(4)
「ハルちゃん、大丈夫?」
茫然とその場に固まっていた遙飛は、声をかけられて正気を取り戻し、傍らを顧みた。そこには、躰のあちこちから血を流して座りこむ湯川の姿があった。
「そっちこそ……ってか、ごめん」
呟いた遙飛は、すぐさま謝罪の言葉を口にした。
「俺のこと庇ったせいで、そんな大怪我させちゃって……」
遙飛の言葉を聞いて、一瞬目を瞠った湯川は、すぐに笑みを浮かべてかぶりを振った。
「そんなことない。ハルちゃんのせいなんかじゃないから、気にしないで」
「けど俺……」
あのとき、いち早く危険を察知して湯川が飛びこんできてくれなかったらと、いまさらながらに思ってゾッとする。それとともに、ついいましがた、自分のなかで否定することのできない『記憶』が明確な痕跡を残して己の裡に刻まれたことを思い知った。
いつも、遠い世界の、架空の出来事のように感じていたあの物語。だがそれは、自分とはまったくの無関係だと思いこんできたこれまでの感覚とは、完全にかけ離れていた。
これは現実であり、己自身と深く関わることであり、事実なのだ。そう認めざるを得なかった。
「ハルちゃん、思い出せた?」
訊かれて、遙飛は視線を落としたまま頼りなげに頷き、すぐさま顔を上げた。
「あのっ、けど全部じゃない。まだほんのちょっと、うっすらとだけ。感覚っていうか、印象っていうか」
はっきりしない答えに、ガッカリされるのではないかと心配になった。だが湯川は、遙飛のその返答を、すべて承知している様子ですんなりと受け容れた。
「うん、無理しなくていいから」
思いがけない言葉に、遙飛は瞠目した。
「え?」
「ハルちゃんの記憶がいつまでもはっきりしないのって、きっと、ハルちゃん自身のなかで無意識のうちに思い出したくないっていう規制がかかってるせいだと思うから」
「それって、どういう……」
茫然と口にした疑問に返ってきたのは、痛ましさを堪えるような笑みだった。
「ハルちゃん――ファルダーシュ王は、友と信じて心を託したラグールに裏切られてる」
悲痛な表情を浮かべながら、湯川はそれでも断言した。
「たくさんの臣下たちの生命を目の前で奪われたばかりか、国王自身までが危うく殺されるところだった」
それは、信じがたい告白だった。
湯川が襲われているのを目にしたとき、遙飛の胸を満たした強い思い。それは、己の無力、不甲斐なさに対する怒りと、もう二度と大切な者たちを失いたくはないという切実なる願いだった。と同時に、ここ数日遙飛の心を鬱いでいたのは、自責と後悔の念。
己を蝕む感情は悲痛で、絶望に満ちていた。その意味するところの答えが、いまの告白の内容――
愕然とする一方で、なにかが腑に落ちた気がした。
『姿が見当たらないときは、大抵ここにいるな』
城門塔にいる自分を見つけ出し、覇気のある笑みに諧謔を滲ませた黒髪の美丈夫。そしてその一方で、その生命が尽き果てる瞬間にも、たしかに立ち会っていた。とどめを刺したのは、まぎれもないこの手。
映画のワンシーンのように記憶しているだけの場面であるにもかかわらず、手にした刃が、肉を貫く瞬間の生々しい感覚までをも甦らせ、遙飛を慄然とさせた。
あれは、彼の裏切りゆえの結末だったというのか――
遙飛の表情の変化を読み取った湯川が、思いを後押しするように頷いた。
「心から信じた者の裏切りは、ファルダーシュ王にとって耐えがたいほどつらいもので、だからハルちゃんは、その記憶を心の奥深くに封印して沈めちゃってるんだと思う」
「そんな……」
だが、まさかと思うそのそばから、己の裡にある感情のひとつひとつが、突きつけられた事実と合致していくことを否定できなくなっていった。
「ハルちゃん、ラグール――一条漣は、ハルちゃんに近づいて、そしてなんて言ってた?」
湯川の言葉が畳みかけるように追い打ちをかけてくる。
「ハルちゃんがこれ以上傷つかなくてすむように、いたわってくれた? 違うよね? なにか巧いことを言って、自分の力を取り戻せるように仕向けさせたんじゃない?」
「それは……」
――躰を張るのは僕であり、人外のものであった自分たちで充分。おまえはただ、俺たちがかつての能力を取り戻して戦えるよう、王としての務めを果たしさえすればいい。
化け物に立ち向かえる力を持たない遙飛は、ただただ混乱し、途方に暮れるばかりだった。信じる信じない以前に、突如目の前に現れたふたりの男たちの言い分は突拍子もなく、それでいて、得体の知れない怪物に生命を狙われる恐怖はしっかりと植えつけられていった。
遙飛の身辺に大きな変化が現れたのは、間違いなくあのふたりが現れてから。
気持ちの整理がつかず、状況が呑みこめていないなかで危機感を煽られ、急かされて、焦慮を募らせることとなった。冷静に考えることもできず、判断力を失って混迷の渦中で平常心だけが奪われる。それで、納得などできるわけもなかった。
そうだ、自分でも怪しいと思っていた。おかしいと思っていた。信じていいのかどうかすらも、わからなかった。
襲いくる化け物を漣が処理したと聞かされはしたが、実際にその化け物と戦う姿を遙飛が目にしたわけではない。己の生命も顧みず、身を挺して自分を庇ったのは、目の前にいるこの湯川というクラスメイトだった。漣たちは、その湯川に対しても、遙飛が警戒して疎んじるような情報を植えつけた。
なんらかの理由で遙飛の記憶からその存在が抜け落ちていた。それだけを理由に遙飛は簡単に唆され、湯川を疑った。だが、こうなってみると、怪しいのは本当に湯川のほうなのだろうか。そんな疑念が湧き起こる。
「ハルちゃん、信じちゃダメだよ」
遙飛のそんな心を見透かしたように、湯川がきっぱりと告げた。ずっとこのことを伝えたかったのだと。
「人間である自分の常識を基準に、あの人たちを信じちゃダメ」
言いきって、「もちろん、わたしのことも」と付け加えた。
「湯川?」
「絶対に信じちゃダメ。妖獣に、人の心を求めようとしないで。誠意も信頼も友情も、ケダモノの本質のまえでは塵にも等しいものだから」
「で、でもいま、湯川は命懸けで俺のこと助けてくれた」
「そんなのに簡単にほだされてちゃダメだよ」
湯川は薄い笑みを浮かべた。
「どんなに人に馴れた飼い犬だって、極度の興奮状態に陥って我を失えば人に噛みつくし、平気で人を傷つける。我々のように人語を解して、人の世界にまぎれる能力と知性を有していても、それは変わらない。さっきのムカデみたいな化け物と、根本的なところでの本質は一緒なんだってことを忘れちゃダメ」
「だけど」
「思い出して。相手との絆を信じすぎてしまったことがファルダーシュ王の最大の過ち。彼はそのせいで、後悔してもしきれない痛みと絶望を、生涯にわたって背負うことになってしまった」
絶句する遙飛に湯川は言った。ハルちゃん、おなじ過ちを繰り返さないで、と。
信じるなという言葉に真実があり、誠意が感じられる気がした。少なくとも、漣たちの言っていたことより受け容れられるし納得がいく。
いまの湯川の話には、自分のなかではっきりせず、モヤモヤしていた部分に説明のつく箇所がいくつもあった。ならば自分が信ずるべき相手は、おのずとさだまってくるのではないか。
遙飛の気持ちが、揺らぎかけたそのとき。
「黙って聞いてりゃ、相手の不安な気持ちにつけこんで、うまいこと懐柔策に出るよなぁ」
皮肉を滲ませた、棘のある声が真横から降ってきた。




