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アルバレス連峰の裾野にひろがる樹海を中心とする一帯は、その昔、人間が立ち入ることのない未開の地とされていた。力強い自然の命脈に満ちた土地柄のなかでも殊に光のエネルギーが濃密で、もっとも神域に近い聖なる場所とされていたためである。
その禁域に分け入った者こそがイオニアの始祖であり、初代国王となる人物である。
王家に伝わるイオニア正史によれば、医術の心得のある職能集団が、あるとき樹海の奥深くで方角を見失い、遭難しかけたことがすべての発端であるとされている。
その医術者らの中心人物こそが、後のイオニア初代国王となるキファ・ゼイン・イオニアである。
峻険な山脈をいくつも越えて、彼らが樹海に足を踏み入れた理由はただひとつ。神域により近い場所で光のエネルギーを存分に吸収した、質のいい薬草を手に入れるためである。
神族の施しによって怪我や病を回復させる幸運な者もいたが、運良くその恩恵に預かれる者は限られており、大半は、彼らのような専門的知識を持つ医術者が治療にあたるのがつねであった。
より多くの人々の生命を救うため。
腕のいい医術者や薬師たちによって結成された一団は、強い信念のもと、難路を越えて樹海を訪れた。
広大な領域のなか、さまざまな場所に自生し、あるいは群生する薬草。それらは、期待した以上に質が高く、種類も豊富だった。人の手が入っておらず、おおいなる自然の恩恵を享受したことで、想像を遙かに超える良質の採取場が多数発見された。
一行は、おおいに沸き返った。だが、貴重な薬草の採取に熱中するうち、いつしか奥深い場所まで入りこみ、やがては方角を見失ってしまう。
記録係を担当していた薬師がうっかり足を滑らせ、崖下に荷物を落としてしまったことが致命的となった。その荷物のなかに、発見した採取場ごとに周辺に生える植物の分布や特性、出入りしている獣の痕跡、棲息する虫の種類、水場の有無などを細かにまとめて書き起こした地図が含まれていた。
鬱蒼と生い茂る樹木に加え、日も暮れはじめ、あたりに急速に夜の気配が立ちこめる。
一行は野営を余儀なくされ、近場に固い岩盤の一部が大きく口を開けた洞を見つけて、ひとまずそこに腰を落ち着けることとした。アルバレス連峰を越えるにあたって、これまでにも野営は幾度となくしてきている。備えは万全だった。
翌日、日が昇ってからあらためて周辺を探り、方角を見定めればいい。そんなふうに話し合い、持参した食料で腹ごしらえをして、交替で火の番をしながら眠りについた。だが、そんな一行をさらなる悲劇が襲う。夜半に不調を訴える者が複数現れ、次々に高熱を発すると、その症状は瞬く間に重篤化していった。彼らは皆、昼のうちに山蛭に噛まれていた者たちだった。
山歩きをしている以上、蛭に噛まれることなど珍しくもない。しかし、樹海に棲息する種のなかに、毒性の強いものがいたらしい。ただちに持参した解毒薬や解熱剤を使用し、採取した薬草も煎じて幾種類かの調合薬を用意した。だが、正確な毒の種類を割り出せず、治療は難航することとなった。
翌朝以降も、病臥した者たちに回復の兆しは見られなかった。山歩きなど、とてもさせられる状態ではない。一行はやむなくその場に逗留し、病床に臥した者たちの回復を待つこととした。
病人らの治療と世話。毒の割り出し。効果が期待できそうな薬の調合。紛失した地図の、可能な範囲での再作成。水の調達と周辺地理の把握。現在地の予測。
動ける者たちで手分けし、出発に向けてさまざまな準備をおこなうが、病人たちは衰弱していく一方だった。
希望のまるで見えないなか、次第に不安と焦り、苛立ちとが募っていく。
このまま人知れず、野垂れ死んでいくことになるのだろうか。嫌だ、死にたくない。帰りたい。家族に会いたい。病人たちを見捨てて、動ける者たちだけで帰り道を模索してはどうか。それでさらに奥深くに迷いこみ、二度と出られなくなったらどうする。せめて地図さえ無事だったなら。それ以前に、やはり樹海になど踏み入れるべきではなかったのだ。
死の影に怯え、地図を紛失した記録係や病に臥した仲間たちを責め、他者を恨んで怒りを露わにする。そしてそんな者たちを、さらに別の者が非難する。
高い志のもとに集まった同志たちのあいだに、不穏な空気が漂いはじめた。
こんなはずではなかった。
グループのまとめ役であったキファ・ゼインもまた、苦い思いを抱えながら仲間たちをなだめ、励まし、活路を見いだすべく心を砕いた。
森のなかをむやみに歩けば、みずからもまた毒性の強い山蛭の餌食になるともしれず、方角を見失う危険も伴う。だが、後込みする仲間たちにかわって、キファは率先して沢に水を汲みに行き、太陽の動きや周辺の様子などを注意深く探った。
絶対に生きて帰還するのだ。自分のみならず、仲間たちも全員、助けてみせる。
強い決意はしかし、もっとも残酷なかたちでキファを裏切ることになる。飲み水を汲みに沢へ降り立ったついでに周辺の様子を調べていた彼を、1頭の灰色熊が襲う。咄嗟に腰の短刀で反撃したため、驚いた獣は早々に退散していった。だが、鋭い前脚で抉られた上半身は、かなりの深手を負うこととなった。
沢のほとりに倒れ、痛みに耐えるあいだにも傷口から大量の血が流れ出していく。急速に体温が下がり、意識も薄れはじめ、もはや自分もここまでかとキファは無念さを噛みしめた。その傍らに、ふと、気配を感じた。
ひょっとして先程の灰色熊が戻ってきたか。キファは絶望的な気分で目を開け、愕然とした。自分の傍らに立ち、じっとこちらを覗きこんでいた思いがけない生き物。それは、1頭の真っ白な一角獣だった。
耀くような美しい鬣。ほっそりと均整の取れた優美な肢体。額から伸びた見事な銀の角。青みを帯びた優しげな眼差し。
驚きのあまり、声もなくその姿を視つめるキファのまえで、一角獣はあっという間に変化を遂げた。その姿に、キファはさらに息を呑んだ。
流れ落ちる美しい黄金の髪、やわらかな光を湛えた空色の瞳、透きとおるような白磁の肌。
眼前に現れたのは、かつて目にしたこともないほど美しい、ひとりの若い女だった。
この出逢いが、キファの運命を大きく変えていく。
サリアと名乗った神族の女に救われたキファは、自分が熊に襲われるに至った経緯を説明し、仲間たちの救助を嘆願する。サリアは快くその願いを聞き入れた。
神族の娘サリアによって危ういところを助けられた一行は、無事、樹海を抜け出て故郷への帰還を果たす。しかしキファは、その後もサリアの面影を忘れることができず、たびたび樹海を訪れては、他者の目を盗んでひそかに逢瀬を繰り返すようになった。
神族と人間。異なる種族間で交わす情愛は最大の禁忌。その禁を、キファとサリアは、ともにそれと知りながら守ることができなかった。そして事実は、サリアがほどなくキファの子を身籠もったことで、神族のあいだに知れわたることとなる。
幻精界は、天地をひっくり返したような騒ぎとなった。
サリアは神族の統治を掌る、『神王』と呼ばれる存在だった。
一族の要ともいうべき存在が、犯すことの許されない禁を破った。
神族はただちにサリアを幽閉し、その胎内に宿る生命を取り出して特殊な繭のなかに封印した。
ふたつの世界で別個に成り立って然るべき生物種の摂理を、崩壊へと招きかねない背徳行為。
サリアの犯した罪は、その生命をもって贖うべき大罪といえた。しかしながら同時にその存在は、幻精界に欠くことのできないものでもあった。
樹海一帯は、サリアの聖なる力によって守られていた。それにより増幅したエネルギーの恩恵を、幻精界は、全域にわたって享受していた。
繭のなかに封印した生命も、半分は人界に繋がるものでありながら、たしかに尊貴なる『神王』の血も受け継いでいる。いかに背徳の証といえど、損なうことは許されなかった。畢竟、神族の怒りの鉾先は、キファ・ゼインへと向かう。
大切な一族の要である『神王』を惑わせた咎を断罪し、血祭りに上げてくれん。
猛り狂う一族の者たちに、サリアは身を投げ出さんばかりに伏して哀願した。罪であることを知りながら情を交わし、逢瀬を重ねたことは自分もおなじ。それどころか神王の立場にあることを黙して語らなかったぶん、その罪はこちらのほうが遙かに大きいと。
このままキファが罪に問われることになるならば、自分もこの生命をもって犯した罪を贖うこととする。
神王みずからの涙ながらの訴えに、一同はやむなくその嘆願を聞き入れることとした。
大罪人であるキファは、自分たちの目の届く場に留め置いて、つねに監視の目をいきわたらせるようにする。むろん、今後は幻精界と人界を明確に分けるための『牆壁』を設ける。そのうえで、父であるキファみずからを、繭のなかに封印した生命の守り役とする。
この世に存在してはならない生命は、摘み取ることをしないかわりに生まれてもならない。ふたつの種属の血を受け継ぐ『神子』は、罪の証であると同時に人と神族とを結ぶ重要な鍵となる。終身、囚われの身となる神王サリアにかわって、キファの血族は永劫、『神子』の穏やかなる眠りを守りつづけていかねばならない――
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