(3)
遙飛の眼前で、左右少し離れた場所に立った千草と漣がともに目を閉じ、呼吸を整える。ふたりの集中によって場の空気が一気に重みを増すと、遙飛は正面から強烈な風圧を受けているような錯覚をおぼえた。
これが、竜種と獣神、二種族の長の放つ『気』の力。
それぞれの皮膚に、先程とおなじように紅と碧、あざやかな文様がくっきりと浮かび上がる。白く耀く優美な翼竜と、闇色の姿も雄々しく猛々しい鬼神の幻影とがふたりに重なった。
見届けた遙飛が、みずからもまた集中に入る。自分がかつて、どんなふうに幻精界との境界を封じたのか実感として湧くことはなかったが、それでもその手段を、ファルダーシュの記憶に添って思い起こすことができた。
封じるのではなく、今回は解き放つための作業。
サリアが長年味わった心の痛み、苦しみ、悲しみ。
膨れ上がった感情が限界を超えて爆発したとき、それは幻精界全体を蝕み、闇と絶望と憎しみの世界へと塗り替えていった。
息子であるファルダーシュに神王の力を引き継いだのは、サリアの最後の良心であり、理性であり、神王としての責任感だった。
亡きキファを想う心。そのキファと育んだ愛によって授かった生命を愛おしく思う心。幻精界、人界、種の別を問わず、与えられた生を精一杯生きるものたちを慈しむ心。
――お願い。どうか守って。愛おしく、美しく、力強い生命の息吹に溢れたかけがえのないこの世界を。自分の弱さゆえに穢し、破壊し尽くして、すべてをメチャクチャにしてしまうだろうけれど。
それでもどうかお願い。最後の希望をあなたに託すから。だからきっと、救ってください。愚かなこの母にかわって――
ごめんなさい。そしてどうか、恕して……。
授かった力から、サリアの悲哀が滲みだしてくる。自分を責め、我が子を案じ、穢れの犠牲となっていくだろう数多の魂の安らぎを願う気持ち。
ファルダーシュでは、その願いを叶えることができなかった。妖獣の血に引きずられ、ふたつの世界の境界に封印を施すまでが限界だった。それゆえ、願いの成就は先送りにされ、引き継がれ、託された。
勝手に責任を押しつけられても迷惑なだけだし、期待されても困る。
安全な場所で守られて、ラクをして生きていきたい。つらいのも苦しいのもキツイのもイヤだ。勝ち目が低すぎる勝負にあえて挑むなんてバカみたいなこと、それこそ冗談ではなかった。だけど、それでも自分にもあるのだ。失いたくないもの。守り抜きたいもの。自分が自分らしく生きていくために、欠けたり損なわれたり害されてはならないもの。漣に宣言したとおりだ。
ならばそれを守るために、戦うよりほかなかった。
しかたがない。やむを得ない。保身のために。自己満足のために。この先もできるかぎり後悔や苦労、我慢とは無縁の、平凡で安逸な生活を守っていくために。
ファルダーシュのようにできた人間ではないし、立派な主君なんかでもない。だけど、凡庸で利己的で矮小な人間なりに、身勝手な理由を全面に押し出して戦うしかないのだ。
長い人生のなかでは、どうしてもやらなければならないときがある。そしていまがまさに、そのとき。
開きなおってやけくそにでもならなきゃ、こんなバカみたいなことに生命なんて懸けられない。
神王の力がなんだというのだ。異世界の王だった過去があろうがなんだろうが、いまはただの平凡な、日本というちっぽけな島国の一男子高生にすぎないのだから。
漣のように抜きん出た才能があるわけではない。千草のように選ばれた種類の人間でもない。自分は自分らしく、とことん平凡に、普通で、ありきたりで、つまらない人生を生き抜いてやるのだ。
名前も顔も知らない何百万という民のためだとか、運命の歯車が狂ったことで悲劇に見舞われた不幸な種属の救済のためだとか、そんなカッコイイ理由など必要ない。大袈裟すぎる大義名分など、厄介で重たいだけだ。
だれかのためなんて関係ない。自分は自分のためだけに全力を尽くす。ただそれだけ。
それが、神王でもファルダーシュ・イオニアでもなく、篠生遙飛一個人にできること。
遙飛は、口を開いた。
「悠遠なる現世にて、腥風瀰漫せし彼の地を痛嘆せしむる。澆季眼前に迫りて、危殆に瀕するをもって決志せん。我、一天万乗、神王の名を以て我が同胞らの嚮導と相成らんことを宣す」
詠唱の文言は、自然に口をついて出てきた。
なにを言っているのか、自分でも理解しがたい部分が大半だった。しかし、言葉が積み重なっていくにしたがい、意識が次第にぼんやりとしたものとなっていく。肉体と自分を取り囲む世界との境界を曖昧にしていくような、そんな不思議な感覚に陥っていった。
トランスしたような奇妙な感覚のなかで、浮遊する意識が、ただ一点へ向かって移動していく。
彼方にあるのは、かつて自分が生まれた世界。
神王の力によって治められ、神王の絶望ゆえに穢土と化した聖なる故郷――幻精界。
「霄壌、祈り盈つるるをもって世に光華溢れん。清冽なる力宿せし寿ぎは、邪を祓いたまいて万象覆らせん」
口が勝手に動きつづける。わからない。どうすればいいのか見当もつかない。そんなふうに思っていたはずなのに、自分の意思に反して自然に言葉が溢れ出す。それはたしかに、神王としての能力の発現だった。
いまこそ解き放つのだ。
蔓延し尽くした邪気を浄め、永らく穢れに染まって苦しみつづけてきたかつての同朋たちを暗黒の世界から掬い上げる。救済などではない。そんな高尚なことを偉そうに謳える立場ではなかった。あるのは、ただ贖罪の思いばかり。彼らを妖獣に堕とし、幻精界を瘴気溢れる世界へと塗り替えたのは、神王の立場にあったモノにほかならないのだから。




