(4)
いったい、いつのまに……。
「僕らがどうやってここへ来たのかって、君は訊いたよね? 君に呼ばれてきたんだよ、遙飛くん」
茫然とする遙飛に千草は言った。
「時間がない。だからできるだけ早くラグールとディルレインの力を目醒めさせてほしい――僕らの要求は、きっと君には一方的で理不尽で、身勝手に聞こえたかもしれない。だけどこれが、その理由」
おそらくは、先程のムカデもどきとおなじように別の妖獣が出現して、生徒たちを襲っているのだ。それも、1体や2体などではなく、もっとたくさん。
まさか……。
遙飛の脳裡に、イヤな考えがよぎる。たったいま千草は言った。自分たちは、遙飛に呼ばれてきたのだと。湯川と自分、ふたりしかいなかったはずの屋上に突然、瞬間移動でもしてきたかのように現れた漣と千草。ムカデの化け物は、どうやって現れたのだったか。
遙飛の動揺が、それぞれの場所にいた漣と千草をこの場に呼び寄せたのだとしたら、いまのこの事態もまた、遙飛が招いたことになりはしまいか。だけど、いつ、どうやって……。
「半端な覚醒は、少なくとも悪い方向にしか作用しない」
千草の言葉に、遙飛は血の気が引く思いだった。
このままのらりくらりと躱しつづけていけば、なんとなくやり過ごせるような気がしていた。漣が学校に現れたあの日に、不穏な影をこの目で見ていたというのに。おなじクラスに、前日まで存在しなかったはずの湯川が現れ、自分に急接近していたというのに。
知りたくなかった。無関係でいたかった。ただそれだけの理由で、まともに取り合うことを拒んで目を逸らし、責任逃れをしようとした。その結果が、いまのこの状態――
「助けたいのは、漣ひとり?」
謐かに問われて、遙飛は言葉を失った。
目の前で殺されかかっている人間がいるから助けたい。たしかにそう思った。けれど、それがひとりではなかったら?
学校中で巻き起こっている阿鼻叫喚。それが、学校外で起こっていないという保証がどこにあるだろう。
ダメだ。とても手がまわらない。だれを助けて、だれに泣き寝入りをしてもらう? そんなこと、どうして自分に決められるだろう。そんな資格がいったいどこにある。それ以前にこんな状態で、自分だけが安全でいられるはずもなかった。
「あ……俺……、俺…は………」
どうしよう。自分のせいだ。自分のせいで漣も学校のみんなも巻き添えにして、最悪の事態を招いてしまった。
ファルダーシュの後悔と自責の念が、異様な生々しさを伴って遙飛のなかで急激に膨れ上がり、侵蝕していった。
頭のなかに渦巻くのは、ファルダーシュと遙飛、ふたつの意識。それが余計に遙飛を混乱させ、恐慌に陥れた。
まともに思考することができない。考えがまとまらない。自分のすべきことを見極め、最善を尽くそうとしなかった後悔に苛まれる反面で、なぜ自分がこんな目に遭わなければならないのかと、だれに訴えればいいのかわからない悲憤に押し潰されそうだった。
最初からムチャだったのだ。到底、自分に果たせる役回りなどではなかった。どう考えても荷が勝ちすぎるではないか。とても責任を負いきれない。自分はただの高校生なのだから。
頭に浮かぶのは、言い訳ばかり。だれに聞かせるわけでもない弁解と自己弁護の羅列で、正当性を主張して逃げ道を作ろうとする。
なんてみっともない。命懸けで戦う漣を助けようとしない千草を、どうして責められるだろう。自分のほうが遙かに卑怯で悪質で、始末が悪い。弱くて情けなくて、とても人の上に立てるような人間ではない。王の器などとは縁遠いにもほどがある。そもそも、どうにかしたくとも、どうしようもできないのが現状なのだ。なにもできないし、こんな状況になってしまっては、すべてが手遅れだった。
「もう遅い。完全に手遅れだ」
ポツリと呟いた途端に、それ以外の選択肢がすべて消えた気がした。
「遙飛くん?」
「そうだよ、もう助からない。死ぬしかないんだ。無理に決まってる。だって、どう考えたって勝てるわけないじゃないかっ。絶対逃げきれない。みんなみんな、死ぬしかないんだ。諦めるしかないんだよっ。化け物に襲われて引き裂かれて、男も女も、年寄りも子供も関係なく嬲られて、噛み砕かれて、痛みと恐怖のどん底に突き落とされて惨たらしく殺されるんだっ。だれも生き残れるわけなんてないっ。だってもう、助かる道なんかどこにもないんだからっ!」
「遙飛くんっ!」
肩を掴んで揺さぶられても、遙飛は焦点の合わない目でしゃべりつづけた。
「俺のせい? そんなわけないじゃん。ふざけんな。なんだよ、王様ってっ! 全然意味わかんねえ! ただの人間で、ただの高校生で、超能力も使えなきゃ超人的な身体能力だってない。そんなんでどうやって化け物相手に戦えるんだよっ。無理に決まってんじゃん、そんなのっ。前世? なにそれ。マジで勘弁してほしいんですけど。それがホントだったとしたって、だからなんだって感じじゃない? そうでしょ、千草さん? まっとうな神経の持ち主なら、それが普通の反応だっての。俺ひとりに全部責任おっかぶせるとか、全然あり得ないじゃん。だって俺は、そこらへんにいくらでも転がってるヤツらと変わんない、普通の人間なんだから!!」
パンッ!という音とともに、左頬で派手な衝撃が弾けた。
反動で頭が大きく振られて、一瞬視界が揺らぐ。足もとをふらつかせた遙飛の両腕を掴んで千草は支えた。
「乱暴な真似してごめん。でも、取り乱してる場合じゃないよ、遙飛くん。君は漣の、命懸けの想いを無駄にする気?」
現実を突きつけられて、冷水を浴びせられたような気がした。
漣はすでに、立っていられるのが不思議なくらいの状態だった。精悍で、非の打ちどころがない完璧な美貌も、原形がわからないくらい血まみれで、デコボコに腫れ上がっている。片方の腕は、あらぬ方角に曲がっており、目も見えていないのか、敵のいる方角とはズレた場所を向いていた。
大きくしなったドラゴンの尾が、漣の脇腹めがけて鋭く打ち下ろされる。軽く吹っ飛んだ漣の躰は、反対側の鉄柵に叩きつけられてずり落ち、そのまま転がった。
「漣さ……」
遙飛の背筋を、冷たい汗が伝い落ちた。
死んでしまう。死んでしまう。本当に殺されてしまう……!
「遙飛くん、過去を思い出したくないのは、本当にラグールの裏切りが耐えがたいほどにつらかったから?」
眼前の光景と謐かな問いかけによって、遙飛の裡にひそむファルダーシュの心がふたたび激しく乱れはじめた。
生涯の友と信じた相手に裏切られた憐れな国王。これにより多くの臣下を失い、終生にわたって己の無力さを悔やみ、失意と無念を味わうはめになった。
――違う……違う、そうではない。
自分の後悔の在処は、そんなところにはないのだとファルダーシュが主張する。
そうではない。自分のせいで、大切な友を死なせてしまった。己が不甲斐なきゆえ、大切な友をこの手にかけることになってしまった。
「あ、俺……?」
すまぬ――すまぬ……情けない王で……力及ばぬ王で――……。
ふと見下ろしたみずからの両手が、一瞬、真っ赤に染まって見えた。
――ディルレインッ! ラグール……ラグール……ッ!
違う。思い出したくなかったのは、もっとつらい記憶。守ることができなかった。この手で引き裂いた。血まみれの漣の姿が、かつての友の姿と重なっていく。正面にいる千草の姿も。
「あっ……あああっ!!」
「遙飛くん?」
両手で頭を掻き毟り、目もとを覆って天を仰いだ遙飛の口から悲痛な叫びが溢れた。
違う。裏切りなど最初からなかった。彼らは最後まで、至らない王である自分に忠誠を誓い、親愛を示しつづけた。その期待に、自分のほうこそが応えきれなかった。ただそれだけ。
『なんだよ、おまえ。王様だろ。シャンとしろよ』
血まみれの顔で、それでも最後に、そう言って笑った。
「ああっ……、ああぁあぁぁぁ――――――っ!!!」
殺した。俺がこの手で殺してしまった。ひとりをみすみす死なせ、もうひとりは直接この手にかけて、その生命を握りつぶした。ディルレイン、ラグール!
「あああ―――――………っ!!」
「遙飛くんっ!」
絶叫が口から迸るとともに、胸の裡からなにか、自分でもわからない熱が噴き上がるのを感じた。
その熱が己を突き破り、外に向けて拡散していく。
激しい奔流。不可侵の耀き。
熱の拡散に伴って、遙飛の裡に力が漲っていく。同時に、絶望は自尊に変わり、悲哀は静穏に変わる。直前までの嘆きと痛惜は嘘のように引いていき、かわりに、静謐なる落ち着きが心を満たしていった。
絶叫が消え去った空間に、静寂が訪れる。
顔を覆っていた手を放し、遙飛はゆっくりと姿勢を正して周囲を見渡した。
「ギリギリ間に合ったか? 遅くなってすまなんだ。恕せよ?」
自分のものとは思えない言葉が、遙飛の口から発せられた。




