第四章 三分の一は邪まな劣情
そんなこんなで、僕が「TSUDAYA」で働き始めてからちょうど一週間が経った。主に愛沢さんのおかげで、だいたいの仕事もこなせるようになってきた。
バックに関して言えば、商品の位置もそこそこ覚えられてきていると思う。武光さんみたいに、何がどこにあるとまではいかないけど、どのジャンルがどのへんにあるかぐらいはもう分かる。
一番心配していたレジも、覚えてしまえば意外と簡単だった。最初のころは愛沢さんが後ろについていてくれて、いろいろと教えてくれた。それが名残惜しくもあるけど、今は一人でもレジ打ちできる。クレーム処理だったり、まだまだ分からないことは多いけど、僕は自分でも自覚できるぐらい、凄い早さで仕事を覚えていった。
なんと言っても、ほぼ毎日バイトに駆り出されてますからね……。
この前のお食事会イン津田家でマリアのほっぺをツンツンして以来、マリアは本当に僕を家畜か奴隷のごとくこき使いまくっている。
それに加え、僕がミスれば容赦なく制裁という名の、魔法攻撃と称した物理攻撃を例の杖でしかけてくる。そんなことされれば自然と、いや、無理やり仕事が身につくというものだ。
しかも、先週の土曜は『旧作DVD半額クーポン』なるものを配信していた。これは、ネットで「TSUDAYA」のサイトに登録し、よく行く店舗を登録すると、その店舗で行われているキャンペーンの情報がメールで届くというもので、クーポンもこれで配信される。お客は届いたメールからクーポン画面を取得して、レジでこれを見せればクーポン適用というわけだ。
もちろん僕にとっては初めてのことだったけど、愛沢さんの丁寧な指導、そして、クーポンを適用と言っても、レジでいくつかボタンを押すだけで簡単にできるというのもあって、なんとか乗り切ることはできた。
それにしても、新人なのにこの仕打ち。正直つらい……。
僕の経験値の溜まり方が尋常じゃない気がする。
とは言っても、バイトをやめてサンパレスを追い出されるワケにもいかないので、泣く泣く我慢する僕だった。
臥薪嘗胆。いつか、あのぷにぷにほっぺをムチャクチャにしてやる。
「おはようございます」
一つの目標を腹に据えつつレジカウンターへ入る。今日のメンツは、事務所にマリア、僕、愛沢さん、小野さん、武光さん、そして久しぶりに斉藤さん。
「斉藤さん、生きてたんですね」
「あん? そりゃどういう意味だ?」
「先週のこと覚えてないんですか?」
春日さんに拉致されて以来、この人とシフトが被ることがなかった。むしろ、シフトに入ってる気配さえなかった。
「先週? 何のこと言って──ハッ!? いったい何だ、心の底から湧きあがってくるこの感情は!? 恐怖……なのか? いったい俺は何に怯えて……!? ま、まさか、姐さ──」
「破ァ!」
あまりにも一瞬のことで、何が起きたか分からなかった。今現在分かるのは、小野さんが掌底を放った状態で静止し、斉藤さんが無残にも地べたに崩れ落ちていることだけだった。
「……京平。……今のは」
「ああ。一瞬封印が解けかけた。もっと強力に殴って……じゃなく、強力な術式を店長に頼もう。高橋君、崇弘は具合が悪いらしい。早めにあがらせるね」
「いや、今小野さんが……」
「具合悪いんだって」
「はい、早く帰らせましょう!」
「理解が早くて助かるよ。じゃあ崇弘をサンパレスに送ったら、すぐ戻ってくるからね」
小野さんはそう言って、斉藤さんを担いで一回事務所へと戻る。
小野さんと斉藤さんが事務所に消えてしばらくすると、『ゴン』と頭を木製の、例えば杖のような長い棒で殴ったような音がしたけど、僕は全力で聞かないふりをした。
「………………………………難儀なやつ」
事務所から出てきた小野さんと斉藤さんが店から出て行くのを見送りつつ、武光さんが聞こえるか聞こえないかぐらいの声で呟く。
やっぱそう思うんだ。
「斉藤さん、大丈夫でしょうか? どこが良くないんでしょうか?」
「頭ですね」
「そうなんですか!? 早く頭良くなるといいですね!」
愛沢さん、言葉は選んだほうが……。
「仕方ないですね。私たちは先にイってしまわれた斉藤さんの分までがんばりましょう」
斉藤さんに恨みでもあるのかな?
「……お前たちに…………提案がある」
「「はい?」」
あまりにも唐突な武光さんの言葉に、愛沢さんと声を揃えて聞き返してしまう。やっぱり僕と愛沢さんは気が合うみたいだ。最早、運命の人としか言いようがない。
「……高橋……バックはもう…………覚えたか?」
「あ、はい。一応、どのジャンルがどのへんにあるかぐらいは」
「…………上々。……なら……お前たち二人で……勝負しろ」
は? 何を言ってるんだこの人? ご乱心なされたか?
そんな、僕が愛しの愛沢さんを傷つけることなんてできるわけ──
「分かりました」
やる気満々だよ! 殺る気満々なのかな!?
「……バックは…………競いあった方が……覚えが……早い」
あ、そっちの話か。
この人が勝負って言うと、合戦でも始めろって言ってるのかと思うよね。武士みたいな人だしさ。
え? 思わない? あそう……。
「……規則は簡単。……DVD三十枚を……早く返した者の勝利」
三十枚。今の僕なら、調子よくて十分弱ってとこかな。
「……DVDは……俺が無差別に選ぶ」
そう言って武光さんは、カウンターの後ろにある棚からDVDを適当に取って積み上げていく。
「……自分の返却しやすいように……並べ替える時間を一分やる。……その後…………同時に開始。……早く戻ってきた方が……勝者」
「でも、そしたら武光さんがカウンターに一人になっちゃいますよ?」
「……愛沢…………案ずるな。……今日は暇だ」
武光さんの言う通り、カウンターから見える範囲にはお客さんがいない。
「お客さんいるんですか?」
「二人……いや、三人ぐらいはいるんじゃないかな?」
「高橋くん、分かるんですか?」
「え? いや、音聞こえるし」
本当に微かにではあるけど、お客さんの足音や、商品を棚から出したりしている音が聞こえてくる。
「……ほう」
武光さんが、何かを考えるように僕を見る。あの鋭い眼光でみられると、ちょっと居心地が悪い……。
緊張しながら武光さんの言葉の続きを待つ。
「……ちなみに……どこにいるか……分かるか?」
「えっと……」
神経を集中させて、店内の音に耳を傾ける。さほど苦労もせずに目当ての音に聴覚のピントが合った。
「韓流に二人、アニメに一人ですかね?」
「……同意見だ」
武光さんの賛同を得られてほっと一安心する。んー、別に何かミスったわけでもないし、これも他愛のない会話の一部なんだけど、妙に緊張した。
「私は店内のBGMしか聞こえません……」
一人しょんぼりする愛沢さん。僕たち二人においてけぼりくらった気がしたのかもしれない。悪いことしちゃったかな。
そう思ったのも束の間、すぐに愛沢さんの表情は引き締まる。
「ともあれ、今日がヒマなのは分かりました。では高橋くん、罰ゲーム決めましょう」
「罰ゲーム?」
「はい。その方が盛り上がりますし、本気を出せるじゃないですか」
確かに。愛沢さんが相手となると、紳士な僕は勝ちを愛沢さんに譲ってしまうかもしれない。いやそもそも、僕より長くここでバイトしている愛沢さんの方が勝つ確率が高いんだけど……。
「うん、分かった。じゃあ、どんなのにする?」
「そうですね、ジュース一本なんていうのは優しすぎますし」
できれば、奢る系の罰ゲームは回避したい。
この前の両親の電話の後、本当に100万円振り込まれていたのを確認した時には戦慄した。人間というのは不思議なもので、自分が手にしたこともないような大金を目の前にすると、使うのをためらうどころか恐怖すら覚える。それが出所不明なものならなおさら……。
今現在、なぜか母さんとも父さんとも連絡か取れなくなっているので、できればあのお金は手をつけないでいたい
両親が生存していることを、切に願います……。
「うーん、じゃあ一発芸をするっていうのは……(チラッ)……無理ですよねぇ」
「愛沢さん? 何で僕の顔を一回チラ見してから無理とか言うの?」
MPが一気に持ってかれた。泣きたい。
「あ、負けた方は相手のいうことを何でも一つ聞くっていうのはどうですか?」
僕の言葉を完全にスルーした。何て破壊力のあるスルーなんだ。一瞬で心が折れちまったぜ。よし、これをバスタースルーと名付けよう。何かの格ゲーの技名だった気もするけど、そんなことはどうでもいい。
「じゃあ決定ですね。高橋くん、絶対に負けませんよ?」
あれ? なんか知らない間に勝手に話が進んでる……。
「分かった。やるからには僕だって負けないよ?」
ま、いまさら引いたら男がすたるってもんだ。
「…………では……一分計るぞ」
武光さんの合図とともに、僕と愛沢さんは一斉にDVDをチェックしていく。僕はDVD三十枚を一通りチェックした後、洋画新作、海外テレビドラマ、洋画、韓流、邦画、邦画新作、国内テレビドラマ、アニメの順に並べていく。これは、僕が初めてここのシフトに入った日、バックを教えてくれた武光さんが返却していた順番と同じだ。後で気づいたけど、この並べ方なら店内の端から端へとスムーズに返却できる。
「……そこまで」
武光さんの声とともに、僕と愛沢さんの手が止まる。僕は終了ギリギリまで並べ替えに必死だったけど、愛沢さんはさすがと言うべきか、余裕の顔をこっちに向けている。
もう勝った気でいるのか、微笑を浮かべたままDVDのタワーを、大きな胸へ押しつけるように抱える。DVDに抑えつけられた二つの膨らみは……まるで表面張力で膨らんだコップの水面のように、今にも身体とタワーの間からこぼれ落ちそうになってるじゃないか! 溢れたら大変だという恐怖にかられ、僕が支えてあげなきゃという衝動にもかられたけど、何とか踏みとどまる。
危ない。この勝負はおろか、人として敗北することになるとこだった。いや、理性が飛びかけた時点で、男として敗北してる気がするけど……。
いやしかし、タワーを抱えた愛沢さんを正面から見ると、改めてそのスゴさを実感する。タワーに潰されて行き場をなくしたおっぱいが、タワーの影からこんにちはしているのである。
ぬう、けしからん。いったいあの中に何が詰まっているのだろうか? 夢と希望とロマンだろうか? ぬう……。
「高橋君? どうしました?」
「え? あ、いや、何でもないですよ? ハハハ」
敬語が出てしまった。
「…………両者……位置につけ」
カウンターの入り口に、僕と愛沢さんが肩を並べて立つ。愛沢さんの髪から甘い匂いが漂ってきて、それが僕の鼻腔を刺激した。
「…………店内は……走るな。……暇とは言え……客はいる」
いくら勝負とはいえ、今は仕事中だということを忘れるなということか。だったら、早歩きぐらいなら大丈夫かな?
「………………開始」
武光さんの声とともに、愛沢さんが歩き出す。
しまった、出遅れた!
スタート直前だったのにも関わらず、考え事をしてたっていうのもあるけど、武光さんて、その……話し方が独特だから、いつ話し始めるかが分からないっていうか。
要は、タイミングが掴みづらい。
愛沢さんの長くてボリュームのある、少しウェーブした髪を追いかけながら、カウンターの横に位置する、洋楽CDコーナーを抜ける。すると愛沢さんは左に曲がって、アニメのコーナーへと歩いて行った。僕はそのまま直進して、洋画新作コーナーへ。
なるほど、洋画新作とアニメは、店の両端に位置する。愛沢さんは僕とは逆の順序で返却をする気らしい。確かに僕と同じルートで進めば、お互いがぶつかり合ったり、邪魔になってタイムロスになりかねない。
それならそれで、バックになれてる愛沢さんの方が、バイトを始めて一週間の僕より歩があるんだろうけど、そうしなかったのは愛沢さんの優しさなのか、それとも何かの作戦なんだろうか……。
いや、今はそんなこと考えてる余裕はない。愛沢さんの作戦がどうだろうと、今は自分の手元にある商品を探すことに集中しなくちゃ。
まずは……うわ、いきなりS級タイトルだ。
『S級タイトル』と呼ばれる商品は入荷してくる本数が多い上に、新作期間で少し値段が高めでも、よくレンタルされる。言ってしまえば大人気の商品のことだ。
『S級』は洋画に最も多く、邦画の一部の作品があたる。その次が『A級』で、邦画のほとんどがこれに分類される。
次は『準A級』で、これに分類される商品は、出ている俳優は有名だけど、そこまで話題にならなかったような作品のこと。分類される商品の性質上、この分類には邦画が多い。
最後が『B級』。今まで言ったどの分類にも属さない商品のこと。有名な俳優も出てなけりゃ、話題にもならない、むしろ劇場公開されてもいないような商品のことだ。
だいたい一本、多くて二本程度しか入荷されないようなタイトル。邦画、洋画ともに無数にある。
内容も、意外とクオリティが高いものから、大学のサークルが作ったんじゃないかというほどに残念なものまで、まさにピンキリ。
『B級』の作品は無駄にパッケージのデザインがかっこよかったりする。その上、『S級』の商品と似たようなタイトル、パケのデザインがあったりするから(これは洋画に多い)、それに騙されて借り、いざ見てみると、クレームをつけたくなるぐらいガッカリする時もある。
ちなみに、タイトルやパケのデザインの割にあまりにも内容がチンケすぎて、逆に爆笑できるなんて商品もある。ちなみに、SF映画はここらへんの当たりはずれが激しい。ギャンブルの感覚で選んでみたら、案外楽しめたりするんじゃないかな?
それはさておき。
『S級』は入荷数も多ければレンタル数も多い。つまり、内パケと同じ連番の外パケを見つけるのに時間がかかるってことだ。
このタイトルは……あ、フルレンじゃないか!
10秒ほどかけてやっと同じ番号を見つける。このロスはちょっと痛いな。愛沢さんにもS級が混ざってればいいんだけど……。
その後は、フルレン商品に出くわすこともなく、順調に返却を進める。洋画新作、洋画テレビドラマ、洋画と進み、韓流の棚へ近づいた時、店内の反対側から返却をしてきた愛沢さんとすれ違った。手元を見れば、愛沢さんの胸を完全に隠していたDVDのタワーは、すでに三分の一程度に減っていた。
DVDがそこまで減っている、それはつまり……。
大変だ! DVDタワーの圧力で横から溢れ出そうになっていたおっぱいが、今度は残ったDVDの上に乗せられて──いやむしろ、残ったDVDによって下から押し上げられるように強調されて?
け、けしからん! まさか、これが愛沢さんの策だとでもいうのか?
確かに、僕と同じ道順で並行するようにバックをしていけば、なかなかその胸元へと視線を注ぐこともできなくなる。それに、DVDのタワーから徐々にその姿を現してくる二つの素晴らしき膨らみ。それはそれで、水平線からゆっくりと姿を現す日の出のような雄大さ、美しさを彷彿とさせる。
しかし。
最初はその全体像が見えなかったことでもどかしさを植え付け、その後、思わぬタイミングで拝むことのできたそのおっぱいの破壊力たるや!
しかも下から押し上げられることによって強調までされてるときた!!
悔しいが効果抜群と言わざるを得ないだろう。僕はこの精神攻撃によって、明らかに集中力を乱されている。完全に弱点を突かれた。愛沢さんは、僕のことを分かってるとでも言うのか? もしそうだとするのなら────僕たちはやっぱり気が合うのかもしれない。
くっ、僕は負けてしまうのか?
ここで負けて罰ゲームにより、愛沢さんの言う事を何でも聞く、すなわち愛沢さんに命令されるというのは少し興奮するけども、僕も愛沢さんに罰ゲームを……。
ん? そうか! 思いついた!
ふっ、愛沢さん、なかなかの作戦だったけど、少し甘かったようだね。僕はその作戦を逆手に取らせていただく! 策士、策に溺れるとはこのことよ!
絶対にこの勝負に負けられないという明確の目標ができたことにより、一度は消費した僕の集中力が格段に上がっていく。
DVDのタイトルを見る。よし、これはあそこにある。
次は……『S級』か! しかもそれが二枚!
足早に邦画新作ランキングの棚へと向かう。確かこれはランキング一位のタイトルだったはずだ。
僕の記憶通り、ランキング一位でしかも全て貸し出し中。ぱっと見、四十本ほどの空の外パケが並んでいる。棚の前に来るまでに確認しておいた内パケと同じ番号の外パケを探す。
ちくしょう。こうも多いとなかなか見つけられない────
と思った矢先、ふいに同じ番号を見つける。それに続き、二枚目の外パケもすぐに見つかった。
たまたまか?
いや、違う。違うのは自分が一番よく分かってる。
明らかに、さっきとは見え方が違う。
集中力が増したせいか、視界、そして、どの商品がどこにあるかという記憶もクリアになっているのが分かる。
これなら行ける!
僕はニヤつきたくなる衝動を我慢しながら、次から次へとバックしていく。
そして『新作』と書かれた最後の商品を外パケの中へと入れ、今にも走り出しそうになる足を抑えつつ、それでも許す限りの速足でカウンターへと戻る。
スタートしてから何分たったのかは分からない。もしかしたら、愛沢さんはすでに戻っているのかもしれない。そうだとしても、今回のバックの早さは自己ベストかもしれない。そんな不安と期待が混じった気持ちでカウンターへと戻る。そこには──
愛沢さんの姿はなかった……?
「…………ほう」
「そんな……」
カウンターにいた武光さんの声と、僕の後ろから声が聞こえたのは、ほぼ同時だった。後ろを振り返ると、そこには信じられないようなものを見たかのように、呆然と立ち尽くす愛沢さんの姿。
「私、負けちゃったんですか……?」
愛沢さんが今にも泣き出しそうな顔で顔を俯ける。どうしよう、何か知らないけどムチャクチャ罪悪感が……。悪いことしてないんだけどなぁ。
「負けちゃいました……。入って一週間ほどの新人さんに負けてしまうなんて……。私は向いてなかったんです。きっとそうです。私は要らない子なんです……」
よし死のう。
「……高橋……どこへ行く?」
「止めないで下さい! 女の子を泣かせてしまうなんて、僕は最低のクズだぁぁぁ!」
「……二人とも…………錯乱しすぎだ。……高橋……愛沢を」
そう言われて僕は、愛沢さんの前に突き出される形になる。僕は武光さんの言葉で、愛沢さんをフォローできるほどの冷静さは復活していた。
「い、いやぁ、たまたまだよ。実際危なかったしね」
「同情はいりません……」
「そんなことないって! 今日は僕がたまたま調子のいい日で、愛沢さんがたまたま調子の悪かった日なのかもしれないし!」
「私は別に調子悪くないです」
愛沢さんの目の端から、今にも涙が落ちそうになる。
「うっ! あ、ほら! よく思い出して! 今日のバック、棚の上の方の商品が多かったんじゃない?」
「え?」
そう、これだ! DVDの商品の棚は高さが2メートル以上ある。背の低い女の子が棚の上の商品を返却しようとすると、売り場にある踏み台を持ってくるか、背伸びで頑張る、という方法しかない。つまり、それは大きなタイムロスになる。
「そういえばそんな気も……」
「そうだよ! 僕が軽く見た時も、愛沢さんは上の方の商品を返却してたよ!」
「そ、そうですよね。なんかゴメンなさい。私、取り乱しちゃって。今日はたまたま運が悪かっただけなんですよね!」
「そうそう!」
ふぅ、愛沢さんがやっと笑顔を見せてくれた。ここで『運も実力のうち』なんて言ったらどうなるか? なんてちょっと意地悪したい気持ちが膨らんだが、それこそ最低のクズの所業だろう。
「それにしても、愛沢さんの作戦も見事だったよ」
「作戦? 何のことですか?」
「あ、いや、何でもないです」
まさか、あのおっぱい作戦は素だったとでもいうのか!?
そりゃそうだよね!
あんなのが作戦だったら、僕の中の愛沢さんのイメージが崩れるとこだよ!
いや、そんな愛沢さんも、それはそれで悪くない……?
「しょうがないですね。罰ゲームは受けます。私を煮るなり焼くなり好きにしちゃってください。どんな命令にも従います」
ビバ天然エロス!
なんという破壊力!
これを素でやってるってのに加え、モジモジしながら顔を少し赤らめ、負けたのが悔しかったのか、涙目で上目遣いに僕を見てくるのだから始末に負えない。
今すぐお持ち帰りして思い切り抱きしめたい!
しかし僕はもちろんそんな強引なことはしない。犯罪になっちゃうじゃないか。そんな強引な手段を使わなくたって、僕には罰ゲームという大義名分があるんだからね!
僕がここまで集中してバックをできた理由。それは、愛沢さんの作戦(と思い込んでた)に用いられたおっぱいだ。一時は確かに苦しめられた。しかし、僕はそれを逆手に取った!
そう。僕が勝てば、その素晴らしきおっぱいを好きにできるのだ!!
「高橋くん! 大変です、鼻血が!」
「いやなに、これは心の汗ですよ」
「意味分かりませんよ!?」
何? 僕がゲス野郎だって?
フッ、その罵倒すら心地良いわ!
古来より、歴史が勝者の都合のいいように記録されてきたように、勝負では勝者が絶対なのだよ!
「じゃあ罰ゲームを発表させてもらうよ。愛沢さん僕にそのおっぱ……」
いやいやいやいやいや、さすがに待てよ僕。冷静になろう。クールにいこうぜ。
よく考えろ。
今日の僕、ゲスすぎじゃないか?
愛沢さんの天然エロスに毒されたからって、やっていいことと悪いことがあるだろう。
踏みとどまれてよかったよ。最後まで言ってたら、完全に暗黒面に落ちてたわ。ベイダー卿もドン引きだよ。
そういうことは、ちゃんとそういう関係になってからじゃないとね☆
ん? なら、いっそそういう関係になってしまえばいいのか。
「愛沢さん、僕と付き合っ……」
いやいやいやいやいや、罰ゲームでそれはないだろう。僕と付き合うのが罰ゲームって。どんだけ自分を卑下してるんだよ。そもそも愛沢さんの気持ちが大事だし……。
確かにこれは僕の純情な感情だ。愛沢さんとお付き合いしたい。だからって、こんなふうに伝えちゃいけないよなぁ。
あれ? そうすると何にすればいいんだ? 何でこうゲスいお願いしか浮かんでこないんだ!
頭を抱える僕を、愛沢さんは不思議そうな目で見つめている。あぁ、そんな純粋そうな目を向けられたら、ますますなにか頼みにくい。じゃあ、無難に一発芸? いや、それじゃあ芸が無さすぎるだろ!
・一発芸
・付き合う
・おっぱい
てか、この三択なんだよ!?
もっと他にないのかよ!?
「高橋くん、負けたからには私、なんでもしますよ?」
「ホント? ならおっぱ……」
だから、待てぇぇぇぇぇ!
愛沢さん、恐ろしい子!
一瞬で僕の理性を崩壊させる!
鎮まれ僕の劣情!
「ハァハァ……罰ゲームの内容は……ゼェゼェ……次回までの宿題ってことで」
なんとか自分のリビドーに打ち勝った僕は、こう言ってその場をやり過ごすしかなかった。
肩で息する僕を見て、武光さんと愛沢さんは頭の上に疑問符を浮かべながら、とりあえずその場を流してくれた。実にありがたい。
それにしても、僕のキャラ作りが迷走しているのは気のせいだろうか?
○
「はぁ……」
今日も一日が終わった。
スマホの画面に表示されている時間は午後十時半。
いつもなら閉め作業も含めて十時には自室に戻ってこれるけど、今日は閉め作業の後に明日からレンタル開始の商品を棚に並べてたりして、少し遅くなった。
そもそも僕のリビドーが暴走してくれやがったために、必要以上に疲れた……。
もうご飯とか作るの面倒だから、このまま寝ちゃおうかな……。
いや、風呂だな。
閉店後の品出しが意外と重労働だったから、少し汗ばんで身体がベトベトする。
脱いだ服を洗濯かごに突っ込み、風呂場の蛇口をひねる。シャワーが温まるのを待って、いい感じの温度になったところで頭からお湯をかぶる。
「はぁ……」
さっきのとは色合いの違う溜息が洩れた。風呂は心の洗濯だって誰かが言ってたけど、まさにその通りだと思う。頭から温かいお湯を浴びれば、それと共にイヤなこともお湯に溶けて一緒に洗い流してくれるみたいだ。
お湯を溜めて気持ちよく湯船につかりたいとこだけど、僕はシャワーだけで我慢してる。
家賃は免除してもらえているけど、公共料金は僕持ちだ。
今度散歩がてら銭湯でも探してみようと思う。下町って、そういうの多そうだし。
身体を洗い終えて風呂を出る。と、まるで見計らったように、脱衣所に置いてあったスマホが鳴った。
画面を覗き込み、誰からの着信なのかを確認する。
うわ……出たくない……。でもここで出ないと後でどうなるか分からないんだよなぁ。
「はぁ……よし」
一度深呼吸をして、覚悟を決めて通話ボタンを押す。
「もしもし?」
『もう、出るの遅いぞ? もうちょっと遅かったら警察に捜索届を出すとこだったよ☆』
冗談だと思うでしょ? でも、こいつなら本当にやりかねない。
「琴子か?」
『はいはーい! あなたのことを愛して止まない、上から読んでも下から読んでも琴子だよ! お兄ちゃん元気してた?』
紹介遅れました。僕には妹がいたのでした。
「あ、あぁ久しぶり。僕は元気だったよ」
『やーん、もうお兄ちゃんの声とか久しぶりすぎて、琴子鼻血ぶーだよ!』
もう察してもらえたと思う。
妹の琴子は重度のブラコンだ。
別に嫌いってわけじゃない。一般的な兄妹より仲がいいと思ってる。思ってるんだけど、性格がアレなため、若干苦手……。目に入れなくてもイタい子なのである。
『お兄ちゃんの声聞いてたら興奮してきちゃった』
ドン引きだよ。こんなはしたない子、本当に僕の妹なんだろうか。
「てか、お前今どこにいるの?」
僕がこっちに引っ越してきた時、琴子は両親について行った。僕と違って無駄にアグレッシブで、何回転校してもすぐ友達ができたし、昔の学校の友達とは今でも連絡を取り合ってるらしい。「電話帳のバックアップデータだけでのギガバイトある」なんて武勇伝を聞いたことがある。
さすがに盛られているとは思うけど。てかギガ超えのデータって、何件あればそこまでになるんだろう……。
『多分中東あたり?』
「中東!? てか父さんと母さんは!?」
もし引っ越ししなかったら、僕は外国に転校だったんだろうか?
『いやね、一週間ぐらい前だったかな? お父さんたちとはぐれちゃってさぁ』
「え? 大丈夫なの?」
『んー、多分? お父さん達、ちょっと仕事でトラブったらしくてさ』
あの電話の時だ!!
『ちょと前に連絡取ったけど、まだやつらに見つかってないから大丈夫だって』
ん? 今さらっとムチャクチャ気になる発言がされたけど気のせいかな?
よし、スルーしよう。バスタースルー。
そういえば僕、親の仕事が何か知らない……。
「じゃあお前どうすんの? 帰国(?)すんの?」
『んー、お兄ちゃんと自堕落なラブラブ生活ってのも悪くないけど、せっかくだから世界を見て回ってくるよ』
もう、アグレッシブさがインターナショナルですわ。
『お金とかもまだあるしね。あ、そうそう。お兄ちゃんにお土産送ろうと思うんだけど何がいい?』
「え? マジ? でも気遣わなくていいよ?」
『そんなこと言わずにさ。一応候補があるから、その中から選んでね』
「そこまで言うなら聞くだけ聞こうか」
琴子のことだから、どうせ向こうで撮った琴子の写真とかを大量に送りつけてくるに違いない。
『やった☆ じゃあ、最初は、琴子そっくりのダッチワイフでしょ』
「待って。最初から意味が分からなさ過ぎるんだけど」
予想のはるか上空を音速で飛び去っていきやがった。
「だいたい、そこから送る意味ないよね?」
『次はねぇ』
聞いちゃいねぇ!
『琴子とお兄ちゃんの名前が書かれた婚姻届』
「それこそ送る意味ないよね!? そもそも兄妹は結婚できないからね!?」
予想のはるか上空すぎて、もはや宇宙空間に突入した。
『お兄ちゃん。今じゃ同性間の結婚を認めてる国だってあるんだよ? なら、兄妹の壁だって外国じゃあって無いようなもんだよ!』
もうやめてくれ。お前の発言は国際問題に発展しかねん。
『最後はね……。私の貞操を贈ります。きゃっ☆』
「『きゃっ☆』じゃねぇよ! 受け取れるかそんなもん!」
予想のはるか上空すぎて、多分太陽系を出て行った。
『お兄ちゃんヒドい! 琴子が大事に守り抜いた貞操をそんなもんだなんて……』
「あ、いや、ゴメン。強く言いすぎちゃったな」
『琴子は傷ついたよ。責任取って結婚して!』
「あたり屋みたいなこと言い始めた!」
『さぁ、どの責任の取り方にするの? ①ダッチワイフ、②結婚、③既成事実、どれ?』
「いつから責任の取り方の話になったの!? お土産の話じゃなかった!?」
いや、どっちの話だったとしても僕の人生が詰みかけていることには変わらないけど……。
『分かった。じゃあそこまでとは言わない。琴子とつきあってくれるだけでいいよ』
「まぁそのぐれいなら……ってなるとでも思ってるの!?」
『うーん、徐々に条件のハードルを下げていく作戦でも駄目だったか』
「おい、聞こえてるからね?」
この子の将来を考えると頭が痛い。
『何で琴子じゃダメなの!? お兄ちゃんは琴子が嫌いなの!?』
「そんなことないよ! 琴子のことは大切に思ってるよ!」
言うまでもなく家族としてだけど。
『ごはっっ!!』
「琴子!?」
『やべぇ、お兄ちゃんのセリフに興奮しすぎて吐血したわ』
「お前、一回病院行こうか!!」
そこはせめて鼻血にして!
『もう、つれないなぁ。っと、冗談はさておき』
琴子は一回そう仕切り直すと、今度は幾分落ちついた声で話してくる。
『思ったより元気そうで何よりだよ、お兄ちゃん。もちろん友達をちゃんと作りたいってのもあったと思うけど、一人で暮らすことにした理由、それだけじゃないんでしょ?』
「…………」
『肩身、狭かった?』
「…………」
相変わらず鋭い。
琴子の言う通り、長く付き合える友達が欲しかったのは事実だ。なら何で、高校一年という新しい環境で同じスタートを切れる仲間ができた時点で、何で一人暮らしを決意しなかったのか。どうせまた引っ越すなんてことは分かってることなのに。
答えは簡単。
ただ自信がなかっただけ。
じゃあ、なんでこのタイミングなのか。
正直、家族と一緒にいるのが辛かった。実は僕と妹は同い年だ。僕が四月生まれ、妹が三月の早生まれっていう珍しいパターン。
つまり、妹にとっても高校一年ってのは特別なはずだった。それなのにも関わらず、琴子は引っ越しが決まった時、微塵も寂しい顔を見せなかった。スマホの電話帳の話からも分かることだ。
琴子にとって引っ越しなんてのは、日常茶飯事の大したことないイベント。新しい友達をつくるために、むしろ楽しんでるとこさえある。
そんなのは僕には無理だ。
理解できない。
それを痛感したのが今回の引っ越しで。
単純に嫉妬だったのかもしれない。
妹にはしょっちゅう連絡がくる。
僕のとこには来ない。来るはずのない連絡を期待して、今じゃスマホの画面を見るのがクセになっていた。
言い訳のように、時刻の確認はスマホでするようにしていた。
キャラなし。
こっちでも散々言われてるけど、結局はそこに尽きるんだと思う。
琴子は極度のブラコンではあるけど、天真爛漫、人懐っこく、いつでも人の輪の中心になれるような積極性、明るさがある。
それに対して僕はことなかれ主義。没個性、人と深く関わろうとしない。必要以上に踏み込まないようにする。
そんな人づきあいしてたら、そりゃあ転校と共に関係も切れる。メールだって来ませんわな。
要は、友達がたくさんの妹に嫉妬したのと、濃すぎるキャラばっかの家族の中では、僕はちょっと息苦しかった。
そんなことは面と向かって言わない。言えない。
そんなの、自分の勝手な被害妄想だって分かってるし。
でも、どうしようもないことだってあるし。
『本当はね、琴子、お兄ちゃんが元気じゃなかったらなって思ったの。だって、琴子たちと離れて暮らしてるのにお兄ちゃんが元気だったら、やっぱり……その、嫉妬しゃう。琴子じゃダメだったんだなって思っちゃう』
「琴子……」
『あ、でもね、お兄ちゃんが元気で良かったって気持ちももちろんあるよ。何か矛盾してるけどね』
エヘへ、と笑う声が聞こえてくる。
『また、琴子たちと一緒に来る気、ない?』
琴子や父さん、母さんの愛情は嬉しい。行き過ぎる時も多々あるけど、それでも、誰かから想ってもらえるっていうのは素直に嬉しいと思える。
こんな家族に好きでいてもらえるのは嬉しく思う。だからこそ──
「琴子ごめん。僕も僕自身のことを、僕の人生を好きになれるまで、もう少し頑張ってみたいんだ」
もう自分を否定したくない。自分の人生を、人のせいにして否定したくない。
『そっか。分かった! じゃあ、琴子も応援するね! お兄ちゃんも、寂しくなったら、いつでも琴子に電話してね』
「うん、ありがと」
『あ、電車来ちゃったからそろそろ電話切らなきゃ。声聞いたら会いたくなっちゃったから、夢で会えるようにお兄ちゃんの写真を枕の下に入れて今夜は寝るよ』
「ん、まぁそのぐらいは許してやるよ」
こんだけ慕ってくれるのは、素直に可愛いと思う。
『ありがとうお兄ちゃん! 今夜はお兄ちゃんの写真をペロペロしながら寝るね!』
「やめて!」
前言撤回。
両親といい琴子といい、僕に対する愛が重すぎる……。
『本音はさて置き』
「そこは冗談としてさて置いといてほしかったな」
『そろそろ本当に切るね』
「大好きなお兄ちゃんを華麗にスルーしてくれるな」
こいつもバスタースルーを習得しているのか。うん、バスタースルーって言葉流行らせようかな。
『それじゃあね。浮気しちゃダメだぞ☆』
「ちょ、おい琴子……」
ブチッ、ツーツーツー。
「ホント、切る時はあっさり切るんだよねぇ」
それにしても、あいつのアプローチは本当にいつもタイミングがいい。
僕は昔から、琴子には素直に本音で話せてた。
あいつには、不思議とそんな力がある。あいつと話すと、つい自分でも気づいてなかった本音が出て、それで初めて自分が何を考えてるのか気づいた、なんてこともしばしばだった。
今回がまさにそのパターン。
最初はあんなに嫌だ嫌だ言ってたクセに、僕はちゃんとここで頑張りたいと思ってるらしい。
実際問題、オタクの方々は苦手だけど。
でも、バイトに対して思う気持ちは、負の感情ばっかじゃなかったみたいだ。若干理不尽な扱いを受けながらも、律儀に毎日出てるぐらいだしな。
愛沢さんの存在も大きいかも。
本当、僕のこと大好きだって言うだけのことはある。
「あいつ、僕のこと何でも分かってるんじゃないか?」
琴子には助けてもらってばっかだ。
「盗聴されてたりして」
そう言って笑っていると、不意にスマホが鳴る。見ると琴子からのメールだった。無事に電車に乗れたのかな?
『琴子、そんな物騒なことしないよ?』
「盗聴の気配!?」
部屋のコンセント周りに怪しいものがくっついていないかチェックする。すると、またスマホが鳴った。案の定、琴子からのメール。
『そんなとこにはないよ』
「盗撮の気配!?」
てか、ここに引っ越してきたの一週間前なんですけど! そんなんいつ仕掛けたの!?
するとまたスマホが震える。
『P.S.今度愛沢さんって子のこと、ちゃんと紹介してね』
「愛沢さん逃げてえええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!」
あれか!? 最近よく聞くヤンデレってやつか!?
ああ、背筋が寒い。
僕にプライベートは無くなってしまったようだ