(4)
遙飛の詠唱に、彼方の世界で闇に染まったモノらが反応しはじめる。神王の力を、より邪悪なエネルギーを増大させる核として利用するために。
遙飛が積極的に働きかけたことにより、ふたつの世界がリンクし、重なり合っていった。
本来、まったく別の次元に存在し、決して繋がることのない空間に道ができあがる。
大挙して押し寄せるのは、血に飢え、心をケダモノの本能に喰い尽くされた憐れな種族たち。
遙飛を護り、戦場として結界の枠を固めた空間で、獣神と竜種の長が万全の態勢で待ちかまえる。凄絶な闘気と悠揚たる構え。相反する気配を、ふたりは違和感なく身に纏わせる。その強烈な覇気によって、迫りくる同朋らをじつに見事に選り分けていった。
神王の力によって繋がった道を通過してくることができるのは、尋常ならざるふたりの気配に対抗しうる力を持つモノのみ。妖獣としてのレベルが格段に落ちるモノは、その彊梁たる戦意に当てられただけで根こそぎ力を奪われ、異空の彼方へ弾き飛ばされていった。
「ただ、清穆なる光をもって不浄を照らし、失われし静寧を彼の地に甦らせん」
詠唱はつづく。発せられる文言のひとつひとつに神王の力が宿り、異空に繋がる道を時間ごと遡及して全体に浄化していく。その浄化をも撥ね除け、こちら側へたどり着いた妖獣らがついに姿を現した。
獣神、竜種の一族に通じるモノから、まったく異なる種属のモノたちまで。
妖獣らの姿を目の前にして、漣と千草の戦意がさらに跳ね上がる。結界内の空気に、ずっしりとした重みがさらに加わった。ふたりの口許には、好戦的な笑みが浮かんでいた。
結界内を満たす一瞬の静寂。それは一転、凄まじい闘争へと早変わりした。
ラグール、ディルレインの名は、妖獣らにとってすでに裏切り者の代名詞。ましてや異なる次元に『人間』として生まれ変わったならなおのこと、同属と見做す必要もなかった。
狙いは『神王』ただひとり。ただし、身体は必要がない。その身を引き裂き、生命を奪って魂を抉り出したなら、力は自然に幻精界全土にいきわたり、必要なかたちで浸透していく。ちょうど、さきの神王サリアのそれが影響を及ぼしたように。
より惨たらしく苦痛を伴う死を。
かつてない苦しみが神王にもたらされたなら、幻精界に満ちる邪気は、えもいわれぬ香気と芳醇さがさらに加わり、濃密なエネルギーとなることだろう。
神王の味わう絶望と悲哀と怨嗟が、不可欠のスパイスとなる。
いっせいに仕掛けられる攻撃。漣と千草はすかさず迎え撃つ。遙飛は、そのいっさいを念頭から排除して、神王の仕事に専念した。
文言を重ねれば重ねるほど集中が深まっていく。同時に、意識は身体を離れ、形すらも失って、やがては彼我の堺をなくしていった。
大気となり、光となり、雨となり、天となり、大地となる。有限にして無限。終極にしてはじまりとなる。万物を創り出すものであり、育むものであり、癒すものであり、慈悲を施し、生命と寄り添うものである。
神族とは、精霊のようなもの。
漣がはじめに説明したとおり、自然のエネルギーを己の裡に取りこみながら人界の者らと共存するその存在は、まさに宇宙を生成する物質の成り立ちそのものに根ざす、実体を伴った霊魂に近い種属なのだろう。
その特別な種属――神族の束ねとなる存在こそが神王であり、遙飛に受け継がれた力の根幹を成している。いいものであれ悪いものであれ、周囲のエネルギーの影響をモロに受けやすいその性質を、遙飛は人間であることで遮断し、己の成すべきことに力を一点集中させることができた。そしてそれこそが、最大の強みだった。
詠唱の合間、ふとした瞬間に漣たちと妖獣らとの戦いの様子が視界に入る。だが、その様子をとらえてなお、繋がった道の彼方の世界をも同時に見通すことができた。
心が平静に凪いでいる。
感情も感覚も消失し、ただ静謐のなか、己の奥深くに沈み、あるいは外側に向かっておおいに放たれていく力で、どす黒く染まっているあらゆるものを吸収し、本来の状態に浄め、再生していく。
目の前に実際に見えている光景とは別に、離れた場所にいるもうひとりの自分が、異なる世界を眺めていた。
暗黒に染まる闇が意識を向ける端から瞬く間に影を薄くし、一面、雪が降り積もったような耀きを帯びて白銀の世界へと変化していく。一帯を覆っていた暗黒が、それによってリセットされると、それはたちまちあざやかな色彩を伴って生き生きと色づきはじめた。
「我、夢幻の地にて生命盈つる歓びを知る――」
殺さないように。できるかぎり傷つけることがないように。
激しい闘いを繰り広げるなか、漣と千草が遙飛の望みに従って手心を加え、巧みに衝撃のみをもって相手を打ち負かしていく。
彼の地にあって、世界が清浄さを取り戻していくと、そこに息づく生命たちもまた、邪気に染まり、狂気の淵を彷徨っていた状態から次第に正気を取り戻していった。
永きにわたり苛まれていたつらい悪夢から、1体、また1体と目醒めていく。
早く。早く。焦る気持ちを抑え、遙飛は詠唱に乗せる神王の力の純度をさらに上げ、熱を加えていった。
こちらから送りこむ力が、送った先でたしかな変化をもたらし、清浄なるエネルギーとなってみずから力強く息づきはじめる。やがてそれは、ふたつの世界を繋ぐ道を逆行してこちら側へと流れこんでくるようになった。
そのエネルギーは、神王独りの力によるものより遙かに強力で、歓びに満ち溢れ――
漣と千草の隙を衝いた1体が、遙飛めがけて襲いかかった。
「遙飛っ!」
漣の叫びとともに、千草もまた、血相を変えてこちらに飛びこんでこようとする。遙飛は動かない。さらに文言を唱える声に朗たる響きを加える。妖獣の鋭い牙が眼前に迫る。微動だにしない遙飛の喉笛を狙って確実に噛み砕こうとする。
「ファルダーシュ様っ!!」
千草の悲鳴に絶望が混じる。薄皮一枚。妖獣の血腥い息が遙飛の顔に吹きかけられたその瞬間、張り巡らされた結界内で閃光が弾けた。
あたり一帯に、やわらかく全身を包みこむような、あたたかな空気が満ちた。
目映い光に視界を奪われたのは数瞬のこと。
いくばくもなく光がやわらぎ、正常な明るさを取り戻すと、一帯には、もとの屋上の景色がひろがっていた。
結界はすでに散失し、遙飛に襲いかかろうとしていた妖獣の姿も消え失せている。かわりに、水の精を思わせるような、青銀の鱗に覆われた青年が佇んでいた。ほかにも、人の姿をしていながら、あきらかに人ではないモノたちが数十名。
遙飛は、ゆっくりと祈りの姿勢を解いて彼らに向きなおった。
正面にいるモノを筆頭に、人にあらざるモノらはいっせいに膝を折る。そして、恭順の意を表した。
そこに込められているのは、深い感謝とおおいなる畏敬、自分たちの王に牙を剥いたことへの万謝の念。
ほんのわずか、驚きをもってその光景を眺めた遙飛は、直後に破顔すると、『神王』として最初で最後の言葉をかけた。
「みんな、永いことお疲れさまでした!」
威厳の欠片もない、ピントはずれにもほどがあるひと言。だが、神族のモノたちは顔を上げ、遙飛を見つめて穏やかに笑むと、見る間に輪郭を薄れさせ、満足げな様子で彼方の地へと旅立っていった。
うららかな春の昼下がり。
屋上には遙飛と漣、千草の3人のみが残される。
「お…わった………?」
わずかな沈黙の後、ポツリ、と呟いた遙飛はその場にへたりこんだ。そのまま大きく息をつくと、腰が抜けたようにコンクリの上に座りこんだ。
ふたつの世界を繋いでいた道は、きれいに閉ざされていた。