(2)
「ディルレ――千草が気に病むことはなにもない。俺が長らく遙飛の意識の底に沈んでいたせいで、余計な気苦労をかけることになってしまった。それについては、おまえたちの気がすむまで幾重にも詫びよう。不甲斐ない主君で本当にすまない」
「ファルダーシュ様、そのようなことは――」
「ああ、そうだ。全部おまえが悪い。なにもかもおまえのせいだ。遙飛のなかに沈んでやがったくせに、ハンパに覚醒なんかしやがるから『向こう側』と繋がっちまったんじゃねえか。そのせいで俺らが、どんだけ無駄に苦労するはめになったと思ってんだ、このヘタレ国王」
「漣っ!」
忌憚のなさすぎる暴言に、千草が声と目尻とを尖らせた。だが、咎められた側は、快活に笑って反省するそぶりすらなかった。
「で? このままあやふやに済ませるとか、そんなんはなしだぞ? こうなった事情について、キッチリ説明してもらおうか」
「むろん、そのつもりだ。そしてこちらからも当然、おまえたちに尋ねたいことがある」
応じた遙飛は、ふと視線を流し、ゆっくりとそちらに足を向けた。
屋上の柵には、いまだドラゴンの遺骸がぶら下がっていた。そばに近づいた遙飛は、その身体の上にそっと手を翳した。
「彼女は、おまえと同属の竜種だな、ディルレイン。ひょっとして、特別な間柄だったか?」
「そこそこのランクでしたから、繁殖相手の1体であったことは間違いないでしょう。ですが、妖獣には人間のように特定の相手と婚姻を結ぶといった習慣はありません。認識としては、複数の候補のなかの1体、という程度でしょうか」
気遣いが滲む問いかけに対する答えは、淡泊を極めた。
より靱い者の遺伝子を残す。自然界の摂理は、妖獣の世界においても普遍であり、ランクの高いオスを中心にハレムが形成される。ディルレイン、ラグールのクラスともなると、その数は到底把握しきれるものではないのだろう。
人型を成し、クラスメイトのひとりとして『こちら側』にまぎれこんだ『湯川』ですら、千草は見知っている様子もなかった。それほどに、ディルレインを巡るメスのドラゴンたちの競争率は激しく、争いは熾烈だった。それでも彼女は必死だったのだ。他の候補者を出し抜き、ディルレインに見初められて、より靱い子孫を生み残すために。
だれより焦がれ、求めつづけた相手。美しく優美で強靱な、唯一の光――
竜種の長としてのみならず、妖獣全体の頂点に君臨する『王』となってもおかしくはない存在。そのディルレインを奪い去り、あまつさえ人間の身でありながら足下に屈従を強いたファルダーシュを、彼女はどれほど怨み、憎悪したかしれない。ともに同属を捨て去り、おなじ道へとディルレインを引きずりこんだラグールもまた、彼女にとっては引き裂いて余りある存在だった。
異種の妖獣同士もまた、ともに喰らい合う関係。ならば己の棲まう世界とは異なる場所で、彼女がもっとも忌み嫌う『人間』に生まれ落ちたラグールを喰らい、その能力を我がものとして、ディルレインをいま一度、竜種の王たる存在に返り咲かせてみせん。
翳した掌から、彼女の無念が伝わってくる。
――なんと口惜しい。たかが虫けらごときがあの方の上位に立つなど、あっていいはずもない。そのせいであの方は、我ら一族の裏切り者として制裁対象となり、早々に生命を落とすはめになった。だれより靱く、美しく、気高かったあの方が……。
ファルダーシュ、ラグール。すべてはおまえたちのせい。赦しはしない、決して――
遙飛に接近して、すぐに手を出さなかった理由はただひとつ。ファルダーシュの覚醒を待ち、ラグールとディルレインに本来の力を取り戻させるため。
ディルレインが力を取り戻したならば、その存在はふたたび竜種の長に相応しい地位を確立させることとなる。おなじく獣神として目醒めたラグールからその力を奪い取ったなら、ディルレインの力のさらなる増強に役立てる糧とすることができる。
獣神のような異種と、対等の立場で力を取り交わし、その波動を混じり合わせるなど、想像するだけで鳥肌が立った。汚れなき竜種の血のなかに、あの野卑な獣神の力を取りこむことを断じて許すわけにはいかない。なればこそ、自分がディルレインにかわり、卑しい獣神の血肉を喰らう役割を買って出るのだ――彼女はそう思った。そのうえで汚れを取り除き、純粋なる力のみをディルレインへと還元させる。そうすれば、今世でやはり、『人間』として生まれてしまったディルレインの力を、かつての完全体であった当時のレベルに近い状態まで引き上げることができる。
至高の地位を約束されていながら、悪しき巡り合わせにより失墜を余儀なくされ、生命まで奪われることとなった不幸な一族の長。
比類なき至尊の光を、この手でふたたび耀かせてみせる――
ただ一途に求め、欲した光。
――あの方が裏切り者であるはずがない。我らをお見捨てになることなどあるわけがない。取り戻してみせる。必ず取り戻してみせる。我らの許へ……。
「そなたにも、随分つらい思いをさせてしまったな」
呟きの余韻が消え去ると同時に、ドラゴンの遺骸も形状が薄れ、跡形もなく消え失せていった。
翳していた手を下ろし、遙飛は小さく息をついた。そして、漣と千草を顧みた。
「こんなふうに友を見送るのは、何度経験しても慣れないものだな」
「ダチじゃねえだろ」
途端に不機嫌に漣が言い放った。
「おまえ狙って人界にまぎれこんだ妖獣だろが。人間のふりしてちょっと優しい言葉かけてもらったからって、あっさりほだされてんじゃねえよ」
「まあ、そうなんだが、わずか数日とはいえ、クラスメイトだったことはたしかだからな」
「話になんねえな。現代人に生まれ変わって、ぬるま湯に浸かった生活に慣れ親しむあまり、博愛の精神に目覚めたとか寝惚けたこと抜かすつもりじゃねえだろうな? 寛容なつもりで寝首掻かれるはめになったんじゃ、シャレにならねえってんだよ」
「漣! おまえはまたっ」
千草が目を吊り上げて諫めるのを、遙飛は穏やかに「かまわん」と制した。
「おまえの言うことも、むろんわかる。だが、綺麗事だけで済まないことは承知していても、臆病風に吹かれて、大切なことを見誤る愚は犯したくないと思っている」
「それで? その曇りのない目で見た結果、自分の生命を狙ってきた相手も、お友達認定することにしたってか?」
「友人、知人の範囲に入れるのは無理があるかもしれないが、彼女と交わした会話のなかに、偽りのない思いが込められていたことは事実だ」
――ハルちゃん、妖獣に、人の心を求めようとしないで……。
遙飛の言葉を聞いて、漣は呆れたように腰に手を当てた。
「遙飛、おまえ、まさかとは思うが、そういう感傷的なぬるさが原因で覚醒に手間取ったとか言わねえだろうな?」
「なんだ、いたわってはくれないのか? おまえはさっさと逝ってしまったからいいが、たった独り遺された俺が、その後どれだけキツイ思いをしたと思う。ディルレインを護りきれなかったばかりか、おまえまでこの手にかけるはめになったんだぞ?」
「バッカ、おまえ、そんなん知るかってんだよ。そのせいで転生後の自分がどんだけヘタレたか自覚してんだろうな?」
「いたいけで頼りなげで、それは可愛らしかっただろう? 庇護欲をそそられたのではないか?」
「ホントに可愛い女子高生ならともかく、ただの優柔不断な馬鹿ガキじゃ話にもならねえよ。意志薄弱な腑抜け相手に、なんで俺が庇護欲そそられなきゃなんねえんだっての。寝言は寝て言え、クソバカ君主」
「漣っ」
「冷たい奴だ」
ふたたび声を尖らせる千草を目顔で制し、遙飛は愉しげに呟いてククッと喉を鳴らした。そんな主君を、漣は容赦なく突き放した。
「とどめを刺しただのなんだの、余計な情けなんざ不要なんだよ。俺たちは仲良しごっこのために手を組んだわけじゃねえんだから」
「まあ、そうツレないことを言うな」
応じた遙飛の目に、意味深な光が宿った。




