第三章 理性と欲望のあいだ
「おつかれしたー」
午後十時。
スマホの画面から目を離して空に向ければ、千葉ほどではないが、都心よりは綺麗であろう星空が広がっている。
シフトインしてから約五時間、結局僕のモチベーションは回復することがなかった。
午後九時で閉店。その後の閉め作業中にいたるまで、春日さんと栞にからかわれっぱなし。愛沢さんの、ナイフのように鋭く僕の心を抉ってくれた優しい言葉の数々に、何度となく涙で頬を濡らした。
「お疲れ。今日はもう遅いから早く寝ろよ。休息も任務の内だ」
「はぁ」
三階へと階段を上っていく春日さんは一度振り返り、その綺麗でシャープな顔に笑みを浮かべるのも一瞬、すぐに上の階へと姿を消した。
ちなみに津田はもちろん津田家の前で、栞のやつは一○二号室だったため、サンパレスの一階で別れた。
しばらく、階段の上から春日さんのものであろう靴音が響く。そして目的地である三○一号室の前に着いたのか、靴音が唐突に終わった。
一瞬、あたりが静寂に包まれる。
「?」
本来聞こえてくるはずの鍵やドアを開けたりする音がしない。
と思ったのも束の間、かすかに春日さんの声が上の階から聞こえきた。
「敵影ナシ。進路オールグリーン。トラップも正常に作動──ん? なんだ、お前か。そこで何してる?」
「え? あ、いや、ちょっと夜の散歩ッスかね?」
「なるほど、散歩はいいよな。やはり散歩は静かな夜に限る。その格好から察するに、大学帰りか?」
「あ、はい、今日は夕方まで授業だったんで」
「なるほど。しかし解せんな。夕方で大学は終わったのだろう? 今までずっと散歩していたのか?」
「あ、いや、えっと……」
「それにそのトラップは、私の部屋に無理やり入ろうとしたやつにしか作動しないのだがな」
「うっ……、姐さんすみません! つい出来心というか、魔が差したというか……」
「ほぅ?」
「謎の多い姐さんの私生活を覗こうだなんて決して……」
「なるほど、そうなのか」
「はっ! しまった! 俺としたことがつい口を滑らせて!」
「まぁ、詳しい話は中で聞くとしよう。では斉藤。尋問を始めるとするか」
「い、嫌だ! まだ死にたくない! お、お願いだから! 姐さん許して! た、たすけ……ギャア──────────────────────────?」
断末魔の叫びが夜空へと吸い込まれていく。
ガタンとドアが閉まる音と供に、あたりに静寂が戻る。
「愛沢さん、サンパレスが一区画、要塞化されてる!」
「高橋くん、なにを言ってるんですか? ただの防犯対策ですよ」
「愛沢さん、今まさに尋問という名の拷問が始まったんじゃ……」
「高橋くん、なにを言ってるんですか? ただの防犯対策ですよ」
…………そう、なの?
僕は初めてチャラ男の身を案じると共に、春日さんにだけは滅多なことをしないよう強く誓った。
……『姐さん』って言ってたし敬語だったけど、チャラ男の方が年上だよね?
○
「だー、疲れた!」
引っ越してきて、最初に包みを解いたベッドへと倒れ込む。
いくら短い時間とは言え、慣れない仕事を毎日こなしてれば、否応なく疲労は蓄積されていく。
それ以上に、こう言っちゃ失礼かもしれないけど、バイト先にいる人たちと話すのが正直疲れる。津田は津田で魔法オタクみたいだし、斉藤さんは女ったらしだし、栞はとにかく変なやつ。春日さんも軍事オタクの気があるし、武光さんに関しても、喋り方からすると武将オタクなのかもしれない。さすがに一人称が『拙者』なんてことはなかったけど。実際そうだったらドン引きだけど……。
普通なのは愛沢さんと小野さんぐらい。
みんな悪い人じゃないのは分かる。
それでも、僕が『オタク』と呼ばれる人たちが苦手なのは、変えようのない事実だった。
苦手。
いや、嫌いと言ってもいいかもしれない。
別にそんな人たちを否定しようってわけじゃない。そんなの人の自由だと思う。
それでも──僕は、自分の生活がかかってさえいなかったら、このバイトを辞めてるだろうなと考えてしまう。
だけど、そんなことを考えたってもはや意味がない。
「はぁ。腹、減ったな」
今までの思考を打ち切るように、あえて口に出してみることにした。
それにしても、腹が減るのは当然も当然、昼を学校で食べて、帰宅すればそのまますぐバイト。この時間までまったく何も口に出来てない。もちろん、飲食店でのバイトと違って賄いも出るはずがない。
鉛のように重い身体を、居心地のいいベッドからどうにか引きはがす。未練がましくベッドを再度一瞥したあと、これまた岩のように重い足を引きずりながら廊下へ。台所の横に置いてある冷蔵庫を目指す。
やっとの思いで辿りつき、冷蔵庫を開けた僕は固まった。もちろん、冷蔵庫の冷気で固まったわけじゃない。一応。
そこには食材と呼べるものが何も入ってなかった。
「うわ、マジかよ。買い物しとくの忘れてた……」
なんてことだ。うっかり忘れてた。
疲労も相まって、僕のテンションは一気に最底辺まで急降下。
時計を確認するまでもなく、こんな時間じゃスーパーはとっくに閉まってる。そもそも、今手持ちのお金がほとんど無いことを思い出す。
「ふ、ふふ……」
人間、すべてに諦めがつくと自然と笑いが込み上げてくるものである。
あまりの仕打ちに(自業自得だけど)呆然とし、何とはなしに窓を開ける。とにかく気分転換がしたかった。
ここは角部屋。窓を開ければ、隣接する津田家の二階が目の前に見える。
「あら変態キャラなし。何そのヒドイ顔? まるで、餓死を待つより今死んで楽になりたそうな顔ね」
そこには悪魔、もとい津田のやつが、津田家の二階の窓の縁に腰掛けてこっちを見ている姿があった。
「な、な? ななな?」
「何よあんた。言語まで失ったわけ?」
「なな、何でお前がそんなとこに?」
「何でって、ここは私の家だからじゃない。バカなの?」
いや、そういうことが言いたいんじゃなくて。
津田のいきなりの登場に混乱し、空腹まで一瞬忘れる。
「いや、何でお前がそんなとこに座ってるのさ?」
これだ。これが聞きたかったんだ。
「私が自分の家のどこにいたって関係ないでしょう?」
僕の質問は大いに空振った。
「そうじゃなくて!」
どう質問したものかと頭を抱えて悩んでいると、そのうちにフッと津田の笑う気配がした。
「バカね。ほんと太郎はからかい甲斐があるわ。ここ、私の部屋なの」
そういう津田は、楽しそうに指を口元に添えてクスクスと笑っている。
銀色の月光が降り注ぎ、窓際に座る津田を照らし出す。津田の、今はポニーテールにまとめられた長い漆黒の髪が、星をちりばめたようにキラキラと輝く。透き通るように白い肌も、月の光を浴びてより一層白さが増したように見えた。
神秘的。
非現実的。
身にまとった白いノースリーブのワンピースが、さらにその感覚を助長してる。
まるで神が、『美しさ』という題名で作られたのがこいつなんじゃないのかと思わせるほど。
その姿は完璧に僕を魅了した。
すぐそこにいるのに、決して手の届かなそうな、むしろ、僕のいる部屋と向こうの部屋は違う世界なんじゃないかとさえ思えてきてしまう。
「ちょっと太郎、気持ち悪いんだけど。愚民が、神々(こうごう)しく輝く神を崇め奉るような視線でこっちを見ないでちょうだい」
こいつは人の目を見れば、そいつが何を考えてるか分かる能力でも持ってるのだろうか?
「えと、悪い、津田」
「あと、それもやめて」
「それ?」
何が気に入らなかったのか、津田は腕組み、唇を尖らせてそっぽを向いてしまう。月が雲に隠れたせいか、さっきの神秘的な雰囲気は微塵も残っていない。
「津田」
「うん、お前は津田だよ」
「だからその……」
「ん?」
ぼそぼそと何事かを呟くが、体をモジモジさせるだけで、いまいちよく聞き取れない。
「何が気にくわないって?」
「だから、その『津田』ってのが気にくわないの!」
へ? 何を今さら。
「何で?」
「いやぁ、ファミリーネームだし?」
こともあろうに栞みたいなことを言い始めやがった。
「それに……」
「それに?」
津田は再度体をもじもじさせ始め、頬まで心なしか紅く染まっている。
あれ? なんだこの空気?
ま、まさか、これが世に聞くところの──
告白!
本当にそうなのか?
好きな人には下の名前で呼んでもらいたいとか?
だって津田は僕を家畜だの奴隷だのって言ってんだよ?
はっ!
それって、好きな子についちょっかいを出したくなっちゃうってやつなんじゃないだろうか?
なら今まで僕にヒドイことばっかり言ってたのもそれが理由?
でも、僕たちはまだ会ってから日が浅いじゃないか。いや、そんなこと言ったら、僕はもうすでに愛沢さんに惚れてしまっているわけなんだけど……。
そう、僕には愛沢さんという心に決めた人がいるじゃないか!
それにしたって、津田は僕が苦手とする人種、『オタク』であることは間違いない。そもそもが無理な話なんだ!
津田は可愛い。それは認めよう。でもやっぱり僕はその気持ちには応えられない。
津田よゴメン!
「それに……」
津田の言葉が再開する。僕は思わず生唾を飲み込んだ。
そしてついに津田の口から言葉が発せられた。
「マリアなんて名前、いかにも魔法が使えそうじゃない!」
「津田、悪いけど僕は君の気持ちに……って、え?」
深夜に大声が響く。
まことに、まことに残念な理由だった。
「私の親は、私をほっといて海外ばっか行くのは気にくわないけど、このネーミングセンスだけは褒めてあげてもいいわね。光属性の魔法とか使えそうだわ。ちなみに鞠亜じゃなくて、カタカナでマリアよ? そっちの方がぽいから」
ぽいってなんだよ。自らパチモンって言ってるようなものじゃないか。
「で、あんた今何か言おうとした?」
「いや何でもないですよ?」
テンパった時、敬語になるクセを直そうと思う。
「ふーん、まぁいいけど。それより、あんたは何でそんなヒドイ顔してるの?」
「え? あ、えーと……」
どもる僕に津田──じゃなくてマリアの視線が突き刺さる。
「まさか、私の部屋を覗こうとか?」
「断じて違う!」
そもそも、真向かいがマリアの部屋だって知ったのは今さっきだ。
「じゃあ、何?」
答えるまで聞き続ける、とマリアの目は言っていた。この分じゃ誤魔化せそうにない。
「いや、お腹空きまして」
「なら作ればいいじゃない」
「食材がなくて……」
「ならお菓子を食べればいいじゃない」
「お前はフランスの王妃か」
マリア・ントワネット。なんちって。
「つまんない事考えてるなら、魔法で吹き飛ばすわよ?」
「スミマセン……」
やっぱこいつ、読心術を使えるでしょ。
「はぁ」
マリアは大仰に溜息を吐くと、やれやれといった感じで首を振る。
「分かったわ。あんた、今からこっち来なさい」
「え?」
「何よ、その顔?」
一瞬、マリアの言ってることの意味が分からなかった。
「こっちって、そっち?」
「そう、私の家。他にどこがあるの?」
「マジで? いいの?」
「私も食事まだだから。それに、あんたの顔ヒドすぎて夢に出てきそうだし……。昨日の残り物でもいいわよね?」
「もちろん! 今すぐ行く!」
そう叫んだ五秒後には、僕はすでに家の外に飛び出していた。
木造二階建て、屋根は瓦で武家屋敷みたいな門までついちゃってる。津田家は、この『下町』と呼ばれる町に見事にマッチした家だった。
町だけにマッチ。
「あんた、そんなに死にたいの? それともキャラ作りに必死なの?」
脳内に留めておいたはずの僕のギャグがお気に召さなかったのか、例の木製の杖を高々と掲げるマリア。
「ご、ごめん……」
玄関から真っすぐ奥へと伸びる、木張りの廊下をマリアについていく。襖が閉められた部屋の前を三つ過ぎる。そしてマリアは廊下の突き当たりの襖を開け、その中へと僕を招き入れた。入った瞬間、畳みの匂いが鼻をついた。懐かしい匂い。記憶にないにも関わらず、おばあちゃんの家の匂いだと思った。
部屋の大きな窓からは、ちゃんと手入れされてそうな庭が見える。
「とりあえず残り物見てくるから、ここでテレビでも見ながらゆっくりしてて」
そう言ってマリアは部屋を出て行った。
改めて部屋を見渡す。
殺風景というか、必要最低限というか。
部屋の隅にプラズマテレビ、そして部屋の中心にはこたつ。壁には特に特徴のない振り子時計。以上。
てか、四月にもなってまだこたつ出しておくか? しかも、これ見よがしにテーブルの上にはみかんがピラミッド型に積まれている。その他にも、バナナやリンゴといったフルーツが置かれている。
このまま突っ立ってるわけにもいかないので、とりあえずテレビを点けてこたつの中へ。お、こんな時期にとも思ったけど、適度な温度に設定されていて案外気持ちいい。
テレビを見ながらみかんに手を伸ばす。
「こ、これは!」
僕は、みかん・オン・ザ・テイボゥ(ネイティブっぽく)ウィズ・こたつの力を舐めていた!
こんなにも心地のいいものなのか!
こたつの中に長時間いればさすがに汗もかく。そこで消費した水分を摂取すれば、今度はトイレへと行きたくなってしまうだろう。だが心地いいこたつからは、できれば出たくない。むしろトイレに行くことさえ面倒に思わせてしまう力がこたつにはある。
そこでみかんだ。失われた水分を、多すぎず少なすぎずに補ってくれ、しかも実は薄皮に包まれているから手も汚れない。バナナは水分が少ない。リンゴの水分もちょうどいいけど、大きいから満腹感がありすぎる。その分みかんは小さく、手で剥けるから食べやすい。リンゴの芯と違って、皮しか残らないってのも楽だ。
こたつとみかんさえあれば、一生ここにいれるんじゃないか?
ふふ、マリアめ、実に恐ろしいことをしてくれる。
さては、駅での事を口封じするために、僕をここから出さない気だな?
「この! こたつめ! 僕は絶対にお前に屈したりはしないぞ! ちくしょう。なんて居心地がいいんだ! 僕をここから出る気にさせろ!」
下半身をこたつに突っ込み、仰向けで寝ころんでジタバタしていると、ふと頭上から視線を感じた。
ギギギと、油の差してないロボットのように恐る恐るそっちの方を見る。案の定、マリアがペンギンすら凍え死にそうなほど冷たく、蔑みの色の濃い視線を僕に突き刺していた。
こたつの心地よさも吹っ飛ぶ、絶対零度の眼差し。
「なにやってるの?」
「えーと、こたつの心地よさについて、身体全体を使って表現してみました」
「気持ち悪い」
「…………おっしゃる通りです」
いつの間にか、僕はこたつから出て正座をしていた。
「次やったら、引きちぎるわよ?」
「ひ、引きちぎるって何を……?」
するとマリアは無言でこたつへと近づく。
こたつの上に置いてある、あるフルーツを持ち上げた瞬間────
ブチっ!
それを思い切り引きちぎった。しかも無言で。
「ねぇ、どういうこと? お願いだから何か言ってよ! 僕のいったいどこを引きちぎるっていうのさ?」
結局マリアは終始無言のまま、襖を閉めて出て行ってしまった。
それから僕は料理ができるのを、こたつの外で震えながら待っていた。
僕の目の前には無残に引きちぎられたバナナ。
無論、僕は股間を押さえながら震えていたことは、言うまでもないだろう。
○
「んが……?」
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
目を開けると見慣れない天井が広がっていた。目は開けているけど、頭はまだ覚醒していない。ボーっとする。
思考より先に聴覚が覚醒し、聞こえてきた音の方へ目を向けると、テレビにはニュースを読み上げるキャスターの姿が映っていた。
そっか、ここはマリアの家だ。
ようやく回復してきた頭で昨日の記憶を呼び覚ます。
マリアは普通に料理が上手かった。マジで美味かった。
残りものだけど、と前置きされて出てきたのはカレーだった。にんじん、たまねぎ、豚肉、そしてじゃがいもは形が崩れるまで煮込まれていた。マリアは辛いのが苦手らしく、味付けは甘め。
いやぁ、性格があんなんじゃなかったら、いいお嫁さんになるものを。一人暮らしのくせに、ちゃんと掃除もゆき届いてるあたり、そんなことを思ってしまう。
ご飯をおいしくいただいて、しばらくマリアと話しをした。学校のこと、バイトのこと、ここ数年の僕のこと。
いまいちよく覚えてないあたり、大して中身のある話だったわけじゃなかったと思う。
で、満腹感に加えて肉体的、精神的な疲れでいつの間にか寝ちゃったらしい。
しょうがないとはいえ、さすがにお泊まりはまずかったよなぁ。
そもそも、女の子の一人暮らしの家に泊まるなんて、もっとドキドキするイベントなんじゃないの?
僕はなんてもったいないことをしたんだ!
いくら性格がアレとはいえ、あんな美少女と二人きり。むしろ、招待された時点で気づこうよ!
ちくしょう、末代まで祟るぜ、僕の睡眠欲と食欲!
いや、でもチャンスはこれだけじゃないはずだ。むしろ本命は愛沢さんなんだから、今回の反省を次回活かそう。
そう、自分を奮い立たせていると、ズボンのポケットの携帯が震えた。
畳の上に転がってたリモコンでテレビを消す。身体を起こすのが煩わしくて、横になったまま出てみれば、母さんからの電話だった。
「もしもし?」
『あら太郎ちゃん、ちゃんと起きてて偉いじゃない。調子はどう?』
「うん、まぁ普通かな?」
『お母さん、やっぱ太郎ちゃんの一人暮らしは心配よ。何か困ったことない? ちゃんとご飯食べてる?』
僕の母さんは少し過保護気味だ。確かに離れて暮らせば心配になると思う。それが鬱陶しいわけじゃない。むしろありがたい。それでも、たまに行き過ぎるところがある。
「大丈夫だよ母さん。昨日はマリア──津田にご馳走になったんだ」
『あら、マリアちゃんとも上手くやってるみたいね』
初対面で、杖で殴られたなんて言えない。
「まあまあかな? そういえば津田の家に畳の部屋があったよ。畳の匂いって、おばぁちゃんの家って感じだよね。懐かしいって感じ。おばぁちゃんの家の記憶ないけどさ」
昨日の感動を誰かに伝えたかった。今日、目が覚めた時だって、最初に嗅いだのは畳の匂いだった。
『そうね、それは太郎ちゃんの勘違いね。おばぁちゃんの家フローリングだったから』
母さん、僕の感動を返してくれ。
『床暖房完備よ』
なぜ追い討ちをかける。
畳みかける必要ないじゃないか! 畳だけに。
『アハハ、太郎ちゃんのダジャレは面白いわね』
「母さん、無理に笑わないでよ! 声に感情がこもってないよ……」
行き過ぎた優しさは、時には残酷なものです。
そもそも、今の口に出してないよね?
『そうそう、仕送りだけど振り込んでおいたわよ』
「あ、そうなんだ。ありがとう。いくらぐらい振り込んでくれたの?」
一人暮らしの話自体、急に決まった話だったから、月にいくらぐらい支援してくれるのかとか、細かいことを決める時間がなかった。家賃免除、バイトしてるとはいえ、暮らし始めたばかりだから、最低でも五万ほどいただければ嬉しい。
『少しだけどね。100万もあれば足りるかしら?』
「母さん! そんな大金いったいどうしたのさ?」
過保護にも程があるでしょ?
『ちょっと緊急収入があったのよ。多かったかしら? お母さん、そういうことはよく分からなくて』
「多すぎだよ! 下手したら、今の僕なら一年余裕で暮らせるよ! そもそも何したらそんな大金が手に入るの?」
『まぁいいじゃない。それより……あら、誰かしら?』
電話の向こうで、ピンポーンとチャイムの音が聞こえる。
『太郎ちゃんちょっと待ってて──』
『出るな!』
電話の向こうで、今度は母さんのじゃない、押し殺したような声がかすかに聞こえてきた。
『あらお父さん、いいんですか? あ、ほら、太郎ですよ』
電話が手渡される気配。
『おう息子、元気か? 仕送りな、あれで足りるか? 父さんよく分からなくてな』
父さん、あなたもですか。
「それより父さん、誰来たんじゃないの?」
『ああ、それなら(ガンガンガンガン)大丈夫だ。お前が気にすることじゃない』
「父さん、凄い勢いでドアを叩く音が聞こえるよ?」
『高橋さーん。いるのは分かってるんですよ?』
「父さん」
『まさかあなた方が組織の人間だったなんてね。こっちもすっかり騙されましたよ』
「父さん、組織って……」
『はよ出てこいや! ど突き回したろか?』
「父さん?」
『チっ、この場所もすぐに引き払わなきゃな。母さん、行くぞ』
『いつでも大丈夫ですよ』
『悪いな』
『いえ、元はと言えば私があんなところでミスしなければ……』
『それはもういいんだ。母さん、付いてきてくれるか?』
『あなとならどこまでも』
『愛してるよ』
『私もよ』
『というわけだ息子』
どういうわけだ親父。
『じゃあな。元気でやれよ』
『太郎ちゃん、また電話するわね』
ブチ、ツーツーツー。
……………………………………………………。
何だこれ。
完全に息子置いてけぼりだよ。
てか、あの人たちなにやってんの?
何かもう意味が分からなさ過ぎて、母さんの携帯に『お達者で』とメールを打った時点で、考えることを放棄することにした。
携帯を再度ポケットに戻し、まだ電源の付いたこたつの暖かさに身を寄せることにした。
携帯の液晶に表示されていた時刻は午前六時半。
学校の用意をするのにはまだ時間がある。
寝がえりをうって身体をひねった瞬間、目の前に超絶美少女が現れた。
「なっ?」
びっくりして叫びそうになるのをどうにか押さえる。
目の前にはマリアの寝顔。スースーと微かに寝息が聞こえる。
さっきから姿が見えないとは思ってたけど、まさかこんな近くにいたなんて。マリアも話してるうちにこたつで寝ちゃったんだ。
そんなことより、異常なまでの至近距離。
間近に美少女の顔があるという嬉しさやドキドキ感より、むしろ気まずさが先だってしまうほどの近距離。あと少し近付けば、鼻先が触れてしまうじゃないかというほどの。
このタイミングで目を開けられたらと思うと正直気まずい。というか怖い。
だけど、そんな心情とは裏腹に、僕はマリアの顔から目を背けることができなかった。
美しい芸術作品に人は心を奪われる。目を逸らしたくない、いつまでも見ていたいと思うものだ。
マリアもそれと一緒で、いつまでも見ていたくなるような愛らしさ。昨日の夜見た幻想的な美しさは、今はない。今のマリアの寝顔はただ愛らしい。
だから無意識のうちに、人差し指でマリアのほっぺを突っついてたのはしょうがないことなんだ。
やべぇ、超柔らけぇ!
ほっぺを突かれて、アヒルのようになった口から、「うにゅ……」なんて声が漏れた時は、いっそ抱きしめてしまおうかとも思ったけど、ギリギリ理性が働いた。
さすがにそれは、芸術作品云々(うんぬん)の言い訳でカバーできない。
それにしても、黙ってれば本当に可愛いよなコイツ。
可愛い女の子と仲良くなりたいっていうのは、男子なら誰もが抱く欲望だ。それはマリアに対してだけじゃない。これから先、長い間お世話になるであろうバイト先の人たちとも、できれば仲良くしたい。でも、その欲望を「オタクは苦手」という理性が抑制する。いい人たちだってのは認める。けどその一点が、僕を消極的にさせていた。
(性格はともあれ)美少女に手料理をご馳走になって、挙句に家に泊ったという事実は、世間一般から見て僕はリア充してるんだろう。
でも、それを素直に喜べない自分もいる。この町に来た日、駅で抱いた理想と現実はあまりに違っていた。
「うーん……」
「あ、あんた、いつまで人のほっぺを弄ぶわけ?」
そして突然、その理不尽な現実に引き戻す声に僕は戦慄した。
「マリア、起きてたの……?」
「こんだけほっぺツンツンされたら、誰だって起きるわよ」
見れば、マリアのほっぺはツンツンのしすぎで少し赤くなっていた。物思いに夢中で気づかなかった。
「まさか、寝てる間に……へへ、変なことしてないでしょうね?」
「へ、変なことって?」
「いや、その……私の身体に……って、言わせんじゃないわよ!」
「スミマセン! 決してそのようなことは!」
怖いよ! 目が据わってるよ! でも、ちょっと顔が赤くなってるのが可愛かったり!
「ま、まぁ、あなたにはそんな度胸はないわよね。それにしても、乙女のほっぺを弄んだ罪、どう贖ってくれるの?」
「いままで以上に、仕事に精を出します……」
「そんなの当たり前でしょ!」
またも、いつの間にか僕はこたつの横で正座になってる。
「そうね。私の新しく習得した魔法の実験台になってもらおうかしら」
「へ?」
イヤな予感しかしない。
「ご、ゴメンなさい!」
そう言って逃げようとした僕の足を払い、派手にこけたところに馬乗りになるマリア。
「逃げられるとでも思ってるの?」
「お願いだから、杖で殴るのはやめて!」
女の子に馬乗りされるシチュエーションとか、服越しに伝わってくる太ももの柔らかさを楽しんでる余裕はなかった。
マリアの本気の目が怖い!
「そんなことしないわよ。今から私が唱えるのは滅びの呪文。さぁ、これを見て」
見ればいつの間に掴んだのか、昨日食べたみかんの皮を手に持っている。
まさかこれは……。
「バルス?」
「目がぁ、目がぁぁアアア!」
飛んできたみかんの汁で、僕はム○カよろしく畳の上を転がり回った。
「ほら、もう学校の用意をする時間よ。さっさと部屋へ帰りなさい」
マリアはそう言うと、比喩ではなしに、僕を津田家から放り出した。
「じゃあ、学校で」
それだけ言うと、ドアがバタンと閉められる。当然、再度開く気配はない。
なんだろう、ものすごく切ない……。
それから五分ぐらい経ってもやっぱりドアが開く気配はなかったので、僕は泣きながら自室を目指した……。