第六章 埋没マイヒーロー
「まぁ、それなりに責任を感じてるわ」
いつも通りの傲岸不遜、傍若無人、唯我独尊気味な態度に戻りつつも、気まずそうな顔で目を背ける店長殿。
「そうだね。それで責任を感じてくれてなかったら僕は謀反を企てるところだったよ」
ビクッと身体を弾ませる自称魔法少女ちゃん。
二日前の一件以来、マリアも僕にあまりキツイことを言えなくなったらしい。
「と、とりあえず仕事を始めていただいてもよろしいかしら?」
「店長殿がそう仰るのであれば、やぶさかでもありません」
「くっ、こいつ調子に乗って……」
「あー、身体中が痛いしだるい。まだ風邪気味なのかなー」
「はいはい分かったわよ! どうもすみませんでした!」
ヤケを起こして謝罪するマリアを残し、僕は事務所を後にする。あまりいじめすぎるのも可愛そうだ。
「やあ、具合はもういいのかな?」
「あ、高橋くんおはようございます」
「ヘンタイキャラなしさん! 私が貸したDVDは見たですか?」
レジカウンターに入ると、三者三様の挨拶に迎えられた。
「小野さん、おはようございます。愛沢さん、昨日もノートありがとう。あと栞、いい加減邪魔だから早くあのDVD撤去してくれ」
小野さん、愛沢さんは笑顔を向けてくれる。約一名ちっこいのが、長すぎて手が隠れてしまっている制服の袖を振りまわして抗議の声を上げているけど、とりあえずスルー。
「今日金曜日ですよね? なんかあまりにもお客さん少なくないですか?」
基本的に、クーポンでも配信されてない限り、レンタル店が混むのは週末の金曜と土曜。次の日が休みというのもあって、家でゆっくりDVDを見たりCDを聞いたりできるからだ。
そして今日は金曜日なのにも関わらず、カウンターから見える範囲だと、CDコーナーに一人、洋画新作の棚の前に二人しかいない。店内の気配を探ってみても、他に一人か二人しかいないみたいだ。
今の時間は六時ちょい前。普段なら一番混む時間帯だ。学生は学校帰りに、主婦は夕飯の買い物ついでに、定時で上がれるサラリーマンなら帰路の途中で。
それなのにこの状況は、はっきり言って有り得ない。
「そうか、高橋君はこっちに越してきたばかりだから知らないんだね」
「え? 何がです?」
小野さんの言葉に首を傾げていると、その後を引き継ぐように、愛沢さんが説明してくれた。
「毎年この時期になると、区役所の前の通りで『さくら祭り』が催されるんです」
「さくらまつり?」
「はい。出店とかもたくさんあって、フリーマーケットとかもやったりするんですよ。私も本当はそっちに行きたかったんですけど、残念ながら行けなくて……。通りに面した小学校があるんですけど、毎年そこで──」
そこまで言いかけたとこで、入り口の自動ドアが開く。
「いらっしゃいませ」
反射的に接客用語を言い、入り口に目を向ければ、男の子が小走りで店内に入ってくるところだった。
今話題に上がったばかりの『さくら祭り』の帰りなのか、頭に戦隊ヒーローのお面を被っている。
「は、はうあうあう……」
「何?」
今変な声が聞こえたような……。
「あうううぅぅぅぅぅぅぅぅ……」
「あ、愛沢さん……?」
奇声の元をたどってみると、何と愛沢さんの美しい唇にいきついた。そこから変な呪文のような声が漏れている。
「さ……」
「さ?」
「サムライジャーです!」
「は? サム、は?」
その彼女らしからぬ大声に反応したのは僕だけじゃなかった。
「おねぇちゃん、サムライジャー知ってるの?」
「もちろんです!」
目をキラキラと宝石のように輝かせている愛沢さんに話しかけたのは、なんとたった今入店してきた男の子だった。
「しかも、それは最近出たばっかりの『サムライレッド・スサノオフォーム』! 先々週の日曜日の放送で、始めてサムライレッドがパワーアップした姿です!」
「すごい! おねぇちゃん詳しいね!」
ナゾの言語を話し始めた愛沢さんと男の子は、どうやら男の子の被ってるお面のことについて話してるらしかった。
「えへへ、さっきねー、サムライジャー見てきたんだ! そこでもらったの! いいでしょ!」
「すごくいいです! かっこいいです! 私も行きたかったです……」
それから二言三言交わしたあと、男の子はお母さんと思しき人のところへ走っていった。愛沢さんもカウンターへと戻ってくる。
「あ、愛沢さん。今のって……」
「はう! 恥ずかしいです。見られてしまいました」
そう言うと、顔を真っ赤にして俯いてしまった。
ああ、何だこれ。この先を聞きたい気もするけど、聞いたら終わりな気もする。何だこれ。悪い予感しかしない。
「えっと、白状しますと、私、戦隊ヒーローが凄く好きで」
「うん」
「それで、なんと言いますか、凄く好きすぎて、もの凄く詳しくなってしまいまして」
「うん」
悪い予感ってのは、だいたいが当たるものだ。
「分かりやすく言ってしまえば、私、戦隊ヒーローオタクなんです」
ほらね。
しかも、よりにもよって『戦隊ヒーロー』とな。
いやな思い出がフラッシュバックしてくる。
『オタク』。
愛沢さんは普通の人だったと思ってたのに。
『オタク』。
気持ちが……愛沢さんへの気持ちが、どんどん沈みこんでいくようだった。
『オタク』。
その言葉が脳内をぐるぐる回り、僕自身がその言葉の渦へと埋没していくようだった。
「毎年、区役所の近くの小学校でヒーローショーが行われるんです。私も行きたかったんですけど、残念ながらバイトで──」
僕にはもう、愛沢さんが何を言ってるのか分からない。
彼女の照れてる顔が、歪んで見えた。
○
それ以降、一切合切何事も、全てまるっきり、これっぽっちも手につかなかった。
「みんな、今『さくら祭り』をやってるのは知ってるわね?」
事務所から出てきたマリアが何か言ってるけど、全然入ってこない。音として認知はできても、それが脳内で意味を成さない。
「今日、週末なのにも関わらず、この集客数の少なさは予想外だったわ」
カウンターで緊急ミーティングが開かれる。普段では有り得ないことだけど、それができてしまうほど今日はヒマだった。
「このままじゃ売上が伸びない。なのでさっき、明日と明後日、土日限定のクーポンを配信しておいたわ。内容は『旧作・準新作DVD100円クーポン』!」
今日のメンバーがどよめく。
クーポンは旧作の商品が対象にされることが多い。だから今回、クーポン対象に『準新作』が含まれているのは珍しいことだった。
商品の値段の決定には大きく分けてCD、DVDともに三種類ある。
CDはアルバムの新作、旧作、そしてシングル。DVDは新作、準新作、そして旧作。
もちろん値段は、同じ泊数でも新作の方が旧作より高くなる。基本的に商品の貸出が始まってから三カ月経つと、新作は準新作、準新作は旧作になる。CDも同じだけど、シングルは例外で、基本のレンタル料が安い代わりに、どれだけ経っても安くなることはない。
ここまでが、ここ一週間ちょっとで僕が学んだこと。
ま、今は正直どうでもいいけど。
「ちょっと太郎! ねぇ聞いてるの?」
「え? ああ、何だっけ?」
「今大事な話してるの! ちゃんと聞いててくれる?」
「ああ、ゴメン」
心ここにあらずな僕を見かねたのか、ついにマリアに注意されてしまった。さっきの下手の態度から一変、結構本気でイラついてるらしい。よっぽど真剣な話だったみたいだ。
「集中してよね。仕事なんだから、ちゃんとしなさいよ」
その言葉に苛立ちを覚えたものの、反論するようなことはしなかった。そこで言いあいになれば面倒だし、それ以上に考えたいこともあった。
考えても仕方のないことだけど……。
マリアはそこで話を切り、「詳しくは『朝F』に書いとくわ」と言い残してカウンターを出ていった。
気持ちがクサクサする。怒りの矛先をどこに向けたらいいのか分からない。黒くてドロドロしたものが心の底で渦巻いている。むしろ、何に対して怒っているのかも分からない。怒りの感情自体、場違いな気がする。
「キャラなしさん、顔色悪いですよ?」
「……そうか?」
「はい。まだ具合悪いんだったら、無理せずお家で休むです」
栞が長い袖をぷらぷら揺らしながら、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ああ、大丈夫だよ。心配しないで」
栞に気遣われようとも、もはや何も感じなかった。衝撃が大きすぎて心が麻痺してるみたいだ。
それからというもの、ミスの大連発だった。
釣銭を渡し忘れるわ、泊数を打ち間違えるわ、商品のセキュを外し忘れるわ、クレーム対応で逆にお客を怒らせるわ。
「高橋君、今日どうしたの? まだ具合悪い?」
「いえ……大丈夫です……」
見かねた小野さんにも心配される始末。
「バック行ってきますね」
僕はDVDを適当な高さに積み上げて、そそくさとカウンターから出ていった。
本当、何やってだ僕。
いつもの半分ぐらいのスピードでバックをする。
足が重い。鉄球の付いた足枷でも付けられてる気分だ。
韓流コーナーまで来た時、事務所にいるはずのマリアがいた。少し様子をみてみると、誰かと立ち話をしてるみたいだ。
「ついこの前なんだけど──」
「主人ったら──」
「ねぇねぇ、昨日の夜──」
「へぇー、そんなことがあったんですか」
どうやら主婦の方々と話してるらしかった。みんな笑顔で笑い声が絶えない。マリアも笑ってるみたいだった。
マリアに気を取られたのがいけなかった。
「うわっ!」
棚にぶつかりそうになってバランスが崩れ、持っていたDVDのタワーを盛大にぶちまけてしまった。店内にDVDの落ちる音が響く。
「し、失礼しました!」
焦ってDVDをかき集めるも、僕はもうパニック状態。なかなか上手く集めることができない。
すぐ近くで話していた主婦の方々は「ビックリしたー」なんて声を上げている。当然、今までの会話も途切れていた。
「あんた、何やってるの?」
僕と、散らばったDVDの上に落ちる影。
「バランス崩しただけだよ」
顔を確認するまでもない。声の主は当然マリアだった。
「大切な商品なんだから丁寧に扱いなさいよね! まったく、さっきから随分とミスが多いようじゃない? ちゃんと仕事してくれない?」
その言葉に、ついに僕の堪忍袋の緒が切れた。プッツンいった。
「なんだよ、自分だって楽しくお喋りしてるだけで仕事してないじゃんかよ」
「それは違う」
「何が違うんだよ? ただのお喋りじゃないか」
「それも大事なことよ!」
「ちょ、ちょっと二人ともどうしたんですか?」
僕の撒き散らしたDVDの音を聞いてやってきたのか、それとも僕らの騒ぎを聞いたのか、愛沢さんが心配そうにやってきた。それには構わずに、僕とマリアの言い争いは止まらない。
「普段事務所から出てこないのはいいよ。店長なんだし、シフト作ったりいろいろ仕事があるのは理解してる。でも、ただお喋りしてるなんて、そんなのサボりと同じじゃないか!」
「高橋くん、それは──」
「愛沢さんはちょっと黙ってて!」
「ひうっ」
僕の声に愛沢さんはすっかり委縮してしまった。一瞬ヤバいと思ったけど、それでも僕の口は言葉を吐き出し続ける。
「そのくせ僕のことを杖で殴ったりするし。そんな店長には怒る資格ないと思うけど? だいたい魔法とか意味分かんないし」
「……魔法はあるわ」
マリアの身体が小刻みに震える。聴覚同様、それを目で認知しても、脳がそれに意味を与えない。僕の言葉は止まらない。
「そうやって意味分からないことばっか言って。だからオタクはイヤなんだ!」
隣で愛沢さんが息を呑んだのが分かった。それでも、僕の口は止まらない。そして僕の口は、この場を決定的に終わらせてしまう言葉を吐き出した。
「魔法なんてふざけたもの、存在するわけないじゃないか!」
パァン!
マリアにビンタされたことに気付くまでしばらくかかった。
マリアの顔は、悔しそうな、悲しそうな、怒ってるような、それでいて失望したような複雑な表情だった。僕を睨む目には、涙が溜まっている。
「『あんた』が……いえ、あんたがそれを言わないで!」
「は? お前何言って──」
「もういい……」
「え?」
「もういいって言ったの! あんたはクビ! 用済み! 失望したわ! どこへでも好きなとこに行っちゃえ! あんたみたいなキャラなし、代わりはいくらでもいるんだから!」
ついにマリアは、まわりのことなど気にせずに怒鳴り散らし始めた。最早愛沢さんにも収拾がつかない。
「そうかよ、分かったよ! こんなとこ、こっちから願い下げだ!」
「あっ、高橋くんっ!」
愛沢さんの言葉を背に受けて、小野さんと栞の驚きの視線を浴びつつ、僕は店を出た。
僕を見ようとはしなかったマリアの目からは、涙が溢れていた。
盆から溢れた水が元には戻らないように、その涙も、僕の口から溢れ出た言葉も、もう元には戻らない。
○
「って言ったはいいけど、どこにも行くあてないんだよね」
結局、あの後すぐに家に帰って、ご飯も食べずに寝た。朝起きて、当然のようにバイトをサボり、ゆっくりと怒りが収まっていざ冷静になれば、そんなことに思い至る。
「僕、これからどうすればいいんだ?」
今日一日が無駄に終わった。気づけば夜の十時。
「みんな、今日大丈夫だったのかな?」
一週間の内、土曜日が一番混む。クーポンを配信してればなおさらだ。
「って、僕にはもう関係ないじゃないか」
そう、僕にはもう関係ない。関係ないんだけど……。
カンカン。
ぐるぐる考えていると、入り口の鉄のドアが遠慮がちに叩かれる音がした。誰かと疑問に思いつつ玄関へと足を運ぶ。
「愛沢です。高橋くんいますか?」
ドアノブに伸びた手が一瞬止まる。
「お願いです。開けて下さい」
どうしようか散々迷った挙句、僕の手はドアノブを捻っていた。
「……どうしたの?」
「お話があります。私の部屋まで来て下さい」
「……分かった」
一日ぶりに出る外は、少し肌寒かった。
「適当に座って下さい。今お茶を用意しますね」
「ありがとう」
部屋の真ん中に置かれた、足の短いテーブルの前に座る。
まさかこんな形で愛沢さんの部屋に来るとは。
愛沢さんの部屋は、予想と大きくかけ離れていた。
壁に貼られた数々の戦隊もののポスター。ところどころに置かれた戦隊もののフィギュア。テレビの下の棚には、いくつもの戦隊もののDVDが並んでいる。
「あんまりじろじろ見ないでください。その、恥ずかしいです……」
「ご、ごめん……」
愛沢さんは持ってきたお茶をテーブルに置き、僕の向かいに座った。腰掛けているクッションも、戦隊ヒーローがプリントされてるというこだわりよう。
「高橋くんは、『オタク』が嫌いなんですか?」
「うん。そうだね」
いまさら否定することもないだろう。素直に頷く。
「なら、私のことも嫌いですか?」
「え?」
質問の主旨が分からず、どう答えていいか分からなかったけど、素直に答えることにした。こうなってしまった以上、嘘をついても意味がない。
「嫌いじゃない。でも、ショックだったのは事実かな」
「『オタク』って、そんなにいけないことですか?」
「いけないことだとは思わない。でも、僕は苦手……ううん、嫌いだ」
「なんでそんな嫌いなんですか?」
「…………」
理由を話すということは、僕の過去を、トラウマを話すことになる。
単なる思い出話とはワケが違う。
愛沢さんは、じっと僕の答えを待つように黙っている。
しばらく悩み、結局話すことにした。愛沢さんには話しておきべきだと思った。
「僕が転校ばっか繰り返してるのは知ってるよね?」
「はい」
「僕はあらゆるところに転校を繰り返したんだ。国内限定だけど、北は北海道、南は沖縄までね。転校、愛沢さんはいいって言ってたけど、不自由なことの方が実際多いんだ。何が一番辛いか分かる?」
「お友達ができてもすぐ離れてしまうことでしょうか?」
「そうだね」
愛沢さんの答えに首を縦に振る。
「でもそれ以前に、友達を作るのが大変なんだ」
僕の言葉に愛沢さんは不思議そうに首を傾げる。
「でも、転校生って珍しくてすぐ人気者になりそうですけど……」
「最初はね。でも、人ってのは自分と違うものを遠ざけたがる。それが顕著に出るのが『話題』だよ」
「話題?」
「そう。地方によって流行ってるものは少しずつ違うんだ。中学高校にもなるとそういうことはなかなか無いけど、小学校あたりだと、流行りってのがすごく重要になってくる」
愛沢さんの反応を待たずに話を続ける。
「小さい子ってのは容赦ないからね。最初は珍しがって話しかけてくるけど、同じ話題に乗れないやつは当たり前のように仲間はずれにする。そして、それについての知識を多く持ってる、グッズやおもちゃをたくさん持ってるやつほど、みんなの人気者だったんだ」
愛沢さんは、頷きながら話を聞いてくれる。彼女にも心当たりがあるみたいだ。
「僕の場合、それが『戦隊ヒーロー』だった」
ハッとしたように、愛沢さんの目が見開かれた。
「僕が転校したある小学校では、当時放映していた戦隊ヒーローが大流行してた。知らない男子がいないぐらい。僕は転校ばかりでそんな余裕もなく、正直流行に疎かった。それでも少しはその番組を見てたし、友達の輪に加わりたかったから、僕も頑張ってその会話に参加したんだ。それでも……」
その時の光景が蘇る。唇を強く噛みしめ、深呼吸する。
「みんな、持ってる知識やグッズの量は僕なんかとケタ違いだった。そして、『そんなことも知らないの? ダッセー』とか、『これ、みんな持ってるぜ』だの、『お前とじゃ話にならねぇよ』なんて言われて、僕はどんどん孤立していった。そこからだね。僕は、極力目立たないように努めるようになったのは。僕ってキャラないでしょ?」
「え、それは……」
「はは、いいよ今さら。僕も自覚してるんだ」
愛沢さんは言葉を濁してくれた。本当、優しい人だな。
「オタクが嫌いなのはそれが理由。キャラが無くなったのもそれが理由。価値観を押し付けて知識を自慢して、見せびらかして優越感に浸る」
「それは違います!」
「愛沢さん……?」
彼女には似合わない鬼気迫る声に、僕は一瞬たじろいだ。
「オタクはそんな方々じゃありません! 高橋君が遭遇したのは、『マニア』と呼ばれる人たちです!」
「な、何が違うの?」
あれ? 何だこの展開? さっぱり分からない。
「全然違います! 『マニア』の人たちは知識やグッズを集め、他の人たちより多く持ってることに優越感を抱く人たちです。『オタク』は違います! それを心から愛し、少しでも詳しくなりたい、多く知りたいと思う人たちです。そして、そのよさを多くの人に知ってもらいたい、その良さについて語りたいと思うような人たちです。決して自分の価値観を押し付けたりしません」
その言葉に気づかされる。
僕が風邪をひいた時、皆どうだった?
オタクの多い従業員。皆が皆、それぞれの趣味が大きく反映されたお見舞いを持ってきた。その中で誰一人、僕にそれを押し付けるようなことは無かった。
武光さんも春日さんも、栞だって大量にお見舞いを持ってきたくせに、見るのは『暇になったら』と言った。決して押し付けられてない。
叩かれはするものの、いつも魔法魔法うるさいマリアにだって、一度も価値観を押し付けられたことはない。
一度も……。
「『オタク』の方々は、好きな作品の商品を買う時、『観賞用』、『保存用』、『普及用』などいくつも買うことがあります」
ズイ。
「それに『オタク』の語源を知ってますか?」
ズズイ。
「何かの物事に詳しい人たちが、仲間内で相手のことを『御宅』と呼ぶ傾向があったことから、そういう人たちを『オタク』と呼ぶようになったのです」
ズズズイっ。
「そういうことからもオタクの方々は、他者との優位に重点を置く『マニア』の方々とは違うのです。仲間を大事にしてるのです!」
ズズズズズズズイっっ!
「そ、そうなんだ」
話してる途中から段々ヒートアップしてきたようで、愛沢さんはテーブルを乗り越えて、今じゃ僕を押し倒すような格好になっていた。
僕の視界いっぱいに広がるのは大きな丸い垂れ目。形のいい鼻に、ふっくらと膨らんだほっぺ。そして、ああ、なんて柔らかそうなクチビル……。少しでも僕が身体を起こせばキスできそうな距離。それを意識した瞬間、いっきに顔が火照るのが分かった。無理やり視線を逸らして慌てて口を開く。
「あ、愛沢さん、その、近い……」
「へ? あ、ひゃ? ごめんなさい!」
慌てて飛びのき、テーブルの向こうへと帰還。
愛沢さんは「コホン」とわざとらしく咳をし、話を戻す。惜しい気もしたけど、僕も背筋を伸ばして聞く体勢。
「別にマニアの方々を否定してるわけではありません。何かをものすごく好きという部分では変わらないですし。むしろ、彼らの何かに対する情熱は凄いと思います。でもやっぱり、『マニア』と『オタク』では、他者に対する思いが違うと思います……」
「そっか」
思い返せばしっくりくる。トラウマになるぐらいオタクが嫌いだったのに、そんな人たちがたくさんいる仕事場で二週間も働き続けていた。。
いや、もっと正直に言える。
『オタクが嫌い』っていう気持ちが先行しすぎたため、自分では本当は気づいていたのに、無理やり目を背けてた。その感情をどうにか否定しようとしていた。
住む場所が他にない、お金がないなんて、確かにどれも重要なことではある。でも、やっぱりそれは言い訳だ。
本当だったら、琴子からの電話の時点で気づいてた。
僕は、やっぱり楽しかったんだ。
そう認めた瞬間、胸でぐるぐる渦巻いてた靄が晴れていく気がした。
「ふふ、もう大丈夫みたいですね」
「うん、ありがとう」
「これぐらい当然ですよ」
二人で笑い合う。
もちろん、すぐには行動も考えも一新することなんてできないと思う。
それでももう大丈夫だと、漠然にだけど、そう思えた。
明日、一番にやることが決まった。
気づけばお茶はすっかり冷めていた。