(3)
「よせ、危ないっ」
「いいから逃げて! 早くっ!!」
威嚇の咆吼を放つ化け物を睨み据えながら、湯川は声だけを遙飛に飛ばした。
遙飛の制止を振りきり、両足を踏ん張るようにして立った湯川は、両腕を挙げて手を重ね、化け物のほうへ向ける。そして、なにかを構えるような姿勢になった。
空中で長躯を波打たせた化け物がふたたび狙いを定める。その狙いが湯川ではなく、やはり自分であることに気づいた遙飛は、咄嗟に床を蹴って、すぐわきにある機械室の物陰に飛びこんだ。逃げるためではなく、足手まといになることを避けるためだった。
機械室の向こう側で、派手な衝撃音が立てつづけに起こる。足もとのコンクリと建物の壁を通じて伝わる振動に遙飛は身を竦ませた。それでも、ややあってから、そっと身を乗り出し、様子を窺う。ムカデもどきの身体から伸びた無数の脚が、長さを変え、鞭のようにしなって叩きつけられたことでコンクリが破砕した。あるいは硬さを増した別のそれが、つららのような凶器となって湯川めがけ、次々に撃ちこまれていった。左右の目のあいだでバックリと開いた口からは、粘性を帯びた緑色の液体が噴射される。それが直撃した場所は、異臭を放ちながら白い煙を濛々とたてて溶解し、崩れ去っていった。
猛烈な攻撃の中心にありながら、湯川はその悉くをあざやかに躱し、あるいは撥ね返しながら反撃に出た。人間には不可能な瞬発力と跳躍力で軽々と数メートルを跳び、その常人離れした脚力をもって強烈な蹴りをお見舞いしていく。鋼のような硬さが想像されるムカデもどきの体表が、それによって粉砕された。両の手を重ね合わせた構えから、湯川がわずかな掛け声とともに気合いを発した。掌から放たれた光線が、レーザーのように化け物の長躯を鋭く穿った。
命懸けというに相応しい、凄まじいまでの激闘。だが、それでも時間が経つにつれ、化け物のほうが徐々に劣勢に追いこまれていくのが遙飛にもわかった。
湯川の掌から、ひときわ目映い閃光が放たれる。胴のど真ん中を貫かれて大穴を開けたムカデもどきは、一瞬大きく長躯を反り返らせると激しくのたうちまわった。
電柱に匹敵する巨躯が暴れ狂ったことで、湯川の躰がその狂乱に巻きこまれ、弾き飛ばされた。数メートルを軽く飛んだ湯川は、屋上への出入り口のドアに叩きつけられ、床に沈んだ。
「湯川っ!」
遙飛は叫んだ。
不甲斐ない自分。無力な自分。庇われ、護られて安全な場所に身をひそめるばかりで、なにひとつできない情けない自分。
遙飛のなかで、己に対する怒りが湧き起こった。同時に、その感情に強くリンクする、遠い過去の記憶が掻き乱された。その昔、自分はおなじ思いを味わったことがあった。己の無力さに歯噛みし、激しく憤り、眩むような後悔の念に裂かれた心が血を噴き上げる。痛み、悲しみ、無念、悔しさ。どれほどに己を責めても救いに繋がることはなく、ただ、果てのない絶望と悲哀だけが心の裡を満たしつづけた。
それはここ最近、遙飛が味わいつづけている深い悲哀と自責の念――
イヤだ、もう二度とあんな思いはしたくない。思ったときには、遙飛は機械室の陰から飛び出していた。倒れ伏す湯川のもとに夢中で駆け寄る。自分の無力のせいで大切な者の生命が奪われる――あの地獄の苦しみだけは、決して今世では味わうまい。
遙飛のなかで、変調がきたしはじめていた。遙飛はそれに気づかない。むやみに飛び出すことは、湯川のように化け物に弾き飛ばされ、あるいは鋭い牙によってその身を噛み砕かれる危険を意味した。だが、危険や恐怖より、感情の昂ぶりがまさった。
「湯川っ」
湯川の状態を確認するように軽く肩に手を添えると、湯川は小さく呻きながら身じろぎした。それからハッと我に返り、あわてて身を起こした。遙飛がそれに手を貸し、ふたり同時に化け物のほうを顧みる。
身体の中心に大穴を開け、のたうちまわるムカデもどきのすぐわきに、先程とおなじ黒い靄が出現していた。その靄が見る間に大きさを増し、色濃くなるにつれ、長大な身体がそのなかへと吸い寄せられていく。そして、半分ほどを呑みこんだところで、今度は靄のほうが膨れ上がり、こちら側に残っている化け物の身体を包むように覆っていった。
すべては数瞬の出来事。気がつけば、破れたフェンスや鉄柵、破砕された壁やコンクリなど、激しい闘いの傷跡だけを残して、あたりは静まりかえっていた。




