遅くにすみません。私、TSUTAYA赤砥(あかと)店の高橋と──」

 「おんどりゃあ、このクソボケェェェェ! いったいどんだけ待たせるんじゃあ! 遅い! 遅すぎる! うさぎとかめの亀でももうちっと早く走れるわ! この鈍足! クソ! アホンダラ! ボケ! カス! わしゃあ『トランスフォーム ~変形する生命体~』が見たかったのに、なんじゃこの『トランスファーマー ~変態する農民~』ってのは! 試しに見てみたが、農民がトランス状態でひたすら変態するっていうヒドい内容じゃった! わしだったからまだよかったものの、子供のいる家庭だったらどうするんじゃ! こんな内容、とてもじゃないけど子供には見せられんぞ! てやんでい! 何でこんなことが起こるんじゃ!」

 「えと、それは……」

 「言い訳なんぞ聞きたくない!」

 「えええぇぇぇ?」

 「うっさいわ! ったく、この無能めが! 凡愚(ぼんぐ)! ドサンピン! 早く()えのでーぶいでーを渡さんか! てやんでい!」

 「はい……」

 「ったく、のろのろしおって。わしじゃなかったら、もう二度とお前んとこの店に行かないと言ってるとこじゃぞ。わしの心が広くてよかったなぁ! てやんでい!」

 「…………」

 「よかったなぁ!」

 「……はい」

 「金返せって怒鳴りこんでもよかったんじゃぞ? でもそれじゃあ、他の人様の迷惑になると思ってしなかったんじゃ。ありがたく思え。 てやんでい!」

 「……はい」

 「何だその態度は? 反省してるのか?」

 「はい! それはもう!」

 「うっさいわ、ボケ! 黙れ!」

 「えええぇぇぇ?」

 「だから黙れと言ってるじゃろう!」

 「…………」

 「返事は!」

 「はい!」

 「うっさいわ!」

 「いったいどうしろと……」

 「ふん、まぁええ。以後、こんなことがないように気をつけろ! このボンクラ! 無力! 甲斐性無し! もやし野郎! てやんでい!」

 ガタンと音がしてドアが閉まり、一方的に会話を終了されたあげく、少し肌寒い四月の夜に一人取り残される僕。

 あれって、もしかして絶滅危惧種の『江戸っ子』ってやつなんだろうか? 確かに生息地はこの辺だって聞いたことはあるけど。

 ………………………………………………………………。

 「う、うわぁぁぁん!」

 今日は上を向いて、歩いて帰ろう。

 涙がこぼれないように……。

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