序章 最前線の物語
「ハァ……ハァ……」
右頬を汗がつたう。その汗を拭うことすら許される状況じゃない。
僕の周りは、さながら地獄絵図のようだった。
そこに存在するすべての人が、明らかに殺気立っている。
「葵、そこはもういい! お前はバックにまわれ!」
「は、はい!」
春日さんにそう怒鳴られ、愛沢葵さんの可愛らしい後ろ姿が今の持ち場を離れて行く。
今最前線に立っているのは、僕を含めて三人。
まず僕の隣、斉藤さんは〝敵〟を一人ずつ、確実に受け流していく。だけど埒があかない。〝敵〟は次から次へと押し寄せてくる。圧倒的な戦力差がそこにはあった。
そして斉藤さんの隣、小野さんの顔は苦しそうに歪んでいた。
まずい、小野さんが当たっているのは『新規』だ。いくら小野さんとはいえ、手こずるのは確実だろう……。
「み、水……。喉が……」
僕の後ろに一人、うつ伏せで横たわっていた女の子が、かすれた声で弱々しく呟く。そいつ、僕の後輩である八紙栞の目に宿る光が今にも消えようとしていた。
「くっ」
僕はそいつの弱り果てた姿から無理やり目を逸らす。多分、あいつはもう助からないだろう……。助けたくとも、誰にもそんな余裕はない。
「ハァ、ハァ……」
また一人、〝敵〟を受け流した時だった。
「高橋、回避!」
顔を上げると、前方から凄まじい勢いで、何かが僕の顔面めがけて飛んでくるところだった。
「うわっ!」
僕は顔を左に傾けなんとかそれをかわすけど、疲労が溜まっていたこともあり、右頬をわずかにかする。続けて二、三と、一つ目の物体とまったく同じ軌道で何かが僕の顔のすぐ横を通過していった。
「注意! 怪我!」
普段からは想像もつかないような大声をあげて、武光さんが僕を怒鳴りつける。
「バカな……!」
今度は、僕の横にいた小野さんの、驚愕と恐怖の入り混じった声を聞いた。
「出てくるのが早すぎる……」
小野さんの視線の先に僕も目を向ける。
〝敵〟が五人ほどで編隊を組んで戦場に入ってくるところだった。
そこでハッと思いつく。その考えに至るのには、小野さんもほぼ同時だったようだ。
「『新作』狙いですか?」
「そのようだね。政宗!」
小野さんに下の名前で呼ばれて現れたのは武光さん。
「愛沢さんを一回引かせて! 荒れるよ」
「……御意」
それだけ言うと、また武光さんの姿は見えなくなる。
「ハァ……ハァ……」
戦闘開始からすでに五時間。戦場は混乱を極める一方だ。
「一回引くよ! 少しの間持ちこたえてくれ!」
そう言って、小野さんが一度前線を離れた。
あと一人いてくれれば……。
チラッと本陣の方を垣間見る。『あいつ』の動く気配は一向にない。このまま混乱が続けば、しのぎ切るのは難しい。
と諦めかけた瞬間。
本陣から満を持して、とばかりにあいつが出てくるのが目に入った。ここからは距離がある。けど、確かに目が合い、あいつが口の端を吊り上げて笑うのが確認できた。
笑顔に鼓舞されるように、僕は気合を入れ直す。
そして僕は、新しく現れた〝敵〟にこう言い放った。
「いらっしゃいませ! ご利用泊数いかがなさいますか?」