(2)
いったいあれは、なんだったのだろう。
昨夜の出来事をいくら思い返してみても、答えはいっこうに出なかった。
今年はいよいよ受験生ということで、この春から学校帰りに予備校に通いはじめた。周りは当然のように受験一色。予備校での授業ともなると、余計にピリピリした空気が漂っていた。
もともとがたいしたランクの高校ではなく、成績自体もさほど優秀ではない。そんな遙飛には、イマイチ自覚も実感も湧かないというのが正直なところだった。しかし、一応進学は希望しているので、早めの対策といったところか。
元来がのんびりマイペースなタチなので、ひとりで図書館に通うより、殺伐とした空気に身を置くことで徐々に気を引き締めて自分を追いこんでいけ、という思いもあった。だが、いまだ志望校も明確に決めておらず、ノイローゼになるほど切羽詰まってもいない。そのはずなのだが、昨夜のあれは、どう考えても正気だったとは思えなかった。通学途中の駅のコンコースや乗り換えの際の連絡通路で、これでもかと言わんばかりに一条漣のポスターや広告が張り出されているのを見れば、なおのことだった。
ひょっとして、自分で認識している以上にストレスを感じて、現実逃避したくなっているのだろうか。そのせいであんな非現実的白昼夢――時間帯は夜だったが――を見てしまった?
一条漣。そして千草宗幸――こちらも、あのあと帰りの電車のなかで調べてみれば、たしかに話題を集める人物であることはすぐにわかった。日本有数の化粧品会社、イクシード・グループの創業一族に名を連ねているばかりか、現会長の孫であり、ゆくゆくはその後を継いで組織のトップに立つと目されている人物であった。なにより、置かれている立場もさることながら、そのルックスでここ最近は注目を集めており、若い女性たちのあいだでは、『コスメ界の貴公子』などと呼ばれて絶大な人気を博しているとのことであった。
かたや業界人気ナンバーワンのトップモデル。かたや日本有数の大企業の跡取りとして一目を置かれているセレブ中のセレブ。
中流。ド庶民。成績もルックスも並み以上でも並み以下でもない普通のなかの普通。どこにいても目立つことなく、あっさり群衆に埋もれる一般男子高生の自分などとは、はっきり言ってレベルが違う。ランクが違う。生きる世界そのものがまったく違う。
共通点などなにひとつ見いだせないその自分に、別世界で輝きまくっている人たちがそろって話しかけてきた、という事実が遙飛にはいまだ信じられなかった。
昨夜も思ったことだが、なにかの勧誘ということはまずあるまい。新手のナンパとも違うだろう。とすると、ふたりそろって自分をだれかと勘違いしていた。そういう認識でかまわないだろうか? あるいは話しかけられたと思った部分そのものがまるごと夢だった。そういうことでカタをつけてしまってもよかったのだが、それでなかったことにするには、遙飛のスマホには、ばっちり検索履歴が残ってしまっていた。
千草宗幸に関しては、あの場で名前を聞いたからこそ調べる材料になり得たわけで、寝ぼけるような時間帯ではなかった以上、夢だったとすること自体に無理があった。しかも、そのときの会話の内容も相手の様子も、いまでも克明に思い返すことができる。となると、結論はひとつ。やはり人違いだった。そういうことになるのだろう。
それにしても奇妙な声のかけられかただった。遙飛はあらためて思った。
『――君は、前世や生まれ変わりというものを信じますか?』
いったいどういう話の流れになると、ああいう話題が出てくるのだろうか。どちらもスピリチュアルなどとは縁がなさそうな、現実的タイプに見えたのだが。そしてもうひとつの質問。最近、身辺で変わったことはないか。
その場ではなにもないと即答して、実際思いあたることも浮かばなかったのだが、よくよく考えてみれば、なんとなく心当たりがあるような気もする。とはいえ、最近の話ではない。ずっと以前、それも物心つくかつかないかという、昔からのことだった。
たいしたことではない。自分がよく知る、ある物語を、ほかのだれも知らないという、ただそれだけの話だった。なんというか、壮大なファンタジー映画のような感じ。
広大な自然。石造りを中心とする無骨な要塞を思わせる城郭や民家らしき建物が建ち並ぶ古びた街並み。遠くに望む青い海。人々の着ている衣服は中世ヨーロッパを思わせるような雰囲気で、生活様式も現代とはかけ離れている。スマホや車も存在せず、それどころか電気すら通っていない。そんななかで、地球上には存在しないような生き物――魔物や怪物といったイメージが近いだろうか――を相手に人々が戦いを繰り広げている。そんな内容。
思い出せる場面場面はぶつ切れで繋がらないのだが、いつもおなじ世界での出来事だということがわかる。登場する人物にも、それなりに一貫性があった。
思い返すと鮮明な映像が浮かぶのだから、おそらくは映画かテレビで観た作品だとは思うのだが、いつ、どこで観たのかまったく思い出せない。それ以前に、いつ観たかも記憶にないほど昔から知っている。それなのに、そんな物語はだれひとり知らないという。友達はもちろん、親でさえも。
タイトル、出ていた俳優、登場人物や地名などの固有名詞、物語のあらすじ。
自分でも不思議に思ってネットで調べてみたりもしたのだが、該当しそうなキーワードはひとつもヒットせず、いずれも出どころは不明のままだった。そのくせ、脳内では時折、ぶつ切れのシーンがやたら鮮明かつリアルに再生される。あまり本を読むほうでもないのだが、ひょっとして子供のころに読んだファンタジーあたりが、なんかの拍子に記憶の底から甦りでもするのだろうか。
身近にだれか、知っている者はいないか。
物語の一部しか思い出すことができないため、なんとか穴埋めできないものかと知っている部分について詳細を語ると気味悪がられる。家族はとりわけ、いい顔をしなかった。幼い子供が空想の範囲内で語るには、あまりに細部が克明で、具体的すぎたからだ。最初はおもしろがって聞いていた友達も、繰り返し話すうちに徐々に飽きてしらけはじめる。周囲から次第に虚言癖や妄想癖を疑われ、変わり者扱いされるようになっていった。
だから結局、頭の中にある物語については、いつしか口にしなくなった。ただそれだけのことだった。
だが最近、その物語の内容について思い出せる範囲が少しずつひろがってきたような気がする。なぜなのかはわからない。それが少々、気にかかっていた。
むろん、ずっとひっかかっているわけではない。なにかのタイミングでふと思い出した瞬間に、以前より知っている内容が増えていることに気づいて心を占拠する。だが、別のことに思考や注意が逸れれば、それっきりあっさりと忘れてしまう。そんな程度にすぎなかった。
なにかあるかと訊かれて思い浮かぶのは、そのくらいだった。
じつに他愛ない、どうでもいいようなこと。あらためて人に話して聞かせるほどの内容でもなく、高校生になったいまならば、友達同士の雑談やバカ話の延長で気軽に話題にして笑い飛ばして終わるような軽い話。
もう一度おなじように問われれば、やはりおなじ答えを返すだろう。自分はなにも知らない。思いあたるふしもない。変わったことなどなにも起きていない、と。
あんな大人で、しかもそれぞれの世界で成功しているような人間が、なぜあんな絵空事めいたことを口にしたのか、そちらのほうが不思議だった。
そんなことを思いつつ、授業を終えた遙飛は帰り支度を済ませて級友たちと挨拶を交わし、教室をあとにした。今日は予備校での授業予定はない。自習室を使うか、もしくは図書館に行くか。考えながら昇降口で靴を履き替えているときに、ふと、おもてがやけに騒がしいことに気がついた。
なにかあったのだろうか。
不思議に思いつつ出ていくと、正門付近に人だかりができている。校舎のなかからも悲鳴や歓声が聞こえ、さらには自分がいま出てきた昇降口からも、大勢の生徒が飛び出して追い抜いていった。
ポカンとしながら、なにごとかと人だかりに近づき、騒ぎの中心となっているらしいあたりを伸び上がって覗きこんでみる。途端に遙飛は、その場に固まった。
学校の正門を出たところ、人だかりの中心に、一条漣がいた。
――な…っ、なんでっ!?
愕然と立ち竦む遙飛の存在など、だれひとり見向きもしない。瞬く間に騒ぎが大きくなるなか、集まる生徒たちの数も増え、通りすがりの人々までもが足を止めて集団の輪に加わりはじめた。騒ぎに気づいた教師たちが、あわてて飛び出してくる。時間にして、わずか20~30秒。一条漣の姿は、あっという間に人だかりの向こうへと消えかけたかに見えた。ところが。
人の輪の外へ弾き出された遙飛を、不意にライトブラウンの瞳がまっすぐ見据えた。まるではじめから、遙飛がそこにいることがわかっていたかのような迷いのない眼差しだった。
目が合った瞬間、遙飛は思わずビクッと身をふるわせた。そしてそのまま、じりじりと後退りした。人垣を掻き分け、一条漣がこちらに向かって近づいてくる。人気絶頂の芸能人が動いたことで悲鳴があがり、騒ぎがさらに大きくなった。
ウソ、なんで……。
遙飛は思わず、助けを求めるように周囲に目を向けた。その遙飛に、一条漣は迷わず歩み寄ってくる。集まっていたギャラリーは、そのさまを驚きの様子を浮かべて見守っていた。
昨夜の情景が、遙飛の脳裡でフラッシュバックした。いや、最初から相手が大注目を浴びて騒がれていたぶん、昨夜より分が悪かった。ましてや昼日中の自分が通う学校でのことである。一条漣の動きに合わせて、皆の視線が遙飛のほうにまで流れるように移動してきた。
あり得ない。なんでまた俺っ!?
ギャラリーのなかには、当然見知った顔がいくつも覗いている。思った瞬間、遙飛はクルリと身を翻して、一条漣がやってくる方角とは真逆の方向に走り出した。むろん校内ではなく、学校の外に向かって、である。友人知人顔見知りもそれなりにいるなかで、これ以上妙な注目を浴びるなど冗談ではなかった。
「おい、待て!」
案の定、一条漣は逃げる遙飛を後ろから追いかけてきた。
だれかっ、嘘だと言ってっ!
必死に逃げるも、教科書や参考書類が詰まったバッグを背負って学生靴で走る遙飛と、昨夜同様、ラフな服装かつ手ぶらで身軽く追いかけてくる一条漣とでは出せるトップスピードが格段に違う。それ以前に、身長差、足の長さという点で圧倒的にリーチが違っていた。
背後から足音が近づいてくると、切迫感に駆られて恐怖心がますます煽り立てられた。遙飛は死に物狂いで逃げた。パニックもいいところだった。その眼前で、前方に迫る角の向こうから、不意に黒い影が現れた。
一瞬ギョッとして、足を運ぶスピードがゆるみかける。ちょうど顔の正面のあたり。
視力はいいはずなのだが、わずか数メートル先に見えるそれがなんなのか、把握できなかった。
大きさは、標準より大きめの猫か中型犬といったところ。だが、遙飛の目線の先にいるそれは、あきらかに宙に浮いていた。黒い羽か翼のようなものも見える気がする。しかし、全体としてぼやけて、どうにも判然としなかった。なにより、鳥にしては形がおかしい。靄がかかっているように輪郭がはっきりしないものの、脚が4つあるように見える。見えるのだけれども、やはりよく見えない。
なんだかよくないもののような気がする。
気持ちが悪いのだが、後ろからも危機が迫っている。
このまま進むべきか、方向を変えるべきか。
迷ったときにはすでに遅く、後方からの追っ手に腕を掴まれて、強引に引き留められていた。
「こら待て! なんで逃げるっ」
遙飛を捕らえて正面にまわりこんだ一条漣は、有無を言わさぬ強い口調で詰め寄った。
上背のあるスラリとした肢体に阻まれて、すぐ向こうに見えていた黒い影の存在が遙飛の視界から一瞬見えなくなった。だが、遙飛の腕を引いた一条漣がその正面にまわりこんだ瞬間、向こう側にいた黒い影が弾き飛ばされたような気がした。
気になってそれとなく立ち位置をずらし、黒い影が見えていたあたりを覗き見る。だが、いましがたまでたしかに見えていたはずの黒い『なにか』は、跡形もなく消え去っていた。
「おまえ、昨日からなんだって人の顔見るたんびに逃げ出すんだよ。失礼な奴だな。この顔が極悪人にでも見えるってのか? 用があるっつってんだろ」
手首を掴まれたまま言い寄られて、我に返った遙飛はもがきながら声を張り上げた。
「はっ、放してくださいっ!」
「って、バカ! でかい声出すんじゃねえよっ。俺が変質者扱いされんだろが! ってか、そもそもなんで逃げんだよっ」
「人違いだからですっ」
「あ?」
「だれかと間違えてるみたいなのに、衆人環視のなかで話しかけてくるからっ」
「間違えてねえよ。おまえ、篠生遙飛だろ?」
「えっ!?」
どう身を捩っても放してもらえないまま、往生際悪くジタバタともがいていた遙飛はピタリと動きを止めた。
ポカンと見開いた両目。その顔を見て、一条漣は遙飛の手首を掴んでいないもう一方の手でガリガリと頭を掻いた。イケメンだと、そんな仕種までサマになるのだから世の中不公平だ。茫然とした頭の隅で、遙飛はぼんやりと思った。
「……あ~、とりあえずどっか、場所移動しねえ? おまえ、目立つのヤなんだろ?」
「え? あ……」
気がつけば、またしても人の目が集まりはじめていた。遙飛が騒いだうえに、相手が芸能界きってのトップモデルなのだから当然だろう。わざわざ足を止めてこちらを見ている人間もひとりふたりではない。校門からそのままあとを追ってきたらしい、おなじ学校の制服姿の女子たちの姿も見えた。
「ほれ、早く。この状況で職質とか、俺、勘弁な?」
うながされて、遙飛はついに観念した。信じられないことではあるが、どうやら本当に、人違いではなく自分に用があるらしい。フルネームに通っている学校。事情も理由もわからないものの、ここまで面が割れている以上、逃げきれるものでもないと観念せざるを得なかった。
「……あの、じゃあ、こっち」
遙飛は周囲の視線を避けるように顔を俯けると、小さな声でボソッと言った。