(5)
「大事ございませんか?」
気遣うように千草が傍らに来て、膝をつく。遙飛は顔を上げ、ヘニャッと情けない表情で笑いかけると「うん」と頷いた。
「な、なんか、『絶対無理っ!』とか思ってたけど、やってみればなんとかなるもんだねぇ」
アハハと気が抜けた声で笑う遙飛に、千草もまた、穏やかな微笑を返した。
「お疲れさまでございました」
「うううん、俺は全然。千草さんたちのほうが遙かに大変だったでしょ。ありがとう」
「いいえ、そのようなことは――」
「おまえにしちゃ上出来だったな、ヘタレ神王」
千草の言葉に、遠慮のない声がかぶせられる。遙飛が視線を移すと、ズボンのポケットに両手をつっこんだ美形が、態度同様、ふてぶてしい笑みを浮かべて見下ろしていた。
「漣さんもお疲れさま。怪我しなかった?」
「ま、あの程度じゃウォームアップにもならなかったな」
飄々と嘯いて眉を上下させる。それから手を差し出した。互いの健闘を称え合うための握手だと気がついて右手を出しかけた遙飛は、その手が冷や汗に濡れて、小刻みにふるえていることにはじめて気がついた。
「あ、なんか思ってた以上に緊張して、やっぱ相当怖かったみたい」
照れ笑いを浮かべて着ているシャツで汗を拭う。それからあらためて漣の手を握った。
大きな手が、一度強く握り返す。その延長で力強く引っ張り上げると、軽々と扶け起こされた。
「あの、いろいろありがとうございました」
ふたりと向かい合った遙飛は、スッキリした表情で頭を下げた。
「なんか俺、ホント漣さんも言ってたけど、すごいヘタレで後ろ向きで他力本願で、とにかくどうしようもないくらいダメダメで、おふたりにはメチャクチャ迷惑とかかけちゃったけど、でも、それでもこうしてふたりがいてくれたから、なんとか最後まで頑張れました。あ! あとファルダーシュも」
付け加えて、自分で頷く。
「いまさらだけど、無責任な卑怯者にならなくてホントよかった。だから、最後まで付き合ってくれて、見放さないでいてくれてありがとうございました」
そんな遙飛を見下ろして、漣は頭の上にポンと手を置いた。そのまま、無造作に髪を掻き回す。
「これでおまえも、多少は男としての肚のくくりかたってのがわかったんじゃねえの?」
「どうだろう……。それはまだちょっと、わかんないかな」
「あ?」
「いや、いままでがずっとゆるい感じで来ちゃってたから。またいざとなったら逃げ腰になっちゃうかもって。でも」
漣と千草の顔を見て、遙飛はすぐに付け加えた。
「その『いざ』が来たときに、ちょっとでも踏ん張れるように、これから頑張ってみようと思います」
「大丈夫。君なら頑張れるよ」
穏やかな声に、力強く励まされて遙飛は頷いた。
「どうしても無理だったら、また俺らがケツ蹴り飛ばしに来てやるよ」
軽口をたたいて、最後にもう一度、漣は遙飛の頭を掻き混ぜた。それから相棒をうながした。
「さて、俺らもいい加減、仕事戻んねえと。撮影の合間ヌケてきたから、さすがにそろそろヤバイ」
「そうだね、僕もこれ以上はマズいかな。学校のほうもみんな目覚めはじめたし、僕たちみたいな部外者が白昼堂々入りこんでた、なんてバレたら、あとあと厄介だからね」
「人気者はつらいねえ。ってか、社会人はつらいねえ、だよな。学生は気楽で羨ましいぜ。めんどくさくなったら、仮病でもなんでも使って簡単にフケちちまえるんだからな。重労働のあとで仕事とかマジあり得ねえわ。今日、テッペン越えだぜ? かといって、俺みたいな人気商売は、滅多なことじゃ仕事に穴も開けらんねえしな」
「はいはい。愚痴はそのうちゆっくり付き合うから」
「よっしゃ、おまえの奢りな。祝杯だ、祝杯。大仕事終えたんだから、思いっきり派手に打ち上げるぞ。千草、おまえ、いつなら都合つく?」
「なんで僕の奢り? 僕も当事者なんだけど。っていうか、そもそも、そっちのほうが稼ぎがいいはずだよね?」
「ケチケチすんなって。コスメ界の貴公子の名が泣くぞ?」
「それ、やめてくれないかな。不快なだけで、ちっとも嬉しくないんだけど」
にぎやかに言い合いながら、美形ふたりは遠ざかっていく。その後ろ姿を見送りながら、遙飛は心からの感謝を込めて無言で頭を下げた。
そのまま屋上の出入り口の向こうに消えるものと思っていると、遙飛が頭を下げたタイミングでふたりの足がピタリと止まった。そして、同時に振り返る。
「……え?」
思いがけないその反応に、遙飛はギョッとしてわずかに腰を引いた。そんな遙飛に漣が言った。
「遙飛、おまえ、なにこっそり『さようなら、お元気で』みたいな挨拶しちゃってんの?」
「え? ……え?」
「まさかおまえ、俺らとこれっきり、とか思ってんじゃねえだろうな?」
「え? えっ? ええっ!? だ、だって……っ」
「バァカ、なんのための連絡先交換だよ。こっちはおまえの通ってる学校どころか、自宅の場所まで知ってるっつうの!」
言いながら、漣は手を挙げて、見えないスマホを振ってみせる動作をした。
「だいたいおまえ、千草のファルダーシュに対する心酔ぶり知ってんだろ。これで終わるかってんだよ。どうせ前世からの付き合いなんだ。今世でもガッチリおまえの人生に付き合ってやるよ。おまえも覚悟決めて、早く俺たちのところまで這い上がってこい」
「えええ~~~っっっ!!?」
絶対無理っ!
遙飛は心のなかで絶叫した。
「未成年のおまえに合わせて、お子様バージョンの打ち上げも近々手配するから、1日ぐらいは俺たちに付き合えよ、受験生!」
「またね、遙飛くん」
眩しすぎる笑顔を残して、ふたりのイケメンは爽やかに去っていった。
あとには、その場に取り残されて茫然とする男子高生がひとり。
這い上がってこいなどといとも簡単に言うが、漣と千草、どちらを目指すにしても、勇気とか努力とか腹をくくるとか、そんなレベルで普通の人間が到達できる場所にいないことは、社会人未経験の遙飛にでも容易に想像がついた。
いったいあのふたりは、なにを言っているのだ。
「絶対無理……」
人影の消えた屋上の出入り口を眺めながら、遙飛は情けない声でポツリと呟いた。