第1章 未知との遭遇
都内。千葉県と隣接する某区内私鉄赤砥駅構内。時刻は早朝七時、曜日は日曜日だった。ついでに言えば、四月の初め。早朝、そして日曜日なこともあって、ホームにはほとんど人影はない。
駅の周りには朝靄が満ち、遠くに見える高めのマンションを薄いグレーの影として映し出している。
僕が下りたこの駅のある町は、言わば『下町』と呼ばれるようなところで、駅から外を見下ろす限り、そんな高い建物もなく、瓦屋根が見えたりもする。なぜ駅から『見下ろす』のかと言うと、この駅は四階建て。乗換のジャンクション駅ということもあって、一階がちょっとしたショッピングフロア、二階が改札、三階と四階がホームという構造。縦に細長く、この辺の町並みからすれば、とても充実した内容の駅だ。
下町にやや不釣り合いなイメージもあるけど、そこはやはり『縦に細長い駅』。三階と四階には各二つずつ、計四番線までしかない。
僕が降り立ったのはその四階、二番線ホーム。一番前の車両だったため、階段の方まで少し距離がある。人影もなく特に観察するものもないので、差しこんだイヤホンから流れる音楽に耳を傾けつつも、ここ数日の出来事に思いを馳せる。
僕の親は転勤族だったため、小さいころから引っ越しが多かった。長くて二、三年、短くて数カ月なんて頻度で引っ越しを繰り返してきた。
そして、二年間住んだ千葉の街とお別れする日は、高校一年の終わりと共にやってきた。いつもは、すでに友達の輪が完成された中に転校という形で放り込まれてきたけど、今回ばかりは違った。
高校で共に、入学という同じスタートをきった仲間ということもあって、僕の中では人生で一番特別な友達だった。それなのに唐突のお別れ。三年間苦楽を共にし、最高の思い出になると信じて疑わなかった生活の突然の崩壊。
今まで堪えてきた僕にもさすがに我慢の限界が訪れ、今回の引っ越しに猛反対。『二度と引っ越ししてたまるか』と、幼稚園児のようにボディランゲージを駆使して抗議したところ、親戚の家にしばらく厄介になることになった。
確かに今回も途中から放り込まれる形になるけど、『高校生』という青春の代名詞とも言える残り二年を、引っ越しがないと分かって通うのは、いつもとは違うように感じられた。
散々文句を言ってるけど、実は今回の引っ越しにそこまで抵抗を覚えたわけではない。今から向かう親戚の家には、僕と同じ歳の女の子がいるらしい。大昔にこの町で会ったことがあるらしいけど、記憶のどこを探しても、まったく思い出すことができなかった。
ともあれ正直楽しみでしかたない。
僕だってお年頃の男の子なんだし。
そんなふうに過去の干渉に浸るべきか、未来への希望に思いを馳せるべきか悩みながらエスカレーターに足をかける。旅のお供であるボストンバックを背負い直している内、三階のホームが見えてきた。
三階のホーム。
四階同様、さして観察するに足りえるものはない。
自動販売機、立ち食いそば屋、電車を待つためのベンチ。どこの駅にでもあるものばかりだ。
特に何も珍しいものはない。ないけど……。
そこに女の子が立っていた。
それだけなら全然珍しい光景じゃない。でも、ただでさえ人がいないホーム。そこに女の子がぽつんと一人立っていたら目立つ。というより、自然と視線が吸い寄せられる。
向こうを向いているため、当然顔を見ることはできない。
背がとても低く、真っ黒な、膝裏に届きそうなほど長い髪。そこから覗く白いカチューシャ、白いワンピースに、真っ黒で大きなポンチョ、そこから伸びる真っ白な足どれをとってもこんな下町には似合わない、一種の非現実的さを感じさせる。
白と黒のコントラスト。モノクロ映画から切りとられたかのようなそれが、さらに非現実さを加速させる。後姿はまるで人形のようだった。
エスカレーターから降りると同時に、最近お気に入りのアーティストの曲が流れ始めたイヤホンを外し、しばらくその後姿を見続ける。
その女の子はまったく微動だにしない。にらめっこでもしているかのように、四階を支えているであろう大きな柱を穴が開くほど見つめている。
何をしているのか見当もつかない。
一体何分たったのか。下の階へ行こうにも、声をかけようにも完全にタイミングを逃し、さてどうしたものかと考え始めた時、女の子がついに動いた。
両腕を九十度に曲げ、右腕を前、左腕を後ろに引き、右足も引く。どっからどう見ても『よーい』の構え。
そして──
『ドンッ』とでも言わんばかりにいきなり走り出した!
いや待て、そこで走り出したら……。
「べらぶっ!」
奇妙な声と共に、ゴンっ、と顔をしかめたくなるほどの鈍い音。ていうか、僕は目撃した光景に、すでに顔をしかめていた。
案の定、女の子は柱に頭から突っ込み一回目の『ゴン』。ついで、そのままの勢いで後ろに吹っ飛び、地面で後頭部を二回目の『ゴン』。倒れた勢いで身体が一度バウンドし、さらにダメ押しの、頭に『ゴン』。
てか絶対死んだ……。
早く人を呼びに行けばいいものを、ゴンするのはタンスだけにしとけと思いつつ、その女の子の様子を見に恐る恐る近づく。
顔を覗きこむ。
おでこにたんこぶができてることを除けば、ムチャクチャ可愛い子だった。薄いピンクの唇、幼いとしか言いようのない顔立ち、綺麗な肌。恐らく大きいであろうその目は、当然ながら瞼が閉じられている。
ぱち。
と、まさにその大きな瞳が開いた。
「#$%&○×☆~~!?」
声にならない悲鳴を上げて、思い切り飛びのく僕。心臓が止まるかと思った……。
女の子は上半身を起こし、左右をキョロキョロした後、後頭部を右手でさすりながらポツリと呟いた。
「まだ三と二分の一番線には行けないのかしら。それとも、私には魔法の素質がないわけ?」
危険な発現だった。いろんな意味で……。
あれだけの大クラッシュをしておきながら生きていたことにも、今の発現にもドン引きし、しばし呆然となる。女の子は僕の存在に気づいていないらしい。
しばらくすると、女の子は何事もなかったかのように立ち上がり、「やはり九月なのかしら。日本だから四月が始業式だと思ってたのに」とかブツブツ言いつつ歩き出してしまった。
僕はそれを、ただただ眺めていることしかできなかった。
○
危ない電波さんを見たショックから立ち直り、改札へ向かった時にはもう七時半を回っていた。
「はぁ……」
時間確認をした携帯を閉じると、自然と溜息が出た。この町の人がみんなあんな人じゃないだろうけど、それでもこの町で暮らすことに不安を感じた。
まぁ、今から心配してたってしょうがないことだ。
そんなことを考えつつ、切符を取り出す。いや、取り出そうとして、ポケットに入れたはずのそれがないことに気づく。
「え? マジ?」
念のためズボンのポケットも、上着のポケットも、鞄の中身を全て引っ張り出す勢いで探しても見つからない。
完全に落した……。
「あの、切符落としちゃったみたいなんですけど……」
仕方なく、改札の横にいる駅員さんに話しかける。
「どこから乗りました? いくらの切符買ったか覚えてます?」
駅員さんの質問に正直に答え、予想外の手痛い出費に落胆しつつ、財布を取り出す。
「切符落とされるとは災難でしたね。ここへは観光かなにかで?」
「あ、いや、引っ越しで……」
お金を払い、改札を抜けようとしたところで急に話しかけられ、一瞬驚く。
「一人暮らしですか?」
「いや、あの、一応親戚にお世話になる予定で」
「そうなんですか。いや、大きな荷物を持っておられるのでつい。それでは、お気をつけて」
「あ、ありがとうございます」
知らない人に、こんなにフレンドリーに話しかけられたのは初めてだったから、かなり驚いた。
下町の人はフレンドリーな人が多いってよく聞くけど、あれがそうだったのかな?
最初は戸惑うけど……こういうのって嫌いじゃない。
最後に一回駅員さんに会釈して、改札を出て一階に下りる。念のためあたりを見回したけどあの子はいなかった。それどころか人っ子一人いない。
僕はポケットから一枚の紙を取り出し、乱雑に畳まれたそれを広げる。そこには簡単な地図と、電話番号、そして一人の名前が書かれている。
津田鞠亜。
たいそうな名前だ。
この人が、今から僕がお世話になる親戚の名前らしい。なんでも、アパートの大家さんをやっているらしく、その一室を提供してくれるとのこと。親戚にお世話になると言っても、夢にまで見た一人暮らしに近い生活ができるだなんて、それこそまさに夢のようだ。
地図を確認後、紙をまた乱暴にポケットへ突っ込む。さすがに時間が早すぎるので、どこかで時間を潰そうかとあたりを見回していると、一軒の不動産屋が目に入った。当然まだ開いてはいないものの、店のガラスにはたくさんの物件の写真が貼り付けてある。僕がこれからお世話になるアパートが確認できるかもと思い、ガラス窓に近づく。
えーと、確か『サンパレス津田』だったかな?
右端から順に写真を確認していく。
一列目。
二列目。
──あった。
そこには部屋の間取り、簡単な情報と一枚の写真。
結構綺麗なとこじゃないか。外壁は白で四階建て。ワンフロアに四部屋ずつ。おぉ、風呂トイレ別とな。家賃五万。そして築五分。駅から徒歩五年。
「できたてホヤホヤじゃないか。…………国内だったらいいな。アハハ」
悲しすぎるほど乾いた笑い声だった。
この町で暮らすことに一抹の不安を覚えながらも、すぐ近くにみつけたファストフード店を目指し、ヨロヨロと歩き出す僕だった。
どうか書き間違いであってほしい……。
○
現在時刻十時ジャスト。暇潰しに広げたミステリー小説に没頭し、読み終わって顔を上げればそんな時間だった。ファストフード店で、ハンバーガーとコーヒー一杯だけで二時間以上潰していた。
「やべ」
さすがに焦り、急いで店を出る。そして地図を見ながら走ること約三分。目的地に到着した。
サンパレス津田。
そして、その向かって左に隣接する木造二階建て。瓦屋根の、いかにもこの町にお似合いの一軒家。標識は『津田』となっている。
心臓の鼓動が速いのは、走ってきたせいだけじゃないだろう。緊張、興奮、不安が混ざりあって、鼓動をより一層速める。
一回深呼吸。
標識の下のチャイムに指をかけ、意を決してそれを押し込む。
ピンポーン。
ありきたりな音を響かせ、待つこと数秒……。
待つこと数分……。
「あっれぇ?」
一向に出てくる気配がない。むしろ、家の中から人の気配がしない。
僕は地図をポケットから取り出した。そこに書かれた電話番号を、反対のポケットから取り出したスマホに打ち込んでいく。市外局番から合わせて十桁の番号を打ち終え、通話キーを最後に押す。スマホから聞こえる呼び出し音とほぼ同時、家の中からもかすかに呼び出し音が聞こえてきた。が、相変わらず人の動く気配なし。当然、呼び出し音は鳴りっぱなしだ。
諦めて電話を切る。
「これからどうしよ……」
そうぼやいてみたところで、もちろん救世主が現れて迷える僕に道を示してくれるはずもない。八方ふさがりで、何となく地図の書かれた紙を裏返した時だった。
紙の裏に、もう一つ地図が描かれていた。
そこには、『もし、自宅が留守だった場合、ここを訪ねてみてください』と、母さんの筆跡で書かれた文字と、津田家を出発点とする地図。目的地がなぜか、僕が降りた駅から伸びる高架線の下になっている。ここからはすぐだ。
来た道を引き返し、地図を見ながら進む。すると、高架下にある一軒のレンタルビデオショップにたどり着いた。
名前は──『TSUDAYA』。
この名前は知ってる。レンタルショップの中で最大手と言ってもいいチェーン店だ。僕自身、引っ越しの先々でよく行っていた。
いやぁ、音楽とか映画って、いい暇潰しになるんだよね。
高校生で青春まっさかりであるはずの僕が、なぜそんなにヒマを持て余してたのかというのは、深く追及しないで頂きたい。
店の前でオロオロしててもしょうがないので、とりあえず中へ。
自動ドアの入り口を入ると、店員さんの「いらっしゃいませ」という元気な声に迎えられた。
入り口を入ってすぐ右がレジ、左はCDコーナーだった。高架下ってこともあって、もちろん一階建て。そこまで広いわけじゃないみたいだ。
三台並ぶレジの手前、一番入り口に近い場所で、ノートパソコンになにやら打ち込んでいる男の店員さんに声をかけてみることにした。
「すいません、津田さんっていますか?」
「はい? 店長ですか?」
そう答えた店員さんの胸には、『小野』と書かれた名札が付いている。いきなりのことだったためか、僕より三つ四つ年上であろうその店員さんの、眼鏡の奥の糸目には、若干の警戒の色が帯びている。
「あ、多分。津田鞠亜さんの親戚のものなんですけど、自宅の方にいなかったので、その時はこの店を訪ねろって言われてまして……」
怪しまれないよう、丁寧に説明する。てか大家やってて、しかも店長やってるなんてすげぇな津田さん。
「あ、そういうことでしたらご案内しますね。店長なら事務所にいますから」
警戒色も一変、ものすごく爽やかな笑みを浮かべて、懇切丁寧に対応してくれる店員さん。男でも惚れてしまいそうな笑顔だ。
ちなみに、僕にはそんな趣味はない。あくまで例えだ。念のため……。
カウンターの中から出てきた店員さんは、「こちらです」と店内を奥へと進んでいく。CDコーナーの横を通り、DVDコーナーの背の高い棚の間を抜け、店の一番奥、『スタッフルーム』と書かれたドアの前で止まる。そして店員さんは、二回ノックしてドアを開けた。
「店長。店長の親戚の方がお見えになってます」
「やっと来たわね。入ってもらって。京平は行っていいわよ」
と、中から女の子としか思えない、可愛らしい声が聞こえてきた。
「どうぞ」と店員さんに勧められ、中へ入る。中は小さな部屋だった。部屋の左壁はロッカーで締められている。部屋の中心にはテーブルがあり、ロッカーと反対の壁には、パソコンやら書類やらが置かれたデスク、部屋の一番奥に流し台と、壁にホワイトボードが掛けられ、今月のキャンペーンの予定などが書かれていた。
そして、デスクのパソコンに向かってキーボードを叩き続けている女の子が一人。
店長らしき人がいないけど、さっきの店員さんはいったい誰と話していたんだろうか?
部屋の中にはその女の子以外、誰の姿も見えない。
「あの、津田さんは?」
「わたしだけど?」
女の子はパソコン画面から目を離さずに言う。
あれ? さっき聞いた声と似ているような……。いや、まさか、こんな子が店長なワケないし。てかそれ以前に、この子の声どっかで聞いたことあるような……。
「津田鞠亜さんは?」
「だから、わたしだけど?」
「は……?」
「高橋太郎。 まったく、来るの遅いのよ」
そこで初めて女の子は画面から目を離し、僕へと顔を向ける。
漆黒の大ボリュームの長い髪、猫のように少し吊りあがった大きな瞳、幼いとしか言いようのない顔立ちに綺麗な肌。真っ黒なポンチョを着てないからか、すぐに気づかなかった。声に聞き覚えがあるはずだ。つい三時間ほど前に聞いたばかりなんだから。
「お、お前! 朝の顔面激突魔法少女!」
僕のフルネームが、ここでやっと紹介されたという事実がぶっ飛んでしまうほどの衝撃を受けた。
「まさかあんた、あの場所にいたの? 失態だわ。忘れて。」
「忘れられるわけないでしょ!」
「そう。なら、実力行使しかないみたいね」
そう言うと、魔法少女改め津田はデスクの下に頭を突っ込み、何やらガサゴソし始めた。
「な、何?」
「今からあんたの記憶を消すわ」
そう言う津田の右手には、彼女の身長ほどもある大きな木製の杖が握られていた。先がかたつむりの殻のようにとぐろを巻いている。その形はまさに──
「魔法の杖……?」
そうとしか形容できない形だった。すると津田は、口の端を上げて邪悪そうに微笑んだ。
てか、マジ怖い。
「あらあんた、なかなか分かってるじゃない。えーと、記憶消去の魔法は……」
「マジで魔法とか言ってんの? ワケわかんないよ! 何あんた電波な人? 魔法少女オタク?」
電波やらオタクとかマジ無理なんですけど!
「何言ってるの? 魔法は存在するんだから。今から照明してあげる」
そう言って、一歩一歩と津田が僕の方に歩み寄ってくる。
「ま、待って。話せば分かる。てか来ないで……」
津田の身長は僕より全然低い。にも関わらず、圧迫感がハンパない。
「なら忘れてよ」
「だから、あんな悲惨な現場、そう簡単に忘れられないって!」
「そう、やっぱり仕方ないみたいね。事件は現場で起きてるんじゃない。事務所で起きるの」
「未来形?」
それを世間では犯行予告と言います。
圧迫感に耐え切れず、尻餅ついた僕の目の前に、津田の残酷な笑顔があった。人差し指を立て、抵抗できない僕の胸の中心あたりを突く。そして、死刑宣告でもするように、津田は口を開いた。
「さて太郎。あんたにはわたしに部屋を提供される代わりに、犬のように働いてもらうからね。これからよろしく。それじゃ……えいっ」
呪文的なものを唱えられると思っていた僕の予想を裏切り、そんな可愛らしい掛け声と共に放たれる一発。無論、魔法なぞというものが放たれるわけもなく、あろうことか杖で僕の脳天をぶっ叩くという打撃攻撃だったわけだけど。
いきなり呼び捨てにされた衝撃よりも、『ゴン』という、顔をしかめたくなるような音を伴う衝撃と共に、僕の記憶はそこで途切れた。
これが津田鞠亜との、最低最悪な出会いだった。