(1)
恐怖と絶望に彩られていた学校内に、いつしか静穏が満ちていた。
漣と千草が始末した妖獣は、全部で27体。異空の気配は、完全に消え去っていた。
静まりかえった敷地内に、遙飛の詠唱のみが響きわたる。だがそれも、ほどなく清浄なる余韻を残して静寂のなかに吸いこまれていった。
小さく息をついた遙飛は、やがて目を開けると振り返った。漣とドラゴンによる激闘の爪痕も生々しかった屋上もまた、きれいにもとの状態へと復元されていた。その片隅に、無事、使命を果たしたふたりの友が帰参し、片膝をついて控えている。戦いのまえに浮き上がっていた文様は、いずれの肌からもきれいに消え去っていた。
ふたりに目をやった遙飛は、途端にその一方に目を留め、悪びれる様子もなく声をかけた。
「なんだ漣、傷だらけのままではないか」
開口一番の主君のひと言に、現世では業界随一のトップモデルとして名を馳せる美形が眉間に皺を寄せながら立ち上がった。
この場にて繰り広げたドラゴンとの死闘により、骨も皮膚もズタズタにされ、一時は日本人離れした造形美を誇る外観が、原形もとどめぬほど無惨なありさまとなっていた。その後、ファルダーシュの覚醒によってラグールの力を取り戻したことで、致命的な傷の大部分は驚異的な回復力をもって治癒を遂げたが、それでもなお、一見してわかる手足や顔に、痛々しい傷痕をくっきりと残していた。
「せっかくの美男が台無しだ。本業に差し支えるのではないか?」
「差し支えるどころの話じゃねえよ。大問題に決まってんだろ。マネージャーが見たら、その場で泡吹いてひっくり返るってんだよ」
不機嫌に唸る漣のそばに、遙飛は笑いながら近づいた。
「本当にすまなかった。俺がもたもたしていたせいで、随分派手にやられるはめになってしまったな。責任は充分感じている。恕せよ?」
言いながら、漣の正面に立って手を翳す。そして、他者には聞き取れない文言を口のなかで詠唱した。これにより、漣の傷痕もまた見る間に再生し、跡形もなく消えていった。
『傷の再生』――それは、徒人の身でありながら、ファルダーシュに備わった唯一の特殊な能力であった。
「痛みはないか?」
尋ねた遙飛に、漣は手足を軽く動かして違和感などを確かめた後、大丈夫だと応じた。満足げに頷いた遙飛は、傍らの千草にも視線を送った。
「おまえはどうだ、千草。大事ないか?」
「お気遣い恐れ入ります。おかげさまをもちまして、わたくしは無傷にございます」
従容として応える千草にも、遙飛は鷹揚に頷きかけた。それを見た漣が、気難しげな顔で懸念を口にした。
「王様、無事復活したのはいいけどよ、ちょっと人格変わりすぎじゃねえ? 今日日の高校生で通すにゃ、そのキャラじゃ無理がありすぎんだろ。ってか、もとの遙飛はどこいっちまったんだよ?」
「ああ、それならば案ずることはない。いまはやむなくファルダーシュとしての必要な役割を果たすために過去世の俺が前面に出ているが、用が済めばすぐにしりぞく」
「なんだそれ。ファルダーシュと遙飛で完全に分離してるのか?」
驚く漣に、遙飛はすました顔で肩を竦めてみせた。
「俺の場合、おまえたちのように生まれながらに過去の自分を認識していたわけではないからな。完全に封印されて意識の底に沈んでいた時間が長かったぶん、どうしても双方のあいだに乖離があるのはやむを得まい」
「となると、二重人格ってことになるのか?」
「いや、そこまで明確に別れてるわけではない」
「いやいやいや、まるっきり別人だろ、それ!」
遙飛の返事に、漣はすかさず呆れ顔でツッコミを入れた。話題が話題だけに、極力重い空気にならないよう、漣なりの配慮もあったのだろう。だが対照的に、千草はどこまでも深刻で生真面目だった。
「そこまで徹底して過去を封印しておられた理由は、やはりラグールとのことが原因と考えて間違いございませんか?」
「おい、千草!」
慎重で、なにごとにも行き届いた配慮をする青年には珍しい不躾な問いかけである。これもまた珍しく、漣のほうがあわてて止め役にまわる。だが、千草が引くことはなかった。
己の死後に、ファルダーシュとラグールのあいだでなにがあったのか。その内容を、ほぼ正確に把握している。そう明言はしたものの、やはり当事者の口から直接、『真実』を聞きたかったのだろう。
「まあ、そういうことになるな」
遙飛もまた、その意を酌んで率直に応じた。千草の表情に、途端に翳が落ちた。自責の念に駆られているかのような、苦々しげな様子だった。
「申し訳ございません。すべては、わたくしの落ち度です」
案の定、出てきた言葉は己を責めるものだった。
「なぜそこで、おまえが責任を感じる必要がある」
「当然です。私がまんまと敵の術中に嵌まったせいで、ラグールは陛下に兇刃を向けることとなったのですから」
「バッカ、おまえ。そんなん気にしてたのかよ?」
千草の深刻さを、鼻先で笑い飛ばしたのは遙飛ではなく漣だった。千草はすかさず、鋭い眼差しで軽薄な相棒を射貫いた。そんな千草に、漣はサマになる仕種で肩を竦めてみせた。
「そんなのははじめから、ここにいる全員が納得ずくだったことだろ。俺たちのうち、どっちかが欠けても均衡が崩れて主従関係は保てなくなる。そういう危険があることを承知のうえでファルダーシュは俺たちを受け容れたし、俺たちもこいつの傘下に加わった。そうじゃねえのか?」
「しかし――」
「いつ、どのタイミングでどっちが殺られたっておかしかなかった。あのときはつねにそんな状況だったろ。だからその場合、残ったほうはファルダーシュが責任を持って始末をつける。そういうことで話はついてただろうが」
いまさらなにをぐだぐだ言う必要がある。漣は言下に言いきった。
獣の本質をサガとする彼らに、人としての理性を長く保ちつづけることは難しい。その本能を、ラグールとディルレインは互いのエネルギーを取り交わすことで中和させ、抑制していた。その均衡が、ディルレインの不慮の死により崩れ去ることとなった。
先程の詠唱中の回顧そのままの出来事である。
「たまたまおまえが先に殺られたってだけの話で、だれがどうなっても恨みっこなしってことだったじゃねえか。それで話はついてたってのに、なにひとりで妙な責任感じてんだよ」
「そうは言うが、おまえがもし僕の立場でも――」
「いや。ラグールの言うとおりだ」
不満顔で反論し、たちまち言い合いになりそうな気配を見せた千草と漣のあいだに遙飛は割って入った。