(2)
異変が起こったのは、昼休み。
一緒にお昼をという将輝の誘いを断って、遙飛は独り、屋上で過ごしていた。騒ぎのあとも、将輝だけは変わらず声をかけてくる。だが、その口調にも表情にも、どこか気遣う様子が滲んでいた。遙飛には、その微妙な空気が煩わしかった。だれかと気まずさを押し隠して卓を囲むより、いまは独りで静かに過ごすほうが気楽でいい。
購買で買ったパンと飲み物で簡単な昼食を済ませた遙飛は、そのままごろりと屋上のコンクリの上に横になった。頭上にひろがる青空が眩しい。考えなければならないことはいろいろあるのだが、混乱する頭で思考を整理するのは骨が折れた。なにより、集中力が散漫で、ひとつのことをつきつめていくことができない。高3にもなって志望校すらさだまっていない状態なのだ。もともと、先々の展望を見据えたうえで、筋道を立てて物事を考えること自体が苦手だった。
頭のなかをカラにして、上空を流れていく雲をぼんやりと目で追う。相変わらず、例の例の物語について新しくなにかを思い出すことはないのだが、かわりによくわからない、後悔のような、自責のような感情が膨れ上がるようになっていた。
現実から目を背けていることへの自己嫌悪や重荷とも少し違う。そうではなく、己とは別のだれかが感じているような悲哀。それが日増しに胸の裡を占拠し、憂鬱に染め上げるようになっている。
明け方に目が覚めてしまうと、そのまま朝まで眠れない。かつて経験したことがないスケールの負の感情に押し潰されそうになるのを、必死で堪えなければならなかった。
布団に入った直後も余計なことを考えてしまうせいで寝付きが悪く、全体として、睡眠時間が大幅に削減されていた。その影響もあってか、ぼんやり空を眺めるうち、次第に瞼が重くなってきた。お腹が満たされた状態で、日当たりのいい場所に寝転がっているから余計だろう。
午後の授業がはじまるまで、あとどれくらいか。それともこのまま、睡魔に身を委ねて安眠を貪ってしまうか。
トロンとした瞼が、さらにずっしりと重たく塞がっていく。魅惑の眠りのなかに、遙飛は心地よく意識を手放そうとした。その瞬間。
ビクッと全身を慄わせた遙飛は、咄嗟に跳ね起きた。
――なに……っ!?
よくわからないまま、あたりを忙しなく見渡す。頬から首筋、腕にかけて、鳥肌が立っているのが自分でもわかった。
屋上にいるのは自分ひとり。生徒の屋上への出入りは、原則禁じられている。それでも日頃は、教師の目をかいくぐった連中が羽を伸ばしにやってくることも珍しくなかった。穏やかに晴れわたった昼下がりに、遙飛以外だれもいないというのは、むしろ異様なことだった。
屋上という立ち入り禁止区域で孤立した状態にあって、名状しがたい感覚だけが危険信号を明滅させる。それは、平静を保っていることが難しくなるほどの恐怖だった。
彷徨っていた視線が、不意に一点で止まった。ついいましがたまで見上げていた上空。
ひろがる青空の一箇所――否、おそらくはその遙か手前、遙飛の頭上数十メートルの位置に、黒い靄のようなものが浮かんでいた。
あきらかに雲ではない。ゆらゆらと揺らめき、アメーバーのように不定形に伸び縮みして、その範囲が次第にひろがり、見る間に色濃くなっていく。
不穏な気配を発するその中心部がどす黒くなったかと思うと、なにかがチラリと赤く光った。数はふたつ。横に並んだふたつの光点の位置が次第にひろがる。思った直後に、そうではないと遙飛は気づいた。赤い光の距離が少しずつ離れているのではない。もともと等位置にあるそれが、おなじ速度で急激にこちらに向かって接近してきているのだ。
光っているのは、ふたつの目。どす黒い靄の向こうから、ものすごいスピードで迫ったそれは、あっという間に靄の彼方との境界を越えて、こちら側へと抜け出てきた。目にしたものが幻でないのだとしたら、それは、とてつもなく巨大な、宙を舞うムカデだった。
「……そだろ……」
遙飛は茫然と呟いた。
自分がいちばんよく知っている生き物として、形状がもっとも似通っているムカデを挙げたが、どう考えてもムカデなどでないことはあきらかだった。ムカデは空を飛ばない。なにより、あんなに巨大ではない。その全長は、軽く10メートルは超えているだろうか。長大でありながら、平べったい褐色の体躯。その側面に、無数に生えた脚。闇のなかで赤く光っていたふたつの目は、日のもとに出たことで輝きを失って黒色に変わり、その下、頭部の中心で、鋭い牙らしきものが光る顎がバックリと口を開けていた。
褐色の胴体には無数の脚の数だけ節があり、その関節を使って器用に全身を波打たせ、脚を蠢かせることで進む方角を調節しているようだった。
悠長に見上げて観察していたわけではない。その様子を看て取ったのは、ほんの数瞬のこと。直後に遙飛は、恐慌をきたしていた。なぜなら、突然あり得ない場所から出現した恐ろしい怪物は、自分めがけて急接近していたからである。
狙われている。本能が危険信号を発した瞬間、遙飛はパニックに陥った。だれかに助けを求めるとか、この場から逃げるとか、あるいは危険を知らせるとか、そんな考えに思い至る余裕さえなかった。
躰がまったく動かない。声すら出せない。真っ白になった頭で、遙飛は閉じることができない目を限界まで見開き、ただただ迫りくる恐怖を凝視するばかりだった。
化け物が大きく口を開ける。鋭い牙が瞬く間に眼前に迫る。自分はあの口のなかに呑みこまれてしまうのだろうか。あの牙に噛み裂かれ、骨ごと砕かれるのだろうか。狙われているとわかった途端に巻き起こった恐怖と狂乱は、瞬時に凍結して遙飛の思考と感覚を麻痺状態にした。
なにも考えられない。なにも思いつかない。なにも感じない。
「ハルちゃんっ!!」
遙飛が完全にすべてを諦め、生きることそのものを放棄したそのとき、躰が真横に吹っ飛んだ。直後に、全身に強い衝撃をおぼえる。自分がだれかに突き飛ばされ、屋上の床に叩きつけられたことを理解したのは、その衝撃で麻痺していた感覚が甦ったためだった。
叩きつけられた躰のあちこちが痛む。両手の側面も、吹っ飛んだ勢いで激しくコンクリでこすったらしく、ひりひりと痛んだ。シャツが破け、皮が擦りむけた場所からじんわりと血が滲みはじめた。
「……っつう」
顔を蹙めた遙飛は、それでも肘をついて上体を起こし、背後を振り返った。目に映ったのは、少し離れた位置におなじように倒れ伏す、自分を突き飛ばしたらしき人物の姿だった。それがだれであるかを認識した遙飛の目が、先程とは違った意味で大きく見開かれた。
「ゆ、かわ……?」
「ハルちゃん、逃げてっ!」
身を起こしざま振り返った湯川は、鋭く叫んだ。ハッとして顧みた先で、狙い定めていた獲物をすんでのところで取り逃がした化け物が、勢いあまって反対側のフェンスと鉄柵を突き破るとともに、中空でUターンするのが見えた。
「湯川っ!」
叫んだ遙飛の目の前で、湯川は立ち上がると化け物に向きなおった。化け物の牙が当たったのだろうか。制服の布地ごと大きく裂けた右腕からは、鮮血が滴り落ちていた。




